コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

327の呪いと新時代の到来

2019.5.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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“証券王国”と呼ばれるほどの隆盛を誇った万国証券を一代で築き上げ、“中国証券業界の司祭”と呼ばれた管金生(かん きんせい)は、“東洋のハワイ”と呼ばれた海南島を目指した。“中国本土の証券史上、最も暗い一日”と呼ばれた1995年2月23日の327国債先物事件を引き起こした結果、その年の4月に辞職。上海市から南に1,700キロメートル離れた南の島に落ち延びることになった。だが、その背後には、すでに公安当局が迫っていた。

敗者の末路

上海証券取引所の開業式に出席した
管金生(右二)
327国債先物事件をきっかけに、中国証券監督管理委員会(CSRC)は1995年5月17日に国債先物取引を全面停止すると決定。その2日後に管金生は海南島で逮捕された。容疑は贈賄と40万元あまりに上る公金の横領。先物取引規則違反については、言及されなかった。

プライドの高い管金生は、327国債先物事件のせいで上海市に居づらくなったのだろう。それゆえ、海南島への逃避行というカードを切り、逮捕という最悪の結果に至った。

逃げなければ良かったのだ――。「管さんに海外逃亡の予兆がなければ、逮捕されることはなかっただろう」と、上海証券取引所の尉文淵(うつ ぶんえん)総経理は後に語っている。最後の最後まで、管金生は判断を誤った。

強力なリーダーを失った万国証券は、やがて崩壊に向かう。同じ上海市の申銀証券に吸収されることが決定。こうして1996年7月16日に“申銀万国証券”が発足した。慰めになったか分からないが、管金生の証券王国は瓦解したものの、“万国”の名はかろうじて残された。

管金生は起訴され、1997年2月3日に下された判決は懲役17年。先物市場の創設前から総額269万元に達する公金を横領していたとの判断だった。これが“中国証券業界の司祭”と呼ばれた人物の末路だった。管金生は上海市提籃橋の刑務所に入所した。

ただ、刑務所の中でも、負けず嫌いな管金生の性格は健在だった。刑務所を“提籃大学”と呼び、インターネットを通じてグローバル化や各国経済などについて学んだという。

ファンドを設立した頃の管金生(2016年) 2003年に病気療養のために出獄し、管金生の刑務所生活は8年ほどで終了した。その後は講演などの活動を細々と続けていたが、2016年6月にベンチャー投資の私募ファンドを創設。再び金融の世界に身を投じ、いまも活動を続けている。

裏切り者の行方

遼寧国発という会社は万国証券と協調して327国債先物を売っていたが、形勢不利と見るや買い方に転じた。1995年9月にCSRCが発表した調査結果で、遼寧国発は万国証券の“共犯”と認定された。

遼寧国発を率いていた高嶺、高原、高山の三兄弟にも公安当局の捜査が及んだものの、彼らは音信不通となり、表舞台から姿を消す。巨額の損失を出した彼らだが、海外に逃亡したもようで、現在も生死不明の状態が続く。

327国債先物事件の深い闇

327国債先物事件をめぐるCSRCの調査は、万国証券と遼寧国発が犯人だったと結論。一方、この両社と仕手戦を演じた“中経開”については、何も触れぬままだった。

中経開の正式名称は中国経済開発信託投資公司。1988年に設立された国有企業であり、財政部(財政省)の管轄下にあった。そして、国庫券(国債)の発行計画を担う財政部は、インフレ補填率を決定した中央政府部門。327国債先物取引の最重要情報を握っていた。

中経開はなぜ猛然と327国債先物を買い進めることができたのか?財政部との関係を考えれば、誰にでも一つの答えが浮かぶ。中経開への情報流出と、それを利用した関係者によるインサイダー取引(内部者取引)だ。

そうした言及は調査結果になかったものの、ある男のその後を追うと、この事件の闇の深さがうかがえる。

CSRCの調査終了から数カ月が経った1995年の年末ごろ、北京市で一人の男が刃物で刺される事件が起きた。その男の名は戴学民(たい がくみん)。中経開の上海営業部で総経理(マネージャー)を務めていた人物であり、327国債先物取引の主導者だった。

国際指名手配された戴学民 噂によると、戴学民の傷は肝臓に達していたが、警察には通報しなかった。病院で簡単な処置を済ませると、その日のうちに飛行機で北京市を離れたという。

その後、2001年4月に江蘇省南京市の検察当局が不動産会社を調査した際、戴学民の汚職が発覚した。捜査の動きを察知した戴学民は、妻子と一緒に海外に逃亡。公安当局は2002年1月に国際刑事警察機構(ICPO)を通じ、戴学民を国際指名手配した。

戴学民は米国への移住を希望したが、入国を拒まれ、行き着いた先は中米のベリーズ。この国の旅券を取得した後、英国に向かい、ロンドンに落ち着くことになった。だが、ロンドンでの逃亡生活は想像と違った。証券会社や図書館で資料整理などの仕事に就いたが、英国での生活になじめず、経済的にも困窮。家庭も崩壊し、妻子は戴学民を残して帰国した。

戴学民は英国での孤独な逃亡生活を余儀なくされた。こうしたなか中国経済は発展が続き、ロンドンのスーパーマーケットも中国製品であふれるようになる。戴学民は望郷の念を募らせた。

2009年に戴学民は“ジェフリー・ダイ”の偽名を使い、密かに帰国することに成功した。何度も英国と中国を往来するうちに危険はないと判断。2014年に故郷の安徽省を安住の地に定めた。

2015年4月に公安当局は国際指名手配の100人リストを公表し、海外逃亡犯の捜査を強化。英国から入国した外国籍の“ジェフリー・ダイ”と戴学民の特徴が一致していることをつかみ、身柄の拘束に成功した。戴学民は100人リストで最初の逮捕者となった。

逮捕された戴学民 取り調べを受ける戴学民 南京市で戴学民の裁判が始まり、3,300万元あまりの不正取得が認定され、2016年7月12日に懲役6年の実刑判決が言い渡された。これを不服として控訴したが、同年12月30日に下された二審判決は一審判決を支持。これにより刑が確定した。

戴学民の裁判でも、327国債先物事件に関する追及はなかった。327国債先物事件をめぐる中経開と財政部をめぐる謎は光をあてられることなく、今日に至っている。

なお、戴学民が海外逃亡した後、中経開は2002年6月に解体。理由は乱脈経営だった。327国債先物取引で中経開は70億元を超える利益を出したはずだが、1995年末に就任した関係者によると、残された資金は1億元もなかったという。巨額の資金も闇に消えた。

中経開が儲けたはずの巨額の資金は行方不明。しかし、327国債先物をめぐる仕手戦が、何人かの富豪を生み出したことは、広く知られている。その当時、まだ28歳の魏東(ぎ とう)、29歳の袁宝璟(えん ほうけい)、30歳の劉漢(りゅう かん)、34歳の周正毅(しゅう せいき)の4人。いずれも一時の栄華に酔いしれたが、最後は不幸が待ち受けていた。それはあたかも、327国債先物の“呪い”のようだった。

魏東の悲劇

魏東 魏東の葬儀

4人のうち最も若い魏東は、海外逃亡した戴学民の部下だった。噂によると、魏東の父親は財政部の印刷室からインフレ補填率に関する機密文書を自宅に持ち帰り、それを息子に見せたそうだ。魏東の父親である魏振雄は、中央財経大学の教授であり、専門は会計学。財政部の高級会計士評議会で委員を務めており、そうした行為が可能だったようだ。それを機に魏東は327国債先物を買いまくり、2億元を超える利益を得た。

魏東はその2億元を元手に、上海涌金実業を設立。2000年代に入ると活発な投資活動を展開し、九芝堂や国金証券などの上場企業を傘下に収め、総資産300億元とも呼ばれた“涌金帝国”を築き上げた。

“涌金帝国”を相続した陳金霞 前途洋々に見えた魏東だが、悲劇は突然訪れた。2008年4月29日に北京市の高級マンション9階にある自宅で家族と過ごしていた魏東は、急にベランダから身を投げ、自ら命を絶った。

“当局からの調査で、出国禁止となったことが原因”など、この自殺をめぐるさまざまな憶測が流れた。ただ、遺書によると、強迫性障害と“うつ”に悩まされていたようで、それを苦にした自殺だったようだ。しかし、魏東と近い関係にあった銀行の重役が汚職で摘発されたことから、自殺の真相をめぐり、いまでも噂が絶えない。

なお、魏東の妻である陳金霞(ちん きんか)は莫大な遺産を相続し、現在でも中国で指折りの女性富豪として知られる。

袁宝璟の狂気

新進気鋭の青年実業家だった袁宝璟 袁宝璟の暗殺対象となった劉漢 327国債先物で少なからぬ利益を得た袁宝璟は、遼寧省遼陽市の貧しい家庭に生まれた。苦学しながらも、北京市の中国政法大学に進学。大学を卒業した後、念願の銀行で職を得たが、1992年に起業。農業ビジネスで財を成した。それを元手に株式投資や企業買収を始め、新進気鋭の青年企業家として有名になった。

327国債先物取引でも大儲けした袁宝璟だが、それから1年後に四川省広漢市の先物取引で9,000万元あまりの損失を出した。この損失について袁宝璟は、同じく327国債先物で利益を得ていた劉漢のせいだと考えた。劉漢が四川省成都市で先物取引の商売をしており、相場への影響力があったからだ。

袁宝璟は恨みを晴らすため、16万元で元警察官の汪興(おう きょう)を雇い、劉漢の殺害を計画した。四川省に送り込まれた汪興ら暗殺チームは、1997年の初めに劉漢がホテルから出てきたところを銃撃。しかし、劉漢は自動車に逃げ込み、銃弾は命中せず、暗殺は失敗した。

暗殺に失敗した汪興だが、殺人教唆の事実をネタに、袁宝璟をたびたび脅迫。すでに有名な青年実業家となっていた袁宝璟は、政治的野心も芽生えており、こうした汪興の存在が邪魔となった。

そこで袁宝璟は兄に相談。すると兄は、親戚の二人に汪興の殺害を依頼。二人の刺客は2001年11月に汪興を刃物でメッタ刺しにしたが、命を奪うには至らなかった。この殺人未遂で、袁宝璟は再び汪興に脅された。

悪運の強かった汪興だが、2003年10月4日の深夜に銃撃され、死亡した。汪興を殺害したのは、18万元で雇われた袁宝璟の親戚たちだった。

この事件の捜査に着手した遼寧省公安庁の特別チームは、袁宝璟の一族による犯行と認定。彼らに口封じの殺人や海外逃亡の可能性があったことから、一斉逮捕に動いた。2003年11月24日に袁宝璟は身柄を拘束された。

法廷に立つ袁宝璟の一族 死刑判決を聞く袁宝璟 刑場に連行される袁宝璟 助命に尽力した袁宝璟の妻

四川省の大富豪として知られた劉漢 遼陽市で袁宝璟と兄、親戚の計4人について裁判が開かれ、2006年1月13日に一審判決が下された。袁宝璟を含む3人は死刑。親戚一人が死刑執行猶予だった。袁宝璟らは控訴したが、最終的に一審判決が支持され、刑が確定。2006年3月17日に薬物注射による死刑が執行された。

袁宝璟の妻は時価総額500億元に上るインドネシアの石油会社の株式を寄付すると申し出るなど、助命を求めていた。しかし、その願いは聞き容れられず、死刑は即座に執行された。その背景には、袁宝璟の仇敵である劉漢の存在があった。

“地下組織部長”と呼ばれた劉漢

豪州企業を買収した劉漢(2010年) 全人代で取材に応じる周永康(2010年) 法廷に立つ周永康(2015年) 劉漢は1980年代ごろから建材やガソリンなどの商売を始め、1990年代になると商品先物取引で蓄財。327国債先物取引でも大儲けし、1997年に漢竜集団という企業を設立した。その商売は組織暴力をともなうもので、劉漢の会社の実態はヤクザ組織。そもそも袁宝璟が勝てる相手ではなかった。

この劉漢の商売が拡大するのは、2000年代に入ってから。その背景には1999年に四川省の総書記に就任した周永康(しゅう えいこう)の存在があった。

劉漢の名前は公安当局のブラックリストに載っていた。しかし、2001年に“ある貴い人物”からの電話を受け、その話を聞き容れると、ブラックリストから名前が削除された。これを機に劉漢は鉱業、不動産業、建設業などに商売を急拡大。多数の企業を支配下に置くようになり、そのなかには米国や豪州の上場企業も含まれていた。

劉漢は周永康の長男である周濱(しゅう ひん)と懇意になり、ビジネスも共同で進めていた。劉漢は政商であり、裏社会も支配したことから、“地下組織部長”とも呼ばれ、四川省では無敵の存在だった。劉漢のバックにいる周永康は、2003年から公安部(公安省)のトップを務めており、袁宝璟を死刑に追い込むなど、造作もないことだった。

胡錦涛政権で中央政治局常務委員に登り詰めた周永康は、2012年に退任。“チャイナ9”と呼ばれた中国共産党の最高位クラスに入ったことから、安らかな老後が待っているはずだった。

だが、習近平政権が発足すると、強力な反腐敗運動を推進。“中央政治局常務委員に刑は及ばない”という暗黙のルールを打ち破り、周永康の調査が始まった。

2013年7月29日に周永康の重大な紀律違反が明らかにされた。同年12月5日には党籍が剥奪され、身柄も拘束される。2015年6月11日の一審判決では、収賄、職権乱用、国家機密漏洩などで、無期懲役、政治的権利の終身剥奪、財産の没収が言い渡された。こうした周永康の破滅は、劉漢の転落につながった。

劉漢の表の顔は、四川省政治協商会議委員、大富豪、慈善活動家、雲南省昆明市の名誉市民。2013年3月20日に北京市で逮捕されると、裏の顔が暴かれる。2014年3月31日に劉漢を筆頭とする犯罪組織36人の裁判が始まり、殺人を含む長年の組織犯罪が明らかにされた。

法廷で泣き叫ぶ劉漢 2014年5月23日に下された一審判決は死刑。同年8月7日の二審判決は一審判決を支持し、刑が確定した。平気で人を殺めた劉漢だが、自らの死を前に法廷で泣き叫ぶ一幕もあった。こうして劉漢は2015年2月9日に湖北省咸寧市で処刑された。

周正毅の転落

327国債先物で大儲けした魏東、袁宝璟、劉漢は、すでにこの世にいない。残る周正毅は生きているものの、獄中生活を続けている。

周正毅は上海市出身。小学校しか卒業していなかったが、17歳から工場の会計担当者として働き始め、わずかな賃金を稼ぐようになった。ある程度の貯蓄ができたところで、1970年代の終わりごろに市内でワンタン店を開いたが、これが周正毅の最終目標ではなかった。 1980年代になると、周正毅は留学の名目で日本に渡り、密輸品の販売に手を染めるようになった。

周正毅 1990年代に入ると、周正毅は株式ブームで蓄財。327国債先物取引でも大儲けした。1997年のアジア通貨危機では、香港株式市場の急落を好機とみなし、大々的に優良銘柄を購入。上海市では不動産を買い漁り、これらの投資が2000年代に実を結んだ。

2002年ごろには香港と上海の上場企業4社を支配下に収め、“上海一の大富豪”と呼ばれた。香港の芸能界で活躍していた女優の楊恭如(クリスティ・ヨン)とも親密な関係にあることが報じられるなど、女性好きでも有名だった。

2003年5月に中国銀行の香港子会社で汚職事件が発覚すると、周正毅に15億元が不正に融資された可能性が浮上し、当局が調査に乗り出した。その結果、架空出資や相場操縦などが発覚し、2003年9月5日に逮捕された。

2004年6月1日に下された一審判決は懲役3年、罰金4,000万元。周正毅は控訴せず、刑に服した。獄中生活はエアコン付きの個室という特別待遇で、後に刑務官が処分されるという事態に至った。

刑期満了で出獄した周正毅だったが、今度は贈賄と領収書不正発行の容疑で2007年1月21日に逮捕される。同年11月30日に下された一審判決は懲役16年で、控訴したものの、二審判決で刑が確定。こうして上海一の大富豪と呼ばれた周正毅は姿を消した。

証券界の管理体制刷新へ

敗者にも、勝者にも不幸をもたらした327国債先物事件は、証券界刷新の契機となった。これまでの連載で紹介したように、中国の証券界は自然発生し、地方政府や有能な人物が、その発展を促した。

1992年に起きた8.10事件を機にCSRCが発足し、中央政府が証券界の監督管理に乗り出したものの、惰性に任せた行政計画、地方政府の静かな抵抗、急激な相場変動などにより、半分無秩序な状態が続いていた。しかし、327国債先物事件という不祥事が起きたことで、中央政府は証券界の監督管理を本格化させる。

辞任に追い込まれた尉文淵さん 江沢民・国家主席に株券市場の存続を訴えたCSRCの劉鴻儒(りゅう こうじゅ)主席が、1995年3月31日に辞任。上海証券取引所の創設に貢献した尉文淵・総経理も、同年9月15日に依願退職に追い込まれた。同年10月23日には深圳証券取引所の夏斌(か ひん)総経理のほか、日本で証券市場を学んだ禹国剛(う こくこう)副総経理も辞任した。

後任の上海証券取引所の総経理は、上海市政府から就任。しかし、深圳証券取引所の総経理は、中央政府から派遣された。

その後、1996~1999年にかけて証券界をめぐる地方政府の影響力は徐々に削がれ、中央政府による監督管理権が強化される。勢いに任せて成長してきた中国本土の証券界は、327国債先物事件を契機に、中央政府管理の時代を迎えることになった。

改革開放期の中国と明治期の日本

司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」では、日本騎兵の養成を秋山好古(あきやま よしふる)という一個人に任せたことが、明治政府のユニークな特徴として指摘していた。文春文庫版の第一巻260ページには、次のように書かれている。

“要するに日本陸軍はこの満三十になったかならずの若い大尉に、騎兵建設についての調べのすべてを依頼したようなものであった。”

“それだけでなく、帰国したのちは好古自身がその建設をしなければならない。建設するだけでなく、将来戦いがあればその手作りの騎兵集団をひきいてゆくのはかれであり、一人ですべての役をひきうけていた。”

“この分野だけでなく他の分野でもすべてそういう調子であり、明治初年から中期にかけての小世帯の日本のおもしろさはこのあたりにあるであろう。”

この連載の第十二回と第十三回では、中国政府が禹国剛さんを日本に派遣し、そこで証券市場について学ばせ、帰国後は深圳証券取引所の創設という任務を与えたエピソードを紹介した。これはまるで明治政府と秋山好古の物語のようではないだろうか。

そのほかのエピソードを見ても、改革開放が始まり、証券市場の建設期に入った中国は、明治初年から中期にかけての日本と似ている。国家建設の面だけではなく、楽天主義に満ちた社会の雰囲気もそうだ。

327国債先物事件はそうした時代の終焉を意味した。これ以降の中国の証券界は、日本の明治後期以降に似た時代を迎えることになる。さまざまな個性が姿を消し、国家が前面に出る時代だ。もちろん、この先に話を進める予定だが、その前に次回からは香港証券市場の成り立ちを紹介する。

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は6/5公開予定です。お楽しみに!

 
バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 33. ヘネシー総督の時代 NEW!
  3. 32. 香港株式市場の黎明期
  4. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  5. 30. 通貨の信用
  6. 29. 香港のお金のはじまり
  7. 28. 327の呪いと新時代の到来
  8. 27. 地獄への7分47秒
  9. 26. 中国株との出会い
  10. 25. 呑み込まれる恐怖
  11. 24. ネイホウ!H株
  12. 23. 中国最大の株券闇市
  13. 22. 欲望、腐敗、流血
  14. 21. 悪意の萌芽
  15. 20. 文化広場の株式市場
  16. 19. 大暴れした上海市場
  17. 18. ニーハオ!B株
  18. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  19. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  20. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  21. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  22. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  23. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  24. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  25. 10. 経済特区の株券
  26. 09. “百万元”と呼ばれた男
  27. 08. 鄧小平からの贈り物
  28. 07. 世界一小さな取引所
  29. 06. こっそりと開いた証券市場
  30. 05. 目覚めた上海の投資家
  31. 04. 魔都の証券市場
  32. 03. 中国各地の暗闘者
  33. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  34. 01. 中国株の誕生前夜
  35. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。