コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

東南アジアの異変と嵐の予感

2021.12.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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中華人民共和国の香港特別行政区が、1997年7月1日に発足。一世紀半にわたった英国の植民地統治が終焉し、香港は新時代を迎えた。だが、返還直後に東南アジアの金融市場に異変が発生。香港はかつてない金融の暴風に見舞われようとしていた。今回は1997年7月に急落した東南アジア4カ国の通貨の歴史を紹介。中段では米中対立の裏で中国が警戒している米帝国主義の概要を解説する。

カレンダーの変化

香港特別行政区が誕生したのは、1997年7月1日。これ以降の香港では、7月1日が“香港特別行政区成立記念日”として祝日休みとなった。また、10月1日は中国本土と同じく中華人民共和国の建国記念日である国慶節を祝うことになり、これも新たな祝日休みとなった。こうした祝日や休日の変化も、香港市民に時代の変化を肌で感じさせる出来事だった。

女王公式誕生日の閲兵式
(2016年6月11日)
90歳の女王公式誕生日を祝う英王室
(2016年6月11日)
英領香港の時代は国王公式誕生日(あるいは女王公式誕生日)の祝日と休日があったが、返還にともないカレンダーから消え去った。ちなみに、英国の国王公式誕生日は、国王が生まれた日ではなく、誕生祝賀行事のために設定された日を意味する。

国王公式誕生日という慣習ができたのは、1901年に即位したエドワード7世の時代からだ。その前のビクトリア女王の時代は、本当の誕生日である5月24日が時節柄も良く、この日に祝賀行事が催された。

ところがエドワード7世は11月9日生まれであり、天候に恵まれない季節。そこでエドワード7世は、実際の誕生日ではなく、5~6月に誕生祝賀行事を開くことを発案し、国王公式誕生日の慣習が生まれた。

英連邦王国の女王公式誕生日

12月14日に生まれたジョージ6世は、6月第二木曜日を国王公式誕生日とした。4月21日生まれのエリザベス2世の場合は、6月第二土曜日が女王公式誕生日となった。

しかし、英国王の誕生を祝賀する日は、英連邦王国(コモンウェルス・レルム)の国や地域によって異なる。カナダでは5月24日から起算した直近月曜日。オーストラリアでは6月第二月曜日となっているものの、西オーストラリア州やクイーンズランド州では別の日だ。

青色は英連邦王国の国・地域
赤色はかつての所属国
ニュージーランドでは6月第一月曜日だが、南半球であるため天候に恵まれず、いささか女王公式誕生日の意義に反している気もする。フォークランド諸島ではエリザベス2世の本当の誕生日である4月21日に祝う。フォークランド諸島は4月よりも6月の方が寒いからだ。このように女王の誕生祝賀の日は、柔軟に設定される。

香港の女王公式誕生日

英領香港では1950~1982年にわたり、エリザベス2世の本当の誕生日である4月21日が祝日だった。しかし、4月は中国の風習に基づく清明節の休日がある。キリスト教のイースター(復活祭)連休は年によって日付が異なるが、4月に当たることが多い。このように英領香港では4月の休日が多くなりすぎたことから、1983年からは6月の女王公式誕生日が祝日となった。

英領香港の場合、女王公式誕生日は6月の第二あるいは第三土曜日であり、その直後の月曜日が休日に設定された。英領香港では1950~1982年は7月1日が休日だったが、その習慣は女王公式誕生日の設定と同時になくなった。

英領香港でも女王誕生の祝日と休日は柔軟に設定された。そして、最後の女王公式誕生日は、返還にともなう異例の配置となった。

連休最終日の異変

1997年の女王公式誕生日は、例年と違って6月第四土曜日の6月28日に設定された。その直後の月曜日である6月30日は休日となり、この日は英領香港最後の日だった。さらに7月1日は香港特別行政区の発足日で休日となり、関連行事が多いことから7月2日も特別に休日となった。香港は異例の5連休となった。

発足したばかりの香港特別行政区だが、連休最終日の7月2日水曜日に、懸念すべき事態の兆候が表れた。その日、香港金融管理局(HKMA)のオフィスでは、朝から電話が鳴り響いた。電話の主はタイ王国の中央銀行であるタイ銀行(BOT)。この日、タイ王国はバーツと米ドルの固定相場を放棄し、変動相場制に移行すると決定。朝からうるさかった電話は、それを知らせるものだった。

タイ王国のバーツ

国内改革を進めたラーマ5世
(1873年11月16日)
現在のタイ王国は、1782年にラーマ1世が興したチャクリー王朝。王宮の所在地から、ラッタナーコーシン王朝とも呼ばれる。1868年に即位した五代目のラーマ5世は、チュラーロンコーン大王とも呼ばれ、王国の改革を推進。列強諸国が東南アジアを次々と植民地化するなか、タイ王国は独立を維持することに成功した。ラーマ5世は映画「王様と私」でも知られるが、フィクションや誇張が多く、タイ王国で上映すれば不敬罪に問われる。

タイ王国の通貨は1940年代までティカルと呼ばれていた。もともとバーツは重さの単位であり、15.244グラムを意味していた。1ティカル銀貨は重さが15.244グラムだったことから、やがてバーツと呼ばれるようになり、それが定着した。

19世紀のバーツは銀本位制とスターリング・ポンド(英ポンド)との固定相場制を採用していた。20世紀に入ったばかりの1902年9月19日に、タイ王国は初めて紙幣を発行。その年の11月27日には銀本位制を離脱し、金本位制に移行した。

第二次世界大戦後の1946年6月9日に、日本ではプミポン国王と呼ばれる第九代のラーマ9世が即位。その治世は2016年10月13日まで続いた。

プミポン国王にクーデターを報告する反タクシン派将校
国王への謁見は、立つことが許されない。
(2006年9月19日)
戦後のバーツは1963年から米ドルとの固定相場制となった。1973年7月からバーツ相場は、1米ドル=20バーツで固定。1978年3月には米ドルとの固定相場制から通貨バスケット制に移行した。

バーツ相場は複数の通貨で構成される通貨バスケットに連動する仕組みとなった。しかし、通貨バスケット中身は大部分が米ドルであり、固定相場制とさほど変わらない。通貨バスケット制とは言っても、それは事実上の固定相場制だった。

1980年3月3日に第二十二代首相のプレーム・ティンスーラーノンが就任すると、1981年5月12日に切り下げが実施され、1米ドル=21バーツとなる。同年7月15日には1米ドル=23バーツとなった。1984年11月5日には1米ドル=27バーツに切り下げられ、その後は1米ドル=25バーツ付近で小動きするようになった

こうした切り下げをともないながらも、バーツは通貨バスケットに基づく事実上の固定相場制を維持した。1985年9月22日のプラザ合意を受け、急速な米ドル安が進むと、バーツ安も進み、日本円やドイツ・マルクに対して下落した。

タイ王国の経済

バーツ安と固定相場制は、タイ王国の輸出競争力を高めただけではなく、海外資本の直接投資を誘致するうえでも有利に働いた。タイ王国への直接投資を活発に展開したのは、プラザ合意で通貨高が進んでいた日本だった。タイ王国の経済成長率は1988~1990年に3年連続の2ケタ台を記録。なかでも1988年は13.3%に達した。この年の商品輸出とサービス輸出の合計は、26.1%成長となった。

そんなタイ王国の経済だったが、問題も多かった。輸出よりも輸入の伸びの方が大きく、1987年から経常収支の赤字が続いていた。1996年には商品輸出とサービスの輸出の合計も5.5%のマイナス成長に陥った。

資本も不足しており、1992年に第二十七代首相に就任したチュワン・リークパイは、1993年にオフショア市場(BIBF)を首都バンコクに創設した。BIBFの参加銀行は、海外から借り入れた低金利の資金を国内企業に転貸。これを背景に対外債務は1996年末に906億米ドルに膨れ上がり、その4割が短期債務だった。一方で外貨準備は386億米ドルしかない。借入金の多くは不動産を担保としたもので、経済過熱が顕著だった。

当時のチャワリット首相
金融危機で1997年11月に辞任
タイ王国では1996年12月に第二十九代首相のチャワリット・ヨンチャイユットが就任した。上記のような経済状況を憂慮した顧問が、首相にバーツの切り下げを提言。このバーツ切り下げ案はプレーム元首相の賛同を得たが、チャワリット首相は無視。貴重な外貨準備を使い、バーツ相場を固定し続けた。

血まみれのバーツ

こうしたなか1997年5月14日にヘッジファンドが、バーツの空売りを仕掛けた。これに対抗するため、タイ銀行はバーツを買い支えた。自国通貨を買うには外貨が必要。しかし、タイ王国の外貨準備は、ヘッジファンドによるバーツ売りの規模に対し、明らかに不足していた。

また、タイ銀行はさらなる対抗策として、インターバンク市場(銀行間市場)のオーバーナイト金利(翌日物金利)を年利1,000%超に引き上げた。ヘッジファンドは空売りのために、バーツを借り入れており、その返済金利を引き上げることが狙いだった。バーツの借入コストが上がれば、空売りが困難になるからだ。

チャワリット首相は6月30日にバーツを切り下げないと明言したが、再びヘッジファンドの空売りが膨らんだ。タイ銀行はヘッジファンドに対抗できず、7月2日にバーツ相場の固定を放棄し、管理変動相場制(管理フロート制)に移行。この措置は前述の通り、香港金融管理局にも通報された。

事実上の固定相場制を放棄したバーツは、7月2日には1米ドル=29.15バーツまで急落した。前日の7月1日は1米ドル=24.4バーツだったことから、わずか1日で19.5%も下落したことになる。タイ銀行の奮闘も空しく、バーツは急落し、信用を失った。こうして“血まみれのバーツ”という言葉が生まれた。

返還後初の株式相場を見守る香港の個人投資家
(1997年7月3日)
バーツが急落した翌日の7月3日、香港は異例の5連休が明け、返還後最初の営業日を迎えた。だが、この日は未明から豪雨に見舞われ、香港各地200カ所以上で浸水や土砂崩れが発生。毎時50ミリ以上の大雨の際に発令されるレッド・レインストーム・シグナル(紅色暴雨警告信号)は9時間半も続き、最長記録を更新した。

誕生したばかりの香港特別行政区は、最初の営業日から試練に見舞われた。だが、これは嵐の前触れにすぎなかった。

スペインの植民地だったフィリピン

同じころフィリピンも、ヘッジファンドの脅威にさらされていた。フィリピンの通貨はペソであり、メキシコ、コロンビア、アルゼンチンなどと同じ。その背景には、これらの国々と同じく、フィリピンがスペインの植民地だった歴史がある。

フェルナンド・マゼラン
(1480~1521年)
フィリピンに初めて到着した欧州人は、スペインの航海者フェルディナンド・マゼラン。彼は1521年3月16日にレイテ湾のホモンホン島に上陸。武力をちらつかせ、セブ島を中心にキリスト教を布教した。

 だが、マクタン島の領主であるラプ・ラプはイスラム教徒であり、キリスト教への改宗を拒否。これに激怒したマゼランは、49人のスペイン人と現地人200~300人を率い、4月27日にマクタン島を攻めた。ラプ・ラプは1,500人の戦士で、マゼランたちを迎え撃った。

マクタン島のマゼラン廟 近代的なマスケット銃や甲冑で武装したマゼランは、自信過剰だったのかも知れない。寡兵にもかかわらず、圧倒的多数のラプ・ラプ軍に突撃した。武器や防具の差は大きかったが、多勢に無勢だったことから、マゼランは戦死。史上初の世界周航は、生き残ったマゼランの部下たちによって成し遂げられた。


 その後のアジアではポルトガルとスペインが勢力を拡大。両国はインドネシアのモルッカ諸島をめぐり、領有権を争った。この問題を解決するため、1529年4月22日にポルトガル王のジョアン3世とスペイン王の神聖ローマ皇帝カール5世が、サラゴサ条約を締結した。


 サラゴサ条約に基づけば、スペインはフィリピン領有を放棄したことになる。しかし、フィリピンは香辛料を産出しないので、この地をスペインが領有しても、ポルトガルは反対しないだろうと、カール5世は判断。条約の内容に反して、フィリピンの植民地化を決定した。

スペイン王フェリペ2世
(1527~1598年)
カール5世は1556年に退位し、息子のフェリペ2世がスペイン王に即位した。フェリペ2世はメキシコ市長だったミゲル・ロペス・デ・レガスピに、フィリピン遠征を命令。1564年11月21日にメキシコを出航した5隻の艦隊は、1565年2月13日にセブ島に上陸した。


 ミゲル・ロペス・デ・レガスピは数百人のスペイン兵だけでフィリピンを征服。初代のフィリピン総督に就任した。こうしてフィリピンは、スペインの植民となった。なお、フィリピンという国名は、フェリペ2世に由来する。












米国の帝国主義

フィリピンのスペイン植民地時代は300年以上も続いた。20世紀に入ると、フィリピンは米国の支配下に入ったが、スペイン統治下の痕跡は今日まで残っている。通貨をペソと呼ぶのもその一つ。人名や地名もスペイン由来が多い。

スペイン語は1986年まで公用語だったが、米国統治と独立を通じて、話者が減少。スペイン語を話せるフィリピン人は、非常に少ないと言われる。ただ、一部の地域ではスペイン語と土着言語が融合したチャバカノ語が、いまでも使われている。

フィリピンの統治者が、スペインから米国に変わった流れを見ると、中国が昔から警戒している“米帝国主義”が何なのかがよく分かる。多くの日本人は、米帝国主義と言われても、ピンとこないだろう。だが、米中対立の根底には、中国の台頭に対する米国の危機感がある一方、米帝国主義に対する中国の警戒感がある。

ドナルド・ジョン・トランプ大統領と習近平・国家主席
G20大阪サミットで米中首脳会談に臨んだ。
握手しているものの、その表情には対抗心がにじむ。
(2019年6月29日)
2017年に米国でトランプ政権が誕生して以来、米中対立は激しさを増し、それが今日まで続き、世界経済の大きな不確実性となっている。米国の危機感はメディアを通じて耳にする機会が多いものの、中国がいったい何を警戒しているのかは、意外と知られていない。そこで、話題がフィリピンに及んだついでに、19世紀後半に始まった米国の帝国主義と太平洋進出を紹介する。


ハワイ諸島の発見

米国は19世紀後半までに西部開拓が終わり、フロンティアが消滅した。そこで米国は太平洋進出を開始。ハワイ王国への入植を進め、これが米帝国主義の第一歩となった。

いつから人類がハワイ諸島に住み始めたのかは不明。ただ、ハワイ語はポリネシア系の言語であり、サモア独立国のサモア語やニュージーランドのマオリ語と近縁関係にある。おそらくハワイの先住民は、約3,500キロメートル離れた東南のマルキーズ諸島から、航海用のカヌーでハワイ諸島に到来した。

いっさいの機器を使わずに、自然現象を観察することで遠洋航海を可能にする航海術は、ウェイファインディング(ポリネシア航法)と呼ばれる。

英国軍のジェームズ・クック
(1728~1779年)
通称キャプテン・クック
古来よりハワイ諸島の島々は、それぞれの大族長が支配し、国家と呼べる統治機構はなかった。こうしたなか、英国の探検家ジェームズ・クックが、1778年1月にハワイ諸島を“発見”し、サンドウィッチ諸島と命名した。

クックは当初こそ神として先住民に歓待されたが、その欲望に忠実な振舞いから、やがて疑念を持たれるようになる。クックら一行と先住民の関係は険悪化し、乱闘に発展。1779年2月14日にクックは殺害された。クックは亡くなったが、残った船員は英国に帰還。こうしてハワイ諸島の存在は欧米に知られることになった。



ハワイ王国の誕生

カメハメハ1世
(1758?~1819年)
ハワイ王国を建国した大王
カメハメハは“静かな人”の意
クックの発見によって、ハワイ諸島には欧米人が頻繁に来訪するようになり、植民地化の危機が迫っていた。こうしたなか、ハワイ島出身のカメハメハは優れた外交手腕を発揮し、欧米人の銃器を利用することに成功。1795年2月からハワイ諸島の征服活動を始め、同年4月にハワイ王国(カメハメハ王朝)を建国した。

ハワイ王国は建国後も列強諸国の脅威にさらされた。19世紀に入ると、米国人の宣教師が到来するようになり、ハワイの土着文化も変容を迫られた。外国人が盛んに来訪するようになると、サトウキビ栽培のプランテーション経営が始まったほか、重要な捕鯨地として注目されるようになる。



カメハメハ3世
(1813~1854年)
外国人がハワイ王国で勢力を広げるなか、カメハメハ3世は中国でアヘン戦争が勃発した1840年に憲法を制定し、近代国家としての体裁を整えた。米国は1842年にハワイ王国を承認したが、英国が反対。英国は軍艦をハワイ王国に派遣し、1843年2月に武力を背景にカメハメハ3世との会談を強行。そのうえで英国軍による臨時政府を樹立した。

だが、英国の動きに、米国やフランスが反対。1843年7月にハワイ王国は主権を回復し、英国とフランスも独立を承認した。だが、1849年にフランスがハワイ王国を攻撃し、領有を宣言する事件が起きる。ハワイ王国は引き続き列強諸国の標的であり、その独立は厳しい状況下にあった。

ハワイ王国の内部も危機的状況だった。ハワイ王国に帰化した欧米人が政府の要職を占めるようになり、権勢を拡大。憲法制定で土地私有が可能になると、ハワイ王国は対外債務を土地で支払うようになる。こうして国土の大部分が、外国人の所有地となった。

ハワイ王国をめぐる人身売買

米国行きの船に詰め込まれた苦力
どのように扱われたかは、この状況を見れば一目瞭然
外国人が経営するプランテーションは、安価な労働力を必要とした。だが、黒人奴隷制度はすでに廃止されている。そこで、黒人奴隷に代わる安価な労働力として注目されたのが、苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者だった。1850年代に入ると、組織的に中国人労働者がハワイ王国に送り込まれた。その実態は人身売買に近いものだった。

こうしたなか、米国西海岸では中国人労働者に仕事を奪われたとして、アイルランド系を中心とした白人労働者が不満を募らせていた。1870年代になると、米国西海岸一帯で白人暴徒が中国人を襲撃するヘイトクライム(憎悪犯罪)が頻発。白人世論を背景に、1882年に中国人排斥法が成立すると、中国人労働者の米国入国が禁じられた。

ユージン・バン・リード(左)
右は通訳の浜田彦蔵
浜田は米国に救助された漂流者
1858年に米国市民権を取得した初の日本人に
1864年に日本語の新聞を発行
“新聞の父”と呼ばれる
ハワイ王国のプランテーション経営者は、米国経由で中国人労働者を調達していたが、中国人排斥法の成立で不可能となる。そこで彼らが目をつけたのが、日本人だった。

早くから日本人労働者に注目していたのが、ハワイ王国の駐日総領事だったユージン・バン・リード。彼は日本人労働者のハワイ移住許可をめぐり、1860年代から江戸幕府と交渉していた。最終的に江戸幕府から300人分の渡航許可を得たが、明治維新が起きる。1868年に明治政府は江戸幕府の許可を無効とした。

ハワイで働く日本人労働者 明治政府は許可を出さなかったが、準備万端だったバン・リードは、日本人労働者のハワイ移住を強行。こうして百数十人の日本人がハワイ王国に送り込まれた。これが最初の移民であり、明治元年だったことから、彼らはハワイ王国の日本人社会で“元年者”と呼ばれた。

なお、バン・リードは高橋是清の米国留学の際、学費や渡航費を着服し、さらに奴隷として売り払ったことでも知られる。ハワイ王国に渡った元年者のうち、3分の1ほどは労働内容が契約と違うということで、早々に帰国したという。元年者に対するバン・リードの態度も、人身売買に近いものだったと言えるだろう。

1886年に日本とハワイ王国は移民条約を締結。日本政府の斡旋で3万人近くの日本人がハワイ王国に渡ったが、彼らは奴隷同然の扱いを受け、その実態も人身売買と言えるものだった。日本人はストライキなどで抵抗したが、その行為自体がハワイ王国では違法であり、大勢が逮捕された。

1894年になると、民間の移民会社が認可されるようになり、さらに多くの日本人労働者がハワイ王国に渡る。やがて日本人と日系人は、ハワイで最大の民族集団となった。

しかし、日本人も中国人と同じ運命をたどる。1924年にいわゆる排日移民法(1924年移民法)が施行されると、日本人労働者のハワイ移住は不可能となる。排日移民法が施行されるまでに、20万人を超える日本人がハワイに渡ったという。

ハワイ事変

カラカウア王
(1836~1891年)
1881年に訪日し、明治天皇と会談
王女と皇族の政略結婚を提案した。
1872年12月11日にカメハメハ5世が崩御すると、カメハメハ1世の血統は断絶した。そこで国王選挙が実施され、1873年にルナリロという人物が即位。ハワイ王国はルナリロ王朝となった。だが、ルナリロ王は即位から1年1カ月で崩御。再び国王選挙が実施され、1874年にカラカウアが即位。こうしてカラカウア王朝が始まった。

1887年6月30日に米国人の秘密結社と義勇軍が蜂起し、カラカウア王に憲法修正の修正を迫った。新しい憲法は脅迫の下に承認されたことから、“銃剣憲法”(ベイオネット憲法)と呼ばれた。銃剣憲法で国王の権力は制限され、ハワイの先住民は大多数が政治力を喪失。米国からの白人有力者が王国の実権を握り、ハワイ王国は対米従属を余儀なくされた。

リリウオカラニ女王
(1838~1917年)
カラカウア王は銃剣憲法の停止を目論んだが、その計画は失敗に終わり、1891年1月20日に静養先のサンフランシスコで崩御した。ハワイ王の座は、妹のリリウオカラニが継承した。女王は銃剣憲法の改正を目指し、ハワイ王国は女王支持の王政派と対米従属の共和制派と対立。共和政派の米系白人は、女王が立憲君主制を拒絶する暴君であると訴えた。

共和制派だった米系白人のサンフォード・バラード・ドールは、こうした状況に危機感を覚えた。ハワイの米国公使だったジョン・スティーブンスは、共和制派のドールなどを保護するという名目で、米国軍の出動を要請。1893年1月16日に軍艦ボストンがホノルルに到着すると、海兵隊が宮殿を包囲した。

1月17日に共和制派が政府庁舎を占領し、王政廃止と臨時政府の樹立を宣言。この王政転覆は“ハワイ革命”あるいは“ハワイ事変”と呼ばれる。

米国のハワイ併合

サンフォード・バラード・ドール
(1844~1926年)
ハワイ共和国の大統領
ハワイ準州の初代知事
1894年7月4日の米国独立記念日に、ドールはハワイ共和国の樹立を宣言し、最初で最後の大統領に就任。王政派は1895年1月6日に武装蜂起したが、共和国軍によって鎮圧された。女王は武装蜂起の首謀者として1月16日に逮捕され、宮殿に幽閉された。彼女は武装蜂起で逮捕された200人の命と引き換えに、1月22日に退位の文書に署名。こうしてハワイ王国は完全に滅亡した。

1897年3月4日に米国の第二十五代大統領に就任したウィリアム・マッキンリーは、“海のフロンティア”を開拓すると宣言し、帝国主義政策を推進した。ハワイ共和国の併合を計画し、ドールに初代知事の座を約束。米国議会は1898年7月4日にハワイ共和国の併合とハワイ準州の設立を決議。これはニューランズ決議と呼ばれる。

ハワイ準州知事の就任式
(1898年8月12日)
8月12日にマッキンリー大統領はハワイ共和国の編入を宣言。ハワイの宮殿ではハワイ王国の国旗が降ろされ、星条旗が掲揚された。この光景に多くのハワイ先住民は涙したという。なお、米国議会は1993年11月にハワイ革命など併合に至るまでの過程が違法だったとして、謝罪決議を採択している。



米西戦争とイエロー・ジャーナリズム

ハワイ併合直前の1898年4月25日に、米国とスペインの間に米西戦争が勃発。米帝国主義の矛先は、スペインの植民地だったキューバとフィリピンに向いた。

米西戦争では事実よりも煽情的なイエロー・ジャーナリズムが、米国の世論形成に大きく影響した。ニューヨーク・ジャーナル紙とニューヨーク・ワールド紙は発行部数を競い合い、そのためには捏造記事の掲載も辞さなかった。

イエロー・ジャーナリズムの風刺画
ニューヨークの大手2紙が米西戦争で競い合う様子
左はワールド紙のジョーゼフ・ピューリツァー
右はジャーナル紙のウィリアム・ランドルフ・ハースト
例えば、米国女性に対するスペイン警察の乱暴行為を捏造したり、キューバ人に対するスペイン人の残虐行為を誇大に報道したりすることで、米国民の人道的感情を刺激。キューバをめぐるスペインとの戦争気運を高めた。その一方で衰退期にあったスペインは、米国との戦争に消極的だった。

1898年2月15日にキューバのハバナ湾で、米国の戦艦メイン号が爆発事故を起こす。戦艦は沈没し、266人が犠牲となった。事故原因は偶発的な燃料炭の爆発とみられるが、ニューヨーク・ジャーナル紙とニューヨーク・ワールド紙はスペイン人の破壊工作と主張。米国の世論はスペインとの開戦に傾いた。

戦艦メイン号の爆発を伝えるワールド紙
想像の挿絵で爆発の恐怖を伝えた。
一方のジャーナル紙はスペインの爆破工作を強調。
両紙はそろって開戦ムードを煽った。
マッキンリー大統領は4月11日にキューバへの派兵を問う教書を米国議会に送付。4月19日に米国議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認したうえ、マッキンリー大統領に国家緊急権を付与した。4月25日に米国議会はスペインに宣戦布告し、米西戦争が始まった。

利用された独立運動

米国国内はイエロー・ジャーナリズムの効果で、スペインとの戦争に前向きとなった。米国民の多くは、スペインの非道を批判し、人道主義的に戦争を支持した。一方、米国国外では植民地独立運動が利用された。

キューバでは1985年2月24日からキューバ革命党による独立戦争が起きていた。米国議会の共同宣言がキューバの自由と独立を求める内容なのは、この独立戦争が背景にあった。

エミリオ・アギナルド
(1898年撮影)
独立運動はフィリピンでも起きていた。フィリピン独立を目指す秘密結社カティプナンは、1896年8月30日に武装蜂起。その指導者だったエミリオ・アギナルド(エミリオ・アギナルド・イ・ファミイ)は、1897年11月1日にルソン島の山岳地帯でビアク・ナ・バトー共和国の樹立を宣言した。しかし、劣勢のカティプナンは、スペイン軍と和平協定を締結。アギナルドは香港に退去し、ここに亡命指導部を設置した。

米国は香港のアギナルドに接触し、フィリピン独立支援を約束。1898年4月25日に米西戦争が始まると、アギナルドは米国軍の支援を受け、5月19日にフィリピンへ帰還した。5月24日にアギナルドは独裁政権の樹立を宣言。6月12日にはフィリピンの独立を宣言し、独裁政府の大統領に就任した。

アギナルドら独立派のフィリピン軍は、米国軍と連携し、スペイン軍と戦闘。だが、占領地域が拡大するにつれ、フィリピン支配を狙う米国軍は、アギナルドと距離を置くようになった。米国はアギナルドらを排除し、単独でスペインとの和平工作を進める。スペインもフィリピン軍ではなく、米国のみに降伏することを了承。これをきっかけに、米国とアギナルドの関係は悪化した。

米西戦争を戦ったフィリピン独立派の兵士たち アギナルド大統領はフィリピンの独立を守るため、マッキンリー大統領に特使を派遣したが、その訴えは無視された。1898年12月10日に米国とスペインはパリ講和条約を締結。スペインはフィリピンの領有権を米国に2,000万米ドルで売却することで合意した。これはフィリピンの独立ではなく、植民地の支配者がスペインから米国に移ったことを意味した。

マッキンリー大統領は「フィリピンは自由の旗の下に置かねばならない」という声明を発表。“マニフェスト・ディスティニー”(明白なる運命)という美名の下に、フィリピンの領有は米国に定められた使命と謳った。

フィリピン第一共和国の建国式典
(1899年1月23日)
こうした米国の動きに対抗し、1899年1月23日にアギナルドはフィリピン共和国(フィリピン第一共和国)の樹立を宣言し、大統領に就任した。

キューバの名目的独立と保護国化

プラット修正条項を批判する風刺画
合衆国の烙印を押されるキューバ
パリ講和条約でスペインはキューバの独立を承認したほか、グアム島とプエルトリコを米国に割譲した。米西戦争の大義名分通りに、キューバは1902年5月20日に共和国として独立し、約400年にわたったスペイン支配から解放された。

だが、キューバ共和国の憲法には、米国の内政干渉を許すプラット修正条項が盛り込まれた。これにより、キューバ共和国は実質的に米国の保護国となる。1903年にはグァンタナモ湾を米国が永久租借し、海軍基地を建設。米国企業は相次いでキューバに投資し、製糖、果樹栽培、タバコ栽培などの農産業を支配した。

グァンタナモ湾海軍基地
一時収容施設のキャンプXレイ
(2002年1月11日)
軍法しか通用しない治外法権地域
収監者の人権を無視した拷問が可能
第二次世界大戦後のキューバは、軍人出身のフルヘンシオ・バティスタ(フルヘンシオ・バティスタ・イ・サルディバル)が、1952年3月10日にクーデターを決行し、親米の独裁政権を樹立。バティスタは米国でカジノを経営していたこともあり、マフィアとの関係も深かった。

キューバ共和国は米国政府を後ろ盾とするバティスタ独裁政権の下で、米国企業やマフィアによる搾取が横行した。キューバ共和国は “悲惨な植民地”になれ果て、こうした状況が1953年に始まるキューバ革命の背景にあった。



米比戦争と米国支配

フィリピン人を銃殺する米国軍
“10歳以上は皆殺し”の見出し
米比戦争の風刺画
ニューヨーク・ジャーナル紙掲載
1899年2月4日にフィリピン兵が米国軍に射殺される事件が起きた。詳細は不明だが、米国軍はフィリピン兵が米国支配地に立ち入ったためと説明。真相はともかく、これをきっかけに米国軍とフィリピン軍が武力衝突した。

米国軍に捕らえられたアギナルド
(1901年3月)
マッキンリー大統領はフィリピン兵がマニラ市内に攻撃したと新聞記者に語り、アギナルド大統領を非難したうえ、犯罪集団と呼んだ。米国軍とフィリピン軍による一連の戦闘は“米比戦争”と呼ばれ、主な戦闘は1902年まで続いた。なお、モロ人と呼ばれるイスラム教徒は、1913年まで米国に抵抗した。

アギナルド大統領は1901年3月に米国軍の捕虜となり、米国への忠誠を強いられた。ここにフィリピン第一共和国は崩壊。米国による植民地支配が始まった。だが、意外な事情から、米国はフィリピンの独立承認へ傾いた。

砂糖をめぐる問題

マニュエル・ケソン
フィリピン・コモンウェルス
初代大統領
フィリピンでもキューバと同じく製糖業が盛んだった。フィリピンは植民地だったことから、名目上独立していたキューバと違い、その産物は関税ゼロで米国に輸入される。安価なフィリピン産の砂糖は、米国企業が投資しているキューバ産の砂糖や米国産の甜菜糖と競合した。

こうした状況を背景に、米国でフィリピン産の砂糖を排除する運動が活発化。関税をかけることを目的に、フィリピン独立を求める声が強まった。フィリピンは1916年に米国の自治領となっていたが、1934年から10年後に独立することを米国議会が承認。こうして独立準備の暫定政府として、1935年にフィリピン・コモンウェルスが発足した。

だが、1942年に日本軍がフィリピンを占領。日本軍は米国が約束したフィリピン独立の約束を踏襲し、1943年にフィリピン第二共和国が誕生した。これは日本の傀儡政権であるとして、米国は認めなかった。

第三共和国の独立式典
(1946年7月4日)
第二次世界大戦が終結すると、フィリピン・コモンウェルスが復活した。アギナルドはフィリピン第二共和国の独立式典に出席したことから、対日協力者として逮捕されたが、短期間で釈放された。1946年7月4日にマニラ条約が交わされ、フィリピン第三共和国が独立を達成。この独立式典に参加したアギナルドは、高々と国旗を掲げた。

なお、フィリピンでは独立記念日が祝日とされるが、それは第三共和国が誕生した7月4日ではなく、アギナルドの独裁政権が独立を宣言した6月12日。なぜなのかは、前述のフィリピンと米国の関係史を見れば、よく分かるだろう。


米国と独裁者の握手

マルコス大統領(左)とレーガン大統領(中央)
右はマルコス大統領夫人のイメルダ
マルコス独裁政権と米国の関係は親密だった。
(1982年)
誕生したばかりのフィリピン第三共和国では、共産主義勢力が台頭。こうしたなかで、反共産主義を唱えるフェルディナンド・エドラリン・マルコスが1965年末に第十代大統領に就任。東西冷戦という国際情勢の下で、米国はマルコス大統領との緊密な関係を築いた。

米国の庇護を受けたマルコス大統領は、フィリピン国内に独裁体制を構築。1972年9月21日にはフィリピン全土に戒厳令を敷き、それは1981年1月17日まで続いた。

国民の人気が高かったベニグノ・アキノ(ベニグノ・シメオン・アキノ・ジュニア)は、マルコス大統領にとって脅威だった。戒厳令が敷かれると、ベニグノ・アキノは政府転覆などの容疑で逮捕され、1977年に死刑判決が下された。

しかし、人気の高いベニグノ・アキノを暗殺することは、マルコス大統領の政権基盤を危うくする。そこでマルコス大統領は、ベニグノ・アキノに米国で手術を受けさせるという名目で、彼を事実上の国外追放とした。

長期的な独裁体制の下で、フィリピンでは反対派の弾圧、国家の私物化、経済の悪化、汚職の蔓延が目立つようになった。フィリピン国内では独裁に反対する声もあがったが、米国はマルコス大統領を反共産主義のパートナーとして重視し、親密な関係を続けた。

ピープルパワー革命

帰国の飛行機で取材を受けるベニグノ・アキノ
飛行機を降りた直後に暗殺された。
(1983年8月21日)
1983年8月21日にベニグノ・アキノは帰国したが、飛行機のタラップを降りた直後に銃撃され、即死した。この暗殺事件を機に、反マルコス運動がフィリピン全土に広がった。

親米のフィリピンが内乱状態になることを危惧した米国は、マルコス大統領と距離を置くようになる。やがてロナルド・ウィルソン・レーガン大統領も、ベニグノ・アキノの暗殺をめぐり、マルコス大統領を批判するようになった。

ベニグノ・アキノの葬儀に集まった群衆
(1983年8月29日)
マルコス大統領はこうした逆風を和らげようと、1986年2月に大統領選挙を実施し、再選を目指すと発表。ベニグノ・アキノの未亡人であるコラソン・アキノ(マリア・コラソン・スムロン・コファンコ・アキノ)が対抗馬として立候補した。マルコス大統領は2月7日の開票作業を不正に操作。マルコス大統領とコラソン・アキノの双方が勝利を宣言する異常事態となった。

就任宣誓するコラソン・アキノ大統領
(1986年2月25日)
フィリピン情勢が混迷を極めるなか、1986年2月22日にフィデル・バルデス・ラモス参謀長などの将校が決起。2月25日にコラソン・アキノが大統領就任を宣誓し、マルコス独裁政権は崩壊した。マルコス大統領は米軍のヘリコプターで宮殿を脱出。米軍基地から軍用機でハワイへ亡命した。この劇的な政権交代は、ピープルパワー革命と呼ばれる。



モンロー主義は縄張り宣言

一般的に米帝国主義と見なされる米国の海外拡張政策は、米西戦争と米比戦争に始まったとされる。同時期のハワイ併合も、米帝国主義の一部と言えるだろう。ただ、米国の拡張政策は、“モンロー主義”の下に、その前から始まっていた。

モンロー主義を描いた1896年の政治風刺画
銃を持つのは米国を擬人化したアンクル・サム
不法侵入禁止の札を立て、欧州諸国をにらむ
米国の背後にいるのは中南米の人々
日本の教科書でモンロー主義は、米国が国際連盟に参加しなかった理由として紹介され、あたかも外交に消極的な孤立主義であるかのように教えられる。しかし、モンロー主義とは新大陸と欧州大陸の相互不干渉という方針。平たく言えば、「米国は欧州の国際情勢に干渉しないが、欧州諸国も南北アメリカにおける米国の政策に干渉するな」という意味であり、米国による事実上の“縄張り宣言”に等しい。

第五代大統領のジェームズ・モンローが1823年に提唱したモンロー主義に基づき、米国は先住民の掃討を進め、メキシコとの戦争で領土を拡張した。

棍棒外交とドル外交

棍棒外交を描いた1904年の風刺画
棍棒を持ったルーズベルト大統領が、
軍艦を率いてカリブ海を闊歩している。
19世紀末に米帝国主義の動きが本格化すると、20世紀の初頭に第二十六代大統領のセオドア・ルーズベルトは、中米諸国に対する“棍棒外交”を展開。これは軍事力をちらつかせる外交政策を意味する。

米国はパナマ運河の権益を目的に独立運動家と手を結び、1903年にパナマ共和国をコロンビアから独立させることに成功。米国がパナマ運河地帯を永久租借する条約をパナマ共和国と交わした。なお、パナマ運河地帯の主権は1979年10月1日にパナマ共和国に返還され、1999年までに完全返還が完了した。

タフト大統領のドル外交を描いた漫画
棍棒を置き、米国企業に中南米への投資を指示
パナマ運河の獲得に続き、米国は1906年にドミニカ共和国の対外債務を保証する代わりに、この国を事実上の保護国とすることに成功。これは現代でいうところの“債務の罠”だった。

第二十七代大統領のウィリアム・ハワード・タフトは、ルーズベルト前大統領の方針を引き継ぎ、中南米諸国への介入を展開したが、「弾丸の代わりに米ドルを使う」と宣言。これは軍事力よりも経済力を背景とした外交方針であり、“ドル外交”と呼ばれた。

ドル外交に基づき、米国は中南米諸国が欧州諸国に対して抱える債務を米ドルに借り換えさせ、これらの国々の市場開放を迫った。もちろん、米国企業に有利なように。中国の一帯一路(シルクロード経済ベルトと21世紀海洋シルクロード)構想に対し、米国などが“借金漬け外交”“債務の罠”と批判しているが、ドル外交の被害国はこれを聞いてどう思うのだろうか。

バナナ戦争

米国軍がニカラグアに侵攻したサンディーノ戦争
数あるバナナ戦争の一部
写真の旗は鹵獲したサンディーノ将軍の旗
サンディーノ将軍は米国軍に抵抗した国民的英雄
(1932年)
第一次世界大戦後の米国は、中南米諸国に対する“バナナ戦争”を展開。これは中南米諸国に進出した米国企業を革命から守るための軍事介入を意味する。米国企業のユナイテッド・フルーツやドール・フード・カンパニーは、中南米諸国でプランテーション事業を展開し、その資金力で各国の政治を支配。地元民からの搾取を続け、恨まれていた。

こうした状況にある中南米の小さな発展途上国を米国人は侮蔑の意味を込めて、“バナナ共和国”と呼んだ。バナナ共和国への軍事介入であることから、バナナ戦争と呼ばれる。

バナナ共和国という言葉は、いまも健在だ。2021年1月6日にトランプ大統領の支持者が議会議事堂を襲撃する事件が起き、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ元大統領もこれを批判。ただし、その言葉は「これはバナナ共和国で選挙結果を争うやり方だ。われわれの民主主義国家で用いるべき手法ではない」というものであり、米国の政治家が中南米諸国に持つイメージの一端がうかがえる。

グアテマラはバナナ共和国の一つ
大統領の予算削減に抗議する群衆が議会に放火
(2020年11月21日)
トランプ大統領の支持者が議会議事堂を襲撃
“バナナ共和国のようだ”とブッシュ元大統領
(2021年1月6日)

米帝国主義の影

そもそも“米帝国主義”とは、ソビエト連邦や中国などの社会主義国が、米国に対して使う言葉だ。19世紀後半から20世紀前半の米帝国主義を紹介したが、20世紀後半の朝鮮戦争、ベトナム戦争、ドミニカ侵攻、グレナダ侵攻、パナマ侵攻なども、米帝国主義による戦争と見なされる。21世紀ではアフガニスタン戦争、イラク戦争などが挙げられる。

訪米したパーレビ国王(左)
中央はリチャード・ミルハウス・ニクソン大統領
(1971年)
米帝国主義は米国にとって常に成功しているわけではない。米国は親米であれば、独裁者とも握手し、その国民に敵視されることもあった。米国とパフラビー朝イランのシャー(皇帝)であるモハンマド・レザー(パーレビ国王)の親密な関係は、イラン国民の反米感情を煽る結果となった。キューバのバティスタ大統領、フィリピンのマルコス大統領などとの関係も、結局は革命によって崩れた。

フセイン大統領と握手する米国のラムズフェルト特使
(1983年12月19日)
米国は敵対国の反対勢力をしばしば利用するが、それが後には大きな敵を生み出すこともあった。ソビエト連邦が1979年にアフガニスタンに侵攻すると、これに抵抗する現地イスラム武装組織の“ムジャヒディン”に、サウジアラビアのウサマ・ビン・ラディンも加わった。米国はパキスタンを通じてムジャヒディンに経済支援を続け、その資金はウサマ・ビン・ラディンにも届いていた。

1980年にイラン・イラク戦争が勃発。イランと敵対する米国は、サダム・フセイン大統領が独裁体制を敷くイラクに接近した。1982年に米国はテロ支援国家のリストからイラクを削除。1984年にはイラクとの国交を回復し、蜜月関係を築いた。

米帝国主義の特徴は、現在も米国の敵対国に対する戦略に残る。例えば、◆自由と民主主義の標榜、◆メディアを通じた世論誘導とレッテル張り、◆敵対国の反対勢力に対する支援、◆親米独裁者との握手――などが挙げられる。

これらの手法は、現在の米国による対中圧力の特徴でもある。例えば、◆中国の人権問題、民主化問題、少数民族問題を批判し、対中制裁の口実とする、◆台湾や香港の独立派に接近し、連携と支援を図る、◆法輪功や亡命少数民族グループの主張をメディアで取り上げ、米国と同盟国の反中感情を掻き立てる――などが挙げられる。

中国は米帝国主義の歴史を踏まえ、こうした動きに反発すると同時に、警戒を強めている。米国の対中圧力の手法は、米帝国主義の史実に酷似しており、中国が警戒感を緩めることはないだろう。

中国分割を描いた1899年の風刺画
アンクル・サム(米国)が列強諸国を先導
かつての中国にも米帝国主義が迫っていた。
香港衆志の幹部と米国外交官のミーティング
左から二番目は黄之鋒
右から二番目のジューリー・イーデーは
駐香港米国領事館の政治部主管
デモが激しさを増す2019年8月6日に撮影

王立強事件

対中圧力を狙ったメディア戦略には、事実もあるかも知れないが、イエロー・ジャーナリズムのように、でっち上げや誇張と言った成分も見受けられる。例えば、2019年11月に日本でも大きく報じられた王立強の事件。オーストラリアに亡命した当時26歳の王立強は、自分が中国人民解放軍のスパイだったと告白。香港での活動などを明らかにしたうえ、2020年1月の台湾総統選挙で民主進歩党(民進党)の蔡英文を落選させる任務に就いたと証言した。

米CBSのドキュメンタリー番組で証言する王立強 王立強は勤め先だった香港上場企業の中国創新について、経営者の向心は香港・台湾地域でのスパイ活動の責任者だったと証言。台湾に滞在していた向心は、中華民国の国家安全法に基づき、出境禁止となった。この事件は台湾の総統選挙にも、少なからぬ影響を与えた。

詐欺容疑で裁判を受ける王立強の動画 ところが、この王立強は“自分を高値で売りたいだけの詐欺師”である可能性が浮上。上海市の警察は王立強が詐欺事件の常習犯であり、逃亡中であると発表した。北京政府も王立強が詐欺事件で裁判を受けている時の映像を公開した。また、王立強の証言や所持していた身分証や旅券にも、おかしなところが多かった。

台湾の検察に移送される中国創新の向心(後部座席中央)
(2019年11月25日)
この事件をセンセーショナルに報じた米国政府系のメディアは、あくまでも本当のスパイということで通そうとしたが、王立強が詐欺師である可能性は、ますます高くなった。王立強の上司とされた向心は、彼の会社である中国創新を通じ、自身の無罪と不当な身柄の拘束を訴えた。

台湾の検察は向心を1年あまりにわたって調べたが、スパイ活動の証拠は何も見つからなかった。最終的にスパイ関連での裁判は不可能と判断し、2021年4月に起訴内容を資金洗浄(マネーロンダリング)に切り換えた。向心は台湾検察の不当性を訴えているが、身柄の拘束が続いている。

“民進党は偽スパイ事件で選挙を操っている”
対立候補の韓国瑜(中国国民党)は、上記のように批判
これを受けてコメントを求められる蔡英文・総統
(2019年11月26日)
王立強の事件をセンセーショナルに報道した海外メディアも、いまでは口をつぐむばかり。中華民国の国家安全法で身柄を拘束されている向心の訴えも、台湾や香港のメディア以外は伝えようとしない。

向心は現代のイエロー・ジャーナリズムの犠牲者なのかも知れない。中国批判のニュースは、証言者や証拠をろくに調べもせず、真実として一方的に報じられる傾向があり、慎重に判断する必要がある。


ペソの急落

話がフィリピンに及び、ペソという通貨名を手掛かりに、この国の歴史と米帝国主義を紹介した。かなりの紙幅を割いたが、現在の米中対立の根底にあるものだけに、紹介する価値はあったと思う。

さて、話題を1997年7月のペソ相場に戻そう。ペソは変動相場制だが、1日の変動幅に制限が設けられ、対米ドル相場は安定していた。ヘッジファンドの空売り攻勢に対し、フィリピン中央銀行(BSP)もペソの買い支えに動いたが、そのための外貨準備は不足していた。

買い支えを継続できなくなったフィリピン中央銀行は、1997年7月11日にペソの変動幅制限を拡大。これは事実上の切り下げだった。さらに7月14日には変動幅制限を撤廃し、その後は空売りに任せて、急速にペソ安が進んだ。

マレーシアのリンギット

次にヘッジファンドが狙ったのは、マレーシアだった。第二次世界大戦後の東南アジアでは、シンガポールを除く海峡植民地と英領マラヤが連合し、1946年4月1日にマラヤ連合が発足。英国による植民地統治が続いた。マレー人の民族主義が高まると、マラヤ連合は解体されることになり、各州のスルタン(君主)の地位を回復させるかたちで、1948年1月31日にマラヤ連邦が発足した。

1957年8月31日にマラヤ連邦は英国から独立。1963年9月16日にはシンガポールなどが合流し、マレーシア連邦が成立。しかし、華人が多いシンガポールは連邦から追放され、1965年8月9日に分離独立した。

なお、マレーシアは連邦立憲君主制の国家。国家元首のヤン・ディ=ペルトゥアン・アゴン(国王)は、9つの州にいるスルタンの互選で決まる。国王の任期は5年。こうした体制の国家は、世界的にも珍しい。

こうした歴史を経たマレーシアとシンガポールでは、 1953年から“マラヤおよび英領ボルネオ・ドル”という共通通貨が使われていた。だが、この共通通貨は1967年6月12日で廃止されることになり、マレーシアは独自の通貨を発行することになった。こうしてマレーシア国立銀行(BNM)が発行する独自通貨のリンギット(リンギ)が誕生した。

リンギットの語源となったスペインドルの形状 リンギットという名称は、スペインドルの形状に由来する。スペインドルは縁に凹凸があり、ギザギザしていた。この「ギザギザな」という形容詞がマレー語で“リンギット”。マレーシア政府は1975年8月にリンギットを正式な通貨名として規定した。

マレーシアは華人が多いことから、リンギットには“零吉”という中国語の名称も付けられた。しかし、“零”という漢字が使われていたことから、混乱も生じた。例えば領収書などに2,000リンギットを漢字で書く場合、“貳零零零零吉”となるケースもある。これでは二千と二万を間違えてしまう。そこで2004年に中国語の名称は“令吉”に変更された。

リンギットへの攻撃

リンギットは1975年9月から通貨バスケット制となり、1984年11月には管理変動相場制を採用したが、これは事実上の固定相場制。リンギット相場は1997年7月上旬まで1米ドル=2.5リンギットの水準で安定していた。

しかし、バーツが変動相場制に移行すると、リンギットもヘッジファンドの空売り攻勢に押された。マレーシア国立銀行は1997年7月8日に10億米ドル規模の市場介入を実施し、リンギットを買い支えた。7月9日には金利を引き上げるという声明を発表。7月10日には翌日物金利が40%を超えた。

マレーシア警察に逮捕されるアンワル財務相
容疑は同性愛行為
通貨危機の処理でマハティール首相と対立していた。
(1998年9月20日)
マレーシアもタイ王国と同じく、市場介入や金利の引き上げで抵抗したが、この辺が限界だった。7月11日にフィリピンがペソの変動幅制限を拡大すると、リンギット売りは勢いを増した。

アンワル・ビン・イブラヒム財務相は7月14日、リンギットの買い支えには限度があると発言。この日はマレーシア国立銀行も市場介入を行わなかった。7月15日になると、アンワル財務相はリンギット相場を市場に委ねると発言。リンギットの急落が始まった。

マハティール・ビン・モハマド首相は7月26日、“ヘッジファンドの帝王”として知られるジョージ・ソロスを名指しで批判。政治的意図をもって通貨攻撃していると主張し、ソロスを“詐欺師”“ならず者”などと罵倒した。マハティール首相はたびたびソロスら外国人投機家を非難したが、国内外から批判を浴び、そうした発言は裏目に出る結果となった。

オランダ領だったインドネシア

インドネシアの通貨であるルピアは、インドの通貨であるルピーと同じく、“鍛造された銀”を意味するサンスクリット語に由来する。インドネシアには紀元前からインド商人が来航しており、その影響でヒンドゥー教の文化が取り入れられ、今でもバリ島に色濃く残っている。

インドネシアの各地には5世紀ごろからマレー人の諸王朝が興り、インドと中国の中継貿易で栄えた。12世紀以降はアラブ商人が来訪するようになり、マレー人のイスラム化が進んだ。

16世紀に入ると、欧州人が来訪。オランダ東インド会社(VOC)によって、オランダ領東インド諸島(蘭領東印度)と呼ばれる植民地が形成され、その領域が今日のインドネシアの基礎となった。

1682年のバタビア(現在のジャカルタ)
オランダ東インド会社が街を整備
欄領東印度の中心都市なった。
オランダ東インド会社は1602年3月20日に設立された世界初の株式会社。当時のオランダはネーデルラント連邦共和国として、スペイン・ハプスブルク家の支配から実質的に独立したばかり。1568年に始まったスペインとの八十年戦争(オランダ独立戦争)は続いており、オランダは香辛料貿易を目的に、独自のアジア航路を開拓する必要があった。オランダ東インド会社が設立された背景には、そうした国際情勢があった。


インドネシアのルピア

蘭領東印度で流通した通貨は、宗主国と同じくギルダ(グルデン)だった。1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発すると、オランダは1940年5月15日にドイツに降伏。蘭領東印度はオランダ亡命政府が統治を続け、約8万人に上るオランダ軍と米英豪連合軍が守備していた。

日本軍は1942年1月11日に“H作戦”を発動し、蘭領東印度への侵攻を開始した。オランダ軍と英米豪連合軍は同年3月9日に降伏。こうして蘭領東印度は日本占領期を迎えた。

日本軍は現地での物資調達の手段として、新たな紙幣や軍用手表(軍票)を発行。その額面はギルダ建てであり、オランダ語で表記。日本円との交換レートは1ギルダ=1円だった。1943年になるとオランダ語の表記はなくなり、ルピアという単位を採用。これが後に通貨名となった。

独立を宣言するスカルノ(1945年8月18日) 1945年8月15日に日本が降伏すると、民族主義活動家のスカルノは同月17日にインドネシア共和国の独立を宣言。これをオランダは認めず、蘭領東印度が復活し、インドネシア共和国との武力闘争に発展した。こうしてインドネシア独立戦争が始まった。

この戦争は4年以上続き、1949年12月のハーグ円卓会議でオランダはインドネシアの独立を承認。1949年12月27日にハーグ協定を締結し、インドネシアは独立を果たした。

独立までの激動で、インドネシアの通貨は混乱した。復活した蘭領東印度はギルダとルピアが併記された紙幣を発行。一方、インドネシア共和国はORI(インドネシア共和国通貨)を新たな通貨とした。こうしたなか、日本占領期のルピアも流通。第二次世界大戦の終結直後は、多くの通貨が併存した。

インドネシア共和国によるルピアの発行は、1947年4月8日にスマトラ州で始まった。リアウ諸島とニューギニア島西部の西イリアンでは、別バージョンのルピアも発行された。ルピアが正式にインドネシア共和国の通貨となったのは1949年11月2日。ただし、リアウ諸島ルピアと西イリアン・ルピアは、それぞれ1964年、1974年まで存続した。

インドネシアはルピアの管理フロート制を採用し、対米ドル相場を概ね固定していたが、1997年の春ごろヘッジファンドの空売り攻勢を受け、じりじりと下落していた。7月11日にフィリピン中央銀行がペソの変動幅制限を拡大すると、インドネシア銀行(BI)もこれに追随。ルピアは変動幅を拡大し、8月14日には変動相場制に移行した。

香港金融市場への影響

ヘッジファンドの攻撃を受け、東南アジアの主要通貨が急落。1997年9月末までの3カ月で、米ドルに対してバーツは31.7%安、ペソは22.4%安、リンギットは22.2%安、ルピアは25.6%安となった。

これら4つの通貨安は周辺地域に波及。同じ東南アジアでシンガポールドルが6.4%安となったほか、東アジアでは韓国ウォンが2.9%安、台湾ドルが2.8%安、日本円が4.9%安。こうしたなか、人民元と香港ドルだけが変わらぬ安定を維持していた。

香港株式市場も8月上旬までは東南アジアの通貨危機の影響を受けなかった。ハンセン指数はパッテン総督の就任から香港返還までの約5年間で154.0%上昇し、1997年6月27日の終値は1万5,196.79ポイントだった。返還直後はさらに上昇を続け、8月7日には終値が1万6,820.27ポイントを付けた。返還からの26営業日で、9.7%も上昇したことになる。

8月中旬に入ると利益確定売りが優勢となり、8月19日にはハンセン指数の終値が節目の1万6,000ポイントを割り込んだ。そこからは下落が加速した。海外の機関投資家がアジア市場を悲観視し、運用資金を引き揚げるという観測が流れたからだ。8月28日の終値は前日比で4.2%安の1万4,876.10ポイントを付け、1万5,000ポイントを割り込んだ。

その後もハンセン指数は下げ止まらず、9月1日の終値は前日比5.0%安の1万3,425.65ポイントを付け、早くも節目の1万4,000ポイントを割り込んだ。もっとも、その後は回復基調に入った。短期間での大幅安を受け、買い戻す動きが広がり、9月30日の終値は1万5,049.30ポイント。約1カ月ぶりに終値を1万5,000ポイント台に乗せた。この時点で最高値の8月7日から9.7%安だが、返還直前からは1.0%安に過ぎなかった。

初めての国慶節と嵐の予感

バーツの急落を受け、1997年8月11日に国際通貨基金(IMF)は東京でタイ支援国会合を開催。タイ王国に総額160億米ドルを融資すると決定した。融資額の内訳は、日本が最多の40億米ドルで、香港、オーストラリア、シンガポール、マレーシアが各10億米ドル、韓国とインドネシアが各5億米ドル。ヘッジファンドの投機によるバーツ安が、周辺国に波及することを食い止めることで、各国の対応は一致した。

この時点で通貨安の影響は香港に及んでいなかったが、香港ドルがヘッジファンドの攻撃対象になるのは明白だった。この当時の香港は、英国から中国への主権返還が順調に進んだことで、住宅価格が高騰しており、不動産バブルの様相を呈していた。ハンセン指数も最高値を更新したばかり。一方で住宅ローンを中心とした個人債務の水準も高く、不動産デベロッパーの負債も過剰。貿易赤字も域内総生産(GDP)の約3%に達しており、香港経済は明らかに過熱していた。

こうした状況下で、香港は米ドルとの固定相場を続けているうえ、資本取引も完全に自由。香港がヘッジファンドの攻撃対象となる条件が揃っていた。1997年8月の下旬に入ると、香港ドルの空売りが徐々に増えてきた。

株価急落に怯える香港の個人投資家 1997年10月1日に香港は返還後初の国慶節を迎えた。翌10月2日までの二連休となり、これも香港市民に時代の変化を肌で感じさせる出来事だった。香港市民が初めての国慶節を過ごすなか、ヘッジファンドは香港攻撃に向けた準備を着々と進めていた。秋は台風の季節だが、かつてない金融の暴風が香港に上陸しようとしていた。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は1/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに