コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

返還に向けた香港の変化

2021.10.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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就任宣誓を行うパッテン総督
(1992年7月)
パッテン総督を“千古罪人”と批判した魯平 英領香港では1990年代に入ると、返還に向けた本格的な変革期を迎えた。約一世紀半に及んだ植民地時代は、終焉を告げようとしていた。英領香港は新しい時代への不安と希望が入り混じる独特なムードに覆われた。

この連載の第五十一回では香港市民の身分をめぐる英中の攻防を紹介。第五十二回では立法局の選挙制度改革をめぐる英中の対立を解説した。香港返還をめぐる英中両国の険悪ムードは、最後の最後まで解消しなかったが、その裏で返還に向けた準備作業は粛々と進められ、さまざまな変化が起きた。

そこで今回は、そうした変化を紹介する。まずは香港ドル紙幣の話だ。香港で暮らせば誰もが目にする紙幣からも、返還の足音が聞こえてきた。

第三の発券銀行

中国銀行香港支店の発券開始式典
(1994年5月2日)
中国銀行の香港ドル紙幣を手にした香港市民
(1994年5月2日)
香港ドルの発券業務は、1974年から英国資本の香港上海匯豊銀行(HSBC)と渣打銀行(香港)(SCB)による二行体制となっていた。しかし、香港返還を見据え、英中両国は1980年代の初めごろから、中国銀行香港分行(中国銀行香港支店)も発券業務に加わることを検討。1992年7月に香港政庁に発券業務を申請した。この申請は1993年1月に許可され、中国資本の中国銀行香港支店が第三の発券銀行となった。

1994年5月2日に発券開始の式典が開かれ、早く新しい香港ドルを入手しようと、銀行に行列ができた。“中国銀行”という表示された香港ドル紙幣が出回るようになると、まだまだ時間があると思われた返還が、3年2カ月後に迫っているという現実を香港市民はひしひしと実感した。

中国銀行発行の香港ドル紙幣(1994年版)
描かれている建物は中国銀行タワー
中国銀行の香港ドルは流通が進み、その規模はSCBを抜いた。発券銀行3行の紙幣流通量(金額ベース)は、2020年末で5,595億香港ドル。このうち最も多いのがHSBCの紙幣で、全体の56.0%を占めた。これに次ぐのが中国銀行の紙幣で、全体の33.9%。SCBは10.1%に過ぎない。

中国銀行タワーの風水戦争

香港島金鐘の中国銀行タワー 中国銀行の香港ドル紙幣は、幅広く受け入れられているが、そこに至るまでの道のりは決して順風満帆ではなかった。中国銀行香港支店は“中華人民共和国の顔”であり、時には香港市民の反発を受けた。

中国銀行香港支店が入居していた中銀大廈(中国銀行タワー)は、香港島の金鐘(アドミラルティ)に位置する地上70階建て、高さ367メートルの超高層ビル。幾何学的を駆使した個性的な姿が印象的で、中国銀行の香港ドル紙幣にも描かれている。

このビルの建設計画は1982年にスタート。建設用地は中国銀行が香港政庁から11億香港ドルで取得。当時の不動産相場に比べると、破格の安価であり、その当時の英中関係が良好だったことを物語っている。

建設中の中国銀行タワー
(1988年)
建設を請け負ったのは日本の熊谷組で、1985年に着工。1988年8月8日の竣工を目指した。中国では8が最高に縁起の良い数字だからだ。だが、工事は遅延し、当初の竣工日には間に合わなかった。1年遅れで竣工し、1990年5月17日にオープンした。

この個性的なビルを設計したのは、中国系米国人のイオ・ミン・ペイ。ルーブル美術館のガラスピラミッド(ルーブル・ピラミッド)を手がけた世界的な建築家として知られる。その作風から“幾何学の魔術師”と呼ばれる。

イオ・ミン・ペイと代表作のルーブル・ピラミッド
ペイ氏は2019年に102歳で死去
ただ、このビルの建設をめぐっては、香港では珍しく風水師の意見を求めなかった。このため風水業界からの攻撃に遭った。1986年12月5日に第二十六代香港総督のエドワード・ユードが、北京市の英国大使館で急死。死因は急性心臓発作だった。

すると、風水師たちは中国銀行タワーのせいだと囃し立てた。このビルの形状は剣に似ており、その刃が香港総督府に向けられていると主張。刃はHSBCの本店ビル「匯豊総行大廈」にも向けられていると指摘し、あたかも中国側に悪意があるかのように煽った。

HSBC本店ビル屋上の砲台のようなクレーン そこで香港総督府は風水師の意見を採用。対抗策として中国銀行タワーの方向に柳の木を植え、殺気を防ぐことにした。ちょうどそのころ、HSBCの業績も悪化していたことから、中国銀行タワーの殺気に対抗するため、砲台のようなクレーンを設置。すると、HSBCの業績も回復に向かったという。

中国銀行タワーとHSBC本店に挟まれた長江集団センター
四面を四角形の強固な盾に見立て、殺気を防御
このほか、シティバンクや長江集団のビルも、中国銀行タワーからの殺気を防ぐ工夫を採用。中国銀行タワーはアドミラルティの景観に少なからぬ影響を与えた。このように英中の対立は、風水学という予想外の切り口からも煽られた。香港でビジネスを展開するうえで、風水学は無視できない。

紙幣の署名

1989年6月6日付の香港紙「新報」
天安門事件を受け、香港市民が中国本土系の銀行に抗議
中国銀行香港支店への批判は、風水問題にとどまらなかった。1989年6月4日に天安門事件が起きると、これに抗議する香港市民が中国銀行香港支店に殺到。巨額の預金が引き落とされる事態となり、発券銀行となる計画に暗雲が広がった時期もあった。しかし、そうした危機を乗り切り、1994年5月に香港ドル紙幣の発行にこぎつけた。

解任された劉金宝 だが、2003年に再び思わぬ方向から、信用危機が訪れた。1997年8月に中国銀行香港支店の総経理に就任した劉金宝が、2003年に突然解任され、北京に召喚されたことが原因だった。

劉金宝が解任された原因は、経済犯罪の容疑。2005年7~8月に吉林省長春市で開かれた裁判では、汚職、収賄、出所不明資金の隠匿などで有罪判決が下された。最終的に執行猶予2年間の死刑となり、政治権利の生涯はく奪、全財産の没収が言い渡された。

劉金宝の署名がある香港ドル紙幣 香港ドル紙幣には発券銀行責任者の署名が印刷されている。当然、劉金宝の署名がある紙幣も大量に出回っていた。劉金宝の事件が明るみに出ると、紙幣が無効になるのではないかと心配する香港市民が出現。そこで中国銀行や香港特別行政区政府(香港政府)は不安解消に乗り出し、署名は個人的なものではなく、法人を代表したものであり、引き続き有効かつ合法であると説明。大きな騒動には至らなかった。

激動の歴史を歩んだ中国銀行

返還前から“中国本土の顔”だった中国銀行香港支店の歴史は、1905年に清王朝が北京に設立した大清戸部銀行に遡る。この銀行は1908年に大清銀行に改称。だが、1911年の辛亥革命で倒産した。1912年に中華民国が成立すると、大清銀行の資産を基礎とする官民合弁の中国銀行が上海に誕生。初代総裁には実業家の孫多森が就任し、同年2月5日に開業した。

凹版印刷を採用した大清銀行の兌換紙幣
宣統三年(1911年)発行
肖像は宣統帝の父である摂政王の載灃
額面は中国語で10圓、英語で10ドル
つまり銀貨10圓(ドル)と交換可能
孫多森
中国銀行の初代総裁
なお、この当時の中央銀行は二つあった。一つは中国銀行。もう一つは清朝末期の1908年に北京で開業した交通銀行。中国銀行と交通銀行はいずれも中華民国の中央銀行とされ、紙幣の発券業務を担った。

袁世凱が中華民国の臨時総統に就任すると、国内情勢の激動が続き、中国銀行も歴史の渦に巻き込まれる。中華民国で初の国会議員選挙が1912年12月~1913年3月に実施され、孫文が率いる中国国民党(国民党)が圧勝。国民党の理事長だった宋教仁が、行政の長である国務総理に就任するはずだった。

しかし、宋教仁は1913年3月20日に上海で暗殺される。暗殺の黒幕は袁世凱という見方が広がり、これを背景に孫文は武力闘争を国民党に提案。だが、党員の大多数はこれに反対した。

こうしたなか、袁世凱は1913年4月26日に国会の承認を経ないまま、英独仏露日の五カ国から総額2,500万ポンドの借款契約を交わす。借入期間は47年で、中華民国の塩税や関税を担保として差し入れた。これで袁世凱と国民党は完全に決裂。袁世凱派の政治家は、中国銀行の孫多森・総裁を解任した。こうして中国銀行は袁世凱の手中に落ちた。

信用不安からの香港進出

中華帝国皇帝の袁世凱
帝政は82日で消滅
中華民国の実権を掌握した袁世凱は、1913年10月10日に正式な総統に就任。同年11月14日には国民党員の国会議員資格を取り消すと同時に、解党を命じた。袁世凱は帝政の復活を計画。1915年12月12日に中華帝国の皇帝に即位し、翌年を洪憲元年に改元すると宣言した。だが、中国南部一帯で帝政復活に反対する武装蜂起と地方の独立宣言が頻発。袁世凱は1916年3月22日に帝政廃止を発表し、同年6月6日に失意のうちに病死した。

袁世凱の帝政廃止を受け、政府の信用は失墜し、発券銀行である中国銀行では取り付け騒ぎが発生した。人々は中国銀行が発行した紙幣を銀圓(銀貨)に交換するよう求めた。この当時の紙幣は、銀本位制の兌換紙幣であり、発券銀行は銀貨との交換に応じる必要があった。中国銀行と同じく中央銀行だった交通銀行でも、同様の事態に陥った。

この騒ぎを収拾するため、1916年5月12日に政府は紙幣の兌換停止と預金封鎖を発表。中国銀行や交通銀行に対する信用も地に落ちた。事態の収拾に向け、中国銀行と交通銀行の合併も検討されたが、結局は実現しなかった。

中国銀行の兌換紙幣
民国元年(1912年)発行
額面は中国語で5圓、英語で5ドル
つまり銀貨10圓(ドル)と交換可能
この画像は雲南で流通した紙幣
中華民国の実権を掌握した袁世凱は、1913年10月10日に正式な総統に就任。同年11月14日には国民党員の国会議員資格を取り消すと同時に、解党を命じた。袁世凱は帝政の復活を計画。1915年12月12日に中華帝国の皇帝に即位し、翌年を洪憲元年に改元すると宣言した。だが、中国南部一帯で帝政復活に反対する武装蜂起と地方の独立宣言が頻発。袁世凱は1916年3月22日に帝政廃止を発表し、同年6月6日に失意のうちに病死した。

袁世凱の帝政廃止を受け、政府の信用は失墜し、発券銀行である中国銀行では取り付け騒ぎが発生した。人々は中国銀行が発行した紙幣を銀圓(銀貨)に交換するよう求めた。この当時の紙幣は、銀本位制の兌換紙幣であり、発券銀行は銀貨との交換に応じる必要があった。中国銀行と同じく中央銀行だった交通銀行でも、同様の事態に陥った。

この騒ぎを収拾するため、1916年5月12日に政府は紙幣の兌換停止と預金封鎖を発表。中国銀行や交通銀行に対する信用も地に落ちた。事態の収拾に向け、中国銀行と交通銀行の合併も検討されたが、結局は実現しなかった。

こうした激動の最中、中国銀行は1917年に英領香港に進出。中国銀行香港支店を設立した。その後、中国銀行は1928年10月26日に中華民国政府の国際為替銀行となり、中央銀行としての役割を終えた。中央銀行の機能は、同年11月1日に設立された中華民国中央銀行が担当。ただし、発券業務は温存され、中央銀行、中国銀行、交通銀行の紙幣が流通するようになった。

香港資産の帰属問題

1945年に国民党と中国共産党(共産党)による国共内戦が再開。1949年に国民党が率いる中華民国政府は台湾に移転し、中国銀行の管理本部も台北に移った。こうして中国銀行の資産は、中国本土と台湾に二分された。交通銀行も同じ運命をたどった。

若き日の鄭鉄如
中国銀行香港支店の総経理
戦中は日本への協力を拒否した。
中華民国政府は英領香港でも官僚資本企業の資産を保有していた。それは2億香港ドルを超える規模であり、航空会社、海運会社、銀行、保険、商社など多岐にわたった。中国銀行香港支店もそのうちの一つだった。

これらの官僚資本企業は、1949年10月1日に中華人民共和国が成立すると、相次いで北京の中央人民政府に従うと表明。この連載の第四十六回で紹介したように、英領香港の招商局輪船では、従業員600人が決起した。

中国銀行香港支店では総経理の鄭鉄如が、早くから共産党に接触し、4,000万香港ドルを超える資産の保全を進めていた。1950年1月6日に英国は中華人民共和国を承認。同月9日に周恩来首相は、英領香港に駐在する中華民国の官僚資本企業に対し、資産保全と接収待機を命じた。同じ日に鄭鉄如は、中国銀行香港支店の全従業員が中央人民政府に従うと宣言。アジア各国の支店もこれに追随した。

冀朝鼎による香港資産接収

北京の中央人民政府は、香港資産を接収する作業団の派遣を決定。その団長には冀朝鼎が選ばれた。彼は中華民国政府に潜伏していた共産党の秘密党員だった人物であり、米国留学経験のある金融の専門家だった。

共産党の秘密党員だった冀朝鼎
中華民国中央銀行に潜伏していた。
潜伏先の中華民国中央銀行で発言権を高めた冀朝鼎は、共産党が優位に立つように、国民党の通貨政策や金融政策を誘導。この連載の第三十一回で紹介した金圓券の発行による国民党の信用失墜も、彼が仕組んだと言われる。

共産党が北京を占領すると、冀朝鼎は中国人民銀行の経済研究所で所長を務めることになる。1949年5月に上海の中国銀行を接収すると、その副総経理に就任。外国為替制度の構築に着手した。中国銀行が本店を北京に移すと、冀朝鼎は副董事長に就任。中国銀行香港支店にとって、資産接収のために香港にやって来る作業団の団長は、彼らの上司だった。

改革開放前の中国銀行香港支店
英領香港でも社会主義色が強かった。
作業団の金融作業グループは、約5,240万香港ドルに上る金融資産を確保。これを含めて1950年末までに約2億香港ドルに達する資産の接収に成功した。中華人民共和国への帰属を表明した従業員は4,855人。うち3,420人が中国本土への異動となり、さまざまな分野で要職を務めることになった。

なお、台湾に移った中国銀行は1972年に改組し、名称も“中国国際商業銀行”に変更した。これは1971年10月に中華人民共和国が国際連合の代表権を得たことが原因。中国の継承国となった中華人民共和国が、台湾の資産を接収することを防止するための措置だった。2006年8月に中国国際商業銀行は台湾の交通銀行を吸収合併。これを機に名称も“兆豊国際商業銀行”に変更した。

一方、中国本土の中国銀行は、当初からの名称を使い続けた。中国銀行香港支店は英領香港に残ったその他の中国本土系銀行を統括。1983年には中国銀行香港支店を中心に、中国本土系金融機関14社の集合体である中銀集団(中銀グループ)を結成。中銀グループの下で14社は独自の経営を維持したが、外国為替取引などは一本化された。なお、1998年4月に交通銀行の香港支店は中銀グループから離脱。中国本土の交通銀行に管轄されることになり、中銀グループは13社体制となった。

中銀香港の上場

中銀香港の設立式典
左の人物は董建華・行政長官
中銀香港ホールディングスの上場式典
証券コードは02388
香港返還後は中銀グループの上場に向けた準備が始まった。2001年1月に中国人民銀行は、中銀グループの再編を許可。同年10月1日に中国銀行香港支店など9社の資産と負債が、中銀グループの宝生銀行に注入された。

同日に宝生銀行は中国銀行(香港)有限公司(中銀香港)に社名を変更。中銀グループの残る3社も、中銀香港の子会社となった。この再編を通じ、香港ドル発券の発券銀行も、中国銀行香港支店から中銀香港に変更された。

2001年9月12日に設立された持ち株会社の中銀香港(控股)有限公司(中銀香港ホールディングス)は、経営実体である中銀香港の株式を100%保有。そのうえで中国本土の国有銀行である中国銀行は、持ち株会社である中銀香港ホールディングスの株式を保有した。

中銀香港ホールディングスは2002年7月15日に公募を開始し、同月25日に香港証券取引所に上場した。こうして中銀香港ホールディングスは、香港株式市場でも“中国本土の顔”となる。その株式は2002年12月2日から今日に至るまで、香港株式市場を代表するハンセン指数に組み入れられている。

2006年6月1日には中銀香港ホールディングスの親会社である中国銀行が香港に上場。同年5月23日に始まった香港での新株募集では、有効応募件数が95万4,024件に達した。2006年末の香港の人口は約690万人であり、7人に1人が応募したことになる。中国銀行も2006年12月4日にハンセン指数に組み入れられており、香港株式市場を代表する銘柄の一つとなっている。

中国銀行の目論見書を手にする香港市民 中国銀行の上場式典
証券コードは03988

香港の人民元業務解禁

中国銀行は香港ドルの発券銀行として、香港での存在感を高めた。そして、人民元をめぐっても、香港で特別な地位を獲得する。そのきっかけは、2003年の春に香港で猛威を振るった重症急性呼吸器症候群(SARS)だった。

香港でのSARS感染者は累計1,755人に上り、299人が死亡。致死率は17%という高さだった。これにより香港経済は、観光業や小売業を中心に大打撃を受けた。

CEPAの調印式
署名者は商務部の安民・副部長と梁錦松・財政長官
温家宝首相と董建華・行政長官が立ち会った。
香港経済の回復を支援するため、北京の中央政府と香港政府は2003年6月29日に「中国本土と香港の緊密な経済貿易関係の構築に関する協定」(CEPA)を締結。これに基づき、広東省の東莞市、中山市、江門市の住民を対象に、香港への個人旅行を試験的に認めることが決まった。さらに遅くても2004年7月1日までに広東省の全域の住民を香港個人旅行の対象とすることも盛り込まれた。

董建華・行政長官(2003年11月18日)
人民元業務の試験的導入を発表
中国本土住民の香港個人旅行を解禁したことに合わせ、董建華・行政長官は2003年11月18日に香港の銀行による人民元業務の試験的導入を発表。香港を訪問した中国本土住民が、人民元で消費することを認めたうえで、香港の銀行に人民元業務を解禁した。

これにより香港市民は香港の銀行で、人民元預金口座を開設することが可能となった。香港ドルと人民元の両替も、制限つきながら、可能となった。両替制限は口座開設者が1人につき1日2万元以下、口座を持たない人が1人につき1日6,000元以下。香港の小売業、飲食業、宿泊業は、人民元の現金所得を香港ドルに両替できるようになった。

また、中国本土で発行されたキャッシュカードやクレジットカードを香港で使用することができるようになった。香港市民も中国本土での消費のため、香港で人民元建てのカードを作ることが可能となった。

人民元クリアリング銀行

中銀香港の人民元業務窓口 こうして人民元が香港でも流通することになった。それまで人民元は中国本土からの持ち出しが許されず、香港など海外で両替することは基本的に不可能だった。しかし、これを機に人民元は香港で入手することができるようになる。こうして中国本土の管理を離脱した人民元は、“オフショア人民元”と呼ばれるようになった。オフショア人民元の誕生は、人民元の国際化にとって大きな一歩だった。

香港のオフショア人民元を清算するため、クリアリング銀行が設けられることになった。人民元業務を手掛ける香港の銀行は、クリアリング銀行に人民元の決済用口座を開設。つまり、クリアリング銀行は香港の銀行のために、銀行間の人民元振替決済を担う。例えるなら、クリアリング銀行は香港のオフショア人民元の中央銀行のような役割を果たすことになる。

広東省深圳市の中国人民銀行支店 クリアリング銀行の決済用口座に集まった人民元は、広東省深圳市にある中国人民銀行の支店に預金される。この中国人民銀行の深圳支店は、クリアリング銀行に預金利息を支払う。その預金利息はクリアリング銀行が手数料を抜いたうえで、決済用口座を通じて香港の銀行に支払われる。さらに香港の銀行は自行の取り分を抜いて、預金者に利息を支払うことになる。

クリアリング銀行の募集も2003年11月18日に始まり、中銀香港のほか、HSBC、SCB、交通銀行など6行が応募。香港政府は2003年12月24日に中銀香港が選ばれたと発表した。

オフショア人民元センター

日本にもオフショア人民元が普及
中国銀行東京支店がクリアリング銀行に
(2019年4月17日)
こうして中銀香港は、香港の人民元業務で中央銀行のような役割を担うことになる。2004年2月25日に香港の銀行による人民元業務がスタート。香港にオフショア人民元が蓄積されることになった。

2009年4月8日に国務院は国際貿易などクロスボーダー取引について、人民元での決済を試験的に認めると発表した。試験地域は上海市のほか、広東省の広州市、深圳市、珠海市、東莞市が選ばれた。

2009年7月に5都市から始まったクロスボーダー取引の人民元決済は、試験地域を徐々に拡大。香港のオフショア人民元も急増した。今日ではオフショア人民元が世界各地に普及。ロンドンやシンガポールなど、世界各地にクリアリング銀行が設けられている。

国際銀行間通信協会(SWIFT)によると、2021年7月の国際決済で使われた通貨のうち、オフショア人民元は世界の2.19%を占めた。これは日本円の2.74%に次ぐ世界5位。オフショア人民元のクリアリング金額では、香港が世界の75.24%を占めた。

香港金融管理局の発足

香港金融管理局の任志剛・総裁(右)
中央は曽蔭権・財政長官
左は財経事務局の許世仁・局長
(1998年8月14日)
このように 昔から“中国本土の顔”だった中国銀行香港支店は、香港ドルの発行というかたちで、人々に香港返還を実感させた。返還後は中国本土の通貨である人民元が、香港にも流入。中銀香港はクリアリング銀行として、オフショア人民元の中央銀行の役割を担った。

こうした通貨制度の変化を支える行政機関も、返還前に用意された。1993年4月1日には銀行業の監督機関である銀行業監理処が、香港ドルの米ドル本位カレンシーボード制を支える外匯基金管理局と合併。こうして香港金融管理局(HKMA)が発足した。

現在の香港金融管理局の入口
国際金融中心(IFC)に入居
総裁の執務室は縁起の良い88階にある。
香港金融管理局は香港の中央銀行に相当し、香港政庁からの独立性を有した機構。金融政策のほか、銀行、通貨、外貨基金(外匯基金)の管理を担い、財政長官(財政司司長)に対して責任を負う。初代総裁に就任したのは、外貨基金管理局の任志剛(ジョセフ・ヤム)局長だった。

任志剛はこの連載の第三十一回でも紹介したが、米ドル本位カレンシーボード制の誕生に立ち会った人物。香港金融管理局の設立にも構想段階から加わっていた。

香港金融管理局が入居する国際金融中心
高さ412メートル、94階建て
香港金融管理局の設立に向けた準備は、第二十七代目総督のデビッド・クライブ・ウィルソンの時代に始まった。1988年12月に返還後の金融行政をめぐる会議がウィルソン総督の別荘で開かれた。この会議には中国本土側の関係者も参加。任志剛は中国本土との境界である第二ボーダーにヘリコプターで向かい、中国本土側の関係者を総督の別荘に案内した。この会議で初めて香港金融管理局の設立構想が明らかにされたという。

香港金融管理局の発足前は、英国系のHSBCが中央銀行のような役割を果たしていた。だが、金融機関が破綻した場合の処理方法が確立されておらず、HSBCが買収するようなケースが多かった。こうした慣習を返還後も継続するのは難しく、香港金融管理局を設立する背景には、そうした事情があった。

なお、香港金融管理局の総裁は、外貨基金の運用成績で給与が決まる。このため行政長官よりも高額報酬を受け取る場合が多く、物議を醸すこともある。

土地基金の創設準備

2010年5月24日の香港土地競売
8900平米の落札額は13.3億香港ドル
英領香港の土地は、ビクトリア女王が発布した英皇制誥(Hong Kong Letters Patent)により、すべてが王室領となっていた。所有権が売り出されることはなく、リースホールドという名の借地権を販売していた。つまり英領香港の土地は公有制だった。皮肉なことに、中国本土の土地制度も公有制。返還に向けた土地制度をめぐる問題は小さかった。

1984年の英中共同声明では、香港政庁の借地権販売をめぐる利益分配が定められた。1985年5月27日~1997年6月30日の土地取引による利益は、英国の香港政庁と返還後の香港政府に均等分配されることが決まった。

こうして1986年に信託契約に基づく土地基金を設定。最終的に1,970億香港ドルに上る信託財産が、1997年7月1日に香港政府へ移譲された。この日から土地基金は信託財産ではなく、香港政府の財政備蓄となった。

この土地基金は1998年11月1日から外貨基金で運用されることになる。2016年1月1日には2,197億香港ドルに上る土地基金の残高を“未来基金”の名義で長期投資に充てることになった。

香港金融管理局は外貨基金と土地基金を巧みに運用し、香港の金融や財政を守る番人として活躍している。

華人への権力移譲

香港政庁では返還を前に、英国人から華人への権力移譲が進められた。英領香港の立法局では、その長である主席職は、香港総督が兼任するのが習わしだった。ただし、総督が立法局主席として会議に出席するのは、毎年10月の施政報告の発表と離任前の演説の時だけだった。普段の会議は香港総督が任命した副主席が主催した。

立法局主席となった施偉賢 英中混血の施偉賢(ジョン・ジョセフ・スウェイン)は、1991年10月にウィルソン総督によって立法局の副主席に任命された。1993年にパッテン総督は立法局主席を辞任すると同時に、副主席職を廃止すると発表。こうして立法局主席は香港総督の任命ではなく、議員による選挙で決まることになった。

立法局主席をめぐる初の選挙で、副主席だった施偉賢が当選。こうして史上初の選挙で決まった立法局主席が誕生。当然のことながら、中国人の血を引く人物が立法局主席に就任するのも初めてのことだった。

1993年9月に香港政庁は陳方安生(アンソン・チャン)を布政司の司長に任命すると発表した。布政司とは現在の政務司であり、その司長は政務長官と訳される。その当時の政務長官は、香港総督に次ぐナンバー2であり、この要職に華人が就任するのは史上初。1993年11月に陳方安生は正式に政務長官である布政司司長に就任した。

パッテン総督(左)と陳方安生 1995年9月には曽蔭権(ドナルド・ツァン)が財政司の司長に就任した。財政司の司長は財政長官と訳され、香港政庁のナンバー3に相当する要職。華人が財政長官に就任するのも、一世紀半に及ぶ英領香港の歴史で初の出来事だった。

このようにパッテン総督は、香港政庁の要職に華人を任命。施偉賢は1995年7月に政界を引退したが、陳方安生と曽蔭権は香港特別行政区が発足すると、スライド式に政務長官と財政長官に就任した。

行政長官の選出

チャールズ皇太子に叙勲される曽蔭権 江沢民・国家主席と董建華・行政長官
(2002年12月11日)
ただ、パッテン総督も返還後の香港のトップである行政長官までは任命できなかった。1996年1月26日に香港特別行政区準備委員会(準備委員会)が北京市で発足。委員は総数150人で、うち94人が英領香港から選ばれた。

準備委員会の発足に立ち会った江沢民・国家主席は、数多くの委員の中から、董建華だけと握手した。行政長官は1996年12月11日の選挙で決まる予定だが、この握手のシーンから、すでに董建華に確定していると報道された。

初の行政長官選挙は、選挙委員400人による投票で決まる。この選挙委員を選んだのは、150人からなる準備委員会だった。行政長官選挙には董建華のほか、3人が出馬。最終的に董建華が大差で勝利。得票率は80%だった。

なお、返還後も政務長官を務めていた陳方安生は、董建華・行政長官との不仲がたびたび報道された。中央政府も行政長官と政務長官の対立を危惧し、2000年9月に陳方安生を北京に招聘。その後、彼女は個人的な事情を理由に、2001年4月に辞表を提出した。

裁判所を出る曽蔭権(中央)
右の女性は妻の鮑笑薇
(2017年2月)
財政長官だった曽蔭権は、陳方安生の辞任を受け、2001年5月に政務長官に就任。董建華・行政長官が支持率低迷を背景に2005年3月に辞任すると、行政長官代理となる。同年6月の選挙で当選し、正式に行政長官に就任。2012年6月末まで行政長官を務めた曽蔭権だが、2015年10月に汚職の容疑で起訴された。2017年2月に有罪判決が下り、2019年1月まで服役することになった。

政治部の解散

このように英領香港では返還を視野に、組織改革や華人への権力移譲が進められた。だが、香港返還後は存在しえない機構や組織は、解散するほかなかった。1934年に創設された政治部(SB)は、香港の諜報機関だった。香港警察の刑事部に所属するが、実際には軍事情報部第五課(MI5)と呼ばれる英国保安局の指揮下にあった。

政治部の拘留施設
香港島ビクトリアロード(域多利道)
1950年代に入ると、政治部は共産党や国民党に対する諜報活動や防諜活動を展開。1980年代に入ると、構成員は1,200人に上り、非正規人員を加えると、その規模は3,000人を超えたという。

政治部は英国の軍人や諜報員の直接指導を受けており、機密資料室は英国人しか立ち入りできなかった。総督府への機密資料運搬も、英国人に限定するなど、中核部分での華人排除が徹底していた。活動費用や構成員の給与は、英国政府から直接支払われた。

政治部の監視対象は、共産党、国民党、諜報員、香港の過激派や左派組織。監視や盗聴などの活動は、総督の許可さえあれば、即可能だった。

戦後の政治部(Special Branch)主管
14人の名が記されている。
香港返還が2年後に迫った1995年7月1日に政治部は解散。機密情報や諜報ノウハウなどが、返還後の香港政府に渡るのを防ぐために必要な措置だった。すべての機密資料は英国の秘密情報部(MI6)に引き渡された。

政治部の構成員は生涯機密保持の契約に署名。英国籍の構成員はすべて帰国した。華人の構成員には、英国旅券と英国定住権を付与。英国のミルトン・キーンズへの移住が用意された。こうして政治部は跡形もなく姿を消した。

なお、政治部の解散によって、返還後の香港政府は諜報や防諜のノウハウを喪失。諜報機関を創設することが不可能となった。だが、2020年6月30日に「中華人民共和国香港特別行政区維護国家安全法」(香港国家安全法)が施行されると、その翌日に香港警察に国家安全処が発足。四半世紀ぶりに政治部と同様の組織が復活した。

皇家香港軍団の解散

皇家香港軍団(ロイヤル・ホンコン・レジメント=RHKR)は、香港義勇軍とも呼ばれる志願兵連隊。この軍事組織が誕生した背景には、1853年に勃発したクリミア戦争があった。香港駐留の英国軍が戦地に向かうと、香港の防衛能力が不足。それを補うため、1854年5月に香港義勇軍(HKV)が創設された。これがRHKRの前身となった。

新界で訓練中の防衛軍(1938年) 香港義勇軍は1878年に常設の予備軍となった。第一次世界大戦の勃発を受け、1917年には香港在住の男性は、必ず入隊することになり、名称も香港防衛軍団(HKDC)に変更。終戦を迎えると、この徴兵制は数年で廃止され、その後は華人の入隊も可能となった。名称も香港義勇防衛軍(防衛軍=HKVDC)に改められた。

1939年に第二次世界大戦が勃発すると、香港在住男性の入隊義務が復活。1941年12月8日に日本軍が香港に侵攻すると、防衛軍が応戦した。18日間の戦闘で172人が戦死し、39人が行方不明となる。さらに78人が捕虜収容所で死亡した。1951年にジョージ6世は戦時中の防衛軍の貢献を称賛し、「ロイヤル」(皇家)の称号を授与。こうして名称も皇家香港防衛軍(RHKDF)に変更された。

皇家香港軍団の最後の観兵式
(1995年9月2日)
1950年代には香港周辺情勢の緊迫化を背景に、徴兵制が復活。国際情勢が安定すると、1961年に再び志願制となった。1970年に皇家香港防衛軍から海軍戦力と空軍戦力を分離。こうして陸軍組織の皇家香港軍団(RHKR)が誕生した。

1992年に香港政庁はRHKRを3年後に解散すると発表。すると、入隊希望者が急増した。1993年6月6日に最後の新兵175人が訓練を完了。1995年9月2日に香港島中心部の湾仔で別れの観兵式を挙行すると、その翌日に141年の歴史に幕を下ろした。

昂船洲海軍基地の閉鎖

1930年代の昂船洲海軍基地 九龍の西に位置する昂船洲(ストーンカッターズ島)には、英国が保有するアジアで最後の海軍基地があった。いまでこそ昂船洲は九龍半島と陸続きだが、これは1990年代の埋立事業の結果であり、それ以前はれっきとした島だった。

この島は採石場だったことから、ストーンカッターズ島と呼ばれたが、1890年に軍用地となる。1905年に正式な海軍基地となり、軍用のふ頭などが建設された。

昂船洲は海軍基地があったため、日本軍が香港に侵攻すると、1941年12月10日に大規模な空襲に見舞われた。日本軍の統治が始まると、この島を“向島”(むこうじま)と改名。軍の保養地として使われた。また、NHK(日本放送協会)の海外ラジオ放送の視聴範囲を広げるため、電波中継基地も設けられた。

戦後は再び英国海軍の基地となり、主に保養地として使われた。香港返還後に中国人民解放軍の駐香港部隊が駐留することに合わせ、1994年から11億香港ドルを投じて大規模な工事が行われた。

返還後の昂船洲海軍基地
一般公開日の式典
香港返還直前の1997年4月11日に、英国海軍は昂船洲海軍基地を閉鎖。こうして英国はアジアで最後の海軍基地を手放した。1997年6月30日に中国人民解放軍の先遣部隊183人が、接収に向けた準備作業のため、昂船洲海軍基地に進駐。1997年7月1日に中国人民解放軍・駐香港部隊の海軍基地となった。なお、2017年7月に空母「遼寧」が香港を訪れた際、この海軍基地の付近に停泊している。

九龍城の解体

1915年の九龍城 香港返還に際し、無法地帯だった九龍城(九龍寨城)の解体が決まった。1842年の「南京条約」で英領香港が正式に発足すると、1847年に清王朝は九龍の東にあった駐屯地を拡張。これが九龍城の始まりだった。

1898年に新界(ニューテリトリー)の租借をめぐる交渉が始まったが、清王朝は九龍城の管轄権を譲らなかった。こうして清王朝の九龍城は、香港政庁が租借する新界の“飛び地”となった。

1899年4月14日に香港政庁が新界の接収を開始すると、住民が激しく抵抗。英国軍が出動し、住民との戦闘が始まった。この“新界六日戦”では、約500人に上る住民が死亡。英国軍は軽症者1人を出しただけだった。

香港政庁は“新界六日戦”が九龍城の官僚による策謀だったと主張した。これを口実にロイヤル・ウェールズ・フュージリア連隊と香港義勇軍が、同年5月16日に九龍城に突入。清王朝の官僚と兵士を全員追放した。

清王朝はこの事件に抗議し、あらためて九龍城の管轄権を主張。英国軍は九龍城から撤退したが、その一方で清王朝も駐屯を再開することができなかった。こうして九龍城は、誰も管理しない特殊地域となった。

解体前の九龍城の外観 九龍城の魚団子業者
衛生面に問題があるのは、一目瞭然
香港の魚団子は八割が九龍城産と言われた。
上空から見た九龍寨城公園(2018年) 第二次世界大戦が終結すると、国民党が率いる中華民国政府は、1947年12月に九龍城の主権をあらためて主張。広東省広州では反英感情が高まり、英国総領事館が焼き討ちに遭った。1948年1月に香港政庁は軍隊を動員し、九龍城に建てられていた住居の解体を強行。九龍城では2,000人あまりが暮らしていたことから、英中両国の外交問題に発展した。

こうして九龍城は香港政庁の権力が及ばない無法地帯となる。「香港政庁はあえて管理せず、英国政府は管理したいと思わず、中国政府は管理できない」という状態だったことから、「三不管地帯」と呼ばれた。

1949年に国共内戦が終息に向かうと、多くの難民が九龍城に押し寄せた。ここは無法地帯だったことから、売春、賭博、薬物をめぐる犯罪が横行。無免許の医師や歯科医も暗躍した。九龍城は鉄筋コンクリート製の違法建築が増殖。一説によると、ピーク時の人口は5万人に達したとも言われる。

この九龍城も香港返還に合わせ、解体することになった。英中両国は1987年1月に九龍城を解体することで合意。1993~1994年に工事が行われ、九龍城をめぐる歴史問題は完全に解決した。なお、九龍城の跡地は九龍寨城公園となり、解体工事で発見された貴重な遺物などが展示されている。

国民党機関紙の廃刊と党営事業の闇

事実上の廃刊を告げる1993年2月16日付「香港時報」
日付は中華民国八十二年二月十六日
横書き部分は右から左へ書かれている。
英領香港が中華人民共和国に返還されることが決まると、撤退を余儀なくされたのは英国だけではない。台湾に存続する中華民国政府の勢力も、香港から撤退せざるを得なかった。

1939年7月に創刊された中国語紙「香港時報」(ホンコン・タイムズ)は、国民党の機関紙。 “国民党の舌”として英領香港の華人社会で一定の影響力を保持していたが、経営不振と香港返還を背景に、1993年2月17日に事実上の廃刊となった。

「香港時報」が入居していたビルディングは、香港島中心部の湾仔にあり、告士打道(グロスターロード)と盧押道(ルアードロード)の交差点に面していた。その価値は5億8,000万香港ドルと言われたが、国民党の党営事業を管轄していた劉泰英は、この建物をわずか1億9,000万香港ドルで売却。この党営資産の安売りは、台湾で物議を醸した。

劉泰英は中華開発工業銀行の董事長であり、当時の李登輝・総統と親密な関係にあった。党営事業の管轄という要職に就いたのも、李登輝・総統の指示だった。「香港時報」の建物は、1億9,000万香港ドルで売却された後、70日内に三度も転売され、それによって生まれた利益は3億9,000万香港ドルに達した。この利益は一部の党員に分配され、李登輝・総統の妻も、2,000万香港ドルを受け取ったと言われる。

裁判所に出廷した劉泰英 なお、劉泰英は総合開発区をめぐる汚職事件により、背任罪と銀行法違反の罪で2008年6月に5年6カ月の懲役に服した。2011年4月に仮釈放されたが、その年の6月に起訴される。台湾外交部が国家安全局に返還した秘密経費779万7,193米ドルを横領した容疑だった。この事件では李登輝・元総統も起訴されたが、無罪となった。一方、劉泰英は2015年11月に懲役3年の有罪判決が下された。ただ、過去の事件から起算され、服役は免れた。

調景嶺の解体

「香港時報」の廃刊に続き、国民党勢力の拠点だった調景嶺の解体が決まった。この連載の第三十九回で紹介した調景嶺は、中国本土から香港に逃れた国民党関係の右派難民が暮らすバラック街。中華民国の建国記念日である10月10日の“双十節”になると、調景嶺には青天白日滿地紅旗(中華民国の国旗)が翻っていた。

中華民国の国旗が翻る調景嶺の桟橋(1994年) 香港政庁は1995年4月4日に調景嶺のバラック街を解体すると発表。住民との話し合いが始まった。ここでは当初から無期限の居住権が認められていたことから、最終的に多額の賠償金が住民に支払われた。

住民の立ち退きが決まると、1996年4月に解体工事を開始。同年の7月26日9時に調景嶺で最後の中華民国の国旗が降ろされた。ただし、6,000人を超える元住民は、調景嶺の付近に移転しただけであり、香港返還まで共産党に対する抵抗を続けた。

英領香港で最後の双十節を控え、1996年10月6日には香港各地に中華民国の国旗が翻った。この日は中華民国の国旗だけではなく、尖閣諸島をめぐる横断幕も掲げられた。

尖閣諸島問題で手を結んだ香港と台湾の政治家

1996年7月15日に政治団体の日本青年社が、尖閣諸島の北小島に第二灯台を建設。同年8月28日には香港を訪問していた当時の池田行彦・外務大臣が、「尖閣諸島は日本固有の領土」と発言した。これを機に尖閣諸島の中国返還を求める“保釣運動”が、香港、台湾、中国本土などで再燃。香港と台湾の政治家が、手を結ぶきっかけとなった。

保釣号で尖閣諸島に向かう陳毓祥 香港で開かれた陳毓祥の追悼集会 魚釣島に上陸した陳裕南(右)と金介寿(左) 新華社香港分社に勤めていた陳毓祥は、貨物船「保釣号」をチャーター。主権を誇示するため、尖閣諸島に向かった。1996年9月22日のことだった。26日に魚釣島から12カイリの範囲内に入ったが、悪天候に見舞われたうえ、日本の船舶に阻まれた。

住そこで、救命胴衣を着た陳毓祥を含む5人が海中に飛び込み、泳ぎながら主権をアピールすることにした。しかし、命綱のロープが絡まり、陳毓祥は溺れ、意識不明となった。「保釣号」の船長は、海上保安庁に救援を求めたほか、台湾の海巡署にも通報。海上保安庁のヘリコプターが出動したものの、陳毓祥の死亡が確認された。

陳毓祥の行動は明らかに無謀であり、それが悲劇の要因だったとみられるが、香港では悲劇の英雄となり、1996年10月6日に追悼集会が開かれた。この日は香港に中華民国の国旗が翻った日。追悼集会には中国本土、香港、台湾などから2,000人あまりが参加し、さらなる行動への機運が高まった。

1995年の香港立法局選挙で当選した民主党の曽健成・議員は、保釣行動委員会を設立。何度も船団を組織し、尖閣諸島への上陸を計画した。1996年10月7日に香港市民の陳裕南と台湾台北県の金介寿・議員が魚釣島に上陸。それぞれ中華人民共和国の “五星紅旗”と中華民国の青天白日滿地紅旗を立て、尖閣諸島の中国領有をアピールした。

中台両岸の中継地

台湾の勢力は香港から撤退したが、両地の関係は返還後も緊密だった。香港は中国本土と台湾の中継地点としての役割を担う。

1978年12月に改革開放政策が始まり、1979年1月には米中の国交正常化が実現。こうしたなか1979年1月1日に全国人民代表大会(全人代)常務委員会は、中国本土と台湾の通商、通航、通信の実現を呼びかけた。これは“三通政策”と呼ばれる。

群衆の歓声に応える蒋経国・総統(右)
1987年10月10日の中華民国国慶節
台湾の旅客機が初めて中国本土に着陸
歓迎の花束を受け取る中華航空の操縦士
これに対して台湾の蒋経国・総統は「接触しない、話し合わない、妥協しない」の“三不政策”で応じた。だが、1987年7月15日に蒋経国・総統は、1949年5月20日から続いていた戒厳令を解除。すると、台湾から中国本土へ向かう人々が現れた。その目的は観光、親族訪問、ビジネスなどだった。

ただし、三通は実現しておらず、台湾から中国本土へ向かう人々は、必ず英領香港で別の旅客機に乗り換える必要があった。しかし、中国本土と台湾の往来はますます活発化。三通を求める声は。日増しに大きくなった。

台湾が民主進歩党(民進党)の陳水扁政権だった2003年1月26日、中華航空の旅客機が、上海の浦東国際空港に着陸した。台湾の旅客機が中国本土に着陸するのは、ハイジャックなどの特殊事例を除けば、これが初めてだった。

ただし、この時点で台湾の旅客機は中国本土に直接向かうことができず、必ず香港やマカオに一度着陸する必要があった。中国本土と台湾の往来で、香港は引き続き重要な中継地だった。

旅客機が台湾と中国本土を直接往来できるようになったのは、国民党の馬英九政権が誕生した2008年。中国本土と台湾の中継地点としての香港の役割は、返還から10年が経つと、かなり薄らいだ。

中継地としての香港の変化

香港での人民国債発行式典(2011年8月17日)
ボタンを押すのは李克強首相
海外投資家はオフショア人民元で国債を購入する。
滬港通(上海香港ストックコネクト)の開通式典
滬港通は滬股通と港股通(上海)で構成
滬股通ではオフショア人民元で上海A株に投資可能
(2014年11月17日)
深港通(深圳香港ストックコネクト)の開通式典
滬深港通は深股通と港股通(深圳)で構成
深股通ではオフショア人民元で深圳A株に投資可能
(2016年12月5日)
2017年7月3日には債券通(ボンドコネクト)が開通
香港経由で中国本土の債券市場にアクセス可能
オフショア人民元の金融商品がさらに豊富に
中継地としての香港の役割は、今日では金融分野に重点が置かれる。今日でも中国本土は資本取引が規制され、人民元は自由化されていない。こうしたなか、オフショア人民元センターとなった香港は、中国本土と海外の資金往来で、重要な中継地となっている。

海外の投資家はオフショア人民元を入手することで、中国本土の資本市場にアクセス可能となった。中国本土のオンショア人民元は、外貨との交換が制限されているが、香港のオフショア人民元は自由だ。

2014年11月17日に始まった「滬股通」(上海ストックコネクト)は、オフショア人民元を使った上海株A株投資。2016年12月5日には「深股通」(深圳ストックコネクト)が始まり、オフショア人民元を使った深圳A株投資も可能となった。

上海ストックコネクトと深圳ストックコネクトのいずれも、海外から上海や深圳に直接注文を出すことはできない。必ずオフショア人民元センターである香港を経由して注文しなければならない。日本人を含む海外投資家による中国株投資で、香港は重要な中継地だ。

約一世紀半に及んだ英領香港の歴史は、これまで紹介したように激動の連続だった。英国が去ってから四半世紀が経とうとしているが、その間も劇的変化に見舞われたものの、独特な優位性を損なっていない。香港は時代のうねりや国際情勢の変化に巧みに順応。いつも混沌としながらも、熱気と活気にあふれる不思議な魅力を放っている。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は11/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 57. 返還に向けた香港の変化 NEW!
  3. 56. 東南アジア華人社会
  4. 55. 大富豪と悪人のブルース
  5. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  6. 53. 香港望族の系譜
  7. 52. 最後の総督
  8. 51. 香港返還への布石
  9. 50. 天安門事件と香港
  10. 49. 天安門事件の前夜
  11. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  12. 47. 香港問題と英中交渉
  13. 46. 返還前の香港と中国共産党
  14. 45. 改革開放と香港
  15. 44. 香港経済界の主役交代
  16. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  17. 42. “大時代”の到来
  18. 41. 四会時代の幕開け
  19. 40. 混乱続きの香港60年代
  20. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  21. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  22. 37. 日本統治下の香港
  23. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  24. 35. 香港株式市場の草創期
  25. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  26. 33. ヘネシー総督の時代
  27. 32. 香港株式市場の黎明期
  28. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  29. 30. 通貨の信用
  30. 29. 香港のお金のはじまり
  31. 28. 327の呪いと新時代の到来
  32. 27. 地獄への7分47秒
  33. 26. 中国株との出会い
  34. 25. 呑み込まれる恐怖
  35. 24. ネイホウ!H株
  36. 23. 中国最大の株券闇市
  37. 22. 欲望、腐敗、流血
  38. 21. 悪意の萌芽
  39. 20. 文化広場の株式市場
  40. 19. 大暴れした上海市場
  41. 18. ニーハオ!B株
  42. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  43. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  44. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  45. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  46. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  47. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  48. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  49. 10. 経済特区の株券
  50. 09. “百万元”と呼ばれた男
  51. 08. 鄧小平からの贈り物
  52. 07. 世界一小さな取引所
  53. 06. こっそりと開いた証券市場
  54. 05. 目覚めた上海の投資家
  55. 04. 魔都の証券市場
  56. 03. 中国各地の暗闘者
  57. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  58. 01. 中国株の誕生前夜
  59. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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  1. 内藤証券資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 57. 返還に向けた香港の変化 NEW!
  3. 56. 東南アジア華人社会
  4. 55. 大富豪と悪人のブルース
  5. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  6. 53. 香港望族の系譜
  7. 52. 最後の総督
  8. 51. 香港返還への布石
  9. 50. 天安門事件と香港
  10. 49. 天安門事件の前夜
  11. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  12. 47. 香港問題と英中交渉
  13. 46. 返還前の香港と中国共産党
  14. 45. 改革開放と香港
  15. 44. 香港経済界の主役交代
  16. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  17. 42. “大時代”の到来
  18. 41. 四会時代の幕開け
  19. 40. 混乱続きの香港60年代
  20. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  21. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  22. 37. 日本統治下の香港
  23. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  24. 35. 香港株式市場の草創期
  25. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  26. 33. ヘネシー総督の時代
  27. 32. 香港株式市場の黎明期
  28. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  29. 30. 通貨の信用
  30. 29. 香港のお金のはじまり
  31. 28. 327の呪いと新時代の到来
  32. 27. 地獄への7分47秒
  33. 26. 中国株との出会い
  34. 25. 呑み込まれる恐怖
  35. 24. ネイホウ!H株
  36. 23. 中国最大の株券闇市
  37. 22. 欲望、腐敗、流血
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  40. 19. 大暴れした上海市場
  41. 18. ニーハオ!B株
  42. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
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  44. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  45. 14. 半年で取引所を開業せよ!
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  48. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  49. 10. 経済特区の株券
  50. 09. “百万元”と呼ばれた男
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  52. 07. 世界一小さな取引所
  53. 06. こっそりと開いた証券市場
  54. 05. 目覚めた上海の投資家
  55. 04. 魔都の証券市場
  56. 03. 中国各地の暗闘者
  57. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  58. 01. 中国株の誕生前夜
  59. 00. はじめに