コラム・連載

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」

上海市場の株券を回収せよ!

2018.6.5|text by 千原 靖弘(内藤証券中国部 情報統括次長)

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開業したばかりの深圳証券取引所が取引の減少に悩まされていたころ、上海証券取引所は大忙しだった。忙しさの原因は、株券の名義書換処理だった。名義書換とは株券の保有者の変更を株主名簿に記録すること。開業したばかりの上海証券取引所は、注文処理こそコンピューター化されていたが、名義書換作業は手作業だった。

飛楽音響の株券 その日の取引が終了すると、株券の名義書換処理が始まる。投資家は入手した株券を上海証券取引所の清算部に持ち込み、株主名簿での名義変更を求める。株券の持ち込みにはアタッシュケースなどが使われていたが、1日の取引件数が1万件を超えるころになると、ずっしりとした麻袋に株券を詰め込んで送られるようになった。清算部の職員は毎日残業に追われた。

名義書換に半月以上

株券の名義書換処理は、非常に重要な作業だ。株券を持たないままでの売却注文、つまり事実上の“空売り”を防止するため、「株券の入手を株主名簿で確認できないうちは、それを売ることができない」というルールが設けられていたからだ。

名義書換が終らなければ、株券の受け渡しは完了しない。その当時の上海証券取引所では取引が成立した日から起算して4日目までに、名義書換と受け渡しが実施されるというルールになっていた。

この決済期間は“T+3”とも呼ばれ、日本と同じだ。“T”は取引が成立した日(Trade date = 約定日)を意味し、そこから3日経った日が受渡日であることを示す。

ところが開業したばかりの上海証券取引所では名義書換処理が追いつかず、実際には取引が成立した翌日から13日が経過しても、受け渡しが完了しないことが常態化していた。“T+13”ですら実現できず、長い時は半月以上を要した。

取引所の清算部には大量の株券が持ち込まれたので、「株券が見つからない」「株券がなくなった」といった事態も頻発した。

受け渡しが完了しなければ、その株券は売却できない。つまり、取引が成立して株券の入手が確定した後、株価が大きく下落したとしても、受け渡しが完了するまで売却できない。また、株券を売った場合でも、受け渡しが完了するまで入金されない。こうした状況を受け、投資家からの苦情が殺到した。

上海にも闇市が

このように、上海証券取引所では受け渡しが大幅に遅延した。そこで、迅速に取引したいという投資家のニーズに応えるかたちで、株券の闇市が上海市にも出現。闇市での取引では、そのつど名義書換を行うことはないため、株券の売買はスピーディーだった。短期間で売買損益を確定することができた。

上海証券取引所の取引では、株価の急騰急落を抑えるため、制限値幅制度を採用していた。前日終値を基準に、翌日の株価の変動幅を制限するという制度だ。だが、闇市にはそれがない。闇市では株券が次々と転売され、株価はどんどん上昇。取引所で50元の株券が、闇市では150元で取引されることも珍しくなかった。

闇市で入手した株券でも、取引所の清算部に持ち込まれれば、名義が書き換えられた。どこで取引しようが、株券を持っていること自体が、正当な株主としての証拠とされたからだ。株主名簿に名義が記載されれば配当金を得ることができ、株主総会に出席することも可能だった。こうした状況だったことから、闇市での取引は人気があった。

1991年3月に開かれた上海市の人民代表大会では、こうした株式市場の無秩序が批判された。当時は社会主義と資本主義をめぐる論争が続いており、批判が強まれば、株式市場の閉鎖が命じられる恐れもあった。上海証券取引所の関係者は戦々恐々となった。

上海証券取引所に闇市問題の解決が求められ、監督管理を強化。「取引所内での取引を経ていない株券は、名義を書き換えない」という措置を打ち出した。これを言い換えれば、取引所での取引記録があるものに限り、その株券の名義を書き換えるということ。闇市で入手した株券を取引所の清算部に持ち込んでも、その取引は無効とされた。

だが、取引所内での取引だけでも、その件数は膨大だった。名義書換の遅延が解消することはなかった。

歯磨きの最中にアイデアが!

尉文淵さん(1990年代初期) この連載の第十四回と第十五回で紹介した尉文淵・総経理は、足のケガが原因で開業日から入院していた。1カ月が経過し、やっと出勤できるようになったが、いきなり名義書換処理をめぐる問題に頭を悩すことになった。取引所から離れることができず、そこで暮らしているような状態が続いた。

そうした日々を過ごすなか、問題を解決できる妙案が脳裏に降って湧いた。洗面台で朝の歯磨きをしている時だった。

「銀行のキャッシュカードって、電子マネーのようなものじゃないか?現金を使わずとも、取引ができるからな。だったら、株券と資金の量も記録さえしていれば、きちんと売買できるじゃあないか!」

「すでに名義書換の条件は“株券を持っていること”ではなく、“取引所内での取引記録があること”になっている。だったら、紙の株券なんて、要らないじゃあないか!キャッシュカードと取引記録だけで対応できるぞ」

“勢い”のあった尉さんは、さっそく会議を開き、検討に入った。話し合いの結果、新しい決済制度を導入するため、以下の措置を講じることが決まった。

  • 1991年の7月中旬までに株式口座制度を正式に導入し、取引成立後はコンピューターが自動的に名義書換処理を実行。
  • 100%非現物の株券の保管と受け渡しを実現。
  • 上場有価証券は基本的に、こうした集中登録型の保管方式を採用。
  • “T+1”の決済制度と株券のペーパレス化を実施。
  • 株券の売却注文は、必ずコンピューターによる確認を経てから流す。

株式口座が導入されれば、取引のたびに保有株式の残高が明確となる。また、同じ証券会社であれば、どの支店でも売買注文が可能となるほか、配当金の受取も容易となる。この制度の導入は、利点が多い。しかし、その導入作業は非常に困難だった。

強い抵抗

株券のペーパレス化に向けた第一歩として、1991年5月から上海証券取引所は投資家からの株券回収に着手した。それは非常に困難な作業だった。

ペーパレス化と言っても、それを理解できる人は少ない。投資家の多くが中高年だったからだ。「株券を回収しますが、代わりに電子記録の口座を開設し、そこに株式の残高を記録します」と説明しても、胡散臭い話に聞こえた。投資家は「大事な株券を奪われてたまるか!」と抵抗。大事な株券を手元に置くことを誰もが望んだ。

印刷会社も抵抗した。「株券を印刷しないのなら、商売あがったりだ……」と不満を漏らした。

証券会社も当惑した。「注文を受けた時に、客が本当に資金や株券を持っているのかどうかをどうやって判断するの?」と不安を覚えた。

このように株券の回収作業は、まったく歓迎されなかった。

中央銀行とケンカ

中国人民銀行(中央銀行)もペーパレス化に反対した。1984年8月に施行された株式発行の暫定規則には、現物の株券を発行することが定められていたからだ。上海証券取引所が推進する株券のペーパレス化は、これに反することになる。

株券のペーパレス化を知った中国人民銀行の関係者は尉さんを訪れ、「これはダメだ!すぐにストップしろ!」と指示した。

「なぜ?」と尉さんが聞き返すと、「ペーパレス化は関連規則に違反する。現行の規則では、投資家に現物の株券を交付することが定められている。君たちが株券を回収すると、この規則に反することになる」と説明した。

もっともな言い分だが、“勢い”のある尉さんは、「知ったことか!」と無視し、株券の回収を継続した。規則に反した株券の回収は、その後も2カ月ほど続いたが、大きな問題にはならなかった。

だが、上海興業房産股份有限公司(興業房産)の上場が決まると、尉さんと中国人民銀行の対立が深まった。

興業房産の株券 上海証券取引所の開業初日は8銘柄が上場しており、これらが“老八股”と呼ばれていたことは、この連載の第十五回でも紹介した。興業房産が上場すれば、9番目の銘柄となる。

投資家の注目度は高く、新株購入の申込書を手にするため、上海市の黄浦路にあった万国証券の営業所には大行列ができた。この大行列は周辺の小学校を二日二晩にわたって包囲し、周辺地域の交通がマヒ状態となった。

興業房産の新株購入申込書を求める長蛇の列(1991年8月19日) 興業房産は中国人民銀行の規則通りに、現物の株券を発行することになり、印刷工場に仕事を依頼した。この情報を聞きつけた尉さんは、慌てて中国人民銀行に駆け込んだ。

「俺たちが必死に回収作業を進めているのに、なぜ紙の株券を印刷させるんだ!いいか、よく聞け!株券の回収は株式市場の発展にとって、明らかに良いことなんだ。取引をきちんと管理することができるなんて、素晴らしいことじゃないか?」と、どなった。

これを聞いて中国人民銀行の責任者は、「規則でそう定められているからだ!この規則に関しては中国人民銀行の仕事であり、君たちに干渉する権利はない!」と、突っぱねた。

確かに、その通りだった。中国人民銀行の仕事に干渉する権利は、証券取引所にはなかった。その当時、証券市場に関する多くの事柄は、政府と中国人民銀行が分担していた。証券取引所の権限は、上場をめぐる審査と承認だけだった。株式発行に関する権限は、証券取引所にはなかった。

尉さんは悔しくてたまらなかったが、中国人民銀行の正論に太刀打ちできず、職場に引き返すことにした。だが、強烈な捨て台詞を吐いた。

「確かに、あんたらの言う通りだ。中国人民銀行に干渉する権利は、俺たちにない。だけど、よく覚えておけ!上場は俺たち証券取引所が決めることだ。紙の株券を印刷したら、絶対に上場させないからな!」

そうは言ったものの、注目度の高い興業房産を上場させないわけにはいかない。結局、みんなで冷静に話し合い、中国人民銀行が証券取引所に“少し”だけ協力することになった。

「興業房産の株券は印刷するが、一枚も外に出さない。箱に詰めたまま、上海証券取引所の倉庫で保管する」ということで妥協した。その後、現物の株券は発行予定の30%だけ印刷することで、ルールを満たしたことにした。さらに時間が経つと、印刷するのは一枚だけとなった。

大量に印刷された興業房産の株券は、どうなったのか?国際取引所連合(WFE)の総会が香港で開催された際、上海証券取引所を訪問した代表たちに記念品として贈呈された。

上昇相場が回収を加速

さまざまな困難を受け、株券の回収作業はなかなか進まなかった。そこで上海証券取引所は1991年10月16日に投資家に向け通知を発表。株券の回収がほぼ完了し、もうすぐ終了すると“脅し”をかけた。「株式口座がなければ、取引所で株式を売買できない。取引所以外での売買は違法。株券を手にしても、意味がない」ということが、人々に認識され始めた。

しばらくすると、相場は上昇し、人々は慌ただしく株券を引き渡した。「株券を引き渡さなければ、カネは稼げない。闇市に用はない」――。ついに株券の99%が回収された。

こうして上海証券取引所のペーパレス化は、1年も経たずに完了した。なお、今日でも“老八股”の現物株券は、オークションサイトで売買されたり、記念品として出回ったりしているが、それらは主に1991年に回収されたものだ。

世界の証券取引所の夢を実現

株式口座開設のために上海証券取引所に並ぶ投資家(1991年10月) 上海証券取引所は参考となる既存モデルがないまま、大胆な試みでペーパレス化を実現した。さらに1992年7月には磁気カード口座が導入された。

この磁気カードは“一枚三役”の機能を持っていた。この磁気カードを使い、証券会社の店頭で売買注文を出すことができた。取引の成立後は、金融機関で自動的に資金決済され、投資資金の引き落としや預け入れが可能。また、デビットカードとして使うこともできた。

ペーパレス化により、上場企業は株券を印刷する必要がなくなり、株式の発行や取引に要したコストは大幅に引き下げられ、必要な手続きの数も減った。投資家による株式売却は、コンピューターが残高を自動的に確認し、闇市や空売りは消滅。株式市場の秩序回復に大きく貢献した。

1992年の春、中国に留学している外国人留学生の団体が、上海証券取引所を見学した。見学を終え、職員による説明を聞いた留学生は不思議に思い、このように質問した。

「ここの経営トップは、海外留学からの帰国組ですか?」

これを聞いた職員は、「違いますよ」と答えた。それを聞いて留学生は、次のように説明した。

「ここで行われたのは、G30(Group of Thirty)が構想している有価証券のペーパレス化(Dematerialization)です。海外の証券市場が将来のビジョンとして提言している目標なのです。それを実現しているなって、本当ですか?」と、疑念を抱きつつ語った。

G30は30人の中央銀行の要職経験者や学者で構成された非営利のグループで、さまざまな政策を提言していた。日本では“30人委員会”とも呼ばれた。G30は1989年に9つの勧告を行い、そのなかで有価証券のペーパレス化についても語っていた。

「そうか、“Dematerialization”って言うんだ……」――。職員から留学生の話を聞き、尉さんは初めて自分たちが取り組んだことの名称を知った。

1991年当時、株券のペーパレス化は先進国でも検討中の段階にあり、実施されていなかった。そうした海外事情を尉さんは知らなかった。ただ、目の前の問題を解決するために突っ走っただけであり、自分が世界最先端の課題に取り組んでいるという自覚はなかった。

1993年に米国から帰国したコンサルタントも、上海証券取引所で株式のペーパレス化が実現していることに驚いた。「世界の証券取引所の夢を実現しているなんて……」――。

誕生したばかりの上海証券取引所は、まだまだちっぽけな存在だった。しかし、“勢い”のある尉さんの指揮の下、がむしゃらに突き進んだ結果、気づけばそのシステムは世界の先頭を走っていた。
 

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は7/5公開予定です。お楽しみに!

 
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  13. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
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  22. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  23. 01. 中国株の誕生前夜
  24. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券中国部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。