コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

香港初の抵抗運動と株式市場

2020.1.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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2019年8月18日の大規模デモ行進
参加者は主催者発表170万人 警察発表13万人
2019年の香港は、「逃亡犯条例」の改正案をきっかけに、大規模なデモ行進や激しい抗議活動が頻発した。大学生を中心とした若者と香港警察が衝突し、互いに暴力を振るう映像が、テレビやネットで何度も流れた。こうした香港社会の混乱は、これが初めてではない。これまでに何度か起きている。今回は香港で起きた初めての大規模な抵抗運動を紹介し、それが経済活動や株式市場に与えた影響を解説する。

日本の対中政策と中国の軍閥割拠

現在もドイツ式建築が立ち並ぶ山東省青島市 日本軍と戦う青島のドイツ兵 民国三年(1914年)の銀元
刻印は袁世凱の横顔
1914年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟に基づき、連合国側として参戦した。日本軍は初めて航空機を投入し、山東省青島を中心とするドイツの膠州湾租借地を攻撃。1週間ほどの戦闘を経て、ドイツ軍を降伏に追い込んだ。

日本が発表したドイツへの勧告では、膠州湾租借地を中華民国に返還することを要求していた。だが、日本政府はドイツの権益を継承することを目論み、中華民国からの返還要求を拒否。中華民国の袁世凱・総統と直接交渉することを目指し、1915年1月に“対華21カ条要求”を突き付けた。

“対華21カ条要求”のうち、中国政府の顧問として日本人を雇用することなどを求めた第五号条項は、国際的な非難を浴びた。このため日本は第五号条項などを削除し、残る13カ条を呑むよう通告。この最終通告の2日後に当たる2015年5月9日に、袁世凱は日本の要求を受け容れるに至った。

袁世凱は自身の政治立場を強化する目的もあり、5月9日を“国恥記念日”と呼び、国民に団結を求めた。だが、その思惑とは裏腹に、袁世凱の弱腰姿勢に対する批判が広がるという結果となった。

袁世凱は帝政の復活を目論み、1916年を“洪憲元年”と定め、“中華帝国”の皇帝として即位。しかし、北京の学生たちが反対運動を起こし、地方の軍閥も反旗を翻すと、支持基盤の北洋軍閥も反発。1916年3月に袁世凱は退位に追い込まれ、同年6月に失意のうちに死去した。

袁世凱の政権は、北洋軍閥の部下が引き継いだ。この北京を中心とする北洋政府は、中華民国の正統政府として存続したが、全土を掌握する力はなかった。こうして中国は軍閥が割拠する状態に陥った。

“五四運動”と中国のナショナリズム

皇帝に即位する袁世凱 天安門広場で抗議する学生たち
(1919年5月4日)
第一次世界大戦が終結し、1919年にパリ講和会議が開かれたが、膠州湾租借地は中華民国に返還されず、日本が権益を継承することが認められ、ベルサイユ条約が調印された。

これを受け、ベルサイユ条約に反対する北京の学生などが1919年5月4日に天安門広場に集まり、抗日・反帝国主義のデモ行進を実施。この動きは中国全土に広がり、“五四運動”と呼ばれる大衆運動に発展した。日本製品の不買運動が、中国のほか、米国の華僑の間にも広がった。

こうして中国に抗日気運が広がったほか、ナショナリズムも一般市民に浸透した。第一次世界大戦後の中国は、こうしたムードだった。

“五・三〇事件”と抵抗運動の拡大

上海総工会によるデモ
(1925年5月30日)
群衆を鎮圧した警察部隊
(1925年5月30日)
五・三〇事件の惨状 五・三〇事件の記念碑
上海で一番の繁華街「南京路」
抗日気運とナショナリズムが広がるなか、1925年2月に日本の内外綿株式会社が上海に設けた第8工場で、児童の死体が見つかった。この児童は工場の労働者。胸部に衝撃痕があったことから、この児童が日本人の管理者に殴打されて死亡したと労働者たちは信じ、ストライキに入った。

その後、内外綿株式会社は中国人労働者に対する指導方法を改善すると約束したが、人々の不満は収まらなかった。こうしたなか、大日本紡績株式会社が山東省青島に設けた工場でも、労働運動が広がりをみせていた。これに呼応するかたちで、上海での労働運動も拡大した。

同年5月に入ると、労働者の解雇をめぐり、上海では日系企業6社の工場22カ所で、大規模なストライキが発生。労使交渉の争いのなかで、同月15日には内外綿株式会社の日本人社員が、中国共産党員の顧正紅を射殺する事態に至った。

一連の事件を受け、学生を中心に抗日気運がさらに高まり、上海では同月24日に死亡した顧正紅の追悼集会などが開かれた。

青島では中華民国政府の警察が出動し、紡績工場でのストライキを鎮圧しようとした。だが、同月29日に警察が労働者に発砲し、8人が死亡、数十人が負傷する事件が発生。日本人従業員も警察の動きに呼応して発砲したと、中国では伝えられている。

上海では同月30日に英米管理下の公共租界で、大規模なデモ行進が展開された。このなかで群衆と公共租界の警察が衝突。100人あまりが逮捕された。すると、逮捕者を救出しようと群衆が動き出し、これに対して英国人の警部が発砲を命令。インド人を含む警察部隊が銃撃を始め、13人が死亡し、40人あまりが負傷した。租界当局は戒厳令を敷き、大学は閉鎖された。

この“五・三〇事件”を受け、6月1日に上海ではストライキや学生の授業ボイコットが展開され、事態の収束まで2カ月以上を要した。

香港政庁の警戒感

孫文の像が立つ広東大元帥府の跡地 黄埔軍官学校の跡地 “五・三〇事件”の影響は全国に拡大。中国を分割している列強諸国への抗議活動に発展した。怒りの矛先は、主に日本人と英国人に向けられた。

この当時の香港の北には、広東省広州を本拠とする広東大元帥府があった。これは北京の北洋政府に対抗するため、1923年3月に孫文が組織した地方政権。ソビエト連邦との協力関係にあり、ロシア人の政治顧問や軍事顧問が送り込まれていた。中国共産党のメンバーも、二重党籍のかたちで中国国民党に加わり、国共合作体制が築かれていた。

孫文は党の軍隊(国民革命軍)の創設を目指し、1924年に黄埔軍官学校を広州に創設。蒋介石が初代校長に就任した。

孫文はストライキ発生前の1925年3月12日に、療養先の北京で逝去。“五・三〇事件”が発生した当時の広東大元帥府は、1925年7月1日に発足する広州国民政府への移行期にあった。

周寿臣
米国留学後に清王朝に出仕
香港に帰郷後、中国人社会のリーダーに
ロバート・ホルムズ・コートウォール
中国名:羅旭和
父はパールシー、母は中国人
戦時中に日本軍に協力
戦後は表舞台から去った

孫科(1950年)は孫文の長男
中華民国で要職を務めた
“五・三〇事件”を受け、広東大元帥府では中国国民党と中国共産党が共同で、抗議活動を各地に呼びかけた。こうした情勢を受け、香港政庁立法局のロバート・ホルムズ・コートウォール議員は、中国人の有力者などを自宅に招き、ストライキが香港に波及することを防止するため、話し合いの席を設けた。

コートウォール議員の自宅に集まったのは、◆東亜銀行の創設に参加した周寿臣、◆香港政庁で中国人事務を担当するデビッド・ウィリアム・トラトマン、◆中国国民党の孫科、◆中国政府の外交担当者で伍廷芳の息子でもある伍朝枢――など。この席でコートウォール議員は、広州のストライキを鎮静化するよう中国国民党の孫氏などに依頼した。

広州・香港の大規模ストライキ

だが、孫氏らによる斡旋は失敗に終わった。1925年6月19日に香港でストライキが発生。海運、電車、印刷工場などの労働者2万人ほどが、香港を離れ、広州に帰郷した。学生も授業をボイコット。その動きは他の業界にも広がり、香港経済は機能停止に陥った。

第十六代香港総督
レジナルド・エドワード・スタブス
こうした事態を受け、第十六代香港総督のレジナルド・エドワード・スタブスは、同月22日に非常事態を宣言し、戒厳令を発動。軍警察と装甲車が出動し、暴動発生の防止に動いた。さらに市民には職場復帰を求め、労災保障金の導入を発表するなど、事態の鎮静化に努めた。

香港政庁は戒厳令を敷く一方、労災保障金を導入するなど、アメとムチの方針を示したが、事態を複雑にするだけだった。広州の沙面島にある英仏租界の付近でも、抗議活動が発生。6月23日には黄埔軍官学校の学生も加わり、10万人あまりが沙面島租界の対岸に位置する沙基(シャーキー)という場所に集まった。

広東省広州で開かれた抗議集会
1925年6月23日
現在の広州市沙面
1859年に英仏共同租界となった人工島

沙基に向かうデモ行進 沙面島租界を警備する英仏軍が群衆と衝突すると、銃声が響いた。どちらが先に発砲したかは不明だが、それを合図に沙面島から英仏軍が銃撃を開始。52人が死亡し、170人あまりが負傷した。この事件は“沙基事件”、あるいは“シャーキーの虐殺”と呼ばれる。

“シャーキーの虐殺”が香港に伝わると、それまで傍観していた人々もストライキに加わり、事態が悪化。25万人ほどが、広州に帰郷したと言われる。

ストライキ委員会の創設と香港封鎖

孫文(左)と廖仲愷(右) 1925年7月1日に発足した広州国民政府では、中国国民党の中央委員を務める廖仲愷が、香港で働く中国人の広州帰郷を支援した。廖仲愷はこの連載の第十二回で紹介した廖承志の父。米国生まれで、香港のクイーンズ・カレッジ(皇仁書院)を卒業し、日本への留学経験もある人物だ。日本では早稲田大学経済予科に入り、中央大学の政治経済科を卒業した。

廖仲愷は留学中に孫文と知り合い、革命に身を投じる。1911年の辛亥革命の後は、中国国民党の重要人物として、広東省を中心に活動していた。廖仲愷の指揮の下、1925年7月6日にストライキ委員会が設けられ、2,000人あまりの労働者武装部隊が香港を封鎖。香港への食糧輸出と香港からの貨物輸入を禁止した。同月8日には13万~14万人とも言われる人々が、香港を去り、広東省に向かった。

この封鎖措置に対抗するため、香港政庁は米、小麦、缶詰食品、石炭、石油、香港ドル、貴金属などの輸出を禁止した。広東省への補給路を断つことが目的だった。広州国民政府と香港政庁の関係は、深刻な緊張状態に陥った。

だが、ストライキ委員会は、全面封鎖の戦略が“もろ刃の剣”であることに気づく。そこで、ターゲットを英国の船舶と貨物に絞り、その他の国については広東省との貿易を許した。

香港政庁の対応

香港政庁はストライキの拡大を防ぐため、英国に忠誠を誓う中国人の登用を始めた。さらにソビエト連邦による扇動を防ぐという名目で、宣伝活動も強化。中国語の新聞、雑誌、郵便物、電報などは、すべで検閲の対象とされた。香港政庁の許可がなければ、出版できない状態となった。

緊張する香港と広東省との関係について、「剣や銃を使わない戦争」とコートウォール議員は形容。「広州国民政府はすでに宣戦を布告しており、銃や毒ガスを使っていないだけだ」と語ったという。

こうしたなか、香港の英国系企業をまとめる香港総商会は、広州国民政府に圧力をかけるよう本国政府に訴えた。1925年7月27日には反ストライキの方針を採択。中国における英国人の権益保護を本国政府に求め、広州国民政府に厳しく警告するよう要請した。

1925年8月に入ると、香港総商会は英植民地省に対し、軍事力による威嚇をベースに、広州国民政府に最後通牒を送るよう要請。広州との貿易を回復させ、ロシア人勢力を駆逐し、中国人の黄埔軍官学校を解散させ、反英活動を停止させることを求めた。英国系企業の怒りは、好戦的な軍人にも劣らなかった。

その一方で香港政庁は、周寿臣など香港の中国人資産家を篭絡し、ストライキの鎮静化を図ろうとした。実際のところ、中国人資産家も個人的な利益から、過激なストライキを望んでいなかった。ただ、大衆世論や広東省との関係を考えると、表立ってストライキへの反対姿勢を示すわけにもいかなかった。

こうした事情のため、香港の中国人資産家は曖昧な態度をとりつつも、密かに香港政庁に協力。労働者や広州国民政府の関係者と面会し、緊張緩和への努力を続けた。

廖仲愷の暗殺とクレメンティ総督の就任

殺害された廖仲愷と家族
一番左が廖承志
こうしたなか、8月20日に廖仲愷が中国国民党の党本部で、暴徒に刺殺される事件が起きた。事件を聞いた蒋介石は、とっさに英国の仕業と思ったが、中国国民党の右派グループが容疑者とされた。ただ、今日でも犯人は不明で、真相は闇の中という。

なお、廖仲愷の息子である廖承志は、父の暗殺事件の後、早稲田大学に入学。戦後は日本とのパイプを築き、1962年には日本と中華人民共和国との貿易を可能とした「日中長期総合貿易に関する覚書」(LT協定)の締結に貢献。その活躍は、この連載の第十二回で詳しく紹介している。

セシル・クレメンティ総督 一方、香港では強硬姿勢を崩さないスタブス総督が、1925年10月31日付で更迭され、中国通として知られるセシル・クレメンティ氏が第十七代香港総督に就任した。

クレメンティ総督はオックスフォード大学で西洋古典学やサンスクリット語を学んだ秀才。1899年には香港政庁の指示を受け、広州で広東語を学び、それまでの最短記録で認定テストに合格。1906年には官話(標準中国語)のテストにも合格するなど、語学に堪能だった。公務の傍ら、文学、歴史、地理などの学識も深めるなど、かなりの教養人だった。

1913年にアジア人で初のノーベル賞(文学賞)を受賞したインドのラビンドラナート・タゴールは、1928年に香港を訪問した際にクレメンティ総督と面会した。クレメンティ総督の知識人としての側面を知ったタゴール氏は、「私が東洋で出会った最も教養ある欧州人だ」と称賛したという。

クレメンティ総督の就任で、香港政庁の強硬な姿勢は緩み、周寿臣などを通じて広州国民政府との交渉に臨む姿勢を示した。ただ、実質的な成果は、なかなか得られなかった。

蒋介石の台頭とストライキの終息

政治顧問ミハイル・ボロディンと蒋介石
(中央右)
北伐前の閲兵式に臨む蒋介石 ストライキが長期化するなか、1926年3月18日に転機が訪れた。蒋介石が校長を務める黄埔軍官学校の沖合に、軍艦「中山」が突然現れた。これを蒋介石は、中国国民党の左派グループと中国共産党の策謀と断定。蒋介石をソビエト連邦に拉致しようとした容疑で、中国共産党の党員やソビエト連邦の軍事顧問などを次々と逮捕した。同月20日には広州に戒厳令を敷いた。

この“中山艦事件”により、蒋介石の中国国民党での地位が、急速に高まった。蒋介石は軍事委員会の主席に就任し、党内の実権を掌握。中国国民党の要職から、中国共産党のメンバーを排除した。国共合作はソビエト連邦の働きかけで、かろうじて続くことになったが、ストライキの支持基盤である中国国民党の左派グループや中国共産党は、勢力を失った。

軍を掌握した蒋介石は、孫文の悲願であった北部への侵攻、すなわち北京の北洋政府を打倒する“北伐”の計画で、頭がいっぱいになった。足元のストライキは、むしろ北伐の妨げとみなした。

香港政庁は広州国民政府に起きた権力構造の変化を察知。対話路線を取り止め、広州への交渉団派遣を見送った。早急にストライキを終息させたいという蒋介石の思惑を見抜き、下手に出るべきではないと判断した。

このためストライキ委員会の方から話し合いを求めることになった。ただ、香港政庁に足元を見られ、譲歩を引き出せず、双方の溝は埋まらなかった。

こうしたなか、7月からの北伐に成功した蒋介石は、江蘇省南京に遷都する意向を固め、ストライキの継続は不可能となり、終息に向かった。広州国民政府は1926年10月10日に香港の封鎖を解除し、ストライキ委員会を解散。この約16カ月に及んだ大規模ストライキは、“省港大罷工”(しょうこうだいひこう)という名で語り継がれている。

ストライキ終息後の香港と広東省

ストライキは終息したが、香港と広東省の関係は、すぐには回復しなかった。交流再開は民間企業の往来にとどまり、政府間交流には時間を要した。高官の交流が実現したのは1928年3月。広東省の李済深・主席が香港を訪問し、クレメンティ総督と面会。李主席は香港で熱烈な歓迎を受けた。

それから数日後にクレメンティ総督が広東省を訪問すると、同様の歓待を受けた。こうして香港と広東省の関係は正常化に向かった。

なお、クレメンティ総督は1925年11月に、ストライキの鎮静化に向けて奔走した周寿臣を香港政庁・行政局に入閣させた。香港で中国人が行政局議員に選ばれるのは初めてであり、中国人社会からの好感を得た。こうした措置も、香港社会のムード改善に一役買った。

香港政庁の中国人政策

香港に波及した大規模ストライキの原因について、香港政庁はソビエト連邦による扇動のせいにした。ただ、中国人の有識者や一般市民に加え、香港政庁の公務員までが職場を離れたことから、そんな単純な話ではないことは明白だった。

香港政庁で働く中国人が、自らの収入や前途を顧みずに職場を離れたという現実について、コートウォール議員は不思議に思うばかりで、答えを出せなかったという。

第八代香港総督のジョン・ポープ・ヘネシー卿の時代から、香港政庁は中国人エリートを篭絡する政策を採用していたが、それは政治的な“お飾り”にすぎなかった。中国人に対する蔑視が残り、一般市民の声はまったくと言っていいほど無視された。そうした中国人の怒りがストライキで明らかとなり、それは英国人の想像を超えていた。

1925年のペダー・ストリート(畢打街) こうしたなか中国通のクレメンティ総督が就任すると、ヘネシー総督の政治手法が再現され、中国人エリートを香港政庁の行政局や立法局の議員として引き込む政策が採用された。

さらに中国人の民生にかかわる政府部門が設けられ、大学では中国語学科を増設。中国人に対する政策が改善された。こうして香港政庁はストライキの傷を癒し、統治レベルを強化。これが長期的な香港の発展につながっていった。

香港経済への影響

16カ月に及んだストライキは、香港経済の幅広い産業に深刻な打撃を与えた。大部分の企業や工場から人の姿が消え、生産やサービスの活動が停止。損失について香港政庁は具体的な金額を明らかにしていないが、当時の新聞をみると損失の甚大さがうかがえる。

1925年12月16日付「タイムズ」は香港股份総会の話として、香港の経済損失は5億香港ドルに上ると伝えている。ストライキで先行き不透明感が広がり、銀貨が欠乏したため、多く企業は銀行から借り入れることができなかった。仮にできたとしても、高い金利を支払うことになり、それによるコスト増で間接的な損失を被った。こうした損失は上記の金額には含まれないという。

広州国民政府による香港封鎖で、貿易額も急減した。香港の食糧、燃料、日用品などは、大部分を広東省からの輸入に頼っていたからだ。一方、広東省は香港経由で医薬品、衣類、皮革、機械、設備を輸入しており、これが止まることは大打撃となった。

1926年のクイーンズ・ロード(皇后大道) ストライキ発生前の1924年は、貨物重量ベース(以下、同じ)で3,547万トンだった香港の貿易規模だが、1925年には2,972万トンに減少。1926年には2,698万トンまで落ち込んだ。

金融への影響

金融への影響も甚大だった。ストライキの初期段階で、巨額の資金が香港から引き揚げられた。1925年6月になって、香港政庁は資金の流出が深刻であることに気づき、預金封鎖に乗り出した。さらに銀行による支払いを一時停止させ、取り付け騒ぎを未然に防いだ。

さらに資金の自由な移動を見直し、通貨と貴金属の移転に対する管制を強化。銀行はなんとか営業を続けることができたものの、資金がひっ迫している状況に変化はなく、多くの企業で資金繰りが悪化した。

こうした状況を受け、スタブス総督は香港の危機を英植民地省に訴えた。コートウォール議員の試算によると、通貨と貴金属の移転に対する管制が実施される前に、すでに1,600万香港ドルに上る資金が流出。うち1,000万香港ドルが広東省を中心とする華南地域に流れた。さらに400万香港ドルがタンス預金に回った。

香港経済が順調に動くには、4,000万香港ドルの資金が銀行間で流動している必要があった。だが、コートウォール議員の試算では、華南地域への資金流出やタンス預金の急増を背景に、流動している資金は2,500万香港ドルに減少しており、経済活動を支える力を失っていた。

こうした流動資金の不足を補うため、香港政庁は300万ポンドに上る支援を本国政府に要請。だが、英国の国会は議論ばかりで、決定が遅れた。支援が決まったのは、ストライキが終息した後の1927年5月。すでに香港経済は自力で回復していた。

香港経済の回復は速く、1927年の貿易規模は3,379トンで、1929年にはストライキ前を上回る3,686万トンに達した。回復の速さを見ると、ストライキは香港の政治、社会、経済、金融、貿易に大きな影響を及ぼしたが、それは一時的なものであったことがうかがえる。ストライキの影響は、参加者が想像するほど効果をあげたわけではなかった。

ストライキ前後の株式相場

この連載の第三十五回でも紹介したが、実体経済に比べ、金融経済は世界情勢の不安定化に弱いという特徴がある。ストライキの発生と広州国民政府との緊張関係は、香港の株式市場を窮地に追い込んだ。

ストライキ発生前の香港株式市場では、第一次世界大戦からの復興がテーマとなり、その関連銘柄が買われ、相場をけん引していた。こうしたなか、中国本土が軍閥割拠の状態に陥ると、広東を中心とした華南地域の資産家などは戦火を避けるため、一族を率いて香港に逃れた。

資産家が流入したことで、香港の資金は潤沢となった。余剰資金が株式市場に流れ込み、多くの株価を押し上げると、投機的な売買が横行するようにった。

ストライキの予兆が出始めると、先見の明を持った投資家は、相次いで保有株を売却。大部分の銘柄が軟調となった。続いてストライキが発生すると、ろうばい売りが広がり、株価が急落。さらに銀行の資金繰りが悪化し始めると、借金で株式を購入していた投資家は、取引解消のために保有株の売却を迫られ、株価は一段と下落した。

株式取引所の閉鎖

ストライキを受けて香港政庁が戒厳令を敷くと、香港を代表する株式仲介人の組織である香港股份総会(Hong Kong Stock Exchange)は、1925年6月23日から取引所を一時閉鎖すると発表した。同日からすべての取引を一時停止し、6月中に必要な決済は1925年7月7日まで延期。これに他の取引所も同調した。

混乱が短期間で終息しなかったことから、決済はさらに延期され、1925年7月14日とされた。香港政庁も決済延期に関する特別法を制定し、取引所の措置を法的に裏づけた。さらに一時停止となった決済については、年利8%の利息で補償することも定めた。

1930年代の香港股份総会会員
ほとんとが西洋人
だが、ストライキが終息しなかったことから、決済は7月21日に先送りされ、さらに7月28日に延期。取引所が一向に再開しないことから人々の不満が強まり、スタブス総督は危機感を覚えた。こうした不満を和らげるため、1925年8月14日に香港政庁は、調査委員会の設立を公表。株価の急落や取引所の閉鎖などについて、調査を進める方針を示した。

2カ月あまりの聞き取り調査などを経て、1925年10月22日に報告書がスタブス総督と立法局に提出された。ただ、報告書は株式市場の混乱や取引所の閉鎖について、責任の所在を明らかにせず、香港政庁は証券業界に直接介入すべきではないと意見するにとどまった。

未曽有の取引所閉鎖をめぐり、香港の世論は賛否が分かれた。もっとも、この当時は香港政庁が新聞を検閲していたため、過激な意見は発表できない状況にあった。取引所閉鎖の問題は“腫物”のように扱われ、誰も触れようとしなかった。

投資意欲の低迷

調査委員会の提案により、株式取引は1925年10月24日に再開したが、人々の投資意欲は大きく落ち込んでいた。1925年12月2日付の新聞によると、株式仲介人は開店休業の状態。ストライキが収束せず、投資家は模様眺めだった。

香港電話(ホンコン・テレフォン)の目論見書
赤枠の部分に周寿臣の名が残っている
こうした株式市場の低迷を打破しようと、キャチック・ポール・チャターや周寿臣などの財界有力者は、1925年12月11日に香港電話(ホンコン・テレフォン)の株式公開を発表。株式市場に香港電話という“カンフル剤”を打つことで、相場を盛り上げようと画策した。

思惑通りに、香港電話の新株を購入しようと、多くの投資家が名乗りを上げた。1925年12月16日付の新聞によると、申込者が銀行に殺到。多くが中国人だったという。

香港電話の株式公開は大成功だったが、株式市場全体のムードを好転させるには至らなかった。取引所と株式仲介人の苦境は続いた。

クレメンティ総督は1925年12月19日付で英植民地省に送った書簡で、次のように報告している。

“香港股份総会によると、6月の株価急落と取引所の閉鎖は、株式仲介人に大きな打撃を与えた。こうした現状を新聞メディアに知られてはならない。知られると、ストライキを助長しかねないからだ”

1926年に入ると、有力銀行がロンドンの銀貨を香港に移転。これにより、銀行の資金繰りが改善した。広州国民政府と香港政庁の歩み寄りが伝わると、株式市場のムードもやや好転。もっとも、株価は下げ止まったが、積極的な買いも続かず、相場は膠着状態にとどまった。株式市場の本格的な回復は、ストライキの終息を待つしかなかった。

ストライキ終息後の株式市場

代表的な香港上海匯豊銀行(HSBC)の株価をみると、1925年5月末には1,300香港ドルを付けていたが、ストライキが発生すると、一気に1,000香港ドルの大台を割り込んだ。

取引所が再開すると、ストライキが続いていたため、1,000香港ドル付近で徘徊。ストライキが終息すると、1926年の末には1,120香港ドルに回復した。香港経済の回復にともない、HSBCの株価も堅調に推移。1928年末には1,300香港ドルに乗せた。

1929年10月に米国ウォール街の株価が大暴落すると、その影響は欧州各国にも波及した。米国の株価大暴落の影響は香港にも及んだが、ストライキから完全には立ち直っておらず、商いもそれほど膨らんでいなかったことから、欧州ほどの混乱には至らなかった。

株価急落を受け、ニューヨーク証券取引所に集まる人々 こうした状況を背景に、HSBCの株価は堅調に推移し、1929年末は1,330香港ドルを付けた。この株価の動きを見た投資家や株式仲介人は、香港の株式市場が海外の影響を受けることはないと錯覚した。

ウォール街の株価大暴落は、世界恐慌へとつながっていった。香港の貿易額は急減し、1930年は前年に比べ24%減の2,791万トンに落ち込んだ。この年は香港でも銀行の取り付け騒ぎが発生。いくつかの銀行が倒産に追い込まれた。HSBCの株価は1930年末に1,760香港ドルを付けていたものの、その後は下落に向かう。

1930年代の後半になると、経済の衰退と銀行の経営危機を背景に、香港の投資家の投資意欲が減退。株式市場の商いも閑散となり、株価は低迷した。中国本土では日本軍の侵攻が拡大し、やがて香港も巻き込まれていく。次回は戦時中の香港経済と株式市場について解説する。

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は2/5公開予定です。お楽しみに!

 
バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 38. 香港の戦後復興と株式市場 NEW!
  3. 37. 日本統治下の香港
  4. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  5. 35. 香港株式市場の草創期
  6. 34. 株式バブルと香港西洋人社会の利害対立
  7. 33. ヘネシー総督の時代
  8. 32. 香港株式市場の黎明期
  9. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  10. 30. 通貨の信用
  11. 29. 香港のお金のはじまり
  12. 28. 327の呪いと新時代の到来
  13. 27. 地獄への7分47秒
  14. 26. 中国株との出会い
  15. 25. 呑み込まれる恐怖
  16. 24. ネイホウ!H株
  17. 23. 中国最大の株券闇市
  18. 22. 欲望、腐敗、流血
  19. 21. 悪意の萌芽
  20. 20. 文化広場の株式市場
  21. 19. 大暴れした上海市場
  22. 18. ニーハオ!B株
  23. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  24. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  25. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  26. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  27. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  28. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  29. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  30. 10. 経済特区の株券
  31. 09. “百万元”と呼ばれた男
  32. 08. 鄧小平からの贈り物
  33. 07. 世界一小さな取引所
  34. 06. こっそりと開いた証券市場
  35. 05. 目覚めた上海の投資家
  36. 04. 魔都の証券市場
  37. 03. 中国各地の暗闘者
  38. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  39. 01. 中国株の誕生前夜
  40. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 38. 香港の戦後復興と株式市場 NEW!
  3. 37. 日本統治下の香港
  4. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  5. 35. 香港株式市場の草創期
  6. 34. 株式バブルと香港西洋人社会の利害対立
  7. 33. ヘネシー総督の時代
  8. 32. 香港株式市場の黎明期
  9. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  10. 30. 通貨の信用
  11. 29. 香港のお金のはじまり
  12. 28. 327の呪いと新時代の到来
  13. 27. 地獄への7分47秒
  14. 26. 中国株との出会い
  15. 25. 呑み込まれる恐怖
  16. 24. ネイホウ!H株
  17. 23. 中国最大の株券闇市
  18. 22. 欲望、腐敗、流血
  19. 21. 悪意の萌芽
  20. 20. 文化広場の株式市場
  21. 19. 大暴れした上海市場
  22. 18. ニーハオ!B株
  23. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  24. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  25. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  26. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  27. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  28. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  29. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  30. 10. 経済特区の株券
  31. 09. “百万元”と呼ばれた男
  32. 08. 鄧小平からの贈り物
  33. 07. 世界一小さな取引所
  34. 06. こっそりと開いた証券市場
  35. 05. 目覚めた上海の投資家
  36. 04. 魔都の証券市場
  37. 03. 中国各地の暗闘者
  38. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  39. 01. 中国株の誕生前夜
  40. 00. はじめに

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