米ツアーの最終戦、ツアー選手権の開幕前日には、毎年、会場のイーストレイクGCでペイン・スチュワート・アワードの表彰式が行なわれる。
古くからのゴルフファンはご存じだと思うが、優しく楽しい人柄ゆえに誰からも愛されていたスチュワートは、1999年10月、飛行機事故で突然、この世を去った。
ニッカボッカーズがトレードマークのスタイリッシュな選手だった。メジャー2勝を含む通算11勝の強さを誇った一方で、チャリティ精神に溢れ、社会貢献に余念がなかった。そんなスチュワートに敬意を表し、2000年に創設されたのがペイン・スチュワート・アワードだ。
毎年、米ツアー選手や関係者の中から、スチュワートを思わせるようなスポーツマンシップとチャリティ精神を発揮している人物を選び、スチュワートの遺族であるトレイシー夫人と2人の子どもたちからアワードが贈呈される。
そして、2020年のアワード受賞者に選ばれたのは、44歳の米国人選手、ザック・ジョンソンだった。
ジョンソンが米ツアーに辿り着いたのはスチュワートが亡くなってから5年後の2004年のこと。
「僕はペインに一度も会ったことがない。でも、幼いころからテレビで見ていたペインは、お洒落で、愉快で、ゴルフが上手くて強くて、本当に格好良くて、僕らはみんな憧れていた。僕はペインが大好きだった。米ツアー選手になったルーキー・イヤーにツアー選手権出場が叶い、水曜日にペイン・スチュワート・アワードのセレモニーに初めて参加した。そのとき、これこそが僕のキャリアの頂点だと思った。スチュワートは今もみんなの心の中に息づいている。そういう選手に僕もなりたい」
だから故郷に恩返し
ジョンソンは派手ではないが、底力のある選手だ。小柄で飛距離は出ないが、それを補ってあまりあるほどのパットの名手だ。
しかし、米ツアーに辿り着くまでの道が「とても長く、険しかった」ことは、彼が2007年にマスターズを制したとき、初めて明かされた。それまでジョンソンは、苦労知らずのエリート・プレーヤーだと思われていた。
アイオワ州で生まれ育ったジョンソンは、州内のドレイク大学を卒業後、1998年にプロ転向。下部ツアーを経て、2004年に米ツアーにやってきた。
あれは2003年の秋だった。
「来年から、すごいヤツがやってくるぞ」
米ツアー会場にそんな噂が広がり始め、選手やキャディは戦々恐々。米メディアは「今度こそはネクスト・タイガー登場か?」と大喜びで書き立てた。
「すごいヤツ」とは、2003年の下部ツアーを席捲し、翌年からの米ツアー出場権を余裕で獲得したジョンソンのこと。2003年に下部ツアーで2勝を挙げ、トップ10入りは11回、トップ3入りは9回。当時、下部ツアーで年間獲得賞金40万ドルを超えた選手は1人もいなかったが、ジョンソンは50万ドルにも手が届きそうな49万4882ドルを稼ぎ出し、さまざまな記録も更新した。
大ベテラン選手、スコット・ホークの相棒を長年務めてきた名キャディ、デイモン・グリーンが「ついにホークとのコンビを解消し、来年からジョンソンに乗り換える」ことは、ビッグニュースとして報じられた。
いざ、デビューしたジョンソンは、その年の春、早々にベルサウス・クラシックを制して初優勝。ルーキーにして最終戦へ進み、冒頭のペイン・スチュワート・アワードに初めて遭遇した。
だが、それから2年間、勝利から遠ざかり、ジョンソン・フィーバーはあっという間に消えてしまった。しかし、2007年マスターズでジョンソンはパットの上手さを存分に発揮してメジャー初制覇。優勝会見で彼が自ら明かした苦労話に驚かされた。
「プロを目指していたころ、僕は経済的に困窮していた。もう無理だ、もう諦めて就職しようと思い始めていたころ、故郷アイオワのリッチな人々が数人で僕をサポートしてくれると言ってくれた。それは『3年以内に米ツアー出場権を手に入れること』という条件付きだった。でも、お金のことを気にせずに練習や試合に打ち込めるのなら、きっとやれると僕は思った。そして必死に、狂ったようにゴルフに打ち込んだ」
2003年の下部ツアーを独壇場と化したのは、まさにその成果。ジョンソンは故郷の篤志家たちとの約束を守り、2004年からの米ツアー出場権を手に入れ、ついにはマスターズをも制覇した。
「今、こうして僕がグリーンジャケットを羽織れているのは、アイオワの人々のサポートのおかげだ。だから僕はこれから故郷に恩返しがしたい。アイオワのみならず、社会全体に最大限の貢献をしたい」
必ず救いの手が差しのべられる
2010年、ジョンソンは愛妻キムとともにザック・ジョンソン財団を創設。まず、故郷の町、チェダー・ラピッズの子どもたちや貧困家庭への経済的支援を開始した。
翌年はザック・ジョンソン財団クラシックという名のチャリティ・トーナメントを創設。プロアマ形式で戦い、ラウンド後はチャリティ・オークションという2本立てで寄付を募る仕掛けだ。
その後、ジョンソンは2015年にセント・アンドリュースで開催された全英オープンも制し、通算12勝を挙げて押しも押されもせぬトッププレーヤーになった。だが、彼自身はそのことを何より喜ぶというよりも「社会貢献に精を出しながら、試合でも好成績が出せることはビッグボーナスだ」と、きわめて謙虚だ。
昨年は、チャリティ・トーナメントだけで1ミリオン超(1億600万円超)が集まり、経済的理由で学校に行けない州内の1000人以上の子どもたちへの支援金として活用された。
毎年、夏になるとゴルフコースに子どもたちを集めて「キッズ・オン・コース・ユニバーシティ」を開いている。読み書きや算数といった社会生活に必要な基本的な勉学を教え、その合間にゴルフで遊ぶこのサマーキャンプには、州内の700人以上の子どもたちが参加し、笑顔を輝かせる。
コロナ禍の今年は中止せざるを得なかった。しかし、ジョンソンは諦めきれず、バーチャル・キャンプを開いて、なんとか18万ドル(約2000万円)をかき集めて今年も寄付を欠かさなかった。
「最後まで諦めずに頑張っていれば、ぎりぎりのところで必ず神から救いの手が差しのべられる。僕はそうやって助けられたからこそ、今はそうやって一人でも多くの人を助けたい」
そんなジョンソンがペイン・スチュワート・アワードを受賞したことを、天国のスチュワートも喜んでいるはずである。