コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

株式バブルと香港西洋人社会の利害対立

2019.11.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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1880年代の香港では、初期に住宅バブルが起き、終盤では株式バブルが発生した。住宅バブルで損したのは主に中国人であり、西洋人への悪影響が少なかったことから、香港政庁は傍観するにとどまった。一方、株式バブルでは西洋人同士の利害が対立し、株券売買をめぐる論争に発展。香港の西洋人社会は分断され、香港政庁や本国政府を巻き込み、激しく対立するに至った。

貿易と金融市場の成長

商船が停泊する香港のビクトリア湾(1880年代) 1880年のクイーンズ・ロード(皇后大道) 1880年代の香港は貿易額が急成長。こうしたなかで金融市場も拡大した。欧州系銀行の受入預金を例に挙げると、1879年9月末は707万香港ドルだったが、1889年9月末には3.4倍の2,388万香港ドルに達した。中国系銀行の発展も目覚ましく、1889年9月末の受入預金は欧州系銀行の約63%に相当する1,500万香港ドルに達していた。

紙幣と銀貨(銀元)の流通量も、大幅に増加した。1879年9月末は478万香港ドルだったが、1889年9月末には1.9倍の910万香港ドルに達した。

貿易と金融の成長にともない、香港の株券売買も活気を帯びた。1887~1889年には農業、鉱業、製造業の有限責任公開会社(公開会社)が、相次いで株式発行による資金調達を実施。預金の増加を背景に、人々はますます余剰資金を株券売買に投じるようになった。

新しいタイプの公開会社

一般投資家による株券売買の対象となるのは、公開会社に限られている。その数は1887年1月末の29社から、1889年12月末には約2倍の57社となった。その時価総額も1879年9月末の3,938万香港ドルから、1889年9月末の6,392万香港ドルに増加し、1.6倍に成長とした。

公開会社が“雨後の竹の子”のように誕生した背景には、香港経済の総合的な実力向上があった。新たに設立された公開会社の業種をみると、それがよく分かる。1880年代中頃までは、保険、海運、倉庫、埠頭などの公開会社ばかりだったが、それが不動産、金融、鉱業、製糖、プランテーション、ホテル、電力、セメント、家具などに広がった。

香港以外で事業展開する公開会社も増加した。例えば、鉱業とプランテーションを手掛ける公開会社の経営実体は、東南アジアの植民地に多い。新しいタイプの公開会社は、喧伝する事業規模がますます大きくなり、1件あたりの資金調達額も年々膨らんだ。

1888~1889年にかけて香港の公開会社は、株価の上昇が続いた。古くからの公開会社は、安定した配当に裏付けられるかたちで、株価も年々上昇。一方で、新しいタイプの公開会社の多くは、株価を裏付ける業績を欠いていた。その株価の上昇は、漠然としたイメージや怪しげな情報によって演出されたものだった。

特に東南アジアなどの遠隔地で事業展開する公開会社などは、その実情は香港から目が届きにくく、悪い情報(悪材料)が握り潰されることもあった。“金鉱発見”などの良い情報(好材料)も、ウソであることが多かった。

ウソの好材料が撒かれると、それを信じ込んだ人々が一斉に株券を買い漁り、株価が急騰。ウソの好材料を撒いた張本人は、株価が上昇したところで、株券を売り払う。やがて、ウソがばれると、人々は急いで株券を売り払い、株価が急落。高値を掴んだ大勢の投資家が、悲惨な目に遭った。当時の香港は、こうした“風説の流布”が横行していた。

株価の乱高下

ホルムジー・ナオロジー・モディ
インドのゾロアスター教徒であるパールシー
香港大学の創設で巨額の資金を寄付した
1889年に入ると、株券の売買で大儲けした投資家の話が巷にも広がり、資産運用に関心を示す人々が増加した。やがてアヘン商人のホルムジー・ナオロジー・モディ氏が株券の売却で、12万香港ドルに上る大金を儲けたという話が伝わると、人々の投機心に火が付いた。さまざまな業種の株券が買い漁られ、株価が大きく変動した。

最初に大きく動いたのは、スチーム・ローンチ(蒸気航運公司)の株価だった。この会社は3隻の中古蒸気船しか所有していない小さな船会社。1888年12月末の株価は、額面の50香港ドルに対して-20%(40香港ドル)だった。

だが、1889年1月になると急騰し、同月末には+75%(87.5香港ドル)となった。短期間での大幅高を受け、同月24日の新聞も取り上げた。記事によると、業績が改善するどころか、ますます悪化している会社なのだが、株価が急騰するという不思議な現象が起きているという。これで利益を得たのは、投機行為に加わった中国人と伝えた。

このように原因不明の株高と指摘されたが、スチーム・ローンチの株価は上昇を続け、同年2月末には+150%(125香港ドル)となり、同年3月末には+400%(250香港ドル)をつけた。

しかし、4月に入ると株価は急落し、同月末には+50%(75香港ドル)に沈んだ。3月末の株価で購入した人は、目も当てられぬほどの損失を被った。

こうした株価の急騰と急落は、スチーム・ローンチだけにとどまらなかった。スチーム・ローンチの株価が急落した後、今度は他の公開会社の株価が急騰し、短期間で急落した。新しいタイプの公開会社だけではなく、香港上海匯豊銀行(HSBC)など昔からの銘柄も、株価の乱高下に巻き込まれた。

ルールなき株式売買

1906年のHSBCの株券
25株分の額面3,125香港ドルが書き込まれている
株価が乱高下するなか、株券売買をめぐっては、前述のような風説の流布が横行していたが、問題はそれだけではなかった。ある時点の株価を尋ねても、株式仲介人(ブローカー)によって返事はまちまち。つまり、一つであるべき株価も、混乱していた。

株券の受渡・決済期間も問題だった。売買の契約を交わしても、実際に株券と現金を交換するまで長い期間があり、その間に株価が大きく変動すると、損する側がさまざまな理由をつけて受け渡しや決済を拒否した。

裁判でも「あれは冗談だったのに、原告が本気にした」というような被告の反論すらあった。なんとも面の皮が厚い話だが、このケースでは売買交渉の際に残したメモが証拠となり、原告が勝訴した。

新聞の報道も、株式バブルを煽った。投機家などが好材料を新聞に流すと、株価は面白いように上昇した。好材料の真偽は不明だが、新聞に掲載されてしまうと、その影響力は大きい。株価が上昇したすきに、投機家は売り抜け、好材料に釣られた人々が損失を被った。

過度な投資に手を染めていた人は、債務返済が滞り、破産に追い込まれた。なかには、自殺に追い込まれた人もいたという。株価の乱高下によって起きた悲劇に、香港社会は震撼した。

こうした状況だったことから、株券売買に関する訴訟が多発。裁判を通じて、株式仲介人の不誠実な契約不履行や顧客との利益相反、企業関係者による内部者取引(インサイダー取引)や相場操縦などの悪事も明るみとなった。

規制を求める世論

1880年代初期の住宅バブルでは、少数の西洋人が政府筋の情報を掴み、勃興したばかりの中国人資産家に打撃を与えた。一方、1880年代末の株式バブルでは、少数の企業関係者が内部情報を使い、株式仲介人と結託して相場を動かし、西洋人を含む幅広い一般投資家に損失を与えた。香港社会全体の利益が損なわれ、株式投資への信頼を失った。

ジャームズ・ジョンストン・ケズウィック “フリートレード”という名目で、賭博のような投機的売買が横行し、こうした状況を懸念する世論が高まり、株券売買の不法行為を法制度の整備で取り締まるべきと新聞も主張するようになった。

一方、既得権益集団は“フリートレード”という美名を盾に、株券売買をめぐる利権を守ろうと画策。自主規制機関の設立で十分に対応できると主張し、法制度を整備させないよう目論んだ。

だが、自主規制という既得権益集団の主張は、世論の支持を得られなかった。実際に香港には世界各地から一儲けを狙った投機家が集まり、賭博感覚の株券売買が横行していたからだ。「利己的で規律を失っている既得権益集団が、自主規制なんてできるものか!」という声は日増しに高まった。

そこで立ち上がったのが、香港政庁の立法局で非オフィシャル議員(民間議員)を務めるジャーディン・マセソン商会のジェームズ・ジョンストン・ケズウィック(JJケズウィック)だった。香港政庁も法制度の整備に前向きだったが、JJケズウィック氏が先に動いた。

ジャーディン・マセソン商会のケズウィック家

ウィリアム・ケズウィック
日本で伊藤博文などの留学を支援した
スコットランドをルーツとするケズウィック家は、巨大コングロマリットのジャーディン・マセソン・ホールディングスを支配する名家。今日でも香港を拠点に活動し、現地で大きな影響力を有している。

ケズウィック家とジャーディン・マセソン商会との縁は、ウィリアム・ケズウィックがウィリアム・ジャーディンの姪と結婚したことに始まる。ジャーディンも同じスコットランドをルーツとする家族だ。

ウィリアム・ケズウィックは1855年に香港に到着。1859年にはジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)を設立するなど、幕末の日本でも活躍した。

JJケズウィック氏はウィリアム・ケズウィックの弟。1870年代に香港に移住し、1890年代はジャーディン・マセソン商会を経営する傍ら、香港政庁の立法局で非オフィシャル議員を務めた。非常に礼儀正しく、“ジェームズ・ザ・ブラディー・ポライト”(非常に礼儀正しきジェームズ)という異名を持っていた。

大英帝国を揺るがす草案

キャチック・ポール・チャター(1924年)
1880年代に九龍倉や香港置地を設立
JJケズウィック氏は1890年7月21日に開かれた立法局の会議に、個人で作った草案を提出。法律を改正し、賭博的な株券売買を抑制するよう求めた。これにキャチック・ポール・チャターも賛同。草案は立法手続きを踏むことになった。

ちなみに、JJケズウィック氏とチャター氏は、1886年に共同で“九龍倉”と呼ばれる港湾荷役会社を設立。この会社は今も香港に上場しており、九龍倉集団有限公司(ザ・ワーフ・ホールディングス)の名で知られる。

JJケズウィック氏が提出した草案は、株券売買の契約履行前、つまり受渡・決済前の転売行為を規制する内容。これは1860年代に英下院に提出された通称「リーマン法案」を手本としていた。「リーマン法案」では銀行の株券を売買するケースについて、受渡・決済が完了する前に転売することを制限していた。

株券売買の受渡・決済の期間が長すぎることが、投機家に付け込まれる原因になっているとJJケズウィック氏は指摘し、この草案で問題が解消できると考えていた。

草案が提出されると、大きな反響を呼んだ。投機抑制に賛同していた議員たちは、JJケズウィック氏に賛成。「株券売買の法律制定や契約の法的保障確立が実現していない状況下で、JJケズウィック氏の草案は、株価の変動にともなう契約無視の問題を阻止できる」と同調した。

一方の反対派は、「香港政庁の立法権は、宗主国の法律を超越してはならない。これでは法理に合わない。香港政庁が市場に干渉することに至っては、我々の利益を損ない、フリートレードという香港の伝統を破壊する行為である」と声を荒げた。

草案提出の影響は、香港にとどまらなかった。香港政庁が「リーマン法案」の採用を検討しているという情報は、英領インドにも伝わった。もしJJケズウィック氏の草案が可決されれば、ロンドン以外の大英帝国圏内では初めての「リーマン法案」の採用であり、英領インドのボンベイ政庁も追随するという姿勢を示した。

草案をめぐる対立と証券取引市場の創設

植民地省大臣
ヘンリー・サースタン・ホランド
初代ナッツフォード子爵
この草案の影響が大きいことから、香港のフランシス・フレミング代理総督は最初の審議が行われた後、1890年9月2日に英植民地省のヘンリー・サースタン・ホランド大臣(ナッツフォード子爵)に書簡を送り、JJケズウィック氏の草案とその背景について説明した。また、公正を期すために、反対派の意見も補足。この草案が契約の自由度を狭め、商業貿易に影響が及ぶ懸念があるとも伝えた。

その2週間後にはJJケズウィック氏の書簡をフレミング代理総督がホランド大臣に転送。その内容によると、受渡・決済期間が長すぎるため、投機家がこれに付け入り、HSBCの株価さえも操作されている。香港の法制度は緩すぎであり、少数の株式仲介人や企業関係者が法律の抜け穴を利用し、私利私欲を貪り、幅広い投資家の利益を侵害し、信頼を損なっていると強調した。

こうした動きに不満を示したのが、株式仲介人だった。彼らは香港政庁に圧力をかけ、草案の審議は理由も明かされないまま、先送りが続いた。さらに一部の株式仲介人は力を結集して草案に反対するため、1891年3月2日に香港股票経紀会(The Sharebrokers’ Association of Hong Kong)を設立。香港ではこの日をもって、正式な証券取引市場の創設日としている。

つまり、香港の証券取引市場は、売買規制への反対から生まれたのだった。

立法局での争い

中国人代表として議員を務めた何啓
医師であり、法廷弁護士でもあった
中国人として初めて叙勲され、サーの称号を得た
啓徳空港の地名は、何啓と区徳(長男の義父)に由来
「非オフィシャル議員たちの賛同を得るべし」――。これがフレミング代理総督の書簡に対するホランド大臣の回答だった。これを受け香港政庁は、すべての非オフィシャル議員からの支持を得なければならないと考え、各人の見解を探った。

その当時の非オフィシャル議員は5人。JJケズウィック氏とチャター氏のほかは、ターナー商会のフィニアス・ライリー、中国人代表の何啓、香港総商会の会頭を務めるチャータード銀行のトーマス・ヘンダーソン・ホワイトヘッドの3人だった。

香港政庁が見たところ、このなかで明確に反対しそうなのは、株式仲介人の多くが所属する香港総商会のホワイトヘッド氏。彼を説得するのは、非常に難しそうだった。すでに香港総商会は草案に反対の姿勢を明確に打ち出していたうえ、その政治的影響力も大きかったからだ。

ところが、2回目の審議に入ろうとした時、ホランド大臣からの新たな指示が、香港政庁に届いた。「多数の議員の賛同が得られれば、それで良い。満場一致は求めない」という内容だった。大臣の姿勢が大きく転換したことを受け、香港政庁は大いに勇気づけられた。

香港礼賓府(ガバメント・ハウス)
昔の香港総督府であり、立法局会議の開催場所
最初の審議から1年近く経った1891年6月19日に、ようやく草案の2回目の審議が始まった。香港股票経紀会は法廷弁護士を立法局に特別招聘。この草案が契約の原則、大英帝国における法の精神、香港のフリートレードの伝統に反すると、法廷弁護士は強調。そのうえで株式市場の関係者の利益を損なうだけではなく、投機抑制の解決にもつながらないと主張した。

これに対してJJケズウィック氏は、草案の法律化で投機は抑制される一方、正当な取引は何の影響も受けないと反論した。さらに、議論は十分に尽くされており、すぐに採決に入るべきと主張した。

だが、ホワイトヘッド氏は香港総商会が反対の立場にあることを再び強調し、株式市場に過度な投機行為が存在するかは、調査委員会を設立して調べるべきと提案した。しかし、この提案に香港政庁のオフィシャル議員(官僚議員)が反対。そもそも香港政庁に調査を行う法的義務はなく、調査委員会の設立は不要と反論した。

議論は平行線をたどり、立法局は休会を宣言した。だが、議員の対立は激しく、立法局から新聞紙面に舞台を移して、双方の舌戦が交わされた。

立法局の会議が再開されたのは1891年7月3日。この席で香港政庁は、草案の不明確な部分について説明。株式仲介人の不安解消に努めた。

売買契約書に氏名とコード番号を記入する規定について、香港股票経紀会は懸念を示していた。氏名とコード番号に記入漏れがあれば、刑事罰になるという不安があったからだ。

これについて香港政庁は、記入漏れの契約は法的効力を失うだけであり、刑事罰になるのは故意に虚偽の情報を書き込んだ時だけと明言した。これで双方の溝は大幅に狭まった。

2週間後の7月17日に開かれた立法局の会議では、法律の発効日や罰則などの具体的事項が話し合われ、大きな意見の対立は生じなかった。こうして2回目の審議は全員賛成で採決され、3回目の審議に入ることになった。

ジョージ・ディグビー・バーカー代理総督 3回目の審議は、7月24日に始まった。誰もがスムーズに採決されると思っていたが、急にターナー商会のライリー氏が、草案を差し戻し、再検討すべきと提案した。これにホワイトヘッド氏も同調。だが、ほかの議員は時間の浪費と考えており、ライリー氏の提案は賛成2人、反対8人で否決された。 

しかし、ホワイトヘッド氏は3カ月の時間を設け、一般からの意見を募集すべきと提案。これを聞いたジョージ・ディグビー・バーカー代理総督は、さらに採決を延長することはできないと警告。ホワイトヘッド氏の提案は丁重に無視された。

そこでバーカー代理総督は草案の採決を実施。賛成は9人で、反対はホワイトヘッド氏1人だけだった。こうしてJJケズウィック氏の草案は法律となり、1891年10月1日に発効することになった。

既得権益集団の抗議書

JJケズウィック氏の草案は法律となったが、既得権益集団の抵抗は止まらなかった。香港股票経紀会をはじめとする香港総商会は、大々的な署名活動を展開し、抗議書を植民地省とビクトリア女王に転送するようバーカー代理総督に迫った。

この要望を受け、バーカー代理総督は抗議書をホランド大臣に転送。さらに代理総督としての見解、JJケズウィック氏の分析、香港の主要新聞の報道や社説などを添えた。公正を期すための処置だった。

ロンドンに送られた抗議書では、JJケズウィック氏の草案がフリートレードの伝統を損なうものであると説明し、「女王陛下が御承認あそばせば、われらの香港植民地におけるビジネスが干渉され、深刻な利益侵害を受けることになります」と訴えた。

さらに審議は非オフィシャル議員全員の賛成を得たものではないと強調し、反対の声にも耳を傾けるべきと主張した。

また、JJケズウィック氏の草案は、英国国会の権威に対する挑戦であると、法理の面でも訴えた。本国のリーマン法案は銀行の株券だけを対象としているが、香港ではJJケズウィック氏の草案によって、すべての株券に適用される。これは宗主国の法律を超越しており、英国の司法制度に悪影響を及ぼすと懸念を示した。

最後に抗議書では、香港の株式市場にそもそも過度な投機や人々への悪影響は存在していないと主張。株価の騰落は自由な経済活動で普通にみられる現象であり、政府が法規制する必要はなく、“神の見えざる手”に任せるべきだと締めくくった。

抗議書をめぐる論争

バーカー代理総督は抗議書が訴える内容について、自ら反論はせず、その役割はJJケズウィック氏や賛成派のアヘン商人であるエマニュエル・ラファエル・ベリリオス、それに新聞に任せることにした。

エマニュエル・ラファエル・ベリリオス
コルカタ出身のユダヤ人商人で慈善家
反論を彼らに任せたバーカー代理総督は、抗議書に署名した会社、団体、個人の背景を分析した。その結果、西洋人の署名は115で、中国人の署名は33。うち英国系銀行は2行だけ。香港最大手のHSBCの署名はなかった。また、会社を見ると、英国系企業はほとんどがジャーディン・マセソン商会に追随し、JJケズウィック氏の草案に賛成だった。抗議書に署名した銀行は、多くがドイツ人やペルシャ人が設立したものだった。この結果を見て、バーカー代理総督は一安心した。

抗議書の内容が公表されると、署名した会社、団体、個人は新聞に批判された。JJケズウィック氏の草案に反対していた既得権益集団は抵抗を試みたが、それにJJケズウィック氏やベリリオス氏は逐一反論。それから1カ月ほどして、バーカー代理総督は香港の新聞記事をホランド大臣に送付した。

ホランド大臣はJJケズウィック氏の草案について、法制度化のプロセスに問題はないと判断。だが、反対派に配慮し、新しい法律は1年間ほど試験運用し、その成果を見たうえで、1892年9月に再び協議するという結論を下した。この結論は賛成派と反対派の双方を満足させ、JJケズウィック氏の草案をめぐる騒動は、ひとまず沈静化した。

英勢力圏に波及

1880年代のボンベイ政庁 女王即位50周年を祝う上海の英租界(1887年) ホランド大臣は1892年9月に再び協議すると明言したものの、それが実施されることはなく、「JJケズウィック氏の草案は効果的に株式投機を抑制した」と公文書に書き込むだけに終わった。なぜなら、異論を挟む余地なく、JJケズウィック氏の草案は投機抑制に効果的だったからだ。

JJケズウィック氏の草案は、大英帝国の各地に影響を与え、英領インドのボンベイ政庁も株券売買手続きの引き締めに乗り出した。

それから20年以上が経ち、上海など中国の英国租界でも株券売買をめぐる投機熱が広がっていたが、それらを沈静化するため、英外務省は香港政庁にJJケズウィック氏の草案をめぐる経験を諮問。その効果を確かめたうえで、中国における英国の勢力圏内で、1915年に同様の法律を施行した。

2つのバブルと香港政庁の対応

1880年代の初期に起きた住宅バブルと終盤で発生した株式バブルを比較すると、大きな違いは世論を二分する論争の有無にあるだろう。住宅バブルで損害を被ったのは主に中国人であり、香港政庁を動かすには至らなかった。

一方、株式バブルでは多くの西洋人が巻き込まれ、利益を得た者がいれば、損失を被った者もいた。西洋人同士で利益の衝突が起きたわけで、香港政庁も動かざるを得なかった。

つまり、香港に住む中国人の政治的立場は、この程度のものだった。JJケズウィック氏の草案をめぐる論争で、中国人はどちらかと言えば蚊帳の外に置かれており、対岸の火事を眺めているだけだった。

この論争が起きた1891年は、英領香港の発足50周年という記念すべき年だった。JJケズウィック氏の草案をめぐる争いなかで創設されたのが香港股票経紀会であり、それは証券取引市場の正式な誕生を意味した。次回は香港股票経紀会について解説する。

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は12/5公開予定です。お楽しみに!

 
バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 34. 株式バブルと香港西洋人社会の利害対立 NEW!
  3. 33. ヘネシー総督の時代
  4. 32. 香港株式市場の黎明期
  5. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  6. 30. 通貨の信用
  7. 29. 香港のお金のはじまり
  8. 28. 327の呪いと新時代の到来
  9. 27. 地獄への7分47秒
  10. 26. 中国株との出会い
  11. 25. 呑み込まれる恐怖
  12. 24. ネイホウ!H株
  13. 23. 中国最大の株券闇市
  14. 22. 欲望、腐敗、流血
  15. 21. 悪意の萌芽
  16. 20. 文化広場の株式市場
  17. 19. 大暴れした上海市場
  18. 18. ニーハオ!B株
  19. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  20. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  21. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  22. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  23. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  24. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  25. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  26. 10. 経済特区の株券
  27. 09. “百万元”と呼ばれた男
  28. 08. 鄧小平からの贈り物
  29. 07. 世界一小さな取引所
  30. 06. こっそりと開いた証券市場
  31. 05. 目覚めた上海の投資家
  32. 04. 魔都の証券市場
  33. 03. 中国各地の暗闘者
  34. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  35. 01. 中国株の誕生前夜
  36. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。