コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

激動のマカオとその黄金時代

2022.10.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

このページをシェアする:

マカオは16世紀半ばにポルトガル人が東アジアに確保した小さな“居留地”だった。他のポルトガルの海外領土と違い、マカオには香辛料のような産物もなく、それだけでは無価値な土地だ。長所と言えば、“上陸できる”ということしかなかった。その唯一の長所をどう活用するかで、マカオの価値は決まる。誕生したばかりのマカオは、日本や中国に対するポルトガル王国の中継拠点として活用され、南蛮貿易やイエズス会の宣教活動を背景に、やがて黄金時代を迎えた。だが、マカオの活用法と価値は、統治者であるポルトガル王国の国内事情や欧州の国際関係に左右されたほか、日本や中国など周辺地域の情勢にも翻弄され、激動の連続だった。

マカオ獲得までの経緯

ポルトガル人の艦隊が中国の珠江デルタに来訪したのは1513年。日本の種子島にポルトガル人が漂着する30年前の出来事だった。珠江の河口東岸に“タマン”という名の拠点を築いたポルトガル人だったが、1521年に勃発した“屯門の海戦”で明王朝の軍隊に敗北し、中国から駆逐された。

ポルトガル人は1523年の“茜草湾の戦い”でも明軍に敗れ、中国での拠点構築を放棄。明王朝の目が行き届かない海賊集団の密貿易ネットワークに加わることで、東アジアでの通商活動を続けた。

1543年にポルトガル人が日本の種子島に漂着し、日本に鉄砲が伝来した。伝説の“ジパング”を見つけたポルトガル人は、日本との貿易に活路を見出した。ポルトガル船は九州の肥前や薩摩に頻繁に出現。1550年に“松浦党”の第二十五代当主である松浦隆信が治める肥前の平戸へポルトガル船が来航し、“南蛮貿易”が始まった。

当時のポルトガル王国にとって、日本に最も近い拠点は、東南アジアのマラッカだった。マラッカと日本を結ぶ航海には4カ月以上を要することから、ポルトガル王国は東アジアでの拠点構築が急務となった。こうして1550年代にようやく手に入れた小さな居留地が、珠江の河口西岸に位置するマカオだった。

狩野内膳の「南蛮屏風」に描かれたポルトガル人との交易

多民族雑居地のマカオ

この連載の第六十八回で紹介したように、ポルトガル人がマカオでの居留権を獲得した経緯については諸説ある。いつ居留権を獲得したのかも確定できないが、ここでは有力な1557年の説を採用する。

1665年に描かれたマカオ半島と街(左が北側) ポルトガル人の居留が許されたのは、面積8平方キロメートルあまりのマカオ半島だけだった。大阪市24区と比較すれば、生野区や城東区ほどの広さ。東京都23区との比較では、最も小さな台東区よりも狭い。東西の幅は2キロメートルあまりで、南北では3キロメートルあまり。観光などで訪れた場合、かなりの場所を徒歩で巡ることができる。

この狭いマカオの居留権を維持するため、ポルトガル人は毎年500両の銀貨を地代として明王朝に納めたが、そのコストは十分にまかなえた。マカオと日本の間に定期航路が開設され、南蛮貿易で潤ったからだ。

ポルトガル人と傘を持つ黒人奴隷
(南蛮屏風の一部)
ポルトガル王国におけるマカオの位置づけは、ゴアを中心としたポルトガル領インドに属していた。マカオを治めるため、ポルトガル領インドの総督は“カピタン・モール”と呼ばれる司令官を派遣。カピタン・モールは南蛮貿易とマカオ統治の責任者だった。

南蛮貿易の拠点としてマカオは賑わい、公式な貿易船のほか、密貿易を手がける日本人や中国人の海賊集団である“倭寇”も集まるようになった。狭いマカオに世界各地から多様な人々が来訪。統治者であるポルトガル人のほか、現地の中国人、奴隷や傭兵の黒人、イベリア半島を脱出したセファルディム(東方系ユダヤ人)などがいた。

こうした状況を受け、1574年に明王朝はマカオ半島の北に関所を設け、外国人の往来を厳しく制限した。

イエズス会の日本宣教活動

“鹿児島のベルナルド”の像
鹿児島市ザビエル公園
南蛮貿易を手がけるポルトガル人は、日本にキリスト教を広めたいイエズス会と協力関係にあった。1549年8月15日に鹿児島に到着したフランシスコ・ザビエルは、平戸や周防の山口のほか、豊後などで、2年ほど宣教。1551年11月に4人の日本人を連れ、ポルトガル領インドのゴアへ戻った。

余談だが、ザビエルの一行は1552年2月にゴアに到着。連れて来た日本人のうち、“ベルナルド”の洗礼名を授かった青年は、ゴアにあったイエズス会の聖パウロ学院に入学した。ベルナルドは1553年3月にポルトガル王国に向かう船に乗り、同年9月にリスボンに到着。この“鹿児島のベルナルド”は、日本人初の欧州留学生となった。

第233代教皇パウルス四世
日本人を見た初めての教皇
1555年1月にローマを訪問したベルナルドは、イエズス会総長のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラに面会し、教皇パウルス四世への謁見も許された。長旅で疲労したベルナルドは、1557年3月にポルトガル王国で亡くなった。

ザビエルは日本を去ったが、同行していたコスメ・デ・トーレス神父(司教)とフアン・フェルナンデス宣教師は残留し、宣教活動を続けた。フェルナンデス宣教師は1567年に平戸で死去。トーレス神父は1570年に肥後の天草で亡くなった。20年あまりの宣教活動で、京都、境、山口、豊後、肥前などには、大勢のキリスト教徒が誕生していた。

イエズス会と南蛮貿易

イエズス会のカルロ・スピノラ
1601年にプロクラドール就任
1622年に長崎で殉教
聖ポール天主堂のファサードを設計
マカオのシンボルを現在に残した
イエズス会の活動資金は、ポルトガル王の援助に頼るのが本来の決まりだった。しかし、欧州から日本での宣教活動を援助するのは困難。そこで、イエズス会は南蛮貿易に参入し、“プロクラドール”と呼ばれる財務担当者がマカオに置かれた。

プロクラドールは貿易船からの料金徴収や貿易仲介業などに励んだ。南蛮貿易が拡大するに連れ、そのビジネス規模も大きくなった。特にマカオを中継地とする中国産生糸の対日輸出では、プロクラドールが日本の買い手に対する窓口であり、価格と割当量を管理した。また、イエズス会は毎年50ピコの生糸を確保し、その貿易での収益も財源となった。

南蛮貿易はイエズス会の安定財源となり、その資金は日本での宣教活動に充てられた。イエズス会が商売に携わることには、他のキリスト教団体や身内からの批判もあったのだが、長く続いた。こうした状況もあり、マカオにおけるイエズス会の存在感は大きかった。

宗教対立と平戸南蛮貿易の終焉

平戸松浦氏二十五代当主の松浦隆信
息子の鎮信は平戸藩の初代藩主に
日本ではポルトガル人による南蛮貿易と宣教活動が、同時進行していた。だが、南蛮貿易を切り開いた松浦隆信は、キリスト教の宣教活動は許したものの、自身は曹洞宗の熱心な信徒だった。

平戸で南蛮貿易が盛んになるに従い、キリスト教徒も増加し、仏教徒との間に軋轢を生んだ。1558年に平戸で宣教活動していたイエズス会のガスパル・ヴィレラ神父が仏教徒と対立。背景にはキリスト教徒による寺社の破壊や宗教論争があった。

最終的に松浦隆信はヴィレラ神父の追放を決定したが、南蛮貿易に不可欠なイエズス会との関係を維持するため、宣教活動は引き続き認めた。だが、平戸の教会は仏教徒らによる焼き討ちに遭った。

こうして南蛮貿易で栄える平戸で、キリスト教徒と仏教徒の間に、不穏な空気が広がった。1561年にポルトガル船が平戸に入港すると、ポルトガル商人と平戸商人の間で、貿易品の売買交渉が決裂。双方の乱闘に発展した。

武士が仲裁に乗り出すと、平戸商人への助太刀に入ったと、ポルトガル商人が誤解。船に戻ったポルトガル商人は武装し、街を襲撃した。すると、武士も応戦し、多数の死傷者を出した。これを“宮ノ前事件”という。

宮ノ前事件を受け、イエズス会は平戸との南蛮貿易を拒否すると決定。イエズス会は新たな貿易相手を探すことになった。そこに現れたのが、松浦隆信と同じく肥前の大名である大村純忠だった。

キリシタン大名の誕生

イエズス会が貿易港を探していると知った大村純忠は、佐世保湾内の入り江である横瀬浦を提供すると申し出た。こうしてポルトガル船の入港地は1562年に横瀬浦に移り、平戸の南蛮貿易は終焉を迎えた。

横瀬浦は南蛮貿易の新たな港となったが、大村純忠と敵対する後藤貴明に攻撃された。すると、松浦隆信はポルトガル船の平戸入港を打診し、教会も再建した。しかし、1563年に大村純忠はザビエルの遺志を継いだトーレス神父の洗礼を受け、キリスト教に改宗。こうして大村純忠が日本で初めての“キリシタン大名”(吉利支丹大名)になると、ポルトガル船が平戸に戻る可能性はなくなった。

最初のキリシタン大名の大村純忠
「日本殉教精華」(1644年)の挿絵
“ドン・バルトロメオ”の名で紹介
横瀬浦を焼失したが、1565年に大村純忠の領内にある福田浦が、新たな南蛮貿易の港となった。ポルトガル人はさらなる良港を求め、1571年に長崎が開港。後に大村純忠は長崎をイエズス会に寄進し、江戸時代に“唯一の西洋への窓口”として機能する基礎を築いた。

南蛮貿易でもたらされる武器や弾薬は、戦国大名の勢力拡大に必要不可欠だった。火縄銃は国産化できたものの、火薬の製造に必要な硝石は、南蛮貿易に依存していた。領土拡張に大きなメリットがある南蛮貿易を戦国大名が推進するうえで、キリスト教への改宗が有益だったことから、その後も九州や関西を中心にキリシタン大名が増加した。

やがて南蛮貿易と関係がなくても、人格者として知られた高山右近のようなキリシタン大名に感化され、キリスト教に改宗する戦国大名も増加。黒田官兵衛(黒田孝高)などが、その例に当たる。キリシタン大名の領内では、キリスト教徒が増加。その一方で仏教徒との軋轢も拡大した。

ポルトガル王国が位置するイベリア半島は、レコンキスタ(再征服運動)の名の下でイスラム教徒と800年近くにわたり戦いを繰り広げた歴史があり、そのカトリック信仰は特に排他的かつ先鋭的だった。その影響で日本のキリスト教徒も寺社や仏像の破壊行為に及び、これが宗教対立につながった。

一方、キリスト教に改宗しなくても、イエズス会を厚遇することで、メリットを享受する戦国大名も多かった。織田信長や当初の豊臣秀吉などが、そうした例に当てはまるだろう。

メルヒオール・カルネイロ
初代マカオ司教
1637年に起きた“島原の乱”では、3万人以上が反乱に加わったとみられる。これを考えると、キリシタン弾圧が始まる前の日本には、少なくとも数十万人規模のキリスト教徒が存在したとみられる。

日本での宣教活動が進むに連れ、東アジアにおけるイエズス会の拠点であるマカオは、重要性が増した。1576年に教皇グレゴリウス13世は、マカオ司教区を設定。メルヒオール・カルネイロが初代司教に就任した。

ポルトガル王国の異変

ジョアン・マヌエル
セバスティアン1世の父
1385年にジョアン1世の即位で始まったアヴィス朝ポルトガル王国は、“ポルトガル海上帝国”に発展。マカオに司教区が置かれたのは、第七代国王セバスティアン1世の時代だった。

セバスティアン1世の父親は、“ポルトガル公”のジョアン・マヌエル。彼は第六代国王ジョアン3世の五男であり、ポルトガル公の爵位は王位継承者であることを意味する。ジョアン3世の息子のうち、幼少期で死亡しなかったのは、このジョアン・マヌエルだけだった。

フアナ
セバスティアン1世の母
一方、セバスティアン1世の母親はフアナという。彼女は1516年に始まったアブスブルゴ朝スペイン王国の初代国王カルロス1世の次女だった。ちなみに、カルロス1世は1530年にカール5世として神聖ローマ皇帝に即位。スペイン、ドイツ、南イタリアなど、西欧の大半を領土としていた。

ジョアン・マヌエルとフアナは、1552年に結婚。この時、ジョアン・マヌエルは14歳で、フアナは16歳だった。しかし、ジョアン・マヌエルは1554年に16歳で死去。この時、フアナは妊娠しており、出産間近だった。

セバスティアン1世の誕生
1554年の作品
ジョアン・マヌエルの死後に生まれるのが女児だった場合、ポルトガル王位はスペイン王家に渡る可能性が高かった。このため、ポルトガル王国の国民は、男児の誕生を願った。こうしたなか、ジョアン・マヌエルの死から18日後に男児が誕生。この男児が第七代国王セバスティアン1世であり、その誕生を国民が待ち望んでいたことから“待望王”と呼ばれる。

1557年に第六代国王のジョアン3世が死去すると、セバスティアン1世はわずか3歳で即位した。彼は大事に育てられたせいか、利己的で情緒不安定な性格となり、冒険心や虚栄心にもあふれていた。

甲冑姿のセバスティアン1世 セバスティアン1世は狩猟や乗馬に熱中し、国政に無関心だったころから、政治の実権は取り巻きの人物たちに移った。また、幼いころから、宗教と戦争に異常な関心を示していたという。こうしたところは、この連載の第六十八回で紹介した明王朝第十一代皇帝の正徳帝に通じるところがあるのかも知れない。

そうした性格のセバスティアン1世は、十字軍遠征を夢見るようになる。やがて、ジブラルタル海峡を渡り、モロッコのサアド朝に対する遠征を計画した。巨額の戦費をねん出するため、国民に負担を強いたうえ、外国商人から借金した。

アルカセル・キビールの戦い
1629年の作品
1578年に24歳となったセバスティアン1世は、約2万3,000人の兵力を率い、モロッコに上陸。サアド朝の軍と衝突した。セバスティアン1世の作戦は稚拙であり、ポルトガル軍は“アルカセル・キビールの戦い”で惨敗した。

セバスティアン1世は戦死したとみられるが、遺体は見つからず、ポルトガル王国に帰還することはなかった。セバスティアン1世は独身であり、再びポルトガル王位の継承が問題となった。

ポルトガル王国の独立喪失

エンリケ1世 セバスティアン1世の死で、ポルトガル王国は混乱した。問題は王位継承だけではない。サアド朝との戦いで財政が悪化していたなか、捕虜となった貴族を解放するため、さらに巨額の身代金が必要だったからだ。ポルトガル王国の国力は、セバスティアン1世の暴挙によって大きく傾いた。

こうした混乱を鎮めるため、第六代国王ジョアン3世の弟が、第八代国王のエンリケ1世として即位した。だが、これには大きな問題があった。エンリケ1世はすでにカトリックの枢機卿となっていたうえ、66歳に達していたからだ。彼が結婚し、王位継承者が生まれるのは、絶望的だった。

スペイン国王のフェリペ2世
1573年の作品
そのうえ、ローマ教皇グレゴリウス13世は、聖職者だったエンリケ1世の還俗と結婚を認めなかった。こうして早急に新たな王位継承者を探すことになったが、この問題は国民を巻き込んで紛糾した。

こうしたなかスペイン国王のフェリペ2世が、ポルトガル王国の王位を狙い、贈賄工作を展開した。フェリペ2世の父親は神聖ローマ皇帝のカール5世で、母親はアヴィス朝ポルトガル王国の第五代国王であるマヌエル1世の娘イザベル。フェリペ2世はポルトガル王家の血筋でもあり、王位を請求した。しかし、スペイン人によるポルトガル統治を嫌う国民が多く、フェリペ2世は支持を得られなかった。

王位継承者が決まらぬまま、1580年にエンリケ1世が死去。王族の一人で、修道院長だったアントニオが国民に推戴され、ポルトガル王位を請求した。しかし、スペイン国王のフェリペ2世もポルトガル王位を請求。こうして“ポルトガル王位継承戦争”が勃発した。

スペイン軍はアントニオが率いるポルトガル軍を破り、首都のリスボンを占領。スペイン王がポルトガル王を兼ねる“同君連合”が、1580年に成立した。ポルトガル王国はスペイン王国に完全吸収されることは免れたものの、政治的独立を喪失した。

スペイン王国の支配下に入ったポルトガル王国では、救世主の待望論が広がった。セバスティアン1世の遺体が見つかっていないことから、彼が実は生きていると考える民衆も多かった。そうした世相を背景に、各地でセバスティアン1世を詐称するペテン師が出現したという。セバスティアン1世は死後も“待望王”であり続けた。

マカオの“黄金時代”

1580年に成立したスペイン王国とポルトガル王国の同君連合により、フェリペ2世は両国の海外領土を一手に集め、“太陽の沈まぬ帝国”を築いた。スペイン王国と植民地・属領を合わせた“スペイン帝国”は、“黄金時代”を迎えた。

ポルトガル王国がスペイン王国の支配下に入ったというニュースは、1581年にマカオにも届き、現地のポルトガル人に大きな衝撃を与えた。彼らが最も恐れたのは、明王朝によってマカオから追放されることだった。

そもそも、ポルトガル人のマカオ居留権は、明王朝がポルトガル王国に認めたのであり、スペイン王国とは何の約束もない。そこで、同君連合の成立後も、マカオではポルトガル王国の国旗を掲揚し続け、明王朝に悟られぬよう配慮した。もちろん、理由はそれだけではなく、ポルトガル王国への忠誠心や愛国心もあった。

同君連合は悪いことばかりではなかった。フェリペ2世はポルトガル王国に総督を派遣したが、その支配は寛大だった。マカオではスペイン王国が統治するフィリピンとの貿易が拡大。同君連合の成立により、マカオも“黄金時代”を迎えた。

マカオの統治形式も変わった。マカオ統治の責任者であるカピタン・モールは、南蛮貿易のために不在であることが多く、これに住民が不満を募らせていた。そこで、イエズス会がマカオの自治を求める運動を推進。1583年にマカオに“セナド”(議会)が置かれた。さらにマカオの自治は進み、1587年には“シダージ”(市)に昇格した。

マカオ市の様子を描いた1598年の作品 イエズス会に続き、1580年代にはカトリック修道会の“ドミニコ会”もマカオに到来。イエズス会やドミニコ会により、マカオで教会や学校の整備が進んだ。イエズス会の聖ポール天主堂、ドミニコ会の聖ドミニコ教会などは、同君連合の時代に建てられた。

スペイン王国からも聖アウグスチノ修道会の修道士が1586年にマカオに来訪し、聖オーガスティン教会を建てた。これも同君連合の影響だった。

スペイン王国のネーデルラント統治

同君連合にはマカオへの悪影響もあった。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)と敵対することになったからだ。そうなるまでの経緯を紹介する。

現在のベネルクス三カ国(ベルギー、オランダ、ルクセンブルク)の一帯であるネーデルラントは、当時は神聖ローマ帝国(ドイツ)に属し、17の州に分かれており、神聖ローマ皇帝カール5世の統治下にあった。1556年にカール5世が退位すると、ネーデルラント17州はフェリペ2世が相続し、スペイン王国の支配下に入った。

ネーデルラント17州にはカルヴァン派などのプロテスタントが普及していた。しかし、フェリペ2世は“カトリックの盟主”を自負しており、プロテスタントなどを異端視し、不寛容な宗教政策を進めた。

パルマ公妃マルゲリータ フェリペ2世はネーデルラントへの課税強化を計画。さらにスペイン王への忠誠と中央主権化を求め、ネーデルラント貴族の代表をスターテン・ヘネラール(議会)に招いた。しかし、スペイン王国への反感が強まり、議会は増税案を否決したり、スペイン軍の撤退を求めるようになったりした。

そこで、1559年にフェリペ2世は異母姉のパルマ公妃マルゲリータ・ダウストリアをネーデルラント総督として派遣し、強権的な統治と苛烈な異端審問を推進。スペイン王国とネーデルラントの関係は、さらに険悪化した。

ゴイセンの紋章 1566年にネーデルラント貴族たちが、総督の宮廷に押し寄せた。その数は数百人に上り、プロテスタントへの弾圧を止めるよう請願。貴族の集団に慌てた廷臣は、“彼らは乞食の群れにすぎません”と、総督であるパルマ公妃に説明した。

これを機に、スペイン王国の統治に反対する者は、乞食を意味する“ゴイセン”と呼ばれた。そう呼ばれたネーデルラント貴族たちも、ゴイセンと自称するようになり、それは愛国者を意味する言葉となった。

フェルナンド・アルバレス・デ・トレド ゴイセンたちの扇動で、反カトリック暴動がネーデルラント各地で発生。この事態を収拾するため、1567年にフェリペ2世はフェルナンド・アルバレス・デ・トレドを新たなネーデルラント総督として派遣した。

着任したフェルナンド・アルバレス・デ・トレドは、“死の審判所”と呼ばれる機関を設置し、恐怖政治を敷いた。彼は暴動の責任を問い、ラモラール・ファン・エフモント伯爵など20人を超えるネーデルラント貴族を処刑。こうした弾圧から逃れるため、膨大な数のネーデルラント人が、国外に亡命した。

船で逃れたゴイセンは“海の乞食団”(海のゴイセン)を結成し、スペイン船の拿捕やカトリック教会の襲撃などを展開するようになった。

八十年戦争

国外に逃れていたネーデルラント貴族のオラニエ公ウィレム1世は、1568年に軍を率いて母国に侵攻。こうして1648年まで続く“八十年戦争”が始まった。この長期にわたるスペイン王国との戦争は“オランダ独立戦争”とも呼ばれる。

ウィレム1世を叱責するフェリペ2世を描いた絵画
19世紀のコルネリス・クルセマンの作品
ウィレム1世は開戦当初こそ劣勢だったが、徐々に巻き返した。1579年にネーデルラント17州のうち、プロテスタントが多い北部7州が“ユトレヒト同盟”を結成。こうしてオランダの基礎が固まった。その直後にカトリックが優勢なネーデルラント南部では、“アラス同盟”が結成され、フェリペ2世に協調。こうしてネーデルラントは北部のオランダと南部のスペイン領ネーデルラントに分裂した。

スペイン王国とポルトガル王国の同君連合が成立した翌年の1581年、オランダはフェリペ2世の統治権を否定した。スペイン王国との戦争が80年も続いたことから、オランダの独立年は明確ではない。しかし、フェリペ2世の統治権を否定した1581年をもって、オランダ独立とする見解が多い。

この八十年戦争を通じ、スペイン王国とオランダは敵対関係にあった。1580年にスペイン王国とポルトガル王国の同君連合が成立すると、マカオはオランダの敵となった。

斜陽の兆し

スペイン船(右)と戦う海の乞食団(左)
ヘンドリック・コルネリスゾーン・フロームの絵画
1621年の作品
広大な海外領土を有するスペイン王国は、私掠船による海賊行為に悩まされていた。八十年戦争が始まると、オランダのオラニエ公ウィレム1世は1569年に“海の乞食団”に私掠特許状を与え、スペイン船に対するゲリラ戦を展開した。

1558年に即位したテューダー朝イングランド王国の第五代国王エリザベス1世も、スペイン船に対する海賊行為を支援していた。特に有名な海賊船長としては、ジョン・ホーキンスとフランシス・ドレークが挙げられる。彼ら二人は従兄弟の間柄だった。

フランシス・ドレーク  エリザベス1世 ドレークは1577年12月~1580年9月に世界を一周。これはフェルディナンド・マゼランに続く史上二番目の快挙であり、スペイン船への海賊行為をともなう大航海だった。スペイン船から略奪した貴金属や通貨は莫大であり、それは配当金としてエリザベス1世を含む大航海の出資者に支払われた。

オランダ大使の拝謁を許すエリザベス1世 イングランド王室への配当金は当時の歳入を超える規模であり、債務の完済と財政の健全化を一挙に達成した。この功績でドレークは叙勲され、海軍中将に任命された。

イングランド王国は1585年からスペイン王国と敵対するオランダを軍事的に支援していた。そのうえ、エリザベス1世はドレークに“私拿捕特許状”を与え、スペイン王国の船や港に対する襲撃や略奪を推進していた。

フェリペ2世はエリザベス1世に海賊行為を取り締まるよう抗議。さらにイングランド王国との戦争に向け、海軍力の強化を進めた。

こうしたなか、ドレークは1587年にスペイン王国の南部に位置するカディスの港を襲撃し、数多くの船舶を破壊した。さらに同様の行為をポルトガル王国の沿岸部でも展開。スペイン海軍の戦力を削り取った。

アルマダの海戦を描いた絵画
フィリップ・ジェイムズ・ド・ラウザーバーグの絵画
1797年の作品
これを受け、フェリペ2世は戦争を決意。約130隻の“スペイン無敵艦隊”(アルマダ)が、1588年5月に出撃した。しかし、同年7月末~8月上旬に起きた一連の“アルマダの海戦”で、スペイン無敵艦隊はイングランド王国とオランダの艦隊に大敗北。イングランド海軍の指揮を執ったのはドレークであり、火を着けた船をスペイン無敵艦隊に突進させるという“海賊戦法”で勝利に導いた。

スペイン王国とイングランド王国による“英西戦争”は1604年まで続いた。最終的にスペイン王国に有利なかたちで講和したが、“アルマダの海戦”は“太陽の沈まぬ帝国”が斜陽を迎える兆しだった。

アジアでの三つ巴の戦い

実質的な独立を果たしていたオランダでは、“世界初の株式会社”として知られるオランダ東インド会社(VOC)が1602年3月20日発足。その背景には、1580年に成立したスペイン王国とポルトガル王国の同君連合があった。

八十年戦争が続くなか、1580年にポルトガル王国がスペイン王国の支配下に入ると、オランダは香辛料などの入手が困難となった。香辛料の調達に強いポルトガル王国と貿易できなくなったからだ。オランダはアジアへの独自ルートを開発する必要に迫られていた。

オランダでは当初、複数の商社が東南アジアに進出したが、香辛料の奪い合いとなった。その結果、東南アジアで香辛料の買付価格が高騰。その一方で、オランダでは商社が値下げ競争を展開し、香辛料の販売価格は下落の一途。オランダの競争力低下が不安視されていた。

ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト
VOCの創始者
一方、イングランド王国では1600年にイギリス東インド会社(EIC)が発足。香辛料をめぐる争いは、激しさを増す様相だった。こうした状況を背景に、オランダの商社をまとめるかたちで、1602年にVOCが誕生した。

アジアはイングランド王国のEIC、オランダのVOC、それにポルトガル王国の海外領土を支配するスペイン王国という三つの勢力が争う場となった。EICやVOCは会社だが、独自の軍事力を保有する“国家的海賊団”のような組織であり、アジア各地で軍事衝突が繰り返された。スペイン王国と敵対するオランダのVOCは、マカオを標的とした。

マカオをめぐる争い

オランダは1601年9月にマカオへ最初の攻撃を仕掛けた。数隻のオランダ船がマカオの海域に出現したが、ポルトガル人によって撃退された。1603年と1607年にもマカオはVOCによる襲撃に遭ったが、それは小規模なものであり、いずれも失敗に終わった。

こうしたなか、スペイン王国は長引くオランダとの戦争で疲弊し、1609年に休戦協定を締結。決められた休戦期間は12年間で、その間はVOCによるマカオ攻撃はなかった。

マカオの“モンテの砦”
大砲が置かれている
12年間の休戦期間が終わると、VOCは本格的なマカオ占領を計画した。マカオを占領すれば、日本との貿易で優位となるばかりか、スペイン王国の植民地であるフィリピンへの攻撃も容易となる。そうした思惑から、四度目となるマカオ攻撃は、大規模となった。

マカオは三度もオランダの攻撃にあったが、その防衛体制は貧弱だった。強固な防衛体制がマカオに築かれることを明王朝の官僚が危惧し、城壁の建設などに反対したからだ。マカオ防衛に使用可能な砲台はわずかであり、そうした情報をVOCは入手していた。

マカオの戦い

1627年のバタヴィアの地図 オランダのVOCは1619年にインドネシアのジャワ島にあるバタヴィア(現在のジャカルタ)を租借することに成功し、ここにアジア拠点を開設していた。このバタヴィアでVOC第四代総督のヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、マカオ侵攻計画を立案。コルネリス・レイエルセン提督を指揮官とする8隻編成の艦隊が、1622年4月にバタヴィアからマカオに向けて北上を開始した。

ヤン・ピーテルスゾーン・クーン
VOC第四代総督
VOCの艦隊は1622年6月21日にマカオ近海に到着。北上中に遭遇したオランダ船5隻が加わり、最終的に艦隊は13隻に拡大。総員は約1,300人で、陸戦部隊は800人を数え、この兵力でマカオに侵攻することになった。戦闘員には東南アジアに住む日本人やマレー人も含まれていたという。

VOCのレイエルセン提督は、6月22日の夜に中国人1人を含む計4人の偵察部隊をマカオに上陸させ、市内に住む1万人の中国人の去就を確認。VOCによるマカオ侵攻を聞いた中国人は、こぞって脱出した。マカオではカピタン・モールのロポ・サルメント・デ・カルヴァーリョ指揮官が防衛軍を統率した。しかし、兵員は約150人にすぎなかった。このうち、火縄銃を打てる兵士は約50人だけであり、残り約100人は一般市民。そのほかで頼りになるのは黒人奴隷たちだけだった。

レイエルセン提督は東から上陸すると決定。陽動作戦のため、6月23日に南から砲撃を開始した。「二十歳以上の男を皆殺しにした後で、女はすべて強姦する」と、オランダ兵はマカオ防衛軍を挑発した。

だが、マカオ防衛軍のカルヴァーリョ指揮官は、この砲撃と挑発がVOCの陽動作戦であると見抜き、やがて上陸すると予想。少数の兵士を激励しつつ、待ち伏せ作戦を計画した。

マカオを砲撃するVOCの艦隊
1665年の作品
6月24日にレイエルセン提督は、約800人の陸戦部隊を率い、東からの上陸を決行。この上陸作戦では、かく乱のために海岸に煙幕を張り、艦砲射撃で陸戦部隊を支援した。この上陸作戦に備えていたカルヴァーリョ指揮官は、100人あまりの兵力で煙幕に向けて射撃を開始。約40人のオランダ兵を殺害したうえ、一発の弾丸がレイエルセン提督の腹部に命中した。

レイエルセン提督は戦線を離脱したが、約600人のオランダ兵がマカオ市内に進軍。そこに砲撃が加えられ、オランダ兵に多数の死傷者が出た。砲手はイエズス会のジャコモ・ロー司祭だった。

そこで、オランダ兵は見晴らしの良い高台を占拠しようと試みたが、マカオ市民と黒人奴隷が激しく抵抗。オランダ兵は退却を余儀なくされた。マカオ防衛軍はすでに高台に布陣しており、カルヴァーリョ指揮官が“サンティアゴ!”の雄叫びを上げると、総反撃が始まった。余談だが、“サンティアゴ!”という鬨の声は、イベリア半島のレコンキスタで、聖ヤコブがキリスト教徒の勝利を約束したという伝説に由来する。

“サンティアゴ!”の合図で、マカオ防衛軍、市民、イエズス会の司祭、ドミニコ会の修道士、黒人奴隷が、オランダ兵に突入。オランダ兵は潰走し、我先に母船に逃れた。逃走したオランダ兵士で母船が沈みそうになると、仲間を見捨てて逃走。逃げ遅れたオランダ兵は、溺死したり、殺害されたりしたという。

奇跡の大勝利

この“マカオの戦い”は、歴史上唯一の中国大陸における欧州国家間の大規模戦闘だった。この戦いでVOCは13隻の艦隊のうち、4隻が沈没。戦死者は300人以上で、うち136人がオランダ人だった。また、負傷者は126人に上った。死傷者には日本人やマレー人も含まれていた。

一方、マカオ防衛軍の死者は6人で、内訳はポルトガル人が4人、スペイン人2人だった。黒人奴隷の正確な死者数は残っていないが、少数であり、負傷者も20人ほどだったという。

マカオ防衛軍は圧倒的な戦力差をひっくり返し、奇跡的な大勝利を収めた。マカオ防衛軍がVOCに勝利した6月24日は、“マカオ市の日”と呼ばれる祝日となり、それは中国への主権返還まで続いた。

この大勝利に黒人奴隷が果たした貢献は、ポルトガル人も認めざるを得ず、その多くを解放した。明王朝の役人は、オランダ兵の首級を持参し、“マカオの戦い”の結末を地方官に報告。黒人奴隷の勇猛さに感動した明王朝の地方官は、彼らに大量の米を贈ったという。

ポルトガル領インドはマカオ防衛のために、常駐の総督を派遣すると決定。こうして1623年にフランシスコ・マスカレニャスが、初代マカオ総督に就任した。その年にマカオでは防衛を理由に、明王朝の許可を得ないまま、城壁が建設された、明王朝は城壁を撤去するよう警告したが、それは無視された。そこで明軍がマカオに出動し、城壁を強制撤去。これにポルトガル人は抵抗できなかった。

VOCの台湾侵攻

“マカオの戦い”で大敗北したVOCのレイエルセン提督は、和平と捕虜釈放をマカオ防衛軍に呼び掛けたが、それは無駄に終わった。そこで、マカオ占領をあきらめ、目標を別の場所に変更。ポルトガル人が“ペスカドーレス”(漁師の島)と呼んだ澎湖諸島に向かった。

この連載の第六十八回では、VOCが1622年に澎湖諸島を占領し、1624年に明軍との戦闘に敗れたことを紹介したが、その背景には“マカオの戦い”での敗北があった。

VOCは澎湖諸島で明軍に敗れた結果、未開の地だった台湾の南部に移動し、ようやく東アジアに拠点を築くことができた。だが、1662年に鄭成功の軍隊によって、台湾のオランダ勢力は駆逐されることになる。この時代の欧州諸国は、アフリカ、南アジア、東南アジアを征服できたものの、東アジアでは劣勢だった。

もしVOCが“マカオの戦い”で勝利していれば、台湾の開発はかなり遅れていただろう。マカオ防衛軍の勝利は、結果的にVOCによる台湾の開発を促したことになる。

オランダ人の日本漂着

マカオはVOCを撃退したことで、その後も南蛮貿易の中継拠点であり続けた。しかし、日本の江戸幕府は、南蛮貿易を縮小する方向に傾いていた。その背景には、ポルトガル人やスペイン人と敵対するオランダ人やイングランド人が、日本との貿易を始めたことがあった。

船団を描いた17世紀の彫刻
右手前がリーフデ号
“関ヶ原の戦い”が起きる直前の1600年4月、VOCの商船リーフデ号が日本の豊後に漂着した。リーフデ号を含む5隻の船団は、1598年6月にオランダを出航し、南米最南端のマゼラン海峡を通過したが、悪天候などで離散。リーフデ号は単独で太平洋を横断し、日本の豊後に漂着した。

出港時の乗員は100人あまりいたが、漂着時の生存者は24人。そのうち、自力で立つことができる者は6人のみ。重体だった生存者も漂着後に亡くなり、最終的に生き残ったのは14人だけだった。

オランダと敵対するイエズス会の宣教師は、「リーフデ号は海賊船であり、乗員を即刻処刑すべき」と、豊臣秀頼などに進言した。

そうした横やりもあったが、とりあえずリーフデ号と乗員は、大坂に送られることになった。1600年5月にリーフデ号の乗員は、五大老の筆頭である徳川家康と面談。オランダ人のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステイン(ヤン・ヨーステン)は、徳川家康に臆すことなく、欧州の国際情勢を説明した。

ヤン・ヨーステン記念像
東京駅の八重洲地下街
ポルトガル王国を支配下に置くカトリックのスペイン王国が、オランダやイングランド王国などのプロテスタント諸国と対立していることなど、そうした海外情報を聞いた徳川家康はイエズス会の讒言を退け、リーフデ号の乗員を登用することにした。

余談だが、ヤン・ヨーステンは“耶揚子”(やようす)という日本名を名乗り、江戸に邸宅を与えられ、日本人女性と結婚した。“やようす”という名は、後に“八代洲”(やよす)に転化し、やがて“八重洲”(やえす)で定着した。現在の東京都中央区八重洲の地名は、ヤン・ヨーステンに由来する。

また、リーフデ号の乗員だったイングランド人のウィリアム・アダムスは、旗本として領地も与えられ、“三浦按針”と名乗った。ウィリアム・アダムスは船大工出身の航海士であり、“アルマダの海戦”に参加したこともあった。オランダ人との交流を深め、リーフデ号などの船団に加わっていた。

ウィリアム・アダムス(中央)
徳川家康(左)に地図で説明
欧州人が想像した日本
ウィリアム・アダムスは日本の地を踏んだ初めてのイングランド人だった。彼は数学や航海術の知識を徳川家康の側近などに教授したほか、通訳や外交顧問などの仕事を任せられた。船大工だった経験を買われ、大型帆船の建造を指導。こうした貢献が、旗本として取り立てられた背景にあった。なお、神奈川県横須賀市にある京浜急行電鉄(京急線)の安針塚駅は、三浦按針の墓があることに由来する。

朱印船貿易

こうして日本人の間に、欧州に対する新しい知見が広まった。従来からの貿易相手であるポルトガル人やスペイン人の呼称である“南蛮人”に対し、オランダ人やイングランド人を“紅毛人”と呼び、区別するようになった。徳川家康は新興勢力の紅毛人を重用することで、独自の貿易体制の構築を図った。

朱印船 1600年の関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、東南アジア各国に使者を派遣し、外交関係の樹立を図った。1603年に徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸時代を迎えると、1604年に朱印船制度を確立した。

朱印船制度の下で、対外貿易は幕府から朱印状を与えられた者だけに許された。朱印船の寄港地は長崎に限定。朱印状は大名や商人のほか、中国人や欧州人にも与えられ、中国のジャンク船や欧州のガレオン船などが、東南アジアと長崎を往来した。

平戸の“カピタン”李旦の在住跡 この連載の第六十八回で紹介した海賊の王直は、1558年に中国で処刑された。その貿易ネットワークは、部下の李旦に引き継がれていた。李旦は平戸に住む中国人のリーダー的存在となっており、キリスト教徒でもあったことから、スペイン人やポルトガル人から“カピタン・チーナ”(キャプテン・チャイナ)と呼ばれた。この李旦にも朱印状が発行された。欧州人ではヤン・ヨーステンやウィリアム・アダムスなどに朱印状が与えられた。

なお、李旦は1625年に平戸で亡くなり、その貿易ネットワークは鄭成功の父親である鄭芝竜が引き継いだ。鄭芝竜はキリスト教徒だったが、それには李旦の影響があったとみられる。

朱印船の渡航先は、ベトナム、タイ、カンボジア、マレー半島、フィリピン、台湾など広域にわたった。この連載の第六十八回で紹介した東南アジアの日本人町も、朱印船貿易の始まりを機に、さらに拡大した。

紅毛人の日本貿易参入

平戸のオランダ商館 前述のように、1609年からスペイン王国とオランダは12年間の休戦期間に入った。オランダのオラニエ公マウリッツは、1609年に“オランダ国王”の名義で徳川家康に書簡を送り、朱印状を取得。これにより、VOCは平戸にオランダ商館を開設した。

ジェームズ1世が徳川家康に送った書簡 ステュアート朝イングランド王国では、初代国王ジェームズ1世の書簡と贈呈品を載せたEICの“クローブ号”が1611年4月に出航。大西洋、インド洋、南シナ海、東シナ海を経て、1613年6月に平戸に到着した。

クローブ号の司令官と謁見した徳川家康は、朱印状を発行。EICは平戸にある李旦の邸宅を借り、イギリス商館を開設することに成功した。オランダ商館やイギリス商館の開設では、ウィリアム・アダムスが大きな貢献を果たしたという。

ジェームズ1世 余談だが、クローブ号は1613年12月に日本を出航し、1614年9月に帰国。朱印状と徳川家康からの書簡のほか、日本からの贈呈品をジェームズ1世に献上した。漆器など贈呈品の一部を売却するため、1614年12月にイングランド王国で初のオークション(競売)が開かれた。

VOCとEICは、日本との貿易に参入したが、朱印船貿易と競合し、思うような成果を得られなかった。また、同じく競合するポルトガル人の南蛮貿易は、東アジアにマカオという中継拠点があり、これもVOCやEICにとって目障りだった。こうした日本との貿易をめぐる熾烈な競争が、1622年に勃発した“マカオの戦い”やオランダの台湾統治の背景にあった。

英蘭関係の険悪化

前述のように、オランダとイングランド王国は、共通の敵であるスペイン王国との戦いを背景に、協力関係にあった。しかし、VOCとEICがアジア貿易で熾烈な競争を繰り広げた結果、オランダとイングランド王国の関係は悪化に向かった。

17世紀のアンボイナ島 香辛料の産地だったモルッカ諸島のアンボイナ島は、1512年にポルトガル王国の支配下に入った。しかし、1599年にオランダのVOCがポルトガル王国の勢力を駆逐し、この島の支配権を奪い取った。そこに、イングランド王国のEICも1615年にアンボイナ島へ進出し、VOCと争った。

アンボイナ島をめぐるVOCとEICの争いを収拾するため、1619年にオランダとイングランド王国は協定を交わしたが、現地では無視された。VOCとEICは相互不信に陥り、一触即発の状態となった。

アンボイナ事件
オランダ人による英国人への拷問の様子
こうしたなか1623年2月にEICの日本人傭兵がVOCに逮捕された。拷問による取り調べの結果、EICがVOCの城砦を占領する計画を立てていると自供。VOCは直ちにEICの商館を襲撃し、商館員に残虐な拷問を加え、城砦の占領計画が事実であると自白させた。その結果、この年の3月にVOCはEICの関係者20人を処刑。処刑された者の半数が日本人だった。

この“アンボイナ事件”の結果、オランダはイングランド王国との関係が険悪化した一方、東南アジアでVOCの優位が確定した。その影響で、平戸のイギリス商館も1623年12月に閉鎖され、イングランド王国のEICは日本との貿易から撤退した。

南蛮貿易の終焉

南蛮貿易はキリスト教の宣教活動と“ワンセット”だった。それゆえ、キリスト教が日本で禁止されると、南蛮貿易も終焉を迎えることになった。

日本におけるキリスト教の浸透は、権力者との間に軋轢を生んだ。早くも1587年に豊臣秀吉は、いわゆる“バテレン追放令”を布告し、宣教師の国外退去を求めた。だが、南蛮貿易を続けたいという思惑もあり、大きな宗教弾圧には至らなかった。

二十六聖人の殉教を描いた1862年のリトグラフ
日本人が弁髪を結わえており、中国人と混同している
豊臣秀吉は1596年に再び禁教令を布告し、京都奉行の石田三成はフランシスコ会の関係者22人とイエズス会の関係者4人を逮捕。うち日本人は20人で、そのほかはスペイン人が4人、ポルトガル人とメキシコ人が1人ずつだった。

逮捕された26人は1597年2月5日に長崎で処刑された。信仰を理由に日本のキリスト教徒が最高権力者によって処刑されるのは、これが初めてだった。処刑された26人は1862年に列聖され、“日本二十六聖人”と呼ばれた。

55人が処刑された元和の大殉教(1622年9月10日)
この「元和大殉教図」はマカオからローマへ送られた
イエズス会のカルロ・スピノラもここで殉教
彼が残した聖ポール天主堂ファサードはマカオの象徴
江戸幕府も1609年ごろからキリスト教徒への不信感を強め、1612年に最初の禁教令を布告した。海外との往来も徐々に制限するようになり、1616年には明王朝を除く外国の船舶について、入港先を長崎と平戸に限定。1631年には奉書船制度が導入され、海外と貿易するには、将軍が発行する朱印状のほかに、老中から“奉書”という許可証が必要となった。

1633年に最初の鎖国令が布告され、海外渡航の手段を“奉書船”に限定し、海外在住5年以上の日本人の帰国を禁止。1635年の第三次鎖国令では、外国船の入港を長崎に限定すると同時に、日本人の海外渡航や帰国を禁止した。

1636年の第四次鎖国令では、貿易と無関係なポルトガル人のその妻子をマカオに追放。日本に残るポルトガル人は、長崎に建設した出島に移された。こうしたなか、1637年12月に肥前の島原と肥後の天草で、天草四郎(益田四郎時貞)を総大将とするキリスト教徒が決起。こうして“島原の乱”と呼ばれる大規模な内戦が始まった。

原城を中心に島原の乱を描いた「嶋原御陣図」 島原の乱を鎮圧する幕府軍に、オランダのVOCが協力。反乱は1638年4月までに鎮圧された。島原の乱の背後にポルトガル王国の陰謀があったと、幕府は疑いの目を向けた。天草四郎の首級は、出島のポルトガル商館の前にさらされたという。反乱軍もポルトガル人からの支援を期待していたようだった。

この島原の乱は、南蛮貿易を終焉させる決定打となった。1639年に幕府は第五次鎖国令を布告し、ポルトガル船の入港を禁止。こうして130年近くにわたった南蛮貿易は、終わりを迎えた。

1639年の第五次鎖国令を受け、マカオは南蛮貿易の再開を求め、1640年に日本へ使者を派遣。しかし、使者61人は全員処刑された。一方、オランダのVOCは、1641年に商館を平戸から出島に移転。欧州諸国の中で、オランダが唯一の日本の貿易相手国となった。

ポルトガル王国の再独立

南蛮貿易が終焉を迎えたころ、ポルトガル王国でも異変が起きていた。スペイン王国とポルトガル王国の同君連合は、1598年にフェリペ3世がスペイン国王に即位すると、ポルトガル人の自治権が軽視されるようになり、増税も実施された。ポルトガル人はスペイン王国の支配に反発するようになった。

マントヴァ公妃マルゲリータ こうした世情を背景に、ポルトガル人の間に救世主信仰(セバスティアニズモ)が広まった。それはアヴィス朝ポルトガル王国のセバスティアン1世が実は生きており、やがてポルトガル人を解放するという噂だった。“待望王”と呼ばれたセバスティアン1世の再来を多くのポルトガル人が待ち望んだ。

1640年12月にポルトガル貴族と知識人ら40人がリスボンの王宮を襲撃。当時のポルトガル王国は、スペイン王のフェリペ4世が派遣した副王のマントヴァ公妃マルゲリータが治めていたが、王宮を襲撃した集団は副王の逮捕に成功した。

この襲撃を主導したブラガンサ公は、ポルトガル王国の国王ジョアン4世として即位を宣言。ブラガンサ朝ポルトガル王国を創始し、スペイン王国と“ポルトガル王政復古戦争”を開始した。

ジョアン4世の戴冠式 このポルトガル王政復古戦争は、1668年2月に締結したリスボン条約で終結する。長期にわたる戦いだったが、小競り合いの連続であり、緩慢な戦争だった。数度の大きな戦闘では、ポルトガル王国が全勝。リスボン条約によって、スペイン王国はブラガンサ朝ポルトガル王国を承認した。ポルトガル王国は北アフリカのセウタをスペイン王国に譲ったが、そのほかの海外領土を保全した。

同君連合の解体とマカオ

1784年建設の民政総署大楼
主権返還まで“レアル・セナド”だった
ブラガンサ朝ポルトガル王国の誕生とスペイン王国との開戦は、1642年になってマカオに届いた。同君連合の間もポルトガル王国の国旗を掲揚していたことをジョアン4世は称え、マカオに“比類なき忠実な神の御名の都市”という称号を与え、議会を“忠実なる議会”(レアル・セナド)と讃えた。

だが、日本との南蛮貿易を失ったマカオは、同君連合の解体で、スペイン王国の植民地であるフィリピンとの貿易も中断せざるを得なくなった。これは中継貿易の港であるマカオにとって、大きな痛手だった。

聖ドミニコ教会 マカオの社会も同君連合の解体で不安定化した。マカオはポルトガル王国への忠誠を誓ったが、これに反対するスペイン人の軍人がいた。彼は怒った民衆に追い詰められ、聖ドミニコ教会に逃げ込んだ。1644年の出来事だった。ミサの最中にもかかわらず、このスペイン人の軍人は、祭壇の下で殺害された。

ポルトガル王国の海外領土喪失

VOCによるゴール占領 再独立の旗印を挙げたポルトガル王国だが、海外ではオランダのVOCに押され、マカオは東アジアで孤立感を深めた。ポルトガル人が支配していたセイロン島(スリランカ)のゴールは、1640年にVOCに占領された。さらに東南アジアにおけるポルトガル人の重要拠点であるマラッカも、1641年にVOCの手に落ちた。

スペイン王国との同君連合が解体したことで、オランダがポルトガル王国と敵対する明確な理由はなくなっていた。しかし、VOCは同君連合の時代からポルトガル王国の海外領土を狙っており、和平条約の締結を避けていた。

和平交渉に向かうオランダ代表(1646年) 欧州では神聖ローマ帝国で繰り広げられた“三十年戦争”が、1648年に終結。その講和条約であるヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)により、オランダの独立が承認され、スペイン王国との八十年戦争も同時に終わった。

オランダが独立を果たした後も、VOCはポルトガル王国の海外領土に侵攻。東南アジアで領土拡大を継続し、“オランダ領東インド”の基礎を築いた。ポルトガル領セイロンの本拠地であるコロンボも、1658年にVOCが攻め落とし、“オランダ領セイロン”が発足した。

ポルトガル王国とオランダの講和が成立したのは、ポルトガル王政復古戦争が続いていた1661年。“ハーグ条約”を締結し、オランダはポルトガル王国から賠償金を得る一方、奪っていたブラジルを返還することになった。

中国の王朝交代とマカオ

1644年は中国で王朝交代が起きた年だった。3月に李自成の反乱軍が帝都の順天府(北京)を陥落させ、明王朝第十七代皇帝の崇禎帝を自害に追い込んだ。明王朝の滅亡を受け、5月に副都の応天府(南京)で弘光帝が即位し、南明王朝を樹立した。

明王朝の将軍だった呉三桂は、敵だった満洲族と連合し、6月に北京に進駐。こうして満洲族の清王朝による中国支配が始まった。清王朝は南明王朝への討伐を開始。イエズス会のフランチェスコ・サンビアス(畢方済)は、南明王朝の弘光帝から勅命を受け、マカオに救援を求めた。だが、1645年6月に南京が陥落し、弘光帝の政権は崩壊した。

弘光帝の政権が崩壊すると、満洲族の支配を嫌う漢民族の難民が、マカオに流入。その数は1645年だけで約4万人に上り、彼らの多くはマカオから海外へ脱出した。

1645年8月に福建省福州で隆武帝が南明王朝を再興すると、サンビアスは忠誠を誓い、マカオに支援を求めた。南明王朝が滅亡すれば、マカオ居留権の継続が危ぶまれることから、ポルトガル人は大砲と精鋭300人の拠出を決めた。

しかし、隆武帝の政権も1646年10月に瓦解した。この年の12月に永暦帝が南明王朝の政権を広東省の肇慶に樹立すると、マカオは支援を継続。イエズス会は南明王朝の宮廷で宣教活動を続け、皇后や皇太子などが入信した。

1648年10月に南明王朝の使者がマカオを訪問し、聖ポール天主堂で大規模なミサを開いた。マカオ総督は南明王朝に鉄砲100丁を寄贈。南明王朝は毎年500両の租借料を永年免除すると約束した。

南明王朝の人々と兵士
軍装は欧州の影響か
南明王朝とマカオの良好な関係は、1661年に永暦帝が殺害されるまで続いた。その一方で、1650年11月に清軍が広東省広州を陥落させると、マカオの世論は清王朝に帰順する方向に傾いた。広州で清軍が老若男女を虐殺し、その凄惨さが目と鼻の先にあるマカオにも伝わったからだ。1651年1月にマカオは清王朝に帰順。清王朝はポルトガル人のマカオ居留権を安堵すると表明した。

遷界令

清王朝への抵抗を続けていた鄭成功は、1661年にオランダのVOCが支配する台湾への攻撃を開始。1663年にVOCのゼーランディア城が陥落し、台湾に鄭氏政権が樹立された。こうしてVOCは東アジアの拠点を喪失した。

鄭成功に降伏するゼーランディア城のオランダ兵 清王朝は鄭氏政権を孤立させるため、1661年に遷界令を公布した。これは山東省から広東省に至る沿海地域に対し、海岸線から三十里(約15キロメートル)の範囲内に住む人々を内陸へ強制移住させる政策。これにより海運ネットワークが断絶し、周辺地域の経済に悪影響を及ぼした。

マカオも強制移住の対象地域に含まれていた。清王朝はマカオの砲台が鄭氏政権に奪われることを懸念し、1662年に撤去を命じた。しかし、清王朝の宮廷に仕えていたイエズス会のアダム・シャール(湯若望)などが働きかけ、命令を撤回することに成功。さらにマカオを強制移住の対象から除外させた。遷界令が敷かれるなか、マカオは中国で唯一の対外貿易港として存続したが、“開店休業”の状態に追い込まれた。

中国を統一した康熙帝 なお、VOCは台湾の再征服を計画し、清王朝と協力。1662年11月にVOCと清軍の艦隊が、福建省の廈門(アモイ)などを攻撃した。1664年8月にVOCは台湾北部の鶏籠(現在の基隆)に上陸し、ここを占領した。しかし、清王朝はVOCによる台湾の植民地化を警戒し、この協力関係は瓦解した。1668年にVOCは台湾から全面撤退した。

台湾の鄭氏政権は20年以上も清王朝に抵抗したが、1683年に降伏した。こうして清王朝による南明王朝征服と中国統一が完了。1684年に福建省が管轄する台湾府が置かれ、台湾島が正式に清王朝の版図に加わった。

マカオの衰退

台湾の鄭氏政権が崩壊すると、清王朝第四代皇帝の康熙帝は、1684年に外国との貿易を許可。広州、アモイ、寧波、上海の4カ所に税関を設置し、外国船の来航を許した。こうした政策の転換で、マカオの特権的地位は大きく揺らいだ。

1820年ごろの広州
欧米諸国の商館が並ぶ
優位性を失ったマカオは、ポルトガル領ティモール(現在の東ティモール)などとの貿易に活路を見出したが、黄金時代が過ぎたことは、誰の目にも明らかだった。

マカオの衰退は、経済だけにとどまらなかった。マカオを拠点とするイエズス会の宣教活動も、陰りを見せ始めた。

イエズス会の中国宣教活動

1551年に日本を離れたザビエルは、中国での布教を目指し、1552年9月に広東省の“上川島”に上陸した。そこで広州に渡る機会をうかがったが、この年の12月にザビエルは病没。彼の遺志を継ぐべきと考えたイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、同じくイタリア人のマテオ・リッチをマカオに招聘した。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 日本を訪れたことがあるヴァリニャーノは、欧州文化を押し付けるのではなく、イエズス会の宣教師が現地の文化に順応すべきという“適応主義”を重視していた。これはドミニコ会やフランシスコ会などと真逆の方法だった。

マテオ・リッチは1582年8月にマカオに到着。適応主義に基づく宣教活動を展開するため、中国語と中国文化を学習した。官僚が使う“南京官話”やマカオ付近の“広東語”(粤語)を学び、大量の中国語文献を読破。アルファベットなどの表音文字と異なる漢字の存在を知り、驚きを禁じ得なかったという。

マテオ・リッチ 中国語を習得したマテオ・リッチは、“利瑪竇”という中国名を名乗り、中国人の服装で身なりを整え、1583年に広東省に渡った。当初は“天竺からやって来た”と語り、仏教徒と思わせることで、官僚や役人の警戒心を解いた。

マテオ・リッチは用心しながら宣教活動の旅を続けた。江西省の南昌、江蘇省の南京を経て、1601年1月に帝都の北京に到着。世界地図「坤輿万国全図」や機械式時計などを明王朝第十四代皇帝の万暦帝に献上し、信頼を得た。

北京滞在を許されたマテオ・リッチは、密かに宣教活動を続けながら、宮廷の知識人などと交流。日本にも大きな影響を与えた「農政全書」の著者である徐光啓などをキリスト教に改宗させ、ザビエルの悲願を実現した。

マテオ・リッチは1610年に北京で死去し、この地で葬られた。マテオ・リッチの中国における適応主義は、アダム・シャール、フェルディナント・フェルビースト(南懐仁)、ジュゼッペ・カスティリオーネ(郎世寧)などに引き継がれた。

イエズス会の宣教師たちは、欧州の科学知識を中国に伝えた。その一方、中国の書籍を翻訳し、欧州に紹介。マカオを拠点としたイエズス会の宣教師は、東洋と西洋をつなぐ架け橋だった。

典礼論争

「ユークリッド原論」(幾何原本)
左は儒家の服装のマテオ・リッチ
右は徐光啓
イエズス会の適応主義は成功し、明王朝や清王朝の宮廷から信頼を勝ち取り、多くのキリスト教徒を獲得。一方、中国の礼儀文化(典礼)を軽視するドミニコ会やフランシスコ会は、欧州の習慣を押し付けた結果、追放されることになった。

これを背景に、イエズス会が異教の習慣を許容していると、ドミニコ会は批判。典礼を取り入れた活動を止めるよう教皇庁に訴えた。1645年に教皇庁は典礼行為を止めるよう通達。これにイエズス会が反論し、中国での宣教活動をめぐる“典礼論争”が始まった。

教皇クレメンス11世は1704年11月に典礼行為を禁じる勅令を発した。その内容を清王朝の康熙帝に伝えるため、シャルル=トマ・マヤール・ド・トゥルノン総大司教を中国に派遣。1705年12月に北京に到着したトゥルノン総大司教は康熙帝に謁見し、勅令の内容を伝えた。だが、典礼は単なる儀礼に過ぎず、心の救済を求める宗教とは異なると、康熙帝は考えており、トゥルノン総大司教と話がかみ合わなかったという。

康熙帝とアダム・シャール トゥルノン総大司教は帰路で立ち寄った南京で、1707年に典礼行為を行う者は破門すると宣言。これを受け、康熙帝はトゥルノン総大司教の身柄を拘束し、マカオへ追放した。「マテオ・リッチのやり方に従わない西洋人は、中国に立ち入ることを許さず、追放する」と、康熙帝は激怒したと伝わる。なお、トゥルノン総大司教はマカオで投獄され、1710年に獄死した。

典礼論争に対する教皇庁の見解を確認しようと康熙帝は考え、1710年にイエズス会のイタリア人宣教師ジョセフ・アントワーヌ・プロヴァナと中国人神父の樊守義をローマへ派遣した。だが、教皇庁はプロヴァナを1718年まで中国に帰らせなかった。

教皇クレメンス11世 こうしたなか1715年に教皇クレメンス11世は典礼行為を禁止する教皇憲章を布告。その内容は1721年に康熙帝に伝わり、不満の声を漏らしたという。清王朝第五代皇帝の雍正帝は、1723年にキリスト教の宣教活動を禁止。中国におけるイエズス会の活動は衰退した。それは宣教活動の根拠地としてのマカオの役割が終焉したことを意味した。

黄金時代が過ぎ去ったマカオ

現代でマカオと言えば、ほとんどの人が“カジノ”を連想するだろう。実際にマカオを旅行する人々は、カジノが最大のお目当てだ。だが、マカオの黄金時代は、カジノでにぎわう時代ではない。日本との南蛮貿易やイエズス会の活動が盛んだった時期こそ、マカオの黄金時代だった。

聖ポール天主堂跡にあるヴァリニャーノの墓 華やかなカジノばかりが目立つマカオだが、黄金時代の面影を残す観光資源が数多く存在し、それらは日本人との縁も深い。マカオの黄金時代は、日本人とともにあった。

戦国時代から江戸時代の初期にかけ、多くの日本人がマカオを経由し、世界各地に向かった。信仰の自由を求めて海外に脱出した日本人のキリスト教徒は、マカオに多くの痕跡を残している。

日本人殉教者名簿
聖ポール天主堂跡の地下納骨堂
観光名所として有名な聖ポール天主堂跡には地下納骨堂があり、日本人キリスト教徒の遺骨が安置されている。日本人にとっては、感慨深いものがある。

現代のマカオは貿易や宣教活動の拠点ではなく、カジノが許された特別な街として活用されている。統治者もポルトガルから中華人民共和国に変るなど、黄金時代が過ぎ去った後も、マカオは数々の激動に見舞われた。次回もマカオの歴史を紹介する。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は11/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱NEW!
  3. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  4. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  5. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  6. 66. 株式市場の変革期
  7. 65. 無秩序からの健全化
  8. 64. アジア通貨危機と中国本土
  9. 63. “一国四通貨”の歴史
  10. 62. ヘッジファンドとの戦い
  11. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  12. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  13. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  14. 58. 英領香港最後の日
  15. 57. 返還に向けた香港の変化
  16. 56. 東南アジア華人社会
  17. 55. 大富豪と悪人のブルース
  18. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  19. 53. 香港望族の系譜
  20. 52. 最後の総督
  21. 51. 香港返還への布石
  22. 50. 天安門事件と香港
  23. 49. 天安門事件の前夜
  24. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  25. 47. 香港問題と英中交渉
  26. 46. 返還前の香港と中国共産党
  27. 45. 改革開放と香港
  28. 44. 香港経済界の主役交代
  29. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  30. 42. “大時代”の到来
  31. 41. 四会時代の幕開け
  32. 40. 混乱続きの香港60年代
  33. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  34. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  35. 37. 日本統治下の香港
  36. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  37. 35. 香港株式市場の草創期
  38. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  39. 33. ヘネシー総督の時代
  40. 32. 香港株式市場の黎明期
  41. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  42. 30. 通貨の信用
  43. 29. 香港のお金のはじまり
  44. 28. 327の呪いと新時代の到来
  45. 27. 地獄への7分47秒
  46. 26. 中国株との出会い
  47. 25. 呑み込まれる恐怖
  48. 24. ネイホウ!H株
  49. 23. 中国最大の株券闇市
  50. 22. 欲望、腐敗、流血
  51. 21. 悪意の萌芽
  52. 20. 文化広場の株式市場
  53. 19. 大暴れした上海市場
  54. 18. ニーハオ!B株
  55. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  56. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  57. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  58. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  59. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  60. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  61. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  62. 10. 経済特区の株券
  63. 09. “百万元”と呼ばれた男
  64. 08. 鄧小平からの贈り物
  65. 07. 世界一小さな取引所
  66. 06. こっそりと開いた証券市場
  67. 05. 目覚めた上海の投資家
  68. 04. 魔都の証券市場
  69. 03. 中国各地の暗闘者
  70. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  71. 01. 中国株の誕生前夜
  72. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱NEW!
  3. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  4. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  5. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  6. 66. 株式市場の変革期
  7. 65. 無秩序からの健全化
  8. 64. アジア通貨危機と中国本土
  9. 63. “一国四通貨”の歴史
  10. 62. ヘッジファンドとの戦い
  11. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  12. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  13. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  14. 58. 英領香港最後の日
  15. 57. 返還に向けた香港の変化
  16. 56. 東南アジア華人社会
  17. 55. 大富豪と悪人のブルース
  18. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  19. 53. 香港望族の系譜
  20. 52. 最後の総督
  21. 51. 香港返還への布石
  22. 50. 天安門事件と香港
  23. 49. 天安門事件の前夜
  24. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  25. 47. 香港問題と英中交渉
  26. 46. 返還前の香港と中国共産党
  27. 45. 改革開放と香港
  28. 44. 香港経済界の主役交代
  29. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  30. 42. “大時代”の到来
  31. 41. 四会時代の幕開け
  32. 40. 混乱続きの香港60年代
  33. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  34. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  35. 37. 日本統治下の香港
  36. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  37. 35. 香港株式市場の草創期
  38. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  39. 33. ヘネシー総督の時代
  40. 32. 香港株式市場の黎明期
  41. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  42. 30. 通貨の信用
  43. 29. 香港のお金のはじまり
  44. 28. 327の呪いと新時代の到来
  45. 27. 地獄への7分47秒
  46. 26. 中国株との出会い
  47. 25. 呑み込まれる恐怖
  48. 24. ネイホウ!H株
  49. 23. 中国最大の株券闇市
  50. 22. 欲望、腐敗、流血
  51. 21. 悪意の萌芽
  52. 20. 文化広場の株式市場
  53. 19. 大暴れした上海市場
  54. 18. ニーハオ!B株
  55. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  56. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  57. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  58. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  59. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  60. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  61. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  62. 10. 経済特区の株券
  63. 09. “百万元”と呼ばれた男
  64. 08. 鄧小平からの贈り物
  65. 07. 世界一小さな取引所
  66. 06. こっそりと開いた証券市場
  67. 05. 目覚めた上海の投資家
  68. 04. 魔都の証券市場
  69. 03. 中国各地の暗闘者
  70. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  71. 01. 中国株の誕生前夜
  72. 00. はじめに