コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

戦後国際情勢と香港ドル

2019.8.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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英領香港の領域は、清王朝が割譲した香港島と九龍半島のほか、99年間の期限付きで租借した新界(ニュー・テリトリー)で構成される。面積は1,100平方キロメートルで、札幌市と同程度。地理的制約から実体経済の基盤は小さく、多くの生活物資を海外からの輸入に依存するしかない。産業も製造業は軽工業にとどまり、貿易業や金融業といった開放経済型のサービス業を発展させるほかなかった。それゆえ、香港ドルの通貨価値安定は大きな問題だったが、戦後の世界情勢に翻弄された。

終戦直後の香港

香港に到着したカナダ海軍(1945年)
捕虜の英兵を解放
第二次世界大戦中に香港を支配していた日本の香港占領地総督部は、準備資産による裏付けのない香港ドル(デュレス・ノート)や軍用手票(軍票)を発行し、香港経済を疲弊させた。日本が無条件降伏すると、英領香港が復活。香港政庁は横浜正金銀行と台湾銀行の在香港資産を接収し、経済再建に乗り出した。

終戦とともに、HSBCをはじめとする外資系銀行のほか、中国銀行などの華人系銀行が徐々に業務を再開した。香港ドルも復活したが、紙幣や硬貨が欠乏。このため香港政庁はHSBCや中国銀行に対し、他の銀行を支援するよう依頼。やがて香港ドルでの給与支給も始まった。

香港政庁は香港と欧米の貿易を発展させるため、1945年12月にポンドと米ドルの為替レートに基づき、香港ドルと米ドルの交換比率を規定。米ドルの売値は1米ドル=4.025香港ドル、買値は1米ドル=4.035香港ドルに定めた。

ただし、終戦直後の香港政庁は、為替管理に厳しかった。米ドル預金の所有者は、これを使うにも香港政庁の承認が必要。香港ドルと米ドルの為替レートは表示上のものであり、実際に交換されることは少なく、有形無実の為替相場だった。当然のことながら、米ドル現金の海外持ち出しにも厳しかった。

1940年代末の銀号の広告
銀号は華北や広東での呼び名
長江一帯では銭荘と呼ばれた
軌道に乗っていない戦後直後の香港経済の下で、銀行は外国為替業務などを再開することができなかった。こうしたなか、街の治安は悪化し、強盗事件なども頻繁に発生。お金を銀行に預ける動きが広がり、各行で受入預金残高が増加した。

もっとも、銀行は預金の受け入れに消極的だった。受け入れても、有望な貸出先がなかったからだ。このため、どこも預金金利は0%。ただし市民にとっては、お金の安全が保証されるだけでも、ありがたかった。こうしたなか、“銀号”と呼ばれる中国古来の両替商が民間の資金需要を捉え、貸出業務で稼いでいた。終戦直後の香港は、こうした混沌とした状態にあった。

中華民国の通貨制度

英領香港が復活した一方で、中国本土では中国国民党の中華民国政府と中国共産党の中央人民政府が一色触発の状態にあった。こうしたなか中華民国の通貨政策が、香港の経済や金融に大きな影響を与えた。

中華民国では銀本位制が清王朝から引き継がれ、この連載の第二十九回でも紹介したように、銀圓が流通していた。だが、1929年10月にウォール街で株価の暴落が起き、世界恐慌が始まると、米国は1933年に金本位制から離脱し、翌年から銀の買い上げ政策を実施。銀の国際価格が高騰し、中国から海外に流出した。これにより、中国は通貨である銀が不足し、デフレと物価安による不況に見舞われた。

この問題を解決するため、中華民国政府は1935年11月4日に銀本位制から離脱。中央銀行、中国銀行、交通銀行が国家の信用に基づいて発行する法定紙幣が誕生した。法定紙幣は略して法幣と呼ばれた。

法幣の誕生により、500年近くにわたって続いた中国の銀本位制は、歴史の舞台から姿を消した。中華民国政府は銀圓の回収を決定。銀圓1元を法幣1元の固定レートで買い上げた。この連載の第三十回でも紹介したように、これを機に香港も銀本位制から離脱し、ポンド本位カレンシーボード制に移行した。

民国36年(1947年)の5,000元法幣
肖像は孫中山(孫文)
法幣を燃やしてタバコに火をつける米兵 誕生当初の法幣は、ポンドとペッグしていた。1936年に中華民国政府が米国に銀を売却する交渉がまとまると、米ドルが法幣の外貨準備資産となる。その結果、法幣のペッグ先は、ポンドから米ドルに切り換わった。

日中戦争が始まると、日本軍は占領地で軍票を流通させた。その目的の一つは、中国経済に打撃を与えること。さらに日本軍は密輸入などで法幣を取得し、それを上海で売り、外貨を購入。これより、法幣の為替レートを下落させた。

中華民国政府は法幣を買い支えるため、英国や米国からポンドや米ドルを借り入れたが、うまくいかなかった。このため、1940年には法幣と外貨の交換を禁止。法幣の為替レートは大きく下落した。戦争が激しさを増すと、中華民国政府の歳出が増大し、法幣の発行が急増。1937年は14億元に届かなかった法幣の発行残高は、1945年には5,000億元を突破。法幣の乱発で、インフレーション(物価高騰)が各地で蔓延した。

国共内戦と香港の好景気

1946年に中国国民党と中国共産党による国共内戦が勃発すると、香港は中国本土の知識階級、在野の政治家、資産家などが集まる避難場所となった。香港の有名ホテルは、飲茶(ヤムチャ)の時間になると、上海から来た実業家でいっぱいになった。

前述のように、終戦直後は香港ドルの紙幣や硬貨が欠乏していた。通貨の不足を補うため、中華民国政府が発行する法幣が、中国本土から香港に流入した。1945年の香港ドルと法幣の為替レートは、1香港ドル=法幣50~60元。通貨不足の影響で、香港での法幣の価値は、中国本土の2倍以上もあった。

国民党軍が劣勢になると、法幣の発行量が激増。1947年に発行残高は25兆元近くになり、1948年8月には600兆元を突破した。

香港と中国本土の境界
難民が香港に流入(1949年11月)
民国38年(1949年)の500万元金圓券
肖像は蒋介石
法幣は乱発によって暴落。1947年の初めごろには1香港ドル=法幣1,136元となり、同年末には1香港ドル=法幣2万6,490元となった。

国民党軍の戦況がさらに悪化し、中華民国政府の貴金属や外貨が底を尽きると、民間人が所有する黄金を獲得するため、1948年8月に金圓券の発行を始めた。金圓券は黄金を民間から徴発する目的で発行された紙幣。中華民国政府は黄金0.22217グラム=金圓券1元のレートで、強制的に黄金を買い上げた。また、金圓券1元は法幣300万元と定められた。

金圓券の発行が始まった1948年8月、法幣の暴落はさらに進み、1香港ドル=法幣242万元となる。法幣の価値は3年間で4万分の1に減少した。法幣が大暴落すると、上海、浙江省、江蘇省、華南地域の資産家の間で、香港ドルを買う動きが急速に拡大。香港ドルの需要が異常に高まり、発券銀行は発行量を急増させた。

その当時の香港ドルの発券銀行は、HSBC、チャータード銀行、友利銀行の3行。1937年末の香港ドル発行残高は合計2億3,000万香港ドルだったが、1947年末には6億7,400万香港ドルに達した。

大量に発行された香港ドルは中国本土にも流入。一部の地域では、香港ドルが法幣に取って代わった。広東や上海ではそれぞれ2億香港ドルが流通していたもようで、中国本土で流通する香港ドルは、発行残高の3分の2に達していた。

こうして中国本土の資産家の資金が香港に大量流入。彼らは香港の外国為替市場、証券市場、貴金属市場で、外貨、株式、債券、金銀を買い漁った。これにより、香港は異常なまでの好景気を迎えた。その一方で香港ドルの供給量が急増したことで、香港ではインフレが進んだ。

中華人民共和国の成立と香港経済

1955年の銅鑼湾(コーズウェイベイ) 1967年のビクトリアハーバー 1949年10月1日に中華人民共和国が成立。中華人民共和国は厳しい外貨規制を実施。香港と中国本土の貿易額は大幅に減少した。1950年に朝鮮戦争が勃発すると、国際連合は中国に対する禁輸措置を実施し、香港の中継貿易も激減した。

中国本土の共産化を受け、上海などから香港に脱出する資産家が急増。5億米ドルに達する資金が香港に流入した。さらに彼らは海外で購入した大量の工業設備を香港に持ち込んだ。技術や人材も香港に集まり、その当時は安価だった香港の労働力と結びつくことで、製造業の基礎が築かれた。

朝鮮戦争が休戦すると、香港は工業化が本格化。さらに人口増加を背景に、不動産業も発展した。1959年になると、厳しかった為替管理も緩和。貿易決済などの経常取引が大幅に自由化された。

1970年代に香港経済は製造を中心とした高度成長期に入り、韓国、台湾、シンガポールと並んで、“アジアNIES” (アジア新興工業経済地域)と呼ばれるようになった。1978年に中国本土で改革開放政策が始まると、香港の製造業は安価な労働力を求めて広東省に移転し、代わってサービス業が経済の柱となった。香港ドルの安定は、ますます重要となった。

迷走する香港の通貨制度

戦後の各国で金本位制が復活するなか、香港はポンド・ブロック(スターリング地域)の一員として、戦後もポンド本位カレンシーボード制を継続。1ポンド=16香港ドルの固定相場を採用し続けた。

だが、1960年代の後半に入ると、ポンドの下落が続く。これを受け、香港ドルはポンドに対して約10%切り上げられ、固定相場は1ポンド=14.551香港ドル、対米ドルでは1米ドル=6.061香港ドルとなった。

香港ドルのポンドペッグ離脱を報じる新聞 英国経済の弱体化はさらに進み、1972年6月23日にポンドは変動相場制に移行した。これを受け、香港政庁は同年7月6日に香港ドルとポンドの固定相場制を解消すると発表。ペッグ先を米ドルに切り換え、1米ドル=5.65香港ドルと定めた。こうして約37年にわたり続いたポンド本位カレンシーボード制は崩壊。それと同時に為替規制も解除された。

ポンド本位カレンシーボード制の崩壊にともない、香港ドルの発行方式も変わった。当初のポンド本位カレンシーボード制では、発券銀行は外貨基金に1ポンドを納めることで、債務証書を取得し、これを準備資産として16香港ドルを発行していた。

米ドルとの固定相場制に移行してからは、発券銀行は事前に外貨基金に米ドルなどを納めなくても、債務証書を取得できた。外貨基金が発券銀行に設けた口座に、発行予定の金額を書き込むだけで、債務証書を入手することが可能となり、香港ドルの発行が容易になった。

こうした仕組みはカレンシーボード制と言えるものではなかった。カレンシーボード制では通貨の発行量と金利が連動し、自動的に相場が安定していたが、このメカニズムを喪失。米ドルが下落するなか、外貨基金はマーケットで香港ドル売り介入することで、固定相場を維持しなければならなかった。

こうして生まれた香港ドルと米ドルの固定相場制だが、長くは続かなかった。1973年2月に米ドルが黄金に対して10%切り下げられると、香港政庁はこれに追随せず、香港ドルの黄金に対する価値を維持するための措置を講じた。同年2月14日に香港ドルは米ドルに対して切り上げられ、1米ドル=5.085香港ドルという新しい固定相場が発表された。

香港ドルは米ドルに連動することなく、切り下がらなかった。これを見た海外の投資家は、米ドルよりも香港ドルに魅力を感じた。マーケットでは香港ドル高と米ドル安が進行。その勢いは強く、固定相場の維持が困難となった。香港に巨額の投機マネーが流入し、経済の安定的な発展にも支障が生じ始めた。

1973年11月25日に米ドルが金本位制から離脱し、変動相場制に移行。すると香港政庁は即座に香港ドルと米ドルのペッグ解消を発表し、変動相場制の時代が到来した。香港ドルは自由化され、その為替レートはマーケットの需給で決まることになった。こうして香港ドルと米ドルの固定相場制は、短期間で崩壊した。

変動相場制と英中交渉

変動相場制は1973年11月25日の1米ドル=4.965香港ドルで始まった。その後、香港ドルの価値は不安定化。1970年代の前半は香港ドルが米ドルに対して上昇したが、1970年代の後半から1983年にかけては、逆に急落となった。香港ドルが急落すると、生活物資を輸入に依存する香港では、インフレが進展。1979~1983年の物価上昇率は12.6%に達した。

鄧小平とサッチャー首相(1982年) インフレの進展で、香港では住宅価格が急騰。これを抑えるため、香港政庁は新界の住宅開発に乗り出そうとしたが、大きな問題があった。新界は租借地であり、1997年に中華人民共和国に返還しなければならないからだ。

不動産業者としては、新界の土地権利が1997年以降はどうなるか気になる。そこで1982年9月にマーガレット・サッチャー首相が北京を訪問し、英中交渉が始まった。

交渉の難航が伝わると、さまざまな憶測や噂が飛び交い、香港市民の危機感が増大。金融市場では香港ドル建て資産を売り、外貨建て資産を買う動きが広がった。それにともない、マーケットでは香港ドルの投機売買が過熱した。サッチャー首相の訪中から1年ほどで香港ドルは大幅に下落し、1983年9月14日には1米ドル=7.89香港ドルを付けた。

こうしたなか、香港ドル相場はマーケットの需給で決まるものであり、香港政庁がこれを安定させることは不可能と、英国側が公言。さらに中国銀行の香港支店が大規模に米ドルを買っていることで、危機感を煽っていると非難した。そのうえで中国が交渉の進展に前向きの評価を与えなければ、香港ドルの下落を止めることはできないと主張した。

この主張に中国側は反論。英国側は香港ドルの安定を図らないばかりか、故意に下落させることで中国側に圧力をかけていると指摘した。

香港ドルの暴落を伝える新聞
1983年9月25日付
1983年9月24日土曜日に発表された第4回交渉内容を伝える声明で、いつも使われる「有益で建設的な」という言葉が削除されたことが分かると、危機感はさらに増大。外国企業は香港ドルの受け取りを拒否し、銀行や両替店は米ドル売りを停止した。

これで香港ドル安が加速し、1米ドル=9.60香港ドルを記録した。この日の午後にはパニックが香港中に広がり、スーパーマーケットは缶詰、白米、トイレットペーパーなどの日用品を買い求める市民でいっぱいとなり、大混乱となった。

この大混乱を受け、香港政庁は翌9月25日日曜日に緊急会議を開き、香港ドル暴落の対策を検討している発表。通貨発行制度の改革を示唆した。香港政庁の動きに合わせ、銀行は翌9月26日月曜日から金利を3%引き上げると発表。これにより、同日は1米ドル=8.40香港ドルまで回復した。

香港政庁の秘密会議

テレビ番組に出演した
ジョセフ・ヤム(任志剛)氏(1983年)
時間を少し遡ろう。パニックが起きる前日の9月23日金曜日の夕方、香港政庁で通貨業務担当の首席アシスタントを務めていた任志剛(ジョセフ・ヤム)は1時間のテレビ番組に出演。香港ドルに問題はないと強調し、冷静になるよう市民に呼びかけた。

だが、その翌日にパニックが起き、友人や知人などから、今後どうなるのかという問い合わせの電話が殺到。秘密情報を聞き出そうとする人には、丁重にお断りした。生活物資を買い求めようとする人には、やめた方がいいと忠告した。

ヤム氏がマスコミ対応や他の仕事に追われるなか、香港政庁の上層部では9月24日土曜日から香港ドル問題の検討が始まっていた。通貨問題担当のダグラス・ブライは、現在の情勢について朝から副担当のトニー・ラターと話し合いを続けていた。ラター氏はヤム氏の上司であり、2カ月前に香港ドルの固定相場制復活について論文を書いていた。

ブライ氏とラター氏は9月25日日曜日に緊急の秘密会議を開催すると決定。発券銀行のHSBCとチャータード銀行の代表も集め、ラター氏が提案する固定相場制の復活について協議することになった。

この秘密会議にはタイムリミットがあった。その日のうちに結論を出し、翌9月26日月曜日にマーケットが開く前にアナウンスしなければ、事態を収拾できないからだ。業務に忙殺されていたヤム氏も、この会議に出席することになった。

日曜日の早朝からオフィスビルで秘密会議が開かれ、固定相場制を復活させるというラター氏の提案が協議された。この案のほかに良いアイデアはないというのは明らかだったが、メンバーの多くが固定相場制復活の効果を疑問視していた。

ジョン・グリーンウッド氏(2010年)
香港では“カレンシーボード制の父”と呼ばれる
そこで、以前から固定相場制についての論文を発表していたジョン・グリーンウッド氏の話を聞こうということになり、彼を会議のランチタイムに呼ぶことになった。だが、ランチタイムの開始時刻は大幅に遅れた。ヤム氏の秘書がランチ用のサンドウィッチを買いに行ったのだが、一向に戻って来ないからだ。

心配になったヤム氏は、秘書を探しにエレベーターに乗ろうとした。チンという音がなり、エレベーターのドアが開くと、そこにはビックリする光景があった。意識を失っている秘書が床に倒れ、サンドウィッチが散乱。ヤム氏の秘書も業務に忙殺され、疲労困憊だったのだ。

ヤム氏はランチタイムと午後の会議に影響しないように、秘書が倒れたことはメンバーに秘密にした。グリーンウッド氏はランチタイムで彼の見解を説明。午後の会議でラター氏の提案を採用することが決まった。

ヤム氏は秘書が倒れたことを秘密にすることで、重大な会議のスムーズな進行に、ささやかな貢献を果たした。このヤム氏は1993年4月に香港金融管理局(HKMA)が発足すると、初代総裁に就任。2009年に辞任するまで16年間にわたり香港ドルの安定に尽力した。

米ドル本位制カレンシーボード制の誕生

米ドル本位制カレンシーボード制の発表記者会見
右端がジョセフ・ヤム(任志剛)氏
米ドル本位カレンシーボード制の採用を
伝える新聞 1983年10月16日付
香港政庁は1983年10月15日土曜日に香港ドルの新しい通貨制度を発表した。発券銀行は1米ドルを外貨基金に納めることで債務証書を取得し、それを準備資産として7.8香港ドルを発行できるという内容。発効日は1983年10月17日月曜日に定められた。

発表の記者会見にはブライ氏のほか、香港政庁経済顧問のアラン・マクレーン、ヤム氏が出席。肝心のラター氏は妻の出産に立会い中で、出席できなかった。出産はこの日のうちに終わり、ラター氏は二番目の娘と米ドル本位制カレンシーボードを同時にもうけた。

香港ドルの発行レートが1米ドル=7.8香港ドルに決まったことをめぐっては、こんな話がまことしやかに伝わっている。発行レートを決める際、1米ドル=8香港ドルにすべきという意見が出た。8は発展や発財(財を成す)の“発”に通じる縁起の良い数字だからだ。

しかし、「整数では科学的根拠がないという印象が強く、人々に信頼されないだろう。小数をつけるべきだ」という反対意見が出た。そこで妥協案として、1米ドル=7.8香港ドルに決まったという。真偽は定かではないが、香港らしい話だ。

米ドル本位制カレンシーボード制が発表された10月15日は、1米ドル=8.08香港ドルだった。その後、為替市場では香港ドル高が進み、同年11月末には1米ドル=7.8110香港ドルとなった。香港ドル相場は1米ドル=7.8香港ドルで落ち着き、香港政庁は通貨の安定に成功した。

この米ドル本位カレンシーボード制で香港ドル相場は安定し、今日も続いている。国際情勢の変動で各国通貨が大きく変動する中でも、香港ドルは揺るがなかった。1997年のアジア通貨危機では、ヘッジファンドの攻撃で各国通貨が軒並み下落するなか、香港ドルは鉄のような安定を維持。ヘッジファンドを香港から追い出すのに成功した。

1997年の香港返還とアジア通貨危機については、あらためて話をしたいと思う。これまで3回にわたって香港ドルの話を続けたが、次回からは香港の株式市場の歴史を見ていくことにしよう。

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は9/5公開予定です。お楽しみに!

 
バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 34. 株式バブルと香港西洋人社会の利害対立 NEW!
  3. 33. ヘネシー総督の時代
  4. 32. 香港株式市場の黎明期
  5. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  6. 30. 通貨の信用
  7. 29. 香港のお金のはじまり
  8. 28. 327の呪いと新時代の到来
  9. 27. 地獄への7分47秒
  10. 26. 中国株との出会い
  11. 25. 呑み込まれる恐怖
  12. 24. ネイホウ!H株
  13. 23. 中国最大の株券闇市
  14. 22. 欲望、腐敗、流血
  15. 21. 悪意の萌芽
  16. 20. 文化広場の株式市場
  17. 19. 大暴れした上海市場
  18. 18. ニーハオ!B株
  19. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  20. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  21. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  22. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  23. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  24. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  25. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  26. 10. 経済特区の株券
  27. 09. “百万元”と呼ばれた男
  28. 08. 鄧小平からの贈り物
  29. 07. 世界一小さな取引所
  30. 06. こっそりと開いた証券市場
  31. 05. 目覚めた上海の投資家
  32. 04. 魔都の証券市場
  33. 03. 中国各地の暗闘者
  34. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  35. 01. 中国株の誕生前夜
  36. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。