コラム・連載

内藤証券中国部 情報統括課長が見た「中国株の底流」

中国各地の暗闘者

2017.4.5|text by 千原 靖弘(内藤証券中国部 情報統括次長)

このページをシェアする:

1980年1月1日に遼寧省撫順市で発行された赤レンガ株券を口火に、株券を発行する動きが中国の各地に広がった。「株券発行や株式制度は、合法なのか、それとも違法なのか?」――。中央政府は答えを出していない。

だが、資金難に苦しむ地方政府は、答えが出るのを待っていられない。株券発行をもくろむ地方政府の関係者たちは暗闘を繰り広げた。その動きは中央政府が置かれる北京市にも及んだ。

省都の成都工展

赤レンガ株券を発行した遼寧省撫順市から東南に約2,000キロメートル離れたところに、四川省の省都である成都市がある。資金難の人が考えることは、どうも同じらしい。図らずして成都市でも1979年から株券発行に向けた動きが起きていた。

成都市政府は展示場を兼ねた大型ビルの建設を計画。準備チームを編成し、陳良平さんが主任に選ばれた。だが、その資金はない。陳主任は株券の発行による資金調達を思いつき、上司に報告した。1979年12月のことだった。

蜀都大廈(2011) 1980年に入り陳主任は、大型ビルの建設を担う「成都市工業展銷信託股份公司」(略称:成都工展)の設立を求める報告書を成都市政府に提出。株券発行によって成都工展を設立する構想を正式に明らかにしたが、その内容が問題視された。

問題とされた部分は以下の通り。「成都工展の資産は、出資者である各事業体が集団で所有することになる。いかなる事業体も、会社の資産を徴用、占有してはならない。会社は独立採算制を採用し、その損益を自ら負うことになる」――。

この内容のどこが問題なのか?今日の中国では何の問題はない。日本人から見ても、当然の内容だろう。しかし、1980年代の中国では大きな問題だった。

まず、問題となったのは、「出資者である各事業体が集団で所有する」という部分。省都である成都市の中心に大きなビルを建設するのに、それが政府所有ではない点が疑問視された。その当時、こうした建設投資は政府が行うのが当然だったからだ。

また、「いかなる事業体も、会社の資産を徴用、占有してはならない」という部分も、当時としては驚くべき考えだった。公有財産制度を実施していた中国で、政府が徴用できない資産は“あり得ない”からだ。

多くの異論が出たものの、約半年後の1980年6月11日に成都市政府は成都工展の設立を承認した。株券を発行し、2,000万元を超える資金を調達。大型ビル「蜀都大廈」を建設した。

成都工展の株券 成都工展の株券は赤レンガ株券と違い、紙幣印刷工場で作られた。デザインは成都市に住む王冠武さんの手書きによるものだった。その後、王さんは株券デザインの専門家となった。

成都工展は1991年に株式会社の成都蜀都大廈股份有限公司に改組され、1995年11月28日に深圳証券取引所に上場(証券コード:000584)。その後、数度にわたる事業再編を経験。2016年末時点では江蘇友利投資控股股份有限公司として、スパンデックス(ポリウレタン弾性繊維)の生産や不動産開発を手がけている。

経済特区の宝安公司

宝安公司の株券 中華人民共和国の建国後、周辺国との国境付近は辺境地域と呼ばれ、長期にわたって建設投資が抑制された。戦争で破壊されることを恐れたからだ。英領香港とのボーダーライン(事実上の国境線)に接した広東省宝安県も例外ではなく、客家などが住む小さな農村のまま放置されていた。

この宝安県に経済特区を設置することが1979年に決まった。宝安県は深圳市に昇格し、大規模な建設投資がスタートした。

第二ボーダーの金網フェンス 深圳市は東西80キロメートルを超える金網フェンスで南北に分割された。この金網フェンスを第二ボーダーという。経済特区は香港とのボーダーライン(第一ボーダー)から第二ボーダーまでの地域を指す。一般の中国人が経済特区に入るには、第二ボーダーに設けられた検問所で立入許可証を提示する必要があった。なお、この第二ボーダーは約30年も存在し、廃止されたのは2010年6月30日のことだった。

1979年の深圳市 1979年に発足した深圳市だが、早くも1982年に区画再編を実施。第二ボーダーの外側が深圳市所属の宝安県として復活。これにともない、何もないところに宝安県の中心街を建設することになった。

宝安県の歳入は1,000万元ほどにすぎず、建設投資を進める余裕はなかった。そこで思いついたのが株券発行による資金調達だった。

黄色の部分が経済特区
緑色は深圳市の特区外 桃色は香港
経済特区は特殊な事ができる先行地帯だった。その当時の深圳市では、共産党機関紙「深圳特区報」でさえも中国本土の簡体字ではなく、台湾や香港で使う繁体字で書かれていた。文章も左からの横書きではなく、縦書きや右からの横書きだった。これは香港市民の読者を意識した編集方針だが、極めて異例。今日の中国から見ても、“あり得ない”行為だった。このように深圳市政府の関係者は、極めて大胆な人々だった。

宝安公司の広告 宝安県の幹部も大胆だった。「深圳特区報」の1983年7月25日付紙面に、建設投資を目的とした新会社「広東省宝安県聯合投資公司」(宝安公司)の株券購入を呼びかける広告を載せたのだ。株式制導入をめぐる論争が続くなか、このような広告が共産党機関紙に掲載されたことに、人々は驚きを禁じ得なかった。

その広告はたった200文字程度の目論見書と言えるものだった。建設予定の大型ビルの絵が書き込まれ、株券としてはあり得ない元本利払い保証などが明記されていた。今日の目論見書は1冊の本くらいのサイズだが、200文字程度だったので、意図することが非常に分かりやすかった。

宝安公司の株券は売れに売れた。当時の紙幣は最高額面が10元だったため、調達資金を数えるのも一苦労だった。株式の発行が旧暦年末だったため、調達資金を銀行に預けることができず、職員は数十万元に上る現金をベッドの下に置き、戦々恐々としながら年越ししたという。

その後、宝安公司は1991年6月1日に株式会社の深圳市宝安企業(集団)股份有限公司に改組され、その直後の6月25日に深圳証券取引所に上場(証券コード:000009)。2016年末時点では中国宝安集団股份有限公司として、ハイテク、バイオ、不動産などの事業を展開している。

首都の天橋百貨

片田舎の遼寧省撫順市から始まった株券発行の動きは、省都の四川省成都市、経済特区の深圳市にも拡大。ついに首都の北京市に波及した。

昔の天橋百貨 北京市の百貨店「天橋百貨商場」は1953年に発足した老舗の国営百貨店。1980年代に入ると、商品棚は腐り、壁は穴だらけ、倒壊寸前という有り様だった。修繕したいと誰もが思ったものの、予算がなかった。

天橋百貨商場は行政機関という扱いであり、そのマネージャーの張継斌さんに許された予算は10元にすぎなかった。何をするにしても、上層機関の許可が必要。それほどまでに、経営の自主権がなかった。

そんな状況を何とかしようと、天橋百貨商場は北京市の外に販売拠点を設け、資金を稼ごうとした。しかし、「北京市の物資を外部へ流せると思っているのか?」と、関連当局からさんざん叱られた。

こうした状況にあるものだから、張さんは株式制の導入に魅かれていった。株式制の下では、政治と企業は分割され、経営の自主権が得られるからだ。張さんは外国の資料や建国以前の記憶を頼りに、「北京天橋百貨股份有限公司」(天橋百貨)の定款を書き上げた。

張さんの努力は実り、1984年8月23日に天橋百貨は設立された。設立を許可したのは北京市政府ではなく、その下部にある崇文区政府だった。もし何かあれば、「下部組織が勝手にやったこと」と釈明するつもりだったのかもしれない。

天橋百貨の設立を受け、頭を悩ましたのは営業許可証を交付する北京市工商行政管理局だった。3日連続で会議を開き、営業許可証に記載する天橋百貨の経済的性質について議論した。何とも不毛な議論のようだが、当時の北京市では避けて通れない問題だった。

「天橋百貨は国営だろう?」
「いやいや、個人にも株式を販売するらしい」
「だったら、集団所有制か?」
「どうも、それっぽくないね」
「だったら個人自営業か?」
「それはおかしいでしょう」

こうした議論を経て、最終的に「国営、集団、個人自営業の共同経営」という何とも奇妙な“合せ技”にすることで落ち着いた。なお、今日の中国では「混合経済」と書くだけで済む。

天橋百貨の株券 天橋百貨の株券は紙幣印刷工場で作られた。額面は100元、1,000元、1万元の3種類。この株券もやはり赤レンガ株券や宝安公司のように、元本利払い保証が明記された“疑似株券”だった。

第1回の発行額は300万元分だったが、張さんは印刷費用に5万元も投じ、美しいデザインに仕上げた。株券は数日で完売。調達資金を使い、1988年に天橋百貨の新しい店舗が完成。売り場面積は以前の5倍以上となった。

天橋百貨は1993年5月24日に上海証券取引所に上場(証券コード:600657)。その後、上場した天橋百貨は親会社が入れ代り、百貨店事業は売られ、不動産事業を主力とするようになった。2016年末時点の社名は信達地産股份有限公司という。

天橋百貨は北京市で初めての株式会社であり、全国的にも正式に登記された株式制商業企業の第1号だった。また、国営企業から株式会社に改組したことでも、全国初のケースという。ただ、その株券は“疑似株券”であり、いわゆる普通株ではなかった。

野生の株券

1980年代初期の株券は“疑似株券”ばかりであり、いわゆる西側世界の人々にとって、株券と呼べるものではなかった。だが、それも仕方がない。対外的に閉鎖された社会で、わずかな外国の情報や現実に基づき、試行錯誤で作られた株券なのだから。 まさに“野生の株券”と呼ぶべきものだった。

では、中国人が外国人に対して胸を張って「これが中国の株券です!」と言えるものは、いつできたのか?それは、どこの株券なのか?その疑問の答えは、数年後に鄧小平が自ら示すこととなった。

それを明らかにする前に、次回は19世紀から金融の中心だった上海市の成り立ちを紹介する。

次回は5月5日公開予定!

バックナンバー
  1. 内藤証券中国部のキーマンが
    見た「中国株の底流」
  2. 22. 欲望、腐敗、流血 NEW!
  3. 21. 悪意の萌芽
  4. 20. 文化広場の株式市場
  5. 19. 大暴れした上海市場
  6. 18. ニーハオ!B株
  7. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  8. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  9. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  10. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  11. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  12. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  13. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  14. 10. 経済特区の株券
  15. 09. “百万元”と呼ばれた男
  16. 08. 鄧小平からの贈り物
  17. 07. 世界一小さな取引所
  18. 06. こっそりと開いた証券市場
  19. 05. 目覚めた上海の投資家
  20. 04. 魔都の証券市場
  21. 03. 中国各地の暗闘者
  22. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  23. 01. 中国株の誕生前夜
  24. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券中国部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。