コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

英領香港最後の日

2021.11.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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一世紀半にわたり続いた英国の香港統治は、1997年6月30日に終焉を迎えた。その4カ月ほど前に、香港返還を主導していた鄧小平が死去。だが、その香港統治に関する方針は、中国の歴代指導者に引き継がれ、今日に至るまで大きな影響を及ぼしている。今回は香港返還の前後に起きた歴史的出来事に交え、鄧小平の政策や方針の影響力を紹介する。

鄧小平の死去

鄧小平の訃報
1997年2月20日付「人民日報」
香港返還が約4カ月後に迫った1997年2月19日北京時間21時8分、“改革開放の総設計師”と呼ばれた鄧小平が92歳で死去した。鄧小平の死去が公式に報じられたのは2月20日未明の2時44分。まだ春節(旧正月)ムードが冷めやらぬなか、この訃報に中国本土は悲しみに包まれた。

鄧小平は1994年10月1日の国慶節から公の場に姿を見せず、健康不安説や死亡説が流れていた。彼はパーキンソン病を患っており、呼吸器不全を発症。1996年12月12日から北京市の中国人民解放軍総医院に入院していたが、1997年2月19日になると自発呼吸が不可能となり、延命措置の終了に至った。

中国共産党(共産党)は19日21時ごろから、動きが慌ただしくなった。米国のCNNは20日0時ごろ、未確認の情報として鄧小平が死亡したと報じた。香港のテレビ局CTNは複数の党幹部に確認したうえで、20日1時18分に鄧小平の死去を報道。ロイターも20日2時42分に鄧小平の死去を伝えた。新華社が報道したのは、その2分後だった。

天安門広場の半旗(1997年2月20日) 20日の天安門広場には、半旗が掲げられた。それはニューヨークの国連本部などでも同様だった。21日に元宵節(旧暦1月15日)を控えていたが、イベントなどはすべて中止。24日に鄧小平は火葬され、25日に人民大会堂で追悼式が開かれた。なお、鄧小平の角膜は寄付され、遺骨は海に散骨された。

鄧小平の追悼式(1997年2月25日) 鄧小平を乗せた霊柩車を見送る群衆
1997年2月24日

鄧小平が死去した1997年2月は、多くの中国人が改革開放の恩恵に浴していた。鄧小平の政策をめぐっては、計画経済から社会主義市場経済への移行で、さまざまな問題も生じたが、恩恵の方が大きかった。

鄧小平が改革開放政策に舵を切らなければ、中国は貧しいままだっただろう。今日のように世界第二の経済大国になることもなかった。改革開放政策のおかげで、豊かになった人や夢を実現できた人は多い。24日に鄧小平の遺体は火葬場に運ばれたが、十万人を超える大群衆がそれを見守った。

改革開放と馬雲

アリババの馬雲(ジャック・マー)
米誌「フォーブス」2015年11月23日号
改革開放の初期段階は、楽天主義(オプティミズム)の時代でもあった。日本で言えば明治初期のような明るさがあり、チャンスにあふれていた。プロレタリア文化大革命(文革)の時代とは違い、人々は夢見ることができた。行動力があれば、夢を叶えることも可能だった。中国を代表するIT企業のアリババ(阿里巴巴)を創業した馬雲(ジャック・マー)も、この時代の恩恵を受けた人物の一人だった。

 1964年に浙江省杭州市に生まれた馬雲は、小さな頃から問題児。義侠心にあふれ、喧嘩っ早く、学業成績も芳しくなかった。大学受験も二浪した。そんな馬雲だが、小学生の頃から英語に強い関心があり、これだけは熱心に学んだ。

子ども時代の馬雲(左)
顔つきは小さいころから変わっていない。
改革開放が始まると、外資の誘致が活発となり、訪中する外国人が増加。英語習得に熱心だった馬雲は、このチャンスを逃さなかった。まだ中学生の馬雲だが、その行動力はすでに非凡。外国人がよく訪れる観光地の西湖に通っては、無料の観光ガイドを買って出た。当時は珍しかった外国人と交流し、英語を上達させることが目的だった。



モーリー親子との出会い

1980年にオーストラリアの代表団が訪中。豪中友好協会の会員だった元エンジニアのケン・モーリーは、息子のデビッドを連れて代表団に参加し、親子で中国の主要都市を回った。7月1日に杭州市を訪れたモーリー親子は、夜の自由行動中に西湖を散策。そこで中国人の男の子から、つたない英語で話しかけられた。その男の子は15歳の馬雲だった。

馬雲とデビッドは同じ年ごろで、後日一緒に遊ぶと約束した。西湖のほとりでフリスビーに興じるなど、馬雲とモーリー親子は短くも楽しい時間を過ごした。すぐに帰国するモーリー親子は、馬雲と文通することを約束。こうして馬雲とモーリー親子は、ペンフレンドの仲となった。

出会ったばかりの馬雲とデビッド・モーリー 馬雲が送ってくる英語の手紙をケンは丁寧に添削。英語の習得に熱心な馬雲を励ました。そんなケンを馬雲は父のように慕った。馬雲は大学受験に三度も失敗したが、1984年に杭州師範学院(現在の浙江師範大学)の外国学部に合格。専攻はもちろん英語だった。



外国旅行の壁

苦労の末に大学へ進学した馬雲をケンは祝福し、オーストラリアに遊びに来るよう誘った。1985年のことだった。当時は旅券(パスポート)を見ることさえ珍しい時代。公務や留学、それに親族訪問などの事情でもなければ、中国人が外国に行くことは不可能だった。

杭州師範学院に在学中の馬雲(左二) ケンは馬雲を励まし、チャレンジしてみるよう勧めた。行動力のあった馬雲は、何とか旅券を入手。しかし、査証(ビザ)という大きな壁にぶつかった。北京市のオーストラリア大使館を訪れた馬雲だが、7回も査証申請を拒否された。地下の安宿に一週間も滞在し、所持金も底を尽きようとしていた。

馬雲の窮地を知ったケンは、地元のニューカッスル市当局から北京の大使館に電報を打ち、事情を説明した。一方、北京で粘っていた馬雲も、決して諦めなかった。再び大使館を訪れ、一人の外国人を見つけると、話をさせてほしいと駆け寄った。

「もう7回も査証申請が拒否され、一週間も粘りました。お金も底を尽き、家に帰るしかありません。なぜ拒否されたのかくらいは、せめて教えてほしい」と、馬雲は懇願した。

その外国人は大使館の職員で、馬雲の話に耳を傾けた。馬雲はモーリー親子との交流や経緯を話し、オーストラリアに行ってみたいと訴えた。すると、その外国人は「もう3日待てるかい?」と、馬雲に尋ねた。所持金が尽きそうな馬雲は、「できない」と返事。「じゃあ、30分はどうだい?」と言われ、馬雲はついに査証を入手した。

こうしてケンの努力と馬雲の粘りが実り、ついに初の外国旅行が実現した。

初めての海外

初めての海外旅行を実現した馬雲(1985年) 二十歳を過ぎたばかりの馬雲は、親戚などからかき集めたわずかな外貨を携え、オーストラリア行の飛行機に搭乗。この初めての海外旅行は、馬雲の人生観や世界観に大きな影響を与えた。約1カ月のオーストラリア滞在を経て、帰国したころには別人のように成長した。


ニューカッスル市で猿拳を披露する馬雲(1985年) ニューカッスル市の公園では、多くの人々が太極拳を練習していた。それに気づいた馬雲は太極拳の愛好団体に接近。太極拳の演舞のほか、得意な猿拳や酔拳も披露した。ニューカッスル市の人々と交流し、英語も飛躍的に上達した。馬雲が身につけたのはオーストラリア英語だったが、彼は長い間それを正統派の英語と信じ込んでいた。


シドニー動物園でのモーリー親子と馬雲(1985年) 馬雲がニューカッスル市で学んだのは英語だけではない。周囲に流されずに、自分の頭で判断することや多角的に物事を捉えることの重要性を自覚した。馬雲が大学在学中の1986年末には、“八六学潮”と呼ばれる学生運動が起きたが、彼のその後の言動を見ると、おそらくそうしたムーブメントには流されなかったとみられる。


杭州市で再開した馬雲とケン・モーリー 馬雲が帰国すると、今度はモーリー親子が訪中。馬雲の実家は狭かったので、大学の宿舎にモーリー親子を案内。大学の講義が忙しい中、せっせとモーリー親子の食事を用意するなど、精いっぱいもてなした。馬雲が経済的に豊かではないことを知ったモーリー親子は、ささやかながらオーストラリアから経済的援助も続けた。




馬雲の創業

1988年に大学を卒業した馬雲は、杭州電子工業学院(現在の杭州電子科技大学)に英語教師として就職する。そこでの仕事を続けながら、1991年に翻訳会社を設立した。翻訳会社の経営が軌道に乗るまで、馬雲は浙江省義烏市などで仕入れた商品の販売でしのいだ。

杭州海博電脳服務有限公司(海博)を創業した馬雲(左二) そうしたなか、馬雲は外国人教師の友人から米国のインターネット事情を知り、興味を覚えた。1995年の初めにその友人と一緒に訪米した馬雲は、シアトルのネット会社を視察した。帰国した馬雲は同年4月に杭州海博電脳服務有限公司を設立。1カ月ほどで中国イエローページ(中国黄頁)のサービスを始めた。

アリババの創業に動いたのは1999年2月20日。馬雲を含む18人が彼のアパートに集まり、会議を開いた。馬雲の演説は2時間にわたり、全員がアリババの創設と出資を決意。彼ら18人の創業メンバーは、後に“十八羅漢”と呼ばれた。

馬雲のアパートに集まったアリババの創業メンバー B2B(企業間取引)のEコマース(電子商取引)ビジネスを始めたアリババは、2003年5月に消費者向けEコマースサイトのタオバオ(淘宝網)をオープン。タオバオの一部として同年10月にアリペイ(支付宝)をスタートした。アリペイは2004年12月に独立経営となり、ネットの世界から現実の世界に広がった。

最初の試練

すべてが最初から順調だったわけではない。2003年5月5日に広東省広州市への出張から戻ったアリババの女性従業員が高熱を発症した。その当時の広州市は重症急性呼吸器症候群(SARS)の感染エリアだったが、貿易展示会の広州交易会(正式名:中国進出口商品交易会)は、予定通りに開催。創業したばかりのアリババも、これに参加していた。

高熱を出した女性従業員は、5月7日にSARS感染が確認された。彼女は出張から戻ってからの数日間、通常通りに出勤していた。このためアリババ全従業員500人あまりの自宅隔離が決まった。隔離対象者には彼女と接触した医療関係者も含まれ、最終的に数千人に達した。この当時、浙江省内のSARS感染者は4人だけであり、メディアはアリババを名指しすることはなかったが、馬雲らへの風当たりは強かった。

SARS禍でリーダーシップを発揮した馬雲 女性従業員のSARS感染が確定する前の5月6日、アリババの社内にはすでに動揺が広がっていた。馬雲はメールで全従業員に謝罪すると同時に、自宅隔離に備えた準備を開始した。杭州市の通信当局に働きかけ、全従業員の自宅にネット接続環境を整備。また、業務や報告の手順なども変更した。

タオバオ(淘宝網)の立ち上げチーム テレワークに向けた準備は、ほんの数時間で完了。会社の危機に際しても、馬雲の行動力と組織力は卓越していた。5月7日に自宅隔離が決まると、従業員は粛々と行動。その後は誰も出社しなかったが、アリババは普段通りに動き続け、取引先もほとんど異変に気づかなかったという。

消費者向けEコマースサイトのタオバオがオープンしたのは、全員が自宅隔離中の5月10日。後に馬雲はSARS禍での従業員の情熱と信念を記念し、毎年5月10日を“アリババの日”(阿里日)に定めた。

モーリー親子への報恩

アリペイがスタートする直前の2004年9月、馬雲はケン・モーリーの訃報を聞いた。西湖での出会いから24年が経っても、馬雲とモーリー親子の交流は続いていた。 “オーストラリアの父”とケンを慕っていた馬雲は、恩人の死を悼んだ。

ターブル首相と握手する馬雲 ニューカッスル大学の演壇に立つ馬雲
2000万米ドルの寄付と奨学金創設を発表
(2017年2月4日)
取材を受ける馬雲とデビッド・モーリー
(2017年2月4日)
それから12年あまりが経った2017年2月3日、馬雲はオーストラリアを訪問した。初のオーストラリア訪問では7度もビザ申請が却下されたが、それから30年以上が経ち、いまや要人として迎え入れられるようになった。馬雲はシドニーでマルコム・ブライ・ターブル首相と会談を済ませると、ニューカッスル市に直行。馬雲の社会的地位は激変したが、ずっと変わらないものが、そこにあった。

 翌日の2月4日、ニューカッスル大学はアリババの馬雲・主席から2,000万米ドルの寄付を受け、新たな奨学金制度を創設すると発表。この奨学金は“マー&モーリー・スカラーシップ・プログラム”と名づけられた。ニューカッスル大学にとって、この寄付金はもちろん開校以来の最高額だった。

 式典の演壇に立った馬雲は、自分の目で世界を見たいと思う人たちを支援するのが、この奨学金の目的と説明。「書物で学んだことや両親から教わったことは、この世のすべてではないということを私は初めて訪れたニューカッスルで学びました。我々が住む世界は非常に面白く、ユニークであり、それを自分で“体験”したうえで、自分の頭で考える必要があると実感しました。私は29日間のニューカッスル滞在のおかげで、まったくの別人のようになりました」と、世界に飛び出す意義を語った。

 「自分もいつかケンのような人になりたいと思っていました。道でたまたま出会っただけの見知らぬ若者を助け、支えてくれた彼のように」と、ケンへの感謝と奨学金創設をめぐる思いを述べた。



改革開放の申し子たち

そもそも馬雲がモーリー親子と出会えたのは、改革開放のおかげだった。改革開放がなければ、アリババは生まれなかっただろう。馬雲のほかにも、行動力のある人物は、改革開放の恩恵に浴した。

米誌「タイム」1997年3月3日号
特集「次の中国」 表紙は鄧小平
中国の富豪ランキング「胡潤百富」(フールン・レポート)を調べると、有名な資産家は1962~1968年に生まれた人が多い。改革開放が始まったころ、彼らは多感な十代。改革開放という時代の変化に順応し、新しい時代の最初の大波に乗ることができた人たちだ。

 馬雲は自分の頭で考えることの重要性を強調したが、それは鄧小平も同じだった。「イデオロギーの束縛から自由になれ!頭を働かせろ!何が正しいのかは、事実から導き出せ!」。これは“解放思想、開動脳筋、実事求是”という中国語の意訳。鄧小平が改革開放を始める際に呼びかけた言葉だ。現在の中国の資産家は、改革開放の申し子たちと言えるだろう。

香港返還と鄧小平

鄧小平(右)と会談するマクレホース総督(左)
1979年3月29日
香港返還をめぐる英中交渉の始まりは、1979年3月に実現した第二十五代香港総督クロフォード・マレー・マクレホースの北京訪問だった。香港総督が中華人民共和国を公式に訪問するのは、これが史上初。3月29日にマクレホース総督は鄧小平と会見し、話は香港の将来に及んだ。そこで鄧小平は“香港の回収”を表明。英国は初めて中国側の意図を知った。

1982年9月22日に英国のマーガレット・サッチャー首相が中国を訪問。9月24日に鄧小平と会談した。鄧小平は香港の主権が中国にあるという姿勢を崩さず、会談は物別れに終わった。

鄧小平と会談するサッチャー首相
(1982年9月24日)
会談が終了し、サッチャー首相は人民大会堂の階段を下っていたが、ここでつまずき、転倒しそうになった。その映像は大々的に放送され、鄧小平との会談でサッチャー首相が大きな衝撃を受けたとの見方が広がり、世界に動揺が走った。

英中共同声明の署名式
握手するサッチャー首相と趙紫陽首相
その様子を見守る最前列中央の鄧小平
(1984年12月19日)
英中交渉が正式に始まったのは1983年7月。鄧小平は1984年6月に返還後の香港について、“一国二制度”(一つの国家に、二種類の制度)の方針を表明。1984年12月19日に英中共同声明が正式に署名された。その署名式典を鄧小平は最前列で見守った。

 このように香港返還の枠組みは、鄧小平がイニシアチブ(主導権)を取るなかで進められた。鄧小平は香港返還の日まで生きたいと常々口にしていたが、あと少しというところで亡くなった。それだけに、鄧小平を追悼する人々は、悲しみを深くした。

香港政府の閣僚

鄧小平の死去が大きく報じられた1997年2月20日、英領香港では返還に向けた準備が粛々と行われた。香港特別行政区の初代行政長官に任命された董建華は、主要閣僚を発表。約4カ月後に発足する香港政府の顔ぶれが明らかとなった。

パッテン総督(左)と陳方安生(右) 香港政府ナンバー2の政務長官(政務司司長)は、陳方安生(アンソン・チャン)。彼女は1993年9月に第二十八代香港総督クリストファー・フランシス・パッテンによって、華人初の布政司司長(返還後の政務司司長)に任命された人物。パッテン総督の人事が引き継がれた。



曽蔭権(左)と梁愛詩(右)
(2005年10月)
香港政府ナンバー3の財政長官(財政司司長)は曽蔭権(ドナルド・ツァン)。彼も1995年9月にパッテン総督によって華人初の財政長官に任命された人物だ。香港政府ナンバー4の司法長官(律政司司長)は梁愛詩(エルシー・リョン)。華人が司法長官に就任するのは、これが初めてだった。



香港と本土の交通連結

越境シャトルバス 返還を目前に、香港と中国本土を結ぶ交通手段の開通が相次いだ。1997年3月20日に香港の落馬洲管制站(落馬洲管制ポイント)と広東省深圳市の皇崗口岸(皇崗ポート)を結ぶ越境シャトルバスが開通した。

 改革開放政策が始まる前、英領香港と中国本土を陸路で結ぶ越境ポイントは2カ所だけだった。一つは1950年7月に承認された羅湖口岸(羅湖ポート)で、もう一つは1978年10月に開通した文錦渡口岸(文錦渡ポート)。しかし、改革開放政策が始まると、英領香港と中国本土を往来する人や物資が増大し、2カ所では対処が難しくなった。

 そこで、新たな越境ポイントとして、落馬洲管制ポイントと皇崗ポートを設けることが決まり、1989年12月に開通した。当初はトラックの越境ポイントだったが、やがて旅客の往来も可能となった。

しかし、落馬洲管制ポイントと皇崗ポートの間には距離がある。さらに落馬洲管制ポイントと皇崗ポートで、それぞれ越境手続き(出入境手続き)を行う必要があり、ここを通過するのは面倒。そこで、越境バスサービスが必要となり、香港返還の直前に開通した。

旅客で混雑する皇崗ポート
2015年4月の清明節
なお、2019年に香港と中国本土の越境ポイントを通過した旅行者は延べ2億3617万人。うち2,480万人が落馬洲管制ポイント~皇崗ポートを通過した。



直通列車の開通

30年ぶりに再開した広九直通車
(1979年4月4日)
手を振る京九直通車の乗客
((1997年5月18日))
香港と中国本土を結ぶ直通列車は、1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、無期限の運休となった。改革開放が始まると、英領香港の九広鉄路局が中国本土の広州鉄路局に、直通列車の再開を提案。こうして30年ぶりに英領香港の紅磡駅(ホンハム駅)と広東省広州市の広州駅を往復する直通列車の再開が決まった。この直通列車は広州市と香港の九龍地区を結ぶことから、“広九直通車”と呼ばれる。

 中国本土を公式訪問したマクレホース総督は、この直通列車で英領香港に戻ることを希望。その日程に合わせ、運行再開は1979年4月4日に決まった。広州駅に到着したマクレホース総督夫妻は、開通式典に出席。8時30分に出発した列車は、羅湖ポートを通過し、英領香港に進入。約3時間かけてホンハム駅に到着した。

 それから18年が経過し、京九直通車が1997年5月18日に開通した。京九直通車は北京市とホンハム駅を結ぶ直通列車で、総延長は2,475キロメートル。開通当初の所要時間は30時間弱だったが、現在は24時間ほどに短縮している。

 その翌日の1997年5月19日には滬九直通車も開通した。これは上海駅とホンハム駅を結ぶ直通列車で、総延長は1,991キロメートル。開通当初の所要時間は約29時間だったが、これも現在は19時間ほどに短縮している。

こうした直通列車の開通で、香港と中国本土の距離感は、ますます近くなった。

駐香港部隊の誕生

英中交渉が始まった当初、英国は中国人民解放軍(解放軍)の香港駐留は避けた方が良いと提案した。香港市民が解放軍を恐がるというのが主な理由。また、香港と中国本土が陸続きであり、すぐに出動が可能なことも、駐留不要論の根拠となった。この香港駐留をめぐっては、中央政府でも意見が分かれた。

鄧小平(左)と耿飆(右) こうしたなか鄧小平は、解放軍の香港駐留は“絶対”であり、決して譲れないと主張。絶対に譲歩してはならないと、1984年4月に指示した。しかし、全国人民代表大会(全人代)常務委員会の耿飆・副委員長は1984年5月21日に、解放軍の香港駐留はないと発言。これに鄧小平は激怒し、5月25日に耿飆の発言を自ら否定。耿飆の発言はまったくのデタラメであり、香港駐留は必要と強調した。

最終的に香港の防衛とその費用は、中央政府が負うことで合意。英中共同声明や香港特別行政区基本法(香港基本法)にも盛り込まれ、解放軍の香港駐留が確定した。香港に駐留する解放軍は、香港政府に干渉しないことはもちろん、香港の法律を遵守しなければならない。その一方で、香港政府は治安回復や災害救助で解放軍の協力を中央政府に要請できる。こうした要件を満たす部隊は特殊であることから、その編成作業は早くも1993年に始まった。

解放軍駐港部隊の成立大会(1994年10月25日) 1994年10月25日に深圳市で中国人民解放軍・駐香港部隊(解放軍駐港部隊)の成立大会が開かれた。解放軍駐港部隊は全軍の精鋭から選抜。1995年12月7日に正式に公開され、1996年1月28日に部隊編成の完了が発表された。

試練の76時間

香港返還に際し、正式な進駐と軍事施設の接収を円滑に進めるため、中国側は1995年から先遣隊の受け容れを英国側に何度も要望したが、2年が経っても何の音沙汰もなかった。しかし、この停滞は、突然打ち破られた。

1997年4月15日に香港政庁は中国側の要請を受け容れ、返還前に先遣隊を迎えると突然発表。“来週にも先遣隊が香港に到着する”と説明した。先遣部隊の派遣だけでも、その準備に7~10日は必要なのだが、御丁寧なことに“来週にも到着”と期限が定められた。

香港基本法を学ぶ解放軍駐港部隊
(1996年2月11日)
逮捕術の訓練に励む解放軍駐港部隊
(1996年2月2日)
香港政庁の不意打ち的な発表を受け、これは英国が解放軍駐港部隊の即応力を試しているのだと、中国側は理解した。こうして先遣部隊の派遣に向け、急ピッチで作業が始まった。

 中英連合連絡チームで中国側の防衛技術責任者だった楊建華・少将は、4月18日9時に命令を受領。それは4月21日13時に先遣隊を英領香港に進駐させるという内容だった。猶予は76時間しかなかった。

 しかも、19日と20日は土曜日と日曜日であり、香港の営業日は18日金曜日しかない。先遣隊の進駐は、中華人民共和国の軍人が英領香港に初めて足を踏み入れることを意味する歴史的イベント。ましてや解放軍の香港駐留は、亡くなったばかりの鄧小平の悲願。これを円滑に遂行するという重責が、楊建華・少将の双肩にのしかかった。

楊建華・少将は18日11時に、解放軍駐港部隊の後勤部に電話。香港に進駐する車両の車種、エンジン番号、通信設備について、詳細な資料を直ちに送って来るよう指示した。11時20分には香港の保険会社に電話。この日の18時までに車両保険の契約書を完成させるよう依頼した。

11時40分に香港政庁の保安課に連絡。19日午前に緊急の会議を開くよう申し出た。14時30分に防衛技術班のミーティングを開き、先遣部隊が英領香港で遭遇する事態の分析と対応策を協議。21時には中国側の発言内容やバックアップ案について、専門家と話し合った。先遣隊の行動計画案を策定し、これを香港政庁に送付。英国側の協力を取り付け、楊建華・少将は見事に任務を完了した。

先遣隊の香港進駐

1997年4月21日12時30分に8台の軍用車両が皇崗ポートに到着。先遣隊の第一陣40人を乗せた車列は、税関職員などから花束の贈呈を受けた。13時ちょうどに解放軍駐港部隊の副司令官である周伯栄・少将に率いられ、先遣隊の車列が英領香港への進駐を開始。初めて解放軍の制服を着た軍人が、英領香港に足を踏み入れた。

越境手続きが完了したのは13時15分。落馬洲管制ポイントを出発した車列は、警察のオートバイに誘導され、緩衝地帯のフロンティア・クローズド・エリア(香港辺境禁区)を通過。一般道に出ると、多くの香港市民が歴史的瞬間を記録に残そうと、カメラを向けた。

ダットン少将と握手する周伯栄・少将
(1997年4月21日)
先遣隊の一行は、香港島のセントラル(中環)に入り、14時35分に駐香港英国軍の本部があるプリンス・オブ・ウェールズ・ビルディング(威爾斯親王大廈)に到着した。先遣隊を出迎えたのは、駐香港英国軍の司令官であるブライアン・ホーキンス・ダットン少将。周伯栄・少将とダットン少将は、敬礼と握手を交わした。

 第一陣の香港進駐は無事に完了。5月の19日と30日には、第二陣と第三陣も進駐を終え、先遣隊196人が返還の日まで準備作業を進めることになった。

ブリタニア号の最終任務

ロイヤル・ヨットのブリタニア号が1997年6月23日に英領香港に入港した。ロイヤル・ヨットとは1660年にオランダから贈呈されたメアリー号に始まる英王室専用のヨット。ヨットとは言っても、小型の帆船ではない。豪華な遊行船を意味する。

香港に入港するHMYブリタニア号
(1997年6月23日)
ブリタニア号は1953年4月16日に戴冠前のエリザベス女王が進水式を行い、英王室の外遊には欠かせない存在となった。だが、1997年5月2日に労働党のアントニー・チャールズ・リントン・ブレアが首相に就任すると、コスト削減のため、ブリタニア号の勇退を決定。香港返還の式典に向かうことが、ブリタニア号の最終任務となった。

ブリタニア号が初めて英領香港に入港したのは1959年。エジンバラ公フィリップ王配の香港訪問のためだった。二度目は1986年のエリザベス女王訪中の途中。そして、三度目が1997年の香港返還となった。

ブリタニア号の勇退式で涙を流すエリザベス女王
(1997年12月11日)
英王室は香港だけではなく、思い出のブリタニア号も同時に手放すことになった。1997年12月11日にブリタニア号の勇退式が開かれたが、この公式の場でエリザベス女王は初めて人前で涙を落した。なお、ブリタニア号はエジンバラのリース港に停泊しており、有名な観光スポットとして、いまも人々を楽しませている。

ブリタニア号が入港した翌日の6月24日、パッテン総督は行政局の最後の会議を主催。28日には立法局でも最後の会議を開いた。こうして英領香港の歴史は、終焉を迎えようとしていた。

香港進駐命令

国家元首の江沢民・国家主席は、1997年6月29日に深圳市を訪問。中央軍事委員会の主席として、解放軍駐港部隊に香港進駐を命令するのが目的だった。行政の長である李鵬首相も、これに同行した。

鄧小平(右)と握手する江沢民(左)
(1992年10月)
6月30日10時10分に江沢民・中央軍事委員会主席は香港進駐を命令。7月1日0時より香港防衛の任務に当たるよう命じた。解放軍駐港部隊の進駐開始は30日21時。これに先立ち、歓送会が開かれた。

布政司署の門から撤去される香港政庁の紋章
(1992年10月)
こうしたなか、北京市では香港返還の祝賀式を準備するため、30日15時に天安門広場が封鎖された。香港では香港政庁の関連機関などで、英領香港や女王の紋章が撤去され始めた。

大英帝国の落日

降納された英国国旗を受領するパッテン総督
(1997年6月30日)
香港総督府では16時30分に英国国旗(ユニオン・フラッグ)の降納式が開かれた。香港警察の音楽隊による演奏が流れるなか、折りたたまれた英国国旗がパッテン総督に渡された。パッテン総督が両手で英国国旗を抱えるなか、英国国歌の演奏が始まる。最後にパッテン総督は深く首を垂れ、総督府を後にした。

パッテン総督の家族を乗せた専用車は、総督府を周回すると、ブリタニア号が停泊するアドミラルティ(金鐘)のテイマー(添馬)に向かった。テイマーは大きな空き地であり、ここで18時から英国による別れの式典“サンセット・フェアウェル・セレモニー”が開かれた。

パッテン総督は演説で「今日は祝いの日だ。悲しみの日ではない」と強調した。チャールズ皇太子はエリザベス女王の言葉を代読。歌や舞踊などが催され、2,000人を超えるパフォーマーが参加した。しかし、式典の会場はドシャ降りの大雨が続き、軍楽隊やパフォーマーは完全にずぶ濡れ。パッテン総督は「悲しみの日ではない」と強調したが、悲壮感は増すばかりだった。

英領香港の終焉

ブレア首相(左)と会談する江沢民・国家主席(中央)
(1997年6月30日)
テイマーからほど近い香港会議展覧中心(HKCEC)では、英国主催のカクテルパーティーが19時30分に始まった。約4,000人が出席し、中国の銭其琛・外交部長と英国のロビン・フィンレイソン・クック外相が祝杯を挙げた。その一方で19時45分から中国の江沢民・国家主席と英国のブレア首相が首脳会談を開催。英中外交が同時並行で進められた。

香港に進駐する解放軍駐港部隊
子どもたちが花束を贈呈
香港が数々の行事で忙しいなか、深圳市では21時に解放軍駐港部隊の司令官である熊自仁・少将が先遣隊509人を率い、香港進駐を開始。深圳市の大通りには大勢の市民が集まり、任務に向かう先遣隊に声援を送った。22時には北京市での祝賀式典も始まった。

 香港会議展覧中心では23時30分から主権返還の式典(香港交接儀式)が始まった。英中両国の首脳や要人が列席するなか、解放軍と英国軍の儀仗隊が入場。スピーチを始めたチャールズ皇太子は、香港社会の成功を讃えたうえで、英中共同声明に基づき、従来からの制度が今後も続くと強調。香港の将来に自信があるとしたうえで、英国との密接な関係は今後も続くと語った。

チャールズ皇太子のスピーチが終了すると、英国国歌の“ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン”が流れ、23時59分に英国国旗と香港旗の降納を開始。こうして英領香港は最後の瞬間を迎えた。

そのころ、駐香港英国軍の本部があるプリンス・オブ・ウェールズ・ビルディングでは、別の儀式が始まっていた。解放軍駐港部隊の譚善愛・中佐が率いる一行が23時58分に到着。出迎えた英国軍部隊に、施設の接収を宣言した。

英国軍に敬礼する譚善愛・中佐 “解放軍駐港部隊を代表し、軍営を接収いたします。あなた方は持ち場を離れて結構です。我々が任務に就きます。みなさまの帰路の平安をお祈り申し上げます”と中国語で挨拶し、英国軍の代表と握手した。

香港特別行政区のスタート

香港交接儀式の会場
1997年7月1日0時に中国国旗を掲揚
香港返還を祝う天安門広場の人々
(1997年7月1日)
英国の国旗降納が早すぎ、12秒間の沈黙が流れたが、日付が変わると、中国国歌の“義勇軍進行曲”の演奏が始まり、中国国旗(五星紅旗)と香港特別行政区の区旗を掲揚。香港特別行政区が発足した。

 続いて江沢民・国家主席の祝辞が始まった。“一国二制度”や“港人治港”(香港人による香港統治)を実行し、従来からの社会制度、経済制度、生活方式、法律が不変であると強調。中央政府が外交と国防を担当するが、香港政府は基本法に基づく行政権、立法権、司法権を保持するとしたうえで、香港市民は法に基づく各種の権利と自由を享受すると語った。民主制度については、香港の実情に合わせて一歩一歩進めるとした。

 日付が変わると、プリンス・オブ・ウェールズ・ビルディングを接収した解放軍駐港部隊は、0時0分に中国国旗を掲揚し、防衛任務を開始。香港各地では警察官が帽子を脱ぎ、徽章の付け替えを始めた。

 天安門広場では花火が打ち上げられ、中国各地や世界の中国人コミュニティで祝賀行事が開かれた。中国中央電視台(CCTV)の国際放送(CCTV-4国際放送)は6月30日から7月3日にかけて72時間の特別番組を放送した。



返還後も続く英中対立

帽子の徽章を付け替える香港の警察官
(1997年7月1日)
主権返還の式典が終了すると、チャールズ皇太子とパッテン総督家族は、7月1日0時15分にブリタニア号に向かった。1時30分から中国主催の式典が開かれるものの、チャールズ皇太子とパッテン元総督のほか、ブレア首相とクック外相も、この行事への参加をボイコットした。

ブリタニア号から手を振るブレア首相(中央)
右はパッテン元総督
(1997年7月1日)
一方、マクレホース元総督、エドワード・リチャード・ジョージ・ヒース元首相、リチャード・エドワード・ジェフリー・ハウ元外相などは、中国主催の式典に出席。英国側も一枚岩ではなく、対応が割れていた。

中国政府主催の特区政府成立・宣誓就任式典
(1997年7月1日)
香港に“黄金の十年”と呼ばれた成長期を築いたマクレホース元総督は、パッテン元総督の施策に反対していた。返還直前になって一方的に民主化改革を実行することは、中国側を怒らせるだけではなく、市民を中央政府に立ち向かう英雄に仕立て上げるということであり、やがて香港を危険に陥れることになると、彼は懸念していた。




チャールズ皇太子の本音

主権返還の式典について記したチャールズ皇太子の日記が2006年に明らかになり、スピーチとは裏腹の本音が明らかとなった。主権返還の儀式についてチャールズ皇太子は、“偉大な中国のお持ち帰り”(The Great Chinese Takeaway)という題名をつけた。

江沢民・国家主席とチャールズ皇太子
(1997年6月30日)
スピーチを終えた直後のチャールズ皇太子
<(1997年6月30日)
江沢民・国家主席との会談は、“馬鹿馬鹿しく、くだらない長話”(ridiculous rigmarole)だったと表現。中国政府の上層部については、“おぞましい古びたロウ人形たち”(appalling old waxworks)に例えた。

 解放軍についても言及。「兵士が低賃金であることから、香港の人々を威嚇したり、脅したりする可能性もあるので、それを中国の軍隊も懸念している」と分析。汚職の蔓延や法治の弱体化などを危惧していると記した。

 「この酷い“ソビエト風”の展示会が終わるころ、ガチョウ歩きする中国の兵隊が、英国国旗を引きずり下ろし、最悪の旗印を掲げるのを見なければなりませんでした」と嘲笑し、チャールズ皇太子は式典の感想を締めくくった。

 香港を離れたチャールズ皇太子は、ブリタニア号と別れる悲哀をつづった。そのうえで、護送する中国の艦艇が、ブリタニア号を追尾しているとして、不快感を露わにした。

 返還後の香港については、運命に任せるとしたうえで、民主党の指導者である李柱銘(マーティン・リー)が逮捕されませんようにと願った。

これを見るとスピーチでの建前と日記での本音はギャップが大きく、表向きこそ冷静かつ穏やかだったが、その裏には理屈にならない中国への嫌悪感も見え隠れする。英中両国の外交関係は、容易ではないことがうかがえる。

臨時立法会の移転

返還と同時に失職した民主派の立法局議員
(1997年6月30日)
チャールズ皇太子やパッテン元提督がボイコットした中国主催の式典では、董建華・行政長官をはじめとする香港政府上層部の就任宣誓が行われた。

 英中対立を背景に、1995年の選挙で当選した立法局議員は、香港返還と同時に失職。深圳市で運営されていた臨時立法会が、香港に移転した。なお、その経緯はこの連載の第五十二回で詳しく紹介している。

臨時立法会のメンバーは香港会議展覧中心の一室に集まり、7月1日2時45分から香港で初めての会議を開催。「香港返還条例」(香港回帰条例)の審議を始めた。1時間ほどで全手続きを済ませ、条例を採択。3時55分に閉会した。香港返還にともない、この日は誰もが寝不足だった。

百年の国辱

土地基金の証書を受領した董建華・行政長官
(1997年7月1日)
6月30日から7月1日かけて、大勢の人々が香港会議展覧中心に何度も出入りした。7月1日10時には4,600人を集め、香港特別行政区の祝賀式典が開かれた。江沢民・国家主席は“一国二制度”“港人治港”“高度自治”(高度な自治)が50年不変であると、あらためて強調。「香港返還によって“百年の国辱”の一つが晴らされた」と語った。

続いて董建華・行政長官の就任演説が行われ、1,970億香港ドルに上る土地基金が香港政府に譲渡された。この日の16時には5,000人が香港会議展覧中心に集い、大規模な宴会が開かれた。

解放軍駐港部隊の進駐開始

解放軍駐港部隊を見送る深圳市民
(1997年7月1日)
香港市民の歓迎を受ける解放軍駐港部隊
(1997年7月1日)
香港返還を受け、解放軍駐港部隊の本隊が進駐を始めた。7月1日6時に3カ所の越境ポイントから陸軍部隊の縦列が香港域内への進駐を開始。この日は雨だったが、解放軍駐港部隊を歓迎する市民が、沿道に集まった。


 越境ポイントの近くに位置する上水ニュータウンでは、額装された書を市民が兵士に贈呈。そこには「威武文明之師」(勇ましく礼儀正しい軍隊)と書かれていた。この書を軍用トラックに飾り、車列は駐留地に向かった。


 海軍部隊の船舶は4時55分に深圳市の軍港を出航。7時24分に昂船洲海軍基地に入港した。空軍部隊のヘリコプターも8時35分に到着。こうして6,000人を超える解放軍駐港部隊の陸海空軍が、進駐を完了した。


 解放軍駐港部隊の進駐は、植民地統治の終わりと新時代の始まりを香港市民に肌で実感させる出来事だった。鄧小平は英中交渉の際、解放軍の香港駐留を絶対の条件としていたが、それは果たされた。


鄧小平の香港統治方針

2022年に香港は返還25周年を迎える。あの日から四半世紀が過ぎ、一国二制度の“50年不変”は、その半分が消化されたことになる。そうしたなか2020年6月30日に「中華人民共和国香港特別行政区維護国家安全法」(香港国家安全法)が施行され、一国二制度の形骸化を危惧する声もある。中国の香港統治が大きく変化したという指摘も聞かれる。

だが、鄧小平の発言を見ると、香港統治の方針は返還の10年以上に決まっており、現在もその通りに進んでいることが確認できる。1987年4月16日に鄧小平は香港基本法の起草委員会メンバーと会見。その席で以下のように明言した。

「絶対に勘違いしないで欲しいことがある。それは“香港のことはすべて香港人に任せ、中央政府がまったく関与しなければ、全部が万々歳!”という考えだ。こうした考え方はダメだし、現実にそぐわない。

香港基本法起草委員会のメンバーと会談する鄧小平
(1987年4月16日)
中央政府が特別行政区の具体的な仕事にいちいち干渉しないのは確実なことであり、干渉する必要もないとすら考えている。だが、国家の根本的利益を脅かすような事態が、特別行政区に起きないと言えるのか?まさか起こり得ないとでも言うのか?


右派市民が起こした1956年の双十暴動
香港初の戒厳令が敷かれ、英国軍が出動した
もし、そんなことが起きた時、北京はこれを問題視すべきではないのか?まさか香港の根本的な利益を脅かすようなことが、香港では起きないとでも言うのか?香港に干渉しなければ、破壊的な勢力も生まれないと考えることができるのか?


左派市民が起こした1967年の六七暴動
治安維持のため英国軍も出動
わたしが見たところ、こうした自分に言い聞かせるような安心材料に、どれも根拠はない。中央政府がすべての権力を放棄するとなれば、それは香港に混乱を起こし、香港の利益を損なうことになるだろう。それゆえ、中央政府がいくらかの権力を保持することは、有益無害と言える。


香港の皆さんも冷静に考えてみて欲しい。香港にも時には北京が乗り出さなければ解決できない問題が起こり得るのではないか?過去を振り返れば、香港で問題が発生した時、いつも英国が解決に乗り出したではないか。中央政府が乗り出さなければ、あなた方には解決困難な事態もありえるだろう。


香港中文大学の武装した学生が警察と衝突
学生は火炎瓶を投擲し、警察は催涙弾で応戦
(2019年11月11日)
中央政府の政策は、香港の利益を損なわない。また、国家や香港の利益を損なうことが、香港に起きないことを望んでいる。しかし、もしそんなことが起きたらどうする?だからこそ、諸君には基本法を起草するうえで、そうした点を考えてほしい。


クリントン大統領(右)と李柱銘(左)
中央はゴア副大統領
(1997年4月18日)
例えば、香港人が共産党や中国本土を罵倒しても、そうした行為を我々は1997年以降も認めるだろう。だが、そうした言論が“実際の行動”に変わり、香港が民主主義の看板を掲げた反中国の拠点になってしまったら、どうする?


香港衆志の幹部と米国外交官のミーティング
左から二番目は黄之鋒
右から二番目のジューリー・イーデーは
駐香港米国領事館の政治部主管
デモが激しさを増す2019年8月6日に撮影
そうなってしまったら、“むしろ干渉しなければならない”。まずは香港の行政機構が干渉する。解放軍が出動する必要はない。解放軍が出動するのは、動乱や大動乱が起きた時だけだ。ただし、干渉はしなければならない」


このように鄧小平は30年以上も前に、一国二制度の下でも、干渉すべき時は香港に干渉するという方針を明言していた。なお、上記の発言は「鄧小平文選」の第三巻に取得されている。ここで鄧小平は江沢民や胡錦涛などが目指した“小康社会”(いくらかゆとりのある社会)のほか、いま話題の“共同富裕”などについても語っている。


香港の言論

鄧小平が1987年に語った上記の方針を見ると、中国の香港統治で、何が中央政府による干渉の発動ラインなのかが分かる。それは根本的利益を損なう“行動”が起きた時だ。

例えば、チャールズ皇太子の心配をよそに、民主党の李柱銘は逮捕されることなく、2008年9月末まで立法局の議員を務め、平穏のうちに政界を引退した。彼は2007年10月に渡米し、滞在中に「ウォールストリートジャーナル」に寄稿。ブッシュ大統領は2008年北京五輪までの10カ月を利用し、報道、集会、宗教の自由を改善するよう中国に迫るべきだと呼びかけた。

中国本土では邪教とされる法輪功のデモ行進
香港ならではの光景に本土からの観光客も驚愕
銅鑼湾(コーズウェイ・ベイ)の香港そごう前
(2015年4月26日)
こうした李柱銘の言論は、中央政府や香港立法会の親中派から大々的に批判され、「漢奸」(売国奴)の烙印を押された。だが、それが罪に問われ、逮捕されるようなことはなかった。鄧小平が示したように、返還後も香港の言論は自由だった。なぜなら、根本的利益を破壊するような“行動”が起きなかったからだ。

返還後の香港では、中国本土では邪教とされる法輪功も、自由な宣伝活動が許されていた。天安門事件への抗議運動や民主化要求の集会も、返還前と同様に続いた。

台湾で起きた殺人事件

陳同佳(右)と潘暁穎(左) だが、2019年に一線が破られる事態が起きた。きっかけは台湾で起きた香港人カップルの殺人事件。香港市民の陳同佳(男性)と潘暁穎(女性)は、2018年2月に台北を訪れたが、そこで痴話ゲンカが起きた。陳同佳は元彼の子を妊娠していた潘暁穎を殺害。遺体を遺棄し、一人で香港に帰った。

2018年3月に事件が明らかとなったが、この殺人事件を香港で裁くことはできなかった。殺人事件が起きたのは台湾であり、属地主義に基づき、これを裁けるのは台湾の司法機関だからだ。しかし、香港と台湾の間には、犯罪人の引き渡しに関する取り決めがない。潘暁穎の父親は、陳同佳を台湾に引き渡し、裁判にかけるよう求めたが、実現しなかった。

こうした犯罪人の引き渡しについては、台湾だけではなく、中国本土との間にも同じ問題が存在する。中国本土で罪を犯し、香港に逃げた犯罪者も、引き渡しを免れることができる。そこで香港政府はこの問題を一挙に解決すべく、いわゆる“逃亡犯条例”の改正に向けて動き始めた。

逃亡犯条例改正をめぐる対立と衝突

2019年2月に香港政府は逃亡犯条例の改正について、パブリックコメント(意見募集)を開始。3分の2に上る回答が、改正に賛成だった。なぜなら、現状のままでは香港が“逃亡犯の楽園”になりかねないからだ。

だが、立法会での審議が始まると、民主派の議員が反発した。台湾への引き渡しは容認できるが、中国本土は除外すべきと主張。さらに香港政府が条例を乱用し、中央政府に反対する人物を中国本土に引き渡すのではないかと疑った。すでに政界を引退していた李柱銘も、逃亡犯条例の改正に反対した。

逃亡犯条例改正への反対運動は、立法会の外でも起きた。民主派で結成された“民間人権陣線”(民陣)は、3月31日に最初のデモ行進を主催。参加者は主催者発表で1万2,000人、警察発表で5,200人だった。

逃亡犯条例をめぐり乱闘となった民主派と親中派
2019年5月11日の立法会
4月になると逃亡犯条例の改正をめぐり、立法会では民主派や本土派による議事妨害が相次いだ。4月28日に民陣は2回目のデモ行進を主催。参加者は主催者発表で13万人、警察発表で2万2,000人だった。5月に入ると親中派と民主派、本土派との対立は激しさを増し、11日には立法会での乱闘騒ぎまで起きた。


デモ行進と騒乱

6月9日に民陣が主催した3回目のデモ行進は、主催者発表で103万人、警察発表で24万人が参加。返還後のデモ行進としては過去最高を記録し、その様子は海外でも大々的に報道された。多くの香港市民が参加したこのデモ行進は、14時20分に始まり、22時に終了した。

2019年6月9日のデモ行進
湾仔(ワンチャイ)のヘネシーロード(軒尼詩道)
だが、その一方で黄之鋒(ヨシュア・ウォン)や黄周庭(アグネス・チョウ)が率いる香港衆志(デモシスト)は、別の動きをみせていた。香港衆志は20時半ごろにウェブサイトに声明を掲載。行政長官、保安局長との面会を要求すると同時に、立法会を包囲する運動に参加するよう香港市民に呼び掛けた。

立法会ビルでの衝突
(2019年6月10日)
立法会を包囲した集団と警察隊が対峙。一部の若者が立法会ビルの占領を図り、警察隊と衝突した。警察隊は催涙スプレーや警棒で応戦。デモ行進と違い、立法会の包囲は違法な集会であることから、ただちに解散するよう呼びかけた。

立法会ビルを離れた集団は10日2時ごろになると、香港中心部の数カ所に再結集。車道にバリケードを築き、再び警察隊と対峙した。激しい衝突には至らなかったが、一部の若者に対する職務質問では、刃物なども見つかった。

エスカレートする衝突

道路を占拠して警察との衝突に備える若者の集団
(2019年6月12日)
一時中断していた逃亡犯条例改正の立法会審議は、6月12日に再開する予定だった。これを前に11日夜から、若者の集団による集会が、香港島の各所で開催された。12日朝になると、黒いTシャツとマスクの集団が、アドミラルティやセントラルの幹線道路にバリケードを構築。それは2014年に起きた雨傘運動の道路占領活動の再現だった。

催涙弾の発射を黒旗で警告する警察隊
(2019年6月12日)
香港島の中心部は交通マヒとなり、大混乱に陥った。警察隊は15時47分に催涙弾の使用を開始。発射された催涙弾は240発を超え、ゴム弾なども使われた。こうした混乱を背景に、立法会は審議の中止を発表。若者の集団と警察の衝突は、13日未明まで続いた。一連の衝突による負傷者は80人以上に上ったとみられる。

催涙弾を発射する警察隊(2019年6月12日) こうした事態を受け、林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は15日に記者会見の席上で、逃亡廃条例改正の作業を一時停止すると発表。その翌日の6月16日には、民陣は4回目のデモ行進を主催。参加者は主催者発表で200万人以上、警察発表で33万8,000人に達した。デモ行進の訴えは、その重点が逃亡犯条例改正の反対から、12日に実施された警察隊の鎮圧行動に対する抗議に移っていた。

催涙弾で混乱する集団(2019年6月12日) 香港特別行政区の創設記念日である7月1日には、立法会ビルの占領と破壊活動が展開された。13時半ごろから若者の集団と警察隊が立法会ビルで衝突。20時55分に一部の若者が立法会ビルへの侵入に成功すると、一斉になだれ込んだ。侵入に成功した集団は、議事堂や器物を大々的に破壊。この騒乱は7月2日1時ごろまで続いた。

また、21日13時には若者の集団が税務署ビルを包囲し、市民の立ち入りを妨害。市民から激しい反発を受けた。学生らは抗議活動の大義を強調し、理解を求めたが、最終的に謝罪することになった。そのほかの政府庁舎でも、同様の妨害活動が起き、市民は眉をひそめた。

包囲された警察本部(2019年6月21日) こうした市民参加のデモ行進と若者を中心とした抗議活動は、明らかに性質が異なるものだった。6月21日11時半には香港衆志の黄之鋒が学生らに呼びかけ、警察本部を包囲。12日の抗議活動が暴動だったという認定を取り消すよう迫った。警察本部が包囲されたことで、警察車両や警察官が出動できない状況となり。それが12時間以上も続いた。警察本部の包囲は、6月26日にも実施された。

“攬炒論”の台頭

立法会ビルのガラスを壊し、侵入を図る集団
(2019年7月1日)
若者の抗議行動がエスカレートするなか、香港政府は逃亡犯条例の改正作業を停止したと何度も呼びかけたが、それは無駄に終わった。すでに抗議活動の重点は、暴動認定の撤回や民主化要求に移っていたからだ。

若者の抗議活動は、香港のインフラ機能の破壊に重点が置かれるようになる。8月には香港国際空港で旅行客の搭乗妨害運動が起き、その行動に外国人も反発。地下鉄では運行妨害活動がたびたび展開され、若者と通勤客が口論する場面もみられた。建物や道路の破壊や駅の放火なども相次ぎ、若者たちは“攬炒”という標語を掲げた。

若者の集団に占領された立法会
あちらこちらに落書きされた
(2019年7月1日)
“攬炒論”については、この連載の第五十回で紹介しているが、香港を破壊することで外資を撤退させ、中国経済にダメージを与える戦略。そうなれば、中央政府も屈服せざるを得ないという考え方で、“死なばもろとも”というのが “攬炒”の意味だ。“攬炒”の破壊活動は、新型コロナ感染の拡大が広がるまで続いた。それはまさに、鄧小平が危惧した“根本的利益の破壊”だった。

香港への干渉

攬炒論を支持する香港の若者たち この連載の第五十一回で紹介したように、香港の立法会が自ら香港国家安全法を制定することは、1990年4月4日に公布された香港基本法でも定めている義務だった。だが、返還から20年以上が経過しても、香港国家安全法を立法会は決議できず、ついには“攬炒論”の破壊行動が繰り広げられた。

これは鄧小平が懸念した香港政府には解決が難しい問題。つまり、中央政府が乗り出すべき問題が発生したことを意味した。すでに政界を退いていた李柱銘の命運も、これで大きく変わってしまった。民主派の言論には寛容だった香港政府や中央政府だが、“攬炒論”や“香港独立”の行動に対しては厳しい姿勢で臨んだ。

2019年8月18日に開かれた集会を違法に開催した容疑で、2020年4月18日に李柱銘など民主派と呼ばれる人々が一斉に逮捕された。李柱銘は2021年4月1日に有罪が確定し、16日に禁固11カ月執行猶予2年の量刑が言い渡された。

逮捕当日に保釈された李柱銘
(2020年4月18日)
2019年に起きた一連のデモ行進や抗議活動を受け、李柱銘などの民主派が西側諸国の反中勢力と結託した香港の仲介者であると、中央政府は主張している。そうした非難の背景には、「もし香港が民主主義の看板を掲げた反中国の拠点になってしまったら、どうする?」という鄧小平の警告があるとみられる。


死後も続く鄧小平の影響力

香港基本法第18条には、香港でも施行可能な全国的な法律について定められている。そうした全国的な法律の追加や削除は、全人代が香港政府などの意見を求めたうえで実施可能とされる。

香港の街角に出現した国家安全法の横断幕 こうして全人代常務委員会は2020年6月30日、香港でも施行される全国的な法律として、香港国家安全法を承認。これは香港でも公布され、即日施行された。香港基本法を制定するうえで、鄧小平が注文していた機能が、ついに発動した。

鄧小平を讃える巨大な肖像画
建国70周年の国慶節パレード
(2019年10月1日)
この香港国家安全法は“一国二制度の破壊”と指摘する声があがっているが、中央政府に言わせれば、そうではない。鄧小平が30年以上も前に指摘したことを実施しているだけと言える。鄧小平の恐るべき洞察力とそれに基づく思想は、中国政府にとって重要な指針の一つであり、いまでも大きな影響を及ぼしている。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は12/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに