コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

地獄への7分47秒

2019.4.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

このページをシェアする:

1994年は株式市場が低迷。上海総合指数は年間で22.30%下落した。こうしたなかで過熱していたのが、国債先物市場だった。そんな国債先物市場で、1995年2月23日に中国の金融界を揺るがす大事件が発生。取引コード「327」の国債先物取引で、終了間際の7分47秒に起きた異常な値動きが、多くの人々を悲劇に巻き込み、中国証券界の変革を迫った。この“327国債先物事件”が起きた日を英紙「フィナンシャルタイムズ」は“中国本土の証券史上、最も暗い一日”と記した。

中国の国債

国庫券の購入を呼びかける広告 1985年国庫券 国庫券売買の様子 タバコをふかす楊百万とファンたち この連載でもたびたび紹介した上海証券取引所の尉文淵(うつ ぶんえん)総経理は、1992年に米国を訪問。さまざまな金融商品を目の当たりにし、ぜひとも中国本土にも導入したいと考えた。その一つが国債先物取引だった。

ここで中国本土の国債発行の歴史を簡単に振り返ってみよう。1949年の中華人民共和国の成立後、国家経済の立て直しを目的に国債が発行されたが、それも1958年で終了。その後は政府債務のない時代が続いた。

中国が改革開放路線に舵を切ると、1979~1980年に2年連続で巨額の財政赤字に陥った。これを受け、1981年に中国政府は国債発行制度の復活を決定。国庫券という名称で、49億元を発行。国有企業やその従業員などに割り当てるかたちで販売した。1982年4月には個人向けの国庫券の販売も始まった。

国庫券の購入を迫られた国有企業や個人の経済的負担は重かった。買ったばかりの国庫券を売却し、換金したいというニーズが高まったが、そもそも国庫券の取引市場が存在しなかった。そのため、各地で国庫券を売買する闇市が自然発生した。

こうした状況を受け、中国政府は1988年4月に上海市など7都市で国庫券を銀行で自由に売買することを認めた。これが国庫券市場の開放であり、この連載の第九回で紹介した“楊百万”が巨額の富を築くきっかけとなった。だが、多くの個人投資家にとって、国庫券は長期預金のようなものであり、これを売買することには無関心だった。

国債先物取引の導入

米国から戻った上海証券取引所の尉さんは、1992年12月28日に国債先物12種を試験的に導入。国庫券発行の円滑化と取引の活性化が目的だった。

国債先物取引を一言でいえば、将来の決められた時期の国債の売買を現在の取引で決まった価格で実行すること。一定の証拠金を納めれば、その数倍の取引が可能。国債が下落すると予想すれば、まずは売ることから取引に参加できることも国債先物取引の特徴だ。

現在の国債先物取引では“標準物”(ひょうじゅんもの)と呼ばれる架空の国債を取引するが、上海証券取引所が導入したのは、実際に存在する発行済み国庫券の先物取引だった。制限値幅もなければ、買い建て売り建ての制限もなく、証拠金の100倍の取引ができるという高リスクの取引だった。

この国債先物取引は政府の国庫券発行計画に大いに役立った。国債先物価格から国庫券のニーズが明らかとなるからだ。これから発行する国庫券の利率や償還期間は、国債先物相場を参考に決められた。

国債先物の口座開設に集まる投資家 国債先物取引の導入初期は、一部の証券会社による自己売買に限定され、取引規模は小さかった。こうしたなか、物価高騰を背景に、1993年7月10日に中国政府の財政部は国庫券の利回りに、インフレ分(物価上昇率-預金金利)を補填する制度を導入。これで国庫券の利回りが大きく上昇するかもしれないという不確実性が生じ、国債先物取引が投機熱を帯び始めた。

上海証券取引所は国債先物取引の制度を刷新。1993年10月25日から個人投資家も国債先物取引に参加することが可能となり、投機熱がさらに広がった。1994年に全国の国債先物取引は2兆8000億元に膨らみ、その75%が上海証券取引所で行われたという。

327国債先物

取引コード「327」は1992年発行の3年物国庫券(以下、“92年3年物国債”と呼ぶ)の先物取引だった。この国庫券の発行規模は246億8,000万元で、償還期限は1995年6月30日。券面に記載の利率は9.5%だった。元金と利子は1995年7月1日に一括で支払われる。つまり、インフレ分の補填がなければ、1995年7月1日に128.5元(額面100元+利子9.5元×3年分)がもらえる。

中国本土では1993年7月1日に3年物の預金金利が12.24%に引き上げられた。これは92年3年物国債の利率を2.74%上回る。これでは3年物の国債を買うより、3年間預金した方がマシということになる。財政部は7月10日に92年3年物国債の利回りにインフレ分を補填すると表明したが、それがどれくらいになるか、どのタイミングで実施されるかは不透明であり、これをめぐる予想がマーケットの焦点となっていた。

補填率が大きければ、327国債先物の価格は上昇する。それを予想する投資家は、327国債先物を買うことになる。一方、補填率が小さければ、327国債先物は下落するので、そう信じる投資家は売りに回る。

カギを握る補填率は財政部が決めるが、どうなるか投資家は分からない。補填率の調整をめぐり、投資家は買い方と売り方に分かれ、取引は過熱した。

中国証券界の司祭

上海証券取引所の開業式に出席した管金生さん(右二) 万国証券の開業式典 投資家でにぎわう万国証券の店頭 327国債先物を語るうえで欠かせない人物がいる。その当時の証券最大手だった万国証券を率いる管金生(かん きんせい)総経理。中国証券界の“司祭”と呼ばれた人物だ。

管さんは非常に負けず嫌いで、何でも1位にならないと気が済まない性格だった。出身は江西省の貧困家庭だが、努力に努力を重ね、優秀な成績で1965年に上海市の外国語大学に入学。学業はプロレタリア文化大革命で中断を余儀なくされたが、1979年に復学し、フランス文学の修士学位を取得。上海国際信託投資公司に入社した後は、会社の指示でベルギーに留学し、法学など2つの修士学位を得た。

管さんは上海市を視察した鄧小平に証券市場の設立を提言し、これが認められた。1988年に設立された万国証券の総経理に就任すると、国際経験を武器に海外の証券会社との提携などを推進。海外の証券業界の要人にも顔が利くようになった。

また、上海証券取引所の創設でも規則制定などに大きく貢献し、これが中国証券界の“司祭”と呼ばれるきっかけとなった。その縁で上海証券取引所の尉さんとも親しい間柄だった。

92年3年物国債の利率が3年物の預金金利と同じ12.24%に引き上げられた場合、償還価格は136.72元となる(額面100元+利子12.24元×3年分)。それでも、この価格は安すぎると、多くの投資家は考えており、財政部が補填率をさらに引き上げるのではないかという噂が飛び交うようになった。

この噂を手掛かりに、327国債先物は買われ続け、1994年10月からは135~146元で推移。1995年2月に入ると、147~148元の価格を付けた。

多くの投資家が補填率の大幅な引き上げを予想するなか、管さんはそう考えなかった。すでに物価上昇率が縮小し続けているうえ、補填率を引き上げれば政府は数十億元を支出しなければならないからだ。管さんは327国債先物を大々的に売るべきと判断した。

327国債先物をめぐる攻防

327国債先物を売ると決定した万国証券には仲間がいた。高嶺、高原、高山の三兄弟が率いる遼寧国発という会社だ。万国証券と遼寧国発は327国債先物を売り続けた。

中経開の上海証券業務部 これに対し、327国債先物を買い上げようとする会社があった。中国政府の財政部を後ろ盾とする中国経済開発信託投資公司、通称「中経開」だ。補填率の大幅な引き上げがあると確信し、着々と327国債先物を買い進めた。

こうしたなか、2月22日に財政部は1995年3月1日発行の3年物国債について、利率を14.5%とすると発表。この高い利率を見て、投資家たちは92年3年物国債の利回りが大幅に補填されるとの見方を強めた。

さらに2月23日の取引開始前に、財政部が翌日に発表する予定の情報が流出。それによると、財政部は92年3年物国債の利率について、最初の1年間が9.5%、最後の2年間は12.24%とし、さらに1995年7月分の補填利率を上乗せすると発表した。これにより、補填率の大幅な引き上げの噂が正しかったことが証明された。

取引が始まると、中経開は327国債先物を買いまくり、価格は150元を突破。予想が外れた万国証券は、価格が1元上昇するごとに十数億元を出す状況にあった。窮地に陥った管さんは価格を引き下げようと、遼寧国発と共同で売り続けたが、投資家は買い一辺倒。価格は上昇を続けた。

午前の取引が終了した時点で、価格は151元を超えていた。このままでは万国証券は約60億元を支払うことになる。だが、万国証券の総資産は14億元にも満たず、年間の利益は5億5,000万元ほどにすぎなかった。

居ても立っても居られない管さんは、上海証券取引所に駆け込んだ。総経理の尉さんに会うと、327国債先物の取引停止などを要請。万国証券が窮地に陥っていることを尉さんは知ったが、その願いを聞き入れることは到底できない。証拠金を集めることなど、いくつかのアドバイスをするほかなかった。

尉さんの回答に失望した管さんは、会社に戻るしかなかった。午後も状況は一向に改善せず、さらに遼寧国発が裏切り、327国債先物の買いに回った。もう価格の上昇を抑えることはできない。万国証券には破産の道しかなかった。

しかし、負けず嫌いな管さんは、この現実を受け容れられなかった。自らが築き上げた万国証券が滅びるのを座視できなかった。そこで自暴自棄な最後の反撃に打って出た。

地獄への7分47秒

2月23日の327国債先物の価格推移
取引終了間際に価格がほぼ垂直落下
取引終了の午後4時半が目前に迫るなか、万国証券は巨額の売り注文を立て続けに出した。午後4時22分13秒から始まった大規模な売り攻勢を受け、価格は151.3元からあっという間に150元を割り込み、147.5元を付けた。劇的な急落に、投資家たちは茫然とした。

最後の7分47秒での大番狂わせを受け、ある投資家は狂喜し、ある投資家は怒りが爆発。上海証券取引所には問い合わせの電話が殺到した。この急落によって、万国証券は60億元の損失から大逆転し、42億元の利益を手にすることになった。

ちょうど接客中だった尉さんは、327国債先物の異変を聞くと、すぐにオフィスに戻り、急落劇の黒幕を探した。犯人は万国証券だった。最後の7分47秒に万国証券が出した売り注文は総額2,112億元。これは1994年の国内総生産(GDP)の4%を超える規模だった。十分な証拠金を納めずに、ルールを無視した巨額の売りだった。

327国債先物を最終的に決済するには、現物の92年3年物国債を売る必要があるが、その発行規模は約247億元。その当時のすべての国債を掻き集めたとしても、1,000億元ほどにすぎず、万国証券が出した2,112億元の売り注文は到底実行できなかった。

尉さんの決断

無気力状態の尉文淵さん 327国債先物の取引解消作業は取引所の食堂で行われた 取引解消の状況を会社に報告するトレーダーたち 事件の黒幕を知った尉さんは、管さんに電話をかけ、ただちに上海証券取引所に来るよう命じた。

「昼に会った時、証拠金を掻き集めると言っていたのに、なんてことしてくれたんだ!」と、尉さんは激怒。一方の管さんは尉さんが自分の頼みを聞いてくれなかったことに怒り、激しい言い争いとなった。

しかし、時間はない。尉さんは最終的に最後の7分47秒の取引を無効にすると決断し、通知文書の作成を指示。くれぐれも許可なく配信しないようにと言い残し、疲れ果てた様子で1時間ほど応接室にこもったという。

2月23日の午後11時に中国中央電視台(CCTV)は全国に向け327国債先物事件を報道。午後4時22分13秒以降の注文はすべて無効とし、その日の終値は151.3元であると全国民に伝えた。同時に327国債先物取引を停止し、2月27日から全取引の解消を組織的に進めると発表した。

この決定により、管さんが実行した327国債先物の相場操縦は水泡に帰した。尉さんがそのような決定を下すとは、夢にも思わなかったと、管さんは後に述懐している。151.3元での取引解消により、万国証券は16億元の損失を抱えることになった。

国債先物取引の挫折

取引解消作業中に休憩する尉文淵さん 約18年ぶりに再開した国債先物取引 万国証券が破綻の危機に直面していることを受け、上海市政府は取り付け騒ぎの回避に向けて動いた。複数の金融機関に働きかけ、万国証券への融資を実施。万国証券も現金や国債を掻き集め、かろうじて社会的混乱を免れた。

一方、上海証券取引所は2月24日に国債先物取引の監督管理を強化すると発表。制限値幅の設定などの措置を講じた。2月26日には中国証券監督管理委員会(CSRC)も国債先物取引のリスク管理強化に関する通知を出したが、それでも国債先物の投機熱は収まらなかった。

5月上旬にも327国債先物事件に類似した騒動が発生。5月17日にCSRCは緊急会議を招集し、翌日から全国で国債先物取引を停止すると決定。CCTVを通じて全国に伝えた。5月31日までに既存の取引は解消され、中国本土の国債先物取引は、導入から約2年半で廃止となった。

それから約18年間、2013年9月6日に中国金融先物取引所が再開するまで、中国は国債先物取引とは無縁の国となった。

地獄の門は開いた

この327国債先物事件は、中国証券界の多くの要人にとって、地獄への入り口となった。大事件を引き起こした万国証券の管さんは、これからの人生を思うと絶望しかなかった。上海証券取引所を創設した尉さんも、責任は免れそうにない。

また、国債の利回り補填を決めた財政部に近い中経開が、なぜ327国債先物の買いに走ったのか?なぜ補填率の引き上げの噂が、事前に市場に流れていたのか?これも大きな関心を集めた。327国債先物で大儲けした人物たちが、事前にオイシイ情報を得ていた可能性も疑われた。

最終的に327国債先物事件は、逮捕者、海外逃亡者、辞職者を出し、何人かの富豪と何人かの悪党が誕生するきっかけとなった。これらの問題については次回で詳しく紹介する。

これまで紹介してきたように、中国証券界は改革開放から勢いに任せて発展してきた。だが、327国債先物事件を契機に、管理体制強化の時代が到来。個性豊かな時代の寵児たちは、次々と表舞台から姿を消すことになる。

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は5/5公開予定です。お楽しみに!

 
バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 30. 通貨の信用 NEW!
  3. 29. 香港のお金のはじまり
  4. 28. 327の呪いと新時代の到来
  5. 27. 地獄への7分47秒
  6. 26. 中国株との出会い
  7. 25. 呑み込まれる恐怖
  8. 24. ネイホウ!H株
  9. 23. 中国最大の株券闇市
  10. 22. 欲望、腐敗、流血
  11. 21. 悪意の萌芽
  12. 20. 文化広場の株式市場
  13. 19. 大暴れした上海市場
  14. 18. ニーハオ!B株
  15. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  16. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  17. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  18. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  19. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  20. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  21. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  22. 10. 経済特区の株券
  23. 09. “百万元”と呼ばれた男
  24. 08. 鄧小平からの贈り物
  25. 07. 世界一小さな取引所
  26. 06. こっそりと開いた証券市場
  27. 05. 目覚めた上海の投資家
  28. 04. 魔都の証券市場
  29. 03. 中国各地の暗闘者
  30. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  31. 01. 中国株の誕生前夜
  32. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。