コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

1999年の中国と新時代の予感

2022.8.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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1999年を“20世紀最後の年”と勘違いしていた人は、洋の東西を問わず、世界的に多かった。特に2000年開催オリンピック競技会の招致活動に力を入れていた中国では、“新世紀で最初のオリンピック”と宣伝していたので、そうした誤解が一般化。これを受けて中国科学院などが“21世紀は2001年から始まる”という公式見解を発表することになった。

米誌「TIME」の2000年1月1日付記念号
“Welcome to a New Century”
「新世紀へようこそ」とあるが、もちろん間違い
西暦は0年からではなく、1年から始まったのだから、1~100年までの100年間が西暦1世紀。そう考えれば、20世紀最後の年が2000年であることに気づくだろう。それでも、自説に固執する人は多く、インターネットの普及という効果もあり、“21世紀の始まりが何年からなのか”という議論は長く続いた。

新たな“千年紀”をめぐっても、それが始まるタイミングをめぐり、世界的に議論が絶えなかった。2000年を新たな千年紀が始まる“ミレニアム・イヤー”と呼び、日本では何にでも“ミレニアム~”と付けるのが流行した。もちろん、新しい千年紀も本当は2001年に始まるのだが、こうした誤解と議論の広がりは、ただ単に“騒ぐ口実”が欲しかったメディアのせいなのかも知れない。

いま思えば、本当の世紀の始まりである2001年は、1999年や2000年に比べると、少し影が薄かった。2000年という年も、本当は20世紀最後の年だったのに、21世紀最初の年であると勘違いされ、なんだか可哀そう。

その一方で、実は世紀や千年紀の交代とは何の関係もなかった1999年は、“最後の年”であると誤解され、不相応なほどに騒がれた。知識と社会のかかわりを研究する“知識社会学”とって、世紀や千年紀をめぐる騒動は、おもしろい研究テーマとなるだろう。

ミレニアム・カウントダウン・パーティー
東京ディズニーランド(TDL)では1999年末に開催
TDLが2000年末に採用したのは以下の名称
ニューセンチュリー・カウントダウン・パーティー
“世紀の誤認”は商業的に二度おいしかった
1999年と言えば、「ノストラダムスの大予言」を思い出す人もいるが、それに似たような空騒ぎだったのかも知れない。1999年にあれほど報道されたコンピューターの“2000年問題”も、結局は大混乱には至らなかった。

だが、1999年は世紀や千年紀の最後ではないが、“1900年代の最後の年”であることは確実だ。つまり、1999年は確かに何かの最後なのだが、それが世紀や千年紀ではなく、影の薄い“年代”であることに、多くの人が気づかなかっただけなのかも知れない。

そう考えると、1999年は世界が“中身のない喧騒”に包まれた年だった。前置きが非常に長くなったが、今回は1900年代最後の年に中国で起きた出来事と株式相場を紹介する。世界に喧騒感が漂うなかで、この年の中国は新時代の到来を予感させる出来事が多かった。

思い出深い519相場

1999年5月19日に突然始まった“五一九行情”(519相場)は、2001年6月14日まで続いた伝説の好相場だ。上海総合指数は1999年5月18日の終値1,059.874ポイントから、2001年6月14日の高値である2,245.435ポイントまで上昇。約2年1カ月も続いた上昇相場は、20世紀と21世紀を跨ぎ、“世紀を越える好相場”とも呼ばれた。

519相場は当時の個人投資家に良い思い出を残した。証券関連の新聞やウェブサイトでは、2009年5月19日に“519相場10周年”の特集が組まれた。519相場は何年経っても忘れがたい思い出らしく、2019年5月19日にも20周年の記念特集が企画された。ただ、若い投資家は519相場を知らない。“第一世代”の個人投資家だけが楽しめる特集だった。

この伝説の519相場だが、約2年1カ月にもわたって一本調子で上昇し続けたわけではない。その間に株式市場をめぐる改革や事件が頻発し、折に触れて株価の調整局面を迎えた。519相場が始まると、最初の1カ月あまりで上海総合指数は64.1%も上昇したことから、1999年の後半は特に調整が目立った。

その一方で株式市場の外に目を向ければ、1999年は中華人民共和国の建国50周年という節目の年であり、その後半は中国の新時代を予感させる出来事が多かった。

証券法と調整局面

「証券法」の施行で証券市場にも法の支配 「中華人民共和国証券法」(証券法)が1999年7月1日に施行された。全国人民代表大会(全人代)での最初の審議から施行まで6年近くを要した念願の法律だった。それまで行政立法権で監督管理していた証券市場に、初めて法の支配が確立された。

だが、それは“無法と無秩序がもたらした自由”の時代が終焉することを意味する。これを嫌気し、施行直前の1999年6月30日は上海総合指数が前日比で2.9%下落。施行初日の1999年7月1日は大幅に続落し、前日比7.6%安で終了した。

このように1999年の後半に迎えた519相場で最初の調整局面は、「証券法」の施行を機に始まった。「証券法」の施行も、株式市場の新時代到来を予感させる出来事だったが、それはネガティブな方向で作用した。

PT制度と初めての上場廃止

株式相場が調整局面に入ったばかりの1999年7月9日に“PT制度”が導入された。
PTとは“Particular Transfer”(特別譲渡)の意味。当時の「会社法」や「証券法」に基づくと、3年連続赤字の上場企業は“上場一時停止”(中国語:暫停上市)という扱いとなり、通常の売買はできない。そこで、上場一時停止の株式については、PTという文字を銘柄の略称に明記したうえで、“特別譲渡サービス”を通じて売買する。これがPT制度だ。

PT銘柄の売買は、毎週金曜日だけ。PT銘柄の売買注文は、通常銘柄のザラ場の時間帯に受け付けるが、約定はさせない。指値注文の範囲は、前回の終値に対して上下5%に限定。通常銘柄のザラ場が終了すると、“板寄せ方式”によって約定させる。

板寄せ方式とはザラ場のオークション方式と異なり、“集まった注文から、最も多くの株数が約定できる単一の価格を算出し、それに基づいて取引を成立させる”という個別競争売買の一種。PT銘柄の約定データは、証券市場の統計から除外される。

1999年7月9日に第一弾として4銘柄がPT銘柄に指定され、特別譲渡による売買が始まった。2000年5月12日には上海証券取引所にB株を上場している水仙電器がPT銘柄となり、日本人投資家にとって大きな衝撃となった。

1993年に上場した水仙電器は、洗濯機で有名な上海市の有名家電メーカー。1994年には米ドル建てで取引するB株も上場し、海外投資家による売買も盛んだった。だが、家電業界の激しい競争に敗れ、業績が悪化。1997~1999年の本決算で3年連続の赤字計上となり、上場一時停止のPT銘柄となった。

洗濯機で有名だった上海市の水仙電器 水仙電器はPT銘柄になった後も業績が回復せず、ついに2001年4月23日に上場廃止となった。上海証券取引所の株式が上場廃止となったのは、これが初めてだった。このため水仙電器は“最初の上場廃止銘柄”(中国語:退市第一股)と呼ばれる。

なお、水仙電器の上場廃止から1年あまりが過ぎた2002年5月1日で、このPT制度は廃止なった。

法輪功の取り締まりと株式市場

「証券法」の施行直前の1999年6月30日、上海総合指数の終値は1,689.428ポイントだった。一方、7月19日の終値は1,479.076ポイント。13営業日で12.6%も下落した。

こうしたなか7月20日に上海総合指数は急騰し、終値は前日比6.5%高の1,574.603ポイント。この日は早朝から中国の各地で、法輪功の学習者に対する取り締まりが始まったという。世界各地の法輪功が毎年7月20日にパレードするのは、これに抗議するためだ。

米国の首都で開かれた法輪功のパレード
(2022年7月21日)
ただ、正直言って、この日に何があったか記憶している中国人は、ほとんどいないと思う。筆者は上海市での留学を終えたばかりで、現地の人と連絡を取り合うことが多かったが、法輪功の取り締まりが話題になることはなかった。なお、法輪功の取り締まりに至った経緯は、この連載の第六十六回で紹介している。

中国政府の民政部(民政省)が法輪功の取り締まりを発表したのは7月22日。それによると、“法輪大法研究会”は未登録の団体であり、違法な活動を展開。迷信や邪説を宣伝し、大衆を騙し、事件を起こし、社会の安定を破壊した。「社会団体登記管理条例」の関連規定に基づき、法輪大研究会とそれが操る法輪功組織を違法組織と認定し、取り締まりを決定したという。

上海総合指数は7月21日も続伸し、前日比2.2%高で終了したが、7月22日は反落し、終値は前日比3.7%安と反落。7月23日は反発し、前日比2.3%高で終わった。これを見る限り、法輪功の取り締まりは株式市場に影響を与えなかったと言えるだろう。

法輪功メディアとトランプ氏

米国に本拠を置く法輪功のメディア会社“エポック・メディア・グループ”は、映像媒体の「新唐人電視」(NTDTV)や活字媒体の「大紀元時報」(エポック・タイムズ)などを通じ、さまざまな言語で中国に対する情報戦を仕掛けている。これらのメディアの背景に法輪功の存在があると知らずに見ている人も多い。

米国のプロパガンダメディアであるボイス・オブ・アメリカ(VOA)やラジオ・フリー・アジア(RFA)は、ここ数年にわたり中国の人権侵害などに関する情報を頻繁に流すようになったが、その情報源の多くは法輪功メディアによってもたらされる。例えば、新型コロナウイルスが生物兵器として中国の研究所で作成されたという説も、法輪功メディアが提供したものだ。

“新型コロナは中国で開発された生物兵器”
カナダで広まった「エポック・タイムズ」の特別号
ちょっとした騒ぎとなった
トランプ氏と法輪功の関係を取り上げたNBCニュース
挿絵右側の人物は法輪功の創始者である李洪志
民主党のスパイ工作を報じるエポック・タイムズの動画
中国的な要素はなく、法輪功メディアとは気づきにくい
中国共産党や米国民主党の陰謀論が多い
共和党右派などに人気
エポック・タイムズの取材を受けるララ・トランプ氏(左) そうした“法輪功メディア”とトランプ政権の関わりが、米国で報道された。米国三大ネットワークの一つであるNBCは2019年8月20日、法輪功メディアがSNSのフェイスブック(Facebook)を通じ、ドナルド・ジョン・トランプ大統領や極右の陰謀論に基づく政治運動“Qアノン”を支援していると報道した。

NBCの報道によると、もともと法輪功メディアは米国の政治と距離を置いていたが、2016年の大統領選挙にトランプ氏が出馬すると、彼を全面的に支持し、大々的な広告キャンペーンを展開した。法輪功はトランプ氏が中国共産党(共産党)を打倒する“同盟者”であると確信。ユーチューブ(YouTube)やフェイスブックなどを通じ、トランプ陣営を賛美した。

1万1,000本に上るフェイスブックの“トランプ支持広告”のために、法輪功メディアは2019年8月までの半年間で150万米ドルを投じたという。これは民主党の大統領候補者が使った金額を上回る規模だった。

そうした広告の多くは、トランプ氏への賛辞と米国を影で操る“闇の政府”をめぐる陰謀論。そして、トランプ氏の主張にそぐわないメディアを“フェイクニュース・メディア”と決めつけ、これを批判する内容だった。

こうした広告戦略に、トランプ氏も大いに満足。次男の妻であるララ・リー・トランプ氏は、トランプタワーでエポック・タイムズの上級編集者の取材に応じた。その40分間あまりにわたる動画が、2019年5月26日に法輪功メディアのユーチューブ・チャンネルにアップロードされた。

宗教と政治の距離

法輪功メディアは2019年に保守政治活動協議会(CPAC)での取材を展開。国会議員、トランプ陣営の閣僚、右派のセレブなどの主張を“米国の思想的リーダー”というユーチューブ・チャンネルで流した。それらは“反コロナワクチン”や“Qアノン”などの陰謀論を広める強力な情報発信源となった。

このNBCの報道は、1999年にウィリアム・ダウェル氏が法輪功の創始者である李洪志に取材した内容を引用し、その教義にも疑問を呈した。

ワシントンDCで講演する李洪志(2018年6月21日) それによると、李洪志は同性愛、フェミニズム、ポピュラー音楽、妊娠中絶などを邪悪であると批判。また、人間は壁をすり抜けたりすることができると主張するほか、エイリアンの脅威を唱えている。20世紀の初頭に“エイリアン”が他の惑星や未知の次元から地球に到来し、コンピューターや飛行機などの“科学”で人間の精神を支配しているという。

こうした李洪志の話を聞くと、法輪功が単なる気功学習者の団体と言うには無理があり、むしろ新興宗教に近いようだ。

エポック・タイムズの独占取材に応じたトランプ氏
コロナ規制の撤廃を主張
(2022年1月31日)
トランプ氏のビデオメッセージ
旧統一教会の関連団体イベントに寄せられた
NBCの報道に対し、法輪功メディアはもちろん反論した。しかし、「ニューヨーク・タイムズ」やオンラインメディアの“バズフィード”のほか、英国の「ガーディアン」もトランプ氏と法輪功メディアの親密な関係を報道している。

2021年4月30日付の「ガーディアン」によると、法輪功メディアはジョセフ・ロビネット・バイデン大統領と民主党を共産党と結びつけ、そうした陰謀論を発信。バイデン政権が始まってからも、民主党を攻撃する陰謀論を流しているという。

日本では2022年7月8日に安倍晋三・元首相が非業の死を遂げた。殺害犯の供述から、安倍元首相と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係がクローズアップされ、政治と宗教の距離感をめぐる報道が増加した。

旧統一教会の関連団体が2021年9月11日に開催したイベントに、安倍元首相はビデオメッセージを寄せたが、それはトランプ元大統領も同様だった。そこにはマイケル・リチャード・ペンス元副大統領やリチャード・ブルース・チェイニー元大統領など共和党の重鎮の姿もあった。

旧統一教会も法輪功も、反共産主義で共通しており、右派の政治家との距離感を詰めていた。政治と宗教をめぐっては、いまの日本では自由民主党と旧統一教会の関係が注目されているが、米国でも共和党と法輪功の距離感が本格的に問題視されるかもしれない。

ニューヨーク州ディアパークのドラゴン・スプリングス
米国における法輪功の本拠地
財力の大きさがうかがえる
なお、法輪功はニューヨーク州ディアパークに“ドラゴン・スプリングス”(中国語:竜泉寺)と呼ばれる1.73平方キロメートルの本拠地を設けており、今年70歳となった創始者の李洪志もここで生活している。数百人に上る法輪功の学習者が、李洪志の厳しい管理下で生活しており、地元住民との間に軋轢もあるという。

国泰君安証券の誕生

1999年8月18日は中国人にとって、かなり縁起の良い日だ。“久”と同じ発音の“9”、“発”に通じる“8”、それに“ナンバーワン”の“1”で構成されるからだ。“久”は“永遠”や“末永い”、“発”は“発財”(財を成す)や“発展”などを意味する。

この縁起の良い日に、上海市の国泰証券と広東省深圳市の君安証券が合併し、最大手の国泰君安証券が誕生した。その総裁の座に就いたのは、当時36歳だった姚剛。CSRCで先物取引監督管理の主任を務めていた人物だ。この若者に証券最大手の経営が託された。

国泰君安証券の看板 国泰君安証券の誕生は、中国証券業界の新時代の始まりを意味した。1990年代前半の証券市場は、大手証券会社が“ゲームメーカー”であり、相場操縦や投資資金の違法な融資など“やりたい放題”だった。なかでも申銀証券の闞治東(かん・ちとう)、万国証券の管金生(かん・きんせい)、君安証券の張国慶(ちょう・こくけい)は大きな影響力を有し、“中国株式市場の三大教父”と呼ばれた。

しかし、1995年2月23日に起きた“327国債先物事件”で、万国証券の管金生が失脚。上海市政府の主導で、申銀証券と万国証券は合併し、1996年7月16日に“申銀万国証券”が誕生した。

なお、管金生の万国証券を事実上吸収した闞治東は、上海証券業界を牛耳る存在となったが、彼の“黄金時代”は1年ほどしか続かなかった。闞治東は中国工商銀行から違法に資金を借り入れ、投機的な株式売買と相場操縦に手を染めており、申銀万国証券の総裁職を解任された。それは1997年6月13日付「人民日報」を通じ、人々の知るところとなった。

上海証券取引所の開業式
中央の人物が闞治東、右から2番目が管金生
君安証券の張国慶
“三大教父”の最後の一人
“三大教父”の最後の一人となった張国慶も、深圳市を本拠とする君安証券の完全支配を目論んでいたことが明らかとなり、国有財産の私物化、仮装出資、資本逃避などの罪で、1998年に失脚した。

張国慶が去った後の君安証券は、上海市の国泰証券と合併することが決まった。君安証券は中国人民解放軍(解放軍)の広州軍区司令部情報処を後ろ盾とする。一方、国泰証券は金融の中心地である上海市の大手。CSRCの行政主導による合併だったが、企業文化が大きく異なることから、部門編成や人事などは難航を極めたという。

こうして“三大教父”の時代に終止符が打たれ、国泰君安証券が誕生した。これも株式市場の新時代を予感させる出来事の一つだった。この最大手の証券会社を経営するのはCSRC出身の姚剛。中央政府の監督管理の手は、証券業界にさらに深く食い込んだ。

姚剛の栄光と転落

国泰君安証券の経営を任された姚剛は1980年に北京大学の国際政治学部に入学。1981年に日本への留学生に選抜され、日本語研修を受けた後、1982年に東京大学へ留学した。社会学者の富永健一の下で学び、1988年に社会学の修士号を取得。その後は三洋証券のほか、ソシエテ・ジェネラル証券やクレディ・リヨネの東京支店で働いた。

日本での仕事を辞めた後、1993年にCSRCに採用され、先物取引の監督管理を始めた。企業文化が大きく異なる君安証券と国泰証券の合併をまとめたのは、この姚剛だった。国泰君安証券を軌道に乗せた姚剛は、2002年にCSRCに戻ると、数々の要職を歴任し、副主席の筆頭に出世した。特に株式の新規公開(IPO)については、10年以上も審査権を握っていたことから、“発行審査の皇帝”と呼ばれた。

だが、2015年11月13日に共産党中央紀律検査員会の監察部は、深刻な党規律違反の疑いで姚剛を調査すると発表。2017年7月20日に発表された共産党の調査結果によると、党規律違反のほか、犯罪容疑も見つかり、党籍解除と公職追放の処分が下された。

共産党での処分が終わると、姚剛は司直の手に委ねられた。2018年9月28日に下された判決は、収賄罪で懲役15年と罰金700万元、インサイダー取引(内部者取引)の罪で懲役6年と罰金400万元。これらを勘案し、懲役18年と罰金1,100万元が科せられることが決まった。

被告人席に立つ姚剛
(2018年7月11日)
姚剛は2006~2015年にわたり、6,961万元に上る賄賂を受け取っていた。また、2007年1~4月には職務で知った情報を使い、インサイダー取引で210万元の利益を得たという。 ガバナンス強化が目的のCSRCに、長年にわたり利益を貪る腐敗官僚がいたことは、大きな衝撃だった。

三類企業の株式取引再開

1999年7月1日に「証券法」が施行されると、1,700ポイントを超えたばかりの上海総合指数は調整局面に入り、1カ月も経たずに200ポイント以上も下落。7月19日には終値で節目の1,500ポイントを割り込んだ。法輪功の取り締まりが始まった7月20日に急反発してからは、1,600ポイントを挟んで一進一退。上値の重さが目立つようになった。

こうしたなか建国50周年の国慶節が10月1日に迫っていた。株式市場にも明るい材料が必要だったことから、9月9日に“三類企業”の株式取引が再開された。

三類企業とは国有企業、国有持ち株会社、上場企業という3つのタイプの企業を意味する。大口投資家である三類企業の株式取引は、市場の過熱を抑制するために、1997年5月22日に禁止されていた。しかし、株式市場の健全化が進んだことを受け、約2年3カ月ぶりに解禁されることになった。

三類企業の売買解禁を受け、9月9日は上海総合指数が急騰し、前日比6.6%高で終了した。だが、その後の株式市場は軟調に推移し、9月30日には急騰前の水準に戻った。10月1日の国慶節から1週間の連休に入ることから、手仕舞い売りが広がったとみられる。

IT大国への第一歩

現在の中国本土は、IT(情報技術)大国として知られるが、そうした未来を1999年当時に予見できた者は、極わずかだっただろう。だが、未来が見えていた者もいたようで、彼らは新時代の到来に人生を賭けた。

前年の1998年6月18日には劉強東(リチャード・リュウ)が北京市でJDドットコムを設立。深圳市では1998年11月11日に馬化騰(ポニー・マー)が4人の仲間とともにテンセント(騰訊)を創業していた。

1999年6月28日には馬雲(ジャック・マー)が17人の仲間と一緒に浙江省杭州市でアリババ(阿里巴巴集団)を創設。翌年の2000年1月1日には李彦宏(ロビン・リー)が北京市でバイドゥ(百度)を設立した。

創業初期のアリババ経営陣、先頭の人物は馬雲 このように現在のIT大手の多くは、1999年前後に創業している。彼らには中国がIT大国になる未来が見えていたのかも知れない。この1999年の9月3~6日にインターネット時代を見据えた画期的な実験が開催された。その実験の名を“72時間インターネット生存テスト”という。

自由だった1990年代末のネット環境

“72時間インターネット生存テスト”は上海市での業務を始めたばかり台湾のポータルサイト“夢想家中文網”(ドリーマー・ドットコム)が、中国本土のテレビ局や新聞社など10社と共同で開催。これを中央政府の国家情報産業省(国家信息産業部)が監督した。

当時の中国本土は“グレート・ファイア・ウォール”(GFW)と呼ばれる検閲システムの稼働前であり、インターネットの規制もほとんどなかった。台湾のポータルサイトとの提携も可能だった。

1997年当時の政通路、向かいの店は“ミスター・ピザ” 筆者は1997~1999年に上海市の復旦大学に留学していた。当時は留学生が暮らす国際文化交流学院は、メインキャンパスの東側に位置する “政通路”にあった。この政通路は留学生を相手にした店が多く、日本料理店、韓国料理店、ピザレストランなどもあった。

雑貨店の店主も外国人との付き合いが上手く、海外の商売について留学生から熱心に話を聞き、良いものを経営に取り入れるという“小さな革命”を実践していた。もしかしたら、当時の政通路は上海市のサービス業における最先端地区だったかも知れない。

この政通路で1998年だったと思うが、“インターネット・バー”が開業した。1時間5元でインターネットやパソコンゲームが利用可能。日本語のOSをインストールしたパソコンも導入され、日本との連絡や海外情報の収集がかなり便利になった。それほど自由だった。

72時間インターネット生存テスト

この実験はインターネット以外に通信手段がない隔離空間に参加者を閉じ込め、72時間生存できるかを試すという内容。生存のために必要な物資は、インターネットを通じて入手するしかない。現在では簡単なことかも知れないが、当時では成否を見通せない野心的な実験だった。

この実験は1999年8月18日に発表され、参加者の募集が始まった。期限の8月25日までに5,068人が名乗りを上げた。抽選やオンライン投票を経て、最終的に12人の参加者が確定。参加者の性別は男女6人ずつで、居住地は北京市、上海市、広東省広州市から4人ずつ。年齢を登録したのは6人で、その範囲は18~35歳。ネット経験は長い人でも4年にすぎず、うち1人はまったくの未経験だった。

このうち上海市から参加する35歳の人物は直前に辞退しており、別の人物が急遽参加。実際の実験で年齢登録を済ませたのは5人だけとなり、その範囲は18~28歳となった。

9月2日に参加者は健康診断を受けたうえで、万が一に備えて保険契約を交わした。中国科学院の心理研究所の指導に基づき、心理テストも受けた。これは長時間のネット生活が人間にどのような影響を与えるのか調べるためであり、実験の終了後に比較の心理テストが予定されていた。

12人の参加者は、居住地を離れ、別の都市に移送された。移送先の都市では高級ホテルに個室が用意され、そこに参加者は監禁された。手荷物は没収され、主催者が配給する衣類に着替えさせられた。そのうえで参加者には生活費として、1人につき現金1,500元と電子マネー1,500元が支給された。

テンセントが1999年2月10日にリリースしたOICQ
パソコンで動作するインスタント・メッセンジャー
簡素なインターフェイスが時代を感じさせる
参加者が監禁された個室には、ダイヤルアップ接続のデスクトップ・パソコンが備えられていた。OS(基本ソフトウェア)は“ウィンドウズ95”。このほか、参加者を監視するカメラも設置されていた。その一方で室内には電話やテレビはもちろん、ベッドすら置かれておらず、衛生用品もトイレットペーパーが1ロールあるだけだった。

生きるために必要な物資は、インターネットを通じて注文することになる。誰かに助けを求めることも可能だが、インターネットを利用する必要がある。ただし、インターネットを通じて取り寄せた商品などを、参加者が直接受け取ることはできない。指定の場所に届けてもらい、係員から受け取ることになる。

また、この部屋で72時間生存することに加え、支給された現金と電子マネーを使い切ることも、参加者に与えられた課題だった。ひたすら助けを求めるだけでは、この課題をクリアすることはできない。この実験を100社近くのメディアが取材し、新聞、ラジオ、テレビのほか、インターネットでも報道された。

参加者たちの明暗

実験は9月3日の午後2時にスタート。通信インフラが脆弱だった当時、順調にダイヤルアップでインターネットに接続できる参加者は少なかった。しかし、参加者の明暗は、すぐに判明した。

手慣れた参加者は早くも実験開始から1時間以内に出前を注文し、数々の生活物資を買いそろえることに成功した。その一方で、いつまで経ってもインターネットに接続できない参加者や目的のウェブサイトにたどり着けない参加者もいた。

実験開始から26時間経過を伝える新聞記事 こうしたなか、北京市から参加した郭世鵬が、深刻な事態に陥った。18歳の彼はインターネットの経験がゼロ。移送先の広州市で、生命も危うい状況となった。

郭世鵬がインターネットに接続できたのは9月4日になってから。まったく食事していないうえ、睡眠も2時間しかできなかった。なんとか出前可能なウェブサイトを見つけたが、電子メールの知識が皆無だったことから、31回にわたって試しても、注文を完了できなかった。

なんとか北京市の友人に連絡がついたものの、広州市にいる郭世鵬を助けることはできない。そのうえ、郭世鵬は指定された対話ツールを開いていなかったことから、主催者が助けることもできなかった。

それを知ったネットユーザーたちは、何とか郭世鵬を助けようと、電子メールを送ったり、掲示板に書き込んだりしたが、それを彼が見ることはなかった。

実験開始から22時間目に、主催者は医師に待機を指示。郭世鵬は実験開始から25時間40分でギブアップした。幸いにして、睡眠不足と疲労のほかに身体や精神への影響はなかった。

一方、上海市から参加し、広州市で実験を受けている19歳の沈君賢は、さまざまな生活物資を取り寄せることに成功。初日に毛布を掛けて就寝できたのは、彼だけだった。そのほかの参加者は、寝具もなく、床で寝た。

そのうえ、沈君賢はインターネットを通じて北京市の花屋と提携することに成功。実験開始から24時間でオンライン・ショップを立ち上げた。このショップは12都市からの注文を受け付け、花を販売。代金はクレジットカードあるいは現金振込で決済した。

実験の特集記事
(1999年9月8日)
9月6日の午後2時に実験は終了。11人が生存に成功し、脱落者は郭世鵬だけだった。ただ、11人が生存したと言っても、その生活状況には大差があった。個室が生活物資でいっぱいだった者もいれば、ギリギリの状態だった者もいた。参加者たちは元気そうに振舞ったが、心理テストの結果、大部分がかなり疲労しており、注意力や記憶力の低下が顕著だったという。

実験の意義

この実験は当時の中国本土におけるEコマース(電子商取引)の問題を次々と暴き出した。参加者のコンピューター・リテラシーやネット・リテラシーだけではなく、インターネット・サービス・プロバイダ(ISP)やインターネット・コンテンツ・プロバイダ(ICP)のサービス品質、オンライン・ショップの反応速度、電子マネーに対する銀行の確認所要時間なども試された。

12人の参加者に支給された生活費のうち、72時間で実際に使われたのは総額8,774元にすぎなかった。総支給額が3万6,000元なので、24.4%しか使われなかったことになる。うち現金の消費額は6,920元で、支給額の38.4%。電子マネーの消費額は1,854元で、支給額の10.3%に過ぎなかった。“キャッシュレス決済大国”と呼ばれる現在の中国からは、信じられないような状況だった。

この実験を通じ、中国本土のEコマースが当時はかなり遅れていたことがあぶり出されたが、その一方で発展の余地が大きいことも判明した。これは誕生したばかりのテンセント、JDドットコム、アリババにとって、大きな励みとなった。

テンセントのウィチャットペイ
中国ではキャッシュレス決済が当たり前に
2010年代になると、中国は “IT大国”、“キャッシュレス決済大国”への変貌を遂げる。わずか10年あまりでの激変は、IT大手の民営企業による貢献ばかりが目立つが、こうした実験が果たした意義も大きかった。これも新しい時代の到来を予感させる出来事だった。

建国50周年

毛沢東は1949年10月1日に北京市の天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。1950年から毎年10月1日は“国慶節”の祝日となり、建国から節目の年には“大閲兵”(軍事パレード)が実施されるようになった。ただし、プロレタリア文化大革命(文革)の影響で、建国10周年以降は長年にわたり軍事パレードが実施されていなかった。

国慶節の軍事パレードが復活したのは、建国35周年の1984年。鄧小平の提案によるものだった。だが、建国40周年の1989年は、天安門事件の影響で軍事パレードは実施されなかった。

閲兵式に臨む江沢民・国家主席
(1999年10月1日)
建国50周年の1999年は、15年ぶりに軍事パレードを開催。閲兵を受けるのは17組の行進部隊1万1,000人あまりと25組の車両部隊400台あまり。閲兵後の軍事パレードには10組の航空機部隊も加わった。軍事パレードの後に開かれた群衆パレードには、10万人以上が参加。飾り付けられたフロート車は91台を数えた。

閲兵後に行われた江沢民・国家主席による演説は、“豊かで強く、民主的かつ文明的であり、社会主義の現代化を果たした中国が、必ずや世界の東方に出現するだろう”という言葉で締めくくられた。これは中国の新時代到来を予告する宣言とも言えるだろう。なお、これ以降は10年ごとの国慶節で、軍事パレードが実施されている。

新時代を予感させた1999年

エリザベス女王と江沢民・国家主席 建国50周年の国慶節が終わると、中国の新時代を予感させる出来事が相次いだ。江沢民・国家主席が10月19日に英国を公式訪問。“中華人民共和国の国家元首”が訪英するのは、これが初めてだった。

2年3カ月ほど前に英国は香港の主権を中国に返還。“百年の国恥”と呼ばれた国辱の一つが終焉したうえ、江沢民・国家主席の訪英はエリザベス女王の招聘によるものだったことから、中国の人々は英中両国の新時代を実感した。

11月15日には中国の世界貿易機関(WTO)への加盟をめぐり、米国との二国間協議で合意書が調印。これにより中国がWTOに加盟する可能性が強まった。

米国との合意書調印から5日後の1999年11月20日午前6時30分に、宇宙船“神舟1号”が打ち上げられた。長征2号F型ロケットで打ち上げられた神舟1号の重量は約7.6トン。地球低軌道(LEO)に入った神舟一号は地球を14回ほど周回した後、11月21日午前3時41分に内モンゴル自治区の着陸場に帰還した。

神舟1号は将来の有人宇宙飛行を視野に入れた宇宙船。中国が世界で3番目の有人宇宙飛行の成功国になる日が近づいた。

中華人民共和国の国家元首による英国公式訪問は、建国50年目にして、ようやく実現した。そこで、次に中国の国家元首とは何なのかを解説する。また、WTO加盟と有人宇宙飛行は21世紀に実現するのだが、それに至るまでの道のりも紹介しよう。

中国政府要人の訪英

英国を訪問した華国鋒・首相
左はマーガレット・サッチャー首相
中華人民共和国の国家元首として英国を訪問したのは江沢民・国家主席が初めてだったが、それよりも前に中国政府の要人が訪英したことはある。1979年10月28日に訪英した当時の華国鋒は、共産党のトップである中央委員会主席であり、行政の長である国務院総理(首相)も兼任し、さらに解放軍の統帥権を握る中央軍事委員会の主席でもあった。なお、中央委員会主席の役職は1982年9月1日で廃止され、中央委員会総書記(総書記)に引き継がれた。

70年を超えた中華人民共和国の歴史で、共産党、中央政府、解放軍の権限を一手に掌握した人物は、華国鋒だけだ。彼は中国政府の首脳として初めて英国を訪問したが、国家元首ではなかった。そのうえ、名目的に華国鋒は中国の最高実力者だが、すでに鄧小平などの改革派が勢力を増しており、当時は政治的影響力が凋落していた。

華国鋒の訪英から6年近くが過ぎた1985年6月2日に、趙紫陽・首相が英国を訪問。翌1986年6月9日には共産党のトップである胡耀邦・総書記も訪英を果たした。だが、1989年の天安門事件の影響で、中国の首脳による訪英は10年近く中断。香港返還後の1998年3月31日になって、ようやく朱鎔基・首相が英国を訪問した。しかし、これらの人物は、いずれも国家元首ではなかった。

中国の国家主席とは

国家元首である“国家主席”は、文革で迫害された劉少奇・国家主席が1968年10月31日に解任されてから空席が続き、1975年1月17日に全人代が新しい「中華人民共和国憲法」(1975年憲法)を採択したことで、正式に廃止された。国家主席が廃止されると、全人代常務委員会の委員長が、国家元首としての役割を代行した。

1982年12月4日に「中華人民共和国憲法」(1982年憲法)が採択されると、国家主席が復活した。中国の国家主席と言えば、強大な権限を持つというイメージが日本などでは広まっているが、これは大きな誤解だ。

国家主席は“名目上の国家元首”であり、政治の実権はなく、中国を代表する国事行為などを担当するだけだ。例えば、“全人代の決定”に基づいた法律の公布や政府要職の任命のほか、外国使節の信任状接受などが、元首としての国家主席の職務だ。このほか、緊急事態宣言や宣戦布告など、中国を代表するメッセージの発布も、その仕事の一部だ。

1983年に国家主席に就任した李先念
毛沢東、劉少奇に次いで三代目の国家主席となった
つまり、中国の国家主席とは、首相が政治の実権を握るドイツやイスラエルにおける大統領のようなものだ。国家主席が復活すると、1983年6月18日に李先念がその職に就いた。1988年4月8日には楊尚昆が国家主席に就任。だが、李先念や楊尚昆が国家主席として強大な権限を振るったことはなく、中国の最高実力者であると認識した人はいない。李先念や楊尚昆が国家主席だったことを記憶している中国人も少ないだろう。

中国の最高実力者は、共産党のトップである総書記と解放軍の統帥権を持つ中央軍事委員会の主席を兼職する人物だ。そうした人物が国家主席も兼職する“三位一体”の慣習は、江沢民がトップだった1993年3月27日に始まり、胡錦涛や習近平も踏襲した。国家主席は総書記が兼任してこそ意味がある役職であり、そうでなければ、ただの名誉職にすぎない。

二つの中央軍事委員会

共産党のトップである総書記は、中央軍事委員会の主席を兼務するのが慣例だ。中央軍事委員会は“中国共産党中央軍事委員会”と“中華人民共和国中央軍事委員会”の二つがあるが、実際は一つの組織だ。こうした組織編成は中国語で“一個機構両塊牌子”(一つの行政機構に二枚の看板)と呼ばれ、中国ではよくみられる。

解放軍は“国家の軍隊”であると同時に、“共産党の軍隊”でもあることから、中央軍事委員会も国家機関と党機関の二つがあるという体裁が整えられているが、実際は同一人物が二つの中央軍事委員会で、同じランクの同じ役職を兼ねている。

この二つの中央軍事委員会の主席は、上記のように通常は同一人物だが、それぞれ別の人物が就任することも可能。最高実力者の権力移譲の際にそうした状況が起きる。

中央軍事委員会(中央軍委)の習近平・主席
中央軍委の主席として振る舞う際は“軍便服”を着用する
例えば、江沢民から胡錦涛への権力移譲は、総書記の職が2002年11月15日、国家主席の職が2003年3月15日、中国共産党中央軍事委員会主席の職が2004年9月19日、中華人民共和国中央軍事委員会主席の職が2005年3月8日だった。最後に江沢民が手放したのは、中央軍事委員会主席であり、これが最も重視される役職であることが分かる。

胡錦涛から習近平への権利移譲は少し異なり、共産党の党職から国家の公職の順に実行された。胡錦涛は2012年11月15日に総書記と中国共産党中央軍事委員会主席という二つの党職から一気に退いた。そして、2013年3月14日に国家主席と中華人民共和国中央軍事委員会主席という二つの公職を習近平に移譲した。権力移譲の方法を中国が現在も模索中であることが伺える。

習近平3期目の問題

第13期全人代第1回会議で憲法改正案を採択
(2018年3月11日)
1982年憲法の第5回改正案が、2018年3月11日に全人代で採択され、即日施行された。それまでの憲法では、国家主席と副主席について2期を超える連任を禁止していた。1期は5年であることから、国家主席であり続けるのは最長10年間という決まりだった。しかし、この憲法改正で、その条文が削除され、連任の制限がなくなった。

これを受けて西側メディアは、“党幹部の終身制を廃止しようとした鄧小平の努力を水泡に帰す行為”、“文革時代のような個人崇拝が激しさを増す”、“習皇帝の時代が到来する”などと批判。同時に、共産党独裁体制の脅威を煽った。

しかし、こうした批判は、やや的外れだ。なぜなら憲法を改正しなくても、“習近平体制は、もともと無制限で延長できるもの”だったからだ。おそらく、そうしたメディアの報道は、“国家主席は強い権力を持つ役職”と思い込んでいたのかも知れない。

だが、前述のように、国家主席とは“名目上の国家元首”であり、それだけでは何の権力もない名誉職のようなものだ。中国の最高実力者とは“共産党のトップである総書記と解放軍の統帥権を持つ中央軍事委員会の主席を兼職する人物”だ。そして、総書記と中央軍事委員会主席には、もともと5年の任期はあるが、連任の制限はない。

つまり、憲法を改正しなくても、習近平は総書記と中央軍事委員会の主席を無限に連任し、最高実力者であり続けることが可能だった。“名目上の国家元首”の首だけ、挿げ替えれば良い話だった。

国家主席の連任制限を削除したことについては、“三位一体”の体制を保持するためと、2018年3月1日付「人民日報」は説明。もともと任期制限がなかった総書記と中央軍事委員会主席に、国家主席を合わせた措置であり、党幹部の終身制が復活することを意味するものではないと強調している。

江沢民と胡錦涛は2期10年で退いた。彼らも最高実力者であり続けることが可能だったが、2期10年で権力を後継者に移譲した。そこに法的な義務や制限はなく、ただ単に慣習や不文律に従っただけなのかも知れない。

“非凡な10年”
習近平時代を讃える特集報道が増加
そうした慣習や不文律に習近平に従わず、最高実力者の国家主席として3期目を務めるかは未知数だ。2期目の終わりが近づいている2022年7月の新華社ニュースを見ると、習近平体制を“非凡な10年”と称賛し続けており、3期目もありそうな雰囲気だ。それに後継者らしい人物も見当たらない。

しかし、共産党の中枢は堅く閉ざされ、その内情は外部からうかがえない。意外な人物が次世代のリーダーとして突如出現する可能性もある。習近平体制の3期目をめぐる問題は、2022年下期に予定されている共産党の第20期全国代表大会で答えが明らかとなる。中国の政治体制は、大きな岐路を迎えようとしている。

中国のWTO加盟への道のり

続いて話題をWTOに移そう。中国のWTO加盟に向けた動きは、1986年7月11日のGATT(関税及び貿易に関する一般協定)への加盟申請に始まった。ただし、中国にとっては“加盟申請”ではなく、“地位回復”の申請だった。その背景には、中国国民党(国民党)との内戦があった。

GATTは1948年1月1日に暫定適用が始まり、この年の5月には国民党の中華民国も正式な加盟国となっていた。しかし、内戦に敗れた国民党と中華民国政府は、台湾に移転した後、1950年3月6日にGATTからの脱退を宣言。この年の5月に中華民国の脱退が承認された。

中華人民共和国(中国側)としては、中華民国(台湾側)による1950年3月6日のGATT脱退宣言は無効という立場。これを背景に、1986年7月11日のGATTへの申請は“地位回復”と主張した。中国側の要求にGATT理事会は柔軟に対応し、“中国の締結国としての地位に関する作業部会”が設置された。

こうして中国側のGATT加盟に向けた多国間協議と二国間協議が始まったが、1989年の天安門事件で交渉が停滞。中国側も加盟への意欲を弱めた。しかし、台湾側が1990年1月1日に“台湾・澎湖・金門・馬祖独立関税地域”の名義でGATT加盟を申請。GATT加盟は中台両岸の政治対立に発展し、中国側の加盟意欲も再燃した。

国民大会での台湾総統選挙
当時の総統選挙は直接選挙ではなかった
この選挙の結果、李登輝が第八代総統に就任した
(1990年3月21日)
台湾側の加盟は我々の後であるべきと、中国側は主張。一方、加盟の手続きはそれぞれ個別に進めるべきであり、方式も“地位回復”ではなく、“新規加盟”にすべきと、台湾側は反論した。

この対立が原因で、台湾側によるGATT加盟申請は、受理が遅れた。最終的に加盟の手続きは個別に進めるが、加盟の順序は中国側が先で、台湾側が後ということで妥結した。言い換えれば、中国側が加盟できなければ、台湾側の加盟はないという“一蓮托生”の関係となった。

こうしたいざこざの影響もあり、中国側のGATT加盟は実現せず、1995年1月1日に発足したWTOの原加盟国にもなれなかった。GATTは1995年末で消滅することから、中国側は1995年12月7日にWTO加盟を申請。37カ国・地域との個別交渉が始まった。

1997年5月23日に中国側は最初の合意書に調印。相手はハンガリーだった。米国との合意書調印は11カ国目であり、GATT加盟申請から13年目の快挙。残り26カ国・地域・組織との合意書調印も、飛躍的な進展が見込まれた。

米中二国間協議の合意書調印式
前列右は対外貿易経済合作部の石広生・部長
(1999年11月15日)
WTO加盟議定書に署名する石広生・部長
(2001年11月11日)
そうした予想の通り、1999年11月28日にカナダとの合意書に調印。2000年は24カ国・地域との合意書調印に成功した。残るメキシコとの調印はかなり遅れたが、これも2001年9月13日に達成。11月11日にカタールの首都ドーハで開催されたWTO閣僚会議で、加盟議定書が採択された。

これに続いて、台湾側の加盟議定書も採択。加盟議定書の発効は、中国側が12月11日で、台湾側が2002年1月1日だった。

WTO加盟により、中国市場にやって来る強力な外資は“オオカミ”に例えられた。そんなオオカミを恐れずに、新しい時代にどう対処するのかが大きな話題となり、1991年に公開された米国映画「ダンス・ウィズ・ウルブス」にちなんで、“与狼共舞”という言葉が流行した。

有人宇宙飛行への道のり

続いて取り上げるのは、有人宇宙飛行への道のりだ。中国の有人宇宙飛行計画は1992年9月21日に発動したことから、“プロジェクト921”と呼ばれた。1998~1999年の打ち上げを目指し、1994年7月3日に有人宇宙船の発射施設の建設に着手した。これに総額11億元あまりを投じた。

有人宇宙船の発射施設が建設されたのは“酒泉衛星発射センター”。名称に“酒泉”とあるものの、甘粛省酒泉市ではなく、そこから300キロメートル以上も離れた内モンゴル自治区の西部にある。

中国初の人工衛星“東方紅1号” 神州1号の打ち上げ
(1999年11月20日)
中国旗と国際連合旗を手にする楊利偉・大佐
(2003年10月15日)
“酒泉衛星発射センター”の歴史は古く、前身は1960年に稼働した弾道ミサイルの実験場だった。この場所で中国は1960年11月5日にソビエト連邦のR-2短距離弾道ミサイルをモデルとした“東風1号”(DF-1)を試験発射した。

また、この場所で中国は1970年4月24日に初の人口衛星“東方紅1号”の打ち上げに成功。世界で5番目の衛星打ち上げ国となった。当時は冷戦下であり、この場所の位置は軍事機密だった。

この場所の正式な名称は1975年9月から“解放軍第二十試験訓練基地”なのだが、軍事機密を保持するため、対外的に“酒泉衛星発射センター”と呼ぶようになり、それが定着した。現在でも甘粛省酒泉市に衛星発射センターがあると信じている人がいることから、この名称は機密保持という点でも、かなり成功している。

中国が有人宇宙飛行に成功したのは、2003年10月15日。解放軍の楊利偉・大佐が登場した“神舟5号”が、この日の午前9時に酒泉衛星発射センターから長征2号F型ロケットで打ち上げられた。10分後に神舟5号は予定の軌道に入り、楊大佐は初めて宇宙に足を踏み入れた中国人となった。

宇宙滞在中に楊大佐は、中国国旗と国際連合旗を手に持ち、「宇宙の平和利用で、全人類に恩恵を」と語った。また、月餅(ゲッペイ)や宮保鶏丁(鶏肉のナッツ炒め)など中華料理の宇宙食を口にした。楊大佐は10月16日午前6時23分に地上へ帰還。宇宙滞在時間は21時間23分だった。

有人宇宙飛行の成功は、中国の宇宙時代の幕開けを意味した。中国は2021年から独自の宇宙ステーション“天宮”の建設を始めており、2022年内の完成を予定しているなど、“宇宙強国”への道を邁進している。

マカオ返還

1999年の最後に控えたビッグイベントは、12月20日のマカオ返還だった。マカオは16世紀からポルトガル人の居留地となり、1887年12月1日に締結した「中葡和好通商条約」におり、実質的な植民地となった。

このマカオの主権がポルトガルから返還されることは、中国にとって1900年代の最後を締めくくる最大の慶事だった。これにより中国大陸にあった外国支配地がなくなり、マカオの新時代が到来した。

マカオ返還の式典
(1999年12月19~20日)
この連載では香港返還について詳しく紹介したが、マカオについては部分的に触れただけだ。次回はマカオという地域の特色や歴史を紹介することにして、最後に1999年の株式市場を振り返ろう。

1999年の株式市場

1999年は特に下半期に中国の新時代を予感させる出来事が相次いだ。しかし、希望に満ちた世情とは裏腹に、株式相場は低調だった。

国慶節を控えた9月9日に三類企業の株式売買を解禁したが、効果は長く続かなかった。1999年の後半は519相場が迎えた最初の調整期間であり、この半年で上海総合指数は19.1%下落した。しかし、前半で47.3%も上昇していたことから、年間では19.2%の上昇となった。

上海総合指数は1999年末で底を打ち、再び騰勢を強め、その勢いは2001年6月まで続いた。約2年1カ月に及んだ519相場において、1999年後半の調整期間は些細な出来事。最後の部分の印象が強く残る“リセンシー効果”が働き、519相場は途中の調整期間が忘れ去られ、人々に良い思い出しか残さなかった。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は9/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
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  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
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  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに