コラム・連載

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」

上海証券取引所のドタバタ開業

2018.4.5|text by 千原 靖弘(内藤証券中国部 情報統括次長)

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上海市長だった朱鎔基は1990年内に上海証券取引所が開業すると、世界に向けて宣言した。そうは言うものの、開業に向けた準備はまったく進んでいない。残された時間は約半年という瀬戸際で、35歳の尉文淵が創設準備オフィスの責任者となった。

尉さんも前任者と同じく証券取引所に関する知識はほとんどなかった。だが、考えてばかりでは、時間が過ぎ去るだけで、何もできない。そこで、一番簡単に思いつくことから手をつけた。

思いつくままの行動力

「まったく分からないことだらけだが、確かなのは“カネがなければ、何もできない”ということだ」――。そこで、尉さんは中国人民銀行・上海支店から準備金として500万元を借り入れた。

何をすべきかの知識も必要だ。そこで深圳市の様子を記録した視察報告書を入手。また、どこから掘り出したのか、中華人民共和国の成立以前に存在した上海証券交易所の定款も手に入れた。

カネと基本情報を手に入れ、その次に思いついたのは“場所”だった。「上海金融街の象徴だった外灘(バンド)に、証券取引所を設けたいと思います」と3人組に報告し、さっそく外に飛び出した。

浦江飯店の外観 尉さんが探しているのは、写真で見た香港証券取引所のような取引フロアを設けられる物件だ。バスに乗って、漢口路の上海証券交易所の跡地、蘇州河沿岸の旧倉庫街、北京東路の鉄道切符売り場、金陵東路の乗船券売場などを見て回ったが、どれも気に入らなかった。理由は“勢い”が感じられなかったからだ。

物件探しは1カ月を要し、最終的に満足できたのは、北外灘に位置する老舗ホテルの“浦江飯店”だった。浦江飯店の本来の名称は“アスターハウス・ホテル”。その前は“リチャーズ・ホテル”と呼ばれていた租界時代からのホテルだった。

浦江飯店に設けられた孔雀大庁(ピーコック・ホール)は、租界に住む外国人の社交場だった。むかしは毎晩のように、数百人の外国人が食事やダンスを楽しんでいた。建設から150年ほどが経過していたものの、昔の豪華さが残っているうえ、収容力も十分だった。尉さんはこの孔雀大庁が気に入り、躊躇することなく1年間200万元の条件で賃借契約を交わした。

電話機とコンピューター

浦江飯店の孔雀大丁 場所は決まり、次に必要なのは電話だ。その当時は1台の電話を引くのも難しかったが、証券取引所には少なくとも50台の電話機、5本の回線が必要だった。

この難題を聞きつけた上海市の呉邦国・副書記(当時)は、「その件は私に任せなさい」と協力を申し出た。電話の設置は1カ月以内に完了。この連載の第五回でも呉邦国の活躍を紹介したが、その行動力は健在だった。

次なる課題は、注文方法だった。手振りで注文を出す“場立ち”にするか、それともコンピューターを採用するか――。その判断を3人組に求めた。

返ってきた答えは“場立ち”の採用。「証券会社も上場企業も少ないので、せめてにぎやかにやりたい」というのが、3人組の希望だった。

本音を言えば、尉さんはコンピューターを試してみたかった。シンガポールや台湾では、コンピューター取引の普及が始まっていると聞いたからだ。ただ、それは非常に厳しかった。上海市の大銀行でさえ、その当時は算盤を使っていた。それなのに、まだ何も整っていない証券取引所が高価なコンピューターを使いたいと要望するのは、とても勇気のいることだった。

“場立ち”の採用が決まり、人員の育成が始まった。その結果は3人組を不安にさせるものだった。手振りで示した買い注文が、売り注文として伝わったり、6.8元の手振りがいつの間にか5.8元となってしまったりと、大混乱となった。取引の清算や株券の名義書換などもデタラメだった。

そこで尉さんは、あらためて3人組にコンピューターの採用を求めた。「500万元の経費のうち、100万元を使って試させてください。何か問題が起きたら、私が責任を取ります」と申し出た。実のところ尉さんは1万元も持っていなかった。責任を取ると言っても、賠償できるカネはなかったのだが、若さゆえの大胆さで上司を納得させた。

こうして30台のコンピューターを輸入し、上海財経大学の助教授にプログラミングを依頼した。尉さんにはまったく分からない分野だったので、開業前日までプログラミングのことが気になったという。

コンピューターを採用した尉さんの判断は正しかった。中国の投資家は大部分が個人であり、注文は金額が小さく、件数が多い。“場立ち”を採用していたら、処理能力はすぐに限界に達していただろう。

英語名の問題

上海証券取引所を創設する狙いの一つは、改革開放を堅持するという中国の姿勢のアピールだ。そのため、上海証券取引所には英語名をつけなければならない。ただ、これが問題だった。

世界の証券取引所の名称は、直接的に株式を表す「Stock」や「Share」を使った「Stock Exchange」や「Share Exchange」となっていた。ただ、こうした名称を申請すれば、資本主義の復活を恐れる官僚によって却下される恐れがあった。そこで3人組は広く有価証券を意味する「Securities」を採用し、「Shanghai Securities Exchange」という英語名で申請した。

この英語名は当局に許可され、上海証券取引所の開業時から採用された。外国人にとっては奇妙な名称だったが、仕方がなかった。英語名にこだわって時間を浪費するわけにはいかなかったからだ。

「中国人は英語が分からない」と感じた外国人に指摘されると、3人組や創設準備チームは「国債取引を中心とした中国の特色ある証券取引所だからですよ」と誤魔化していた。苦しい言い訳に聞こえただろうが、決して英語が分からないからではなかった。

なお、こうした問題はすでに解消しており、現在の英語名は「Shanghai Stock Exchange」となっている。

ブルーブックのおかげ

1990年11月14日に中国人民銀行の本店は、上海証券取引所の創設を許可。尉さんらの仕事は、ハイペースで進んでいた。証券取引所の創設に向けて何をすべきかが分かったからだ。

この連載の第十三回で紹介した禹国剛さんらが作成した“ブルーブック”(藍皮書)が、尉さんらの手に渡ったからだ。この資料集がなければ、おそらく尉さんらは何をどうすれば良いのか分からず、半年で証券取引所を創設するという任務を果たせなかっただろう。

上海証券取引所の設立大会
(1990年11月26日)
11月26日には上海証券取引所の会員25社による初の会員大会が開かれ、理事選挙が行われた。発足した理事会によって、尉さんは上海証券取引所の初代総経理(社長に相当)に選ばれた。世界で最も若い証券取引所の経営トップとなった。

こうして上海証券取引所は設立され、開業日に向けた準備が加速した。何をどうすれば良いのかは、ブルーブックのおかげで分かったが、それでも作業量は膨大だった。開業の日が近づくものの、証券取引所が入居する孔雀大庁はまったく片付かない。

「このままでは大恥をかいてしまう……」と、尉さんは自分の力がちっぽけなことを痛感。孔雀大庁の床に座り、同僚らと会議を開いたが、とつぜん理由もなく涙がこぼれ出した。世界で最も若い証券取引所のトップは、気力も体力も限界に近づいていた。

開業前日の12月18日は、式典会場の準備で大忙しとなった。疲れのせいからか、尉さんは運んでいた机を左足の上に落してしまった。その傷口から細菌が入り、炎症を起こし、発熱した。「あと1日だけ頑張れば……」と、尉さんは高熱でふらふらしながらも、夜通しで働き続けた。

そのころ外では

上海証券取引所の開業を控えた12月17日、上海市の人民広場、普陀体育場、徐匯体育場などに、大群衆が現れた。上海証券取引所に上場予定の企業が、株券の追加発行を決定し、新株の購入予約券を交付することが原因だった。

購入予約券の申込日は12月18日だったにもかかわらず、12月17日の早朝から行列ができ、その日の夕方には数千人規模に膨らんだ。その日は特に寒かったが、人々は集まり続け、市内各所で渋滞が発生し、警察が出動する事態となった。

こうした事態を受け、証券会社は時間を早めて17日の午後8時に受け付けを始めると決定。大群衆を押しとどめていた鉄柵が開かれると、押すな押すなの大混乱となった。この大混乱は18日の未明まで続き、その光景は海外メディアを通じて世界中に配信された。上海証券取引所の開業を前に、人々の投資意欲は十分に盛り上がっていた。

銅鑼よ、響け!

上海証券取引所の開業式に出席した朱鎔基
隣の女性は鄧蓮如(1990年12月19日)
12月19日に上海証券取引所は予定通りに開業。香港貿易代表団を率いて上海市を訪れていた鄧主席のほか、欧米や日本の金融関係者が開業式典に出席した。

尉さんの足は大きく膨れあがり、自分の靴が履けなくなった。そこで足の大きな同僚から靴を片方だけ借り、柱にもたれかかった状態で来賓を迎え入れた。

朱鎔基が上海証券取引所の開業を宣言。尉さんは足の痛みに堪えながら、開業の銅鑼を鳴らした。ところが、この銅鑼の音は想像よりもずっと低く、“勢い”がなかった。大きく響きわたる音を出すため、尉さんは思いっきり銅鑼をたたいた。証券取引所の創設は、最後の最後まで尉さんのエネルギーを搾り取った。

銅鑼の音が響きわたり、来賓は大きな拍手を送った。尉さんは手を振って応えたが、すぐに倒れ、1カ月も入院することになった。

老八股

孔雀大庁に入居した上海証券取引所 開業初日に上場したのは、国債5銘柄、社債8銘柄、金融機関が発行する金融債9銘柄、株式8銘柄だった。深圳市の店頭市場で取引されていた5銘柄は“老五股”と呼ばれていたが、上海証券取引所の株式8銘柄は“老八股”と呼ばれた。

    【老八股】
  1. ・上海申華電工聯合公司(申華電工)
  2. ・上海豫園旅游商城股份公司(豫園商城)
  3. ・上海飛楽股份有限公司(飛楽股份)
  4. ・上海真空電子器件股份有限公司(真空電子)
  5. ・浙江鳳凰化工股份有限公司(浙江鳳凰)
  6. ・上海飛楽音響股份有限公司(飛楽音響)
  7. ・上海愛使電子設備股份有限公司(愛使股份)
  8. ・上海延中実業股份有限公司(延中実業)

最初の約定

取引所で働く紅甲馬(赤ベスト) 上海証券取引所が開業した浦江飯店の孔雀大庁には、ホールの中央を取り囲むようにデスクが並び、そこにコンピューターが設置された。これが取引ブースであり、そこに赤いベスト(胴着)を着た人々が着席した。彼らは顧客からの注文を執行する取引所会員のトレーダーだ。その服装から “紅馬甲”(赤いベスト)と呼ばれた。

取引開始から57秒後、「約定したぞ!」と大きな声があがった。さっそく記者たちが、声を出した16番のブースを取り囲んだ。そのトレーダーは上海申銀証券公司(申銀証券)の郭純さんだった。

開業直後に上海海通証券公司(海通証券)が出した真空電子の株式の売り注文と、郭純さんが執行した買い注文の取引が成立。約定した株式は50単位で、約定価格は365.70元だった。最初の約定を勝ち取った郭純さんはその後、申銀証券の出世街道を突き進み、国際部門の重役となった。

終値は大吉

孔雀大庁の黄甲馬(取引所の管理担当) 初日の取引は無事に終了。尉さんが懸念していたトラブルも起きなかった。その当時は上海総合指数が誕生していなかったため、静安指数が使われた。この連載の第七回で紹介した静安証券営業部が編み出した株価指数だ。

初日は96.05ポイントで始まり、終値は99.98ポイントだった。この結果に、全員が満足した。

中国で数字の“9”は “久”と同じ発音であり、「末永く」という意味に通じることから、たいへん縁起が良い。“8”という数字も「発財」(財をなす)や「発展」の“発”に通じ、非常に好まれる。

初日の終値99.98ポイントは「末永く、末永く、末永く発展する」という大吉の数字。 開業したばかりの上海証券取引所はちっぽけな存在だが、その創設に携わった人々は大いなる発展を予感した。

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は5/7公開予定です。お楽しみに!

 
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  1. 内藤証券中国部のキーマンが
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  2. 22. 欲望、腐敗、流血 NEW!
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  4. 20. 文化広場の株式市場
  5. 19. 大暴れした上海市場
  6. 18. ニーハオ!B株
  7. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  8. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  9. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  10. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  11. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  12. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  13. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  14. 10. 経済特区の株券
  15. 09. “百万元”と呼ばれた男
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  18. 06. こっそりと開いた証券市場
  19. 05. 目覚めた上海の投資家
  20. 04. 魔都の証券市場
  21. 03. 中国各地の暗闘者
  22. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  23. 01. 中国株の誕生前夜
  24. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券中国部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。