コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

香港返還への布石

2021.4.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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1984年の英中共同声明で、1997年7月1日の香港返還が確定した。中華人民共和国と英国は、返還に向けた準備に着手。香港、英国、中華人民共和国の関係や位置づけも、再構築されることになった。英中両国は返還後を見据え、様々な布石を打ち合った。1989年6月4日に天安門事件が起きると、香港の将来は見通しが悪化。ますます先が読めないなかで、英中両国による布石の打ち合いは、一段と激しさを増した。

海外移転の加速

怡和午炮(ジャーディン・ヌーンデイ・ガン)
正午を知らせる空砲
ジャーディン・マセソンの私設砲台
礼砲を打ったことを英海軍に咎められ、
それを機に時報の役割を担うようになった。
オリジナルの大砲は、日本軍に奪われ、行方不明。
香港返還をめぐる英中交渉が、1983年7月に正式に始まると、英国企業を中心に将来への不安が高まった。最も敏感に反応したのは、香港政財界に大きな影響力を持っていたジャーディン・マセソン。中華人民共和国の成立で、中国本土の会社資産が没収された過去があり、特に警戒感が強かったのだろう。また、ジャーディン・マセソンがアヘン貿易で財を成したことから、返還後の報復を恐れたという見方もある。

英中両国が交渉を重ねていた1984年3月、ジャーディン・マセソンは、会社登記上の本社をバミューダ諸島に移転すると発表。英中共同声明がまとまる前に、すでに香港撤退の意思を固めていた。

ただ、ジャーディン・マセソンに続いて海外移転する会社は、多くはなかった。1986~1987年に海外移転した上場企業は、わずか4社。いずれも経営実体は香港に残し、会社登記を海外に移すというものだった。そのうち3社は、ジャーディン・マセソン傘下の上場企業だった。

1988年は5社が海外に移転。これらはいずれも、華人資本の香港上場企業だった。主な移転先はバミューダ諸島とケイマン諸島。これらは英国の海外領土であり、コモン・ロー(英国法)が通用する地域。また、タックスヘイブン(租税回避地)としても知られる。

天安門事件が起きた1989年は、海外移転が急増。上場企業37社が会社登記地を英領のバミューダ諸島やケイマン諸島に移した。1990年も24社が海外に移転。明らかに、天安門事件が香港上場企業の海外移転を急がせるという結果になった。

HSBCの去就

香港の銀行最大手HSBC 香港には中央銀行が存在しないが、英国系上場企業の香港上海匯豊銀行(HSBC)が、その役割を担っていた。例えば、香港ドル紙幣の多くは、HSBCが発行。このため、HSBCは“準中央銀行”と呼ばれていた。香港上場企業の海外移転が増えるなか、HSBCの去就が注目を集めた。

2018年シリーズの百香港ドル紙幣
香港の発券銀行は三行
同額紙幣の色調は同じだが、
デザインは異なる。
左から、スタンダード・チャータード銀行、
中国銀行(香港)、HSBCの百香港ドル紙幣
HSBCには「香港上海匯豊銀行条例」という法律が適用されていた。本店を香港に置くことが義務づけられ、大規模な改組を実施するには、香港政庁の立法局から承認を得る必要があった。この法律はHSBCに特権を与える一方で、一種の足かせにもなった。

天安門事件から2カ月近くが経った1989年8月2日、HSBCは「公司条例」(会社法)に基づき、あらためて会社登記すると発表した。これはHSBCが普通の銀行となり、“準中央銀行”としての役割から、手を引くことを意味する。1997年7月の香港返還を視野に入れた措置だった。

それから1年あまりが経った1990年12月17日、HSBCは英国に持ち株会社の“HSBCホールディングス”(匯豊控股)を設立すると発表。香港登記のHSBCは、英国登記であるHSBCホールディングスの完全子会社となることが明らかにされた。

1990年12月17日に開かれたHSBCの記者会見
右の人物はウィリアム・パーブス(浦偉士)主席
ジャーディン・マセソンが1984年3月28日にバミューダ諸島への移転を発表した際は、翌3月29日の株式市場が大きく動揺。ハンセン指数は急落し、前日比5.5%安となった。一方、HSBCの英国移転は、冷静に受けとめられた。1990年12月17日のハンセン指数は、終値が前日比2.4%安。翌12月18日には反発し、0.5%高となった。

HSBCのロンドン支店が、名義上のHSBCホールディングスの本店となった。ただ、実質的な本店機能は香港のまま。HSBCとHSBCホールディングスは、株式交換を実施。HSBCの株主は保有株を手放し、HSBCホールディングスの株式を取得。こうして1991年4月にHSBCに代わって、HSBCホールディングスが上場企業となった。

香港上場企業の国際化

HSBCホールディングスを含め、1991年に海外移転した香港上場企業は、13社に上った。ジャーディン・マセソンから数えて、1991年末までに海外移転した上場企業は、合計84社に達した。うち英国系企業は8社で、その多くがジャーディン・マセソンの関連会社だった。最も多かったのが香港地場の華人企業で、その数は74社に達した。

マイケル・カドーリー(米高・嘉道理)
香港&上海ホテルズの記者会見にて
(2020年2月)
ちなみに残る2社は、カドーリー家が支配する上場企業。カドーリー家はサッスーン家と同じく、イラクのバグダートを起源とするセファルディム(東方系ユダヤ人)。いまでも香港経済に影響力を持つ。

例えば、ペニンシュラホテル(半島酒店)を経営する香港上海大酒店(香港&上海ホテルズ)、香港の新界(ニューテリトリー)と九龍地区に電力を供給する中電控股(CLPグループ)は、いずれもカドーリー家が筆頭株主の香港上場企業だ。

1993年末には香港で活動する上場企業450社のうち、255社が海外登記となった。こうした状況に、香港社会は動揺した。

天安門事件を受け、返還を控えた香港の上場企業に対するイメージも悪化した。香港返還後のリスクが懸念されるからだ。こうしたイメージを払しょくしようと、多くの香港上場企業が、社名に“国際”(インターナショナル)や“控股”(ホールディングス)を加えるようになった。

そうした中には、“インターナショナル”とは名ばかりで、実際にはほとんど香港でしか活動していない企業もあった。しかし、リスク分散を目的に、海外市場を開拓する企業は着実に増加。天安門事件は香港上場企業の国際化を促す契機でもあった。

海外登記が当たり前に

海外登記の香港上場企業は、いまでは当たり前の存在だ。2019年末の香港上場企業2,449社のうち、ケイマン諸島登記は1,386社で、全体の56%を占める。次に多いのは、バミューダ諸島登記の514社で、全体の21%。つまり、これら両地域で登記された香港上場企業が、全体4分の3以上を占めている。

これに対し、中国本土登記は284社で、全体の12%。香港登記に至っては、わずか218社で、全体の9%に過ぎない。

1990年代はケイマン諸島やバミューダ諸島に移転したのは、香港地場企業が中心だった。しかし、今日の状況は、まるで違う。これらの地域で登記している企業の大部分は、中国本土の地場企業だ。

例えば、アリババ(阿里巴巴)、テンセント(騰訊)、バイドゥ(百度)、ネットイース(網易)、JDドットコム(京東)など、これら香港に上場する中国本土のIT大手は、いずれもケイマン諸島登記だ。

コモン・ローが通用する英領のケイマン諸島やバミューダ諸島に登記することで、これらの上場企業には、現地の会社法が適用される。これらの会社をめぐる裁判は、現地の裁判所で行われ、株主や債権者の権利も、コモン・ローで守られる。

2020年の法律年度開啓典礼
(リーガル・イヤー・オープニング)
コモン・ローが通用する香港では、
裁判官がウィッグをかぶり、ローブを着用
外国人の裁判官も多い
演壇の人物は最高裁首席法官の馬道立
香港や海外に上場する中国本土の企業にとって、コモン・ローが適用されるのは、大きな安心材料となる。このメリットは大きく、IT大手などの民営企業ばかりではなく、国有企業の香港上場子会社でさえ、海外登記している。

例えば、中央政府が直接管理する中糧集団(コフコ)は、コカ・コーラのボトラー事業を展開する子会社のコフコ・フーズ(中国食品)をバミューダ諸島で登記し、香港市場に上場させている。このように中国本土の企業は、英国のコモン・ローやタックスヘイブンを上手く活用している。

大英帝国の人々

“法の父”エドワード・コーク(1552~1634)
伝統(コモン・ロー)の法思想を理論化
“法の支配”という憲法原理を確立した。
香港上場企業の“国籍”は、天安門事件を契機に変化した。当然のことながら、香港市民の国籍も、大きな変化にさらされた。ただ、香港市民の国籍をめぐる問題は、非常に根深い。そこで英国における香港市民の位置づけを簡単に振り返ってみよう。

イングランドのコモン・ローに基づけば、英国市民(国民)としての身分は天賦のものだった。英国の領土で誕生した者は、そこに生まれたことで、国王の庇護を受ける。その恩恵に対する感謝の情から、国王への忠誠心が“当然”のように芽生える。

つまり、英国市民の身分についての考え方は、空間軸ではどこで生まれたかが重要な属地主義であり、時間軸では生まれた時点で国王の庇護を受けていたかが、問題となる。

帝国主義の時代を背景に、英国の領土が拡大すると、英国市民とは英国本土で誕生した人だけではなく、大英帝国の域内で生まれた人を含むようになった。しかし、大英帝国の域内で生まれた人でも、誕生した時点でその地域が英国の統治下になかった場合、英国市民にはなれない。

そうした人々は当初、英国市民となる手段が皆無だった。だが、19世紀に法律の制定や改正が実施され、大英帝国の域内に住む人々に、帰化申請によって英国市民となる道が開かれた。このように、大英帝国の拡大は、英国市民の身分とは何かという問題を生み出した。

香港市民の身分

1842年に締結した南京条約の正本
この条約で英領香港が誕生した。
コモン・ローに基づけば、1842年以降に香港で生まれた人は、自動的に英国市民となる。しかし、英国の統治領域がカギとなる。そのため、新界の人々などは、1898年の租借前に生まれていた場合、英国市民にはなれなかった。そうした人々が英国市民となる場合、法的手段を通じて帰化する必要があった。

英国は1914年に英国国籍と外国人身分に関する法律を制定し、1915年から施行した。これは英国国籍について定めた初の成文法であり、香港市民も英国市民であることが明記された。

このように、英国市民であるためには、生まれた地域が誕生時点で英国の統治下にあることが基準となる。そこで香港で問題になったのが、1941年12月25日~1945年8月15日の日本占領時代。この時期は英国の統治下ではなかったからだ。この問題は1948年に改正された国籍法で解決された。

それによると、日本の統治下に入ったことで、香港市民が英国国籍を喪失したり、身分を変えられたりすることはない。ただし、日本占領時代の香港で生まれた人でも、その父親が敵国人(つまり日本人)であった場合は、英国国籍が与えられないことになった。日本人は英国王が庇護する対象ではなく、敵だったからだ。

戦後の香港市民

戦後は香港市民の身分が、国際情勢の変化にともない、何度か整理された。1948年に英連邦(コモンウェルス)の会議が開かれ、域内の国籍法を改革すると決定。英国と各自治領は、それぞれ独自の国籍制度を施行すると同時に、大英帝国の共通アイデンティティとして、英国市民の身分も維持することになった。

英連邦(コモンウェルス)加盟54カ国
青色の16カ国は英国王を元首とする英連邦王国
ピンク色は共和制国家、緑色は独自の君主制国家
こうして1948年の国籍法で、“連合王国と植民地の市民”(CUKC)という身分が新設された。CUKCとは“Citizen of the United Kingdom and Colonies”の略称。英国本土とその植民地の人々は英国市民であり、CUKCという身分を得る。また、英国市民の別称として、“英連邦市民”(コモンウェルス・シチズン)が定められた。

この法律は1949年から施行された。英国本国と植民地で生まれた人々は、自動的にCUKCとなった。それ以前から英国市民だった人々も、手続きを経ることで、CUKCという身分を得た。

英国定住権の問題

もともと英連邦市民には、自由に英国本土に移り、そこに定住する権利があった。そのため、1960年代に入ると、アフリカやアジアの植民地から、英国に移住する人々が急増。これに対処するため、英国は1962年に英連邦入国法を制定。アフリカやアジアの人々が、英国本土と王室属領に定住できる権利を制限した。

なお、王室属領とはアイリッシュ海のマン島と英仏海峡のチャネル諸島を指す。これらの地域は、英国王の領地であり、英国本土や英連邦にも属さない。

マン島を訪問したエリザベス女王夫妻
2003年のティンワルドの日(7月5日)
エリザベス女王はマン卿(マン島領主)でもある。
1971年の入国法では、英国定住権の概念が導入された。それによると、CUKCと英連邦市民は、“自身、配偶者、父母、祖父母が、英国本土や王室属領と関係がある場合”に限り、定住権を得ることができると定められた。

この入国法の施行で、英国市民なのに英国に定住することができなくなるという稀な弊害も発生した。しかし、移民問題に歯止めをかけるため、英国はこの措置に踏み切った。これで香港市民も、自由に英国に定住することができなくなった。

CUKCからBDTCへ

1981年に英国は新しい国籍法を制定し、CUKCの身分を再編成した。英国の植民地は、英国海外領土に名称を変更。1983年からCUKCに代わる身分として、以下の3つが適用されることになった。

香港返還前に使われ得ていたBDTC旅券 ◆英国市民(BC):英国本土と王室属領の市民
◆英国属領市民(BDTC):直轄植民地の市民
◆英国海外市民(BOC):相続不能な国籍。上記以外の人々のために設定

これらのうち、1983年1月1日以降に香港で生まれた人は、みなBDTCとなった。また、英国以外や英国属領で生まれた人について、英国国籍が血統に基づいて自動的に受け継がれることはないことも、この国籍法で明記された。

この1981年の国籍法をめぐり、香港政庁の立法局では、中国系の議員が大いに英国を批判した。その背景には、1997年の香港返還と英中交渉が意識されるようになったことがある。

中国系の議員によると、香港市民が大挙して英国に移住するのを防ぐのが、国籍法改正の狙い。だが、英国に定住する権利は、すでに制限されていたことから、この批判は少し的外れだったと言えよう。

軽空母「インヴィンシブル」
フォークランド紛争から凱旋した
(1982年7月)
この1981年の国籍法は、1982年4月に勃発したフォークランド紛争の一因にもなった。フォークランド諸島の住民が保持する英国国籍も、この法律が原因で制約を受けることになったからだ。これをアルゼンチンは、“フォークランド諸島が英国領から離脱した象徴”とみなし、開戦理由の一つとした。

なお、BDTCの呼称は2002年に改正され、現在は英国海外領土市民(BOTC)と呼ばれる。

BDTCからBNOへ

BNO旅券(旧版) 1984年に英中共同声明が調印され、1997年7月の香港返還後は、香港に住む中国系市民の国籍が、中国国籍となることが決まった。そこで、英国は香港市民の位置づけを再び調整した。

1985年に制定した香港法で、“英国国民(海外)”という新たな国籍が設けられた。英国国民(海外)は、英語で“British National (Overseas)”と言い、“BNO”と略称された。これは香港市民のために設けられた国籍だった。BNOという国籍を設けることで、返還後の香港市民が英国との関係を継続できるようにするのが目的だった。

BNOは自動的に付与される国籍ではなく、取得するには申請が必要だった。BNO取得には、英国内務大臣の許可が必要。BNOは中国の国籍を取得した後も有効だが、その子どもが相続することはできない。BNO保持者は、BNO旅券という特別なパスポートを取得することができた。

BNO旅券申請者の行列
(1996年3月)
BNOの登録期間は、1987年7月1日~1997年6月30日。期限までにBNOを取得できず、そのほかの国籍もない場合は、英国海外市民(BOC)とされた。このようなケースでBOCとなるのは、中国人以外の血筋を引く香港市民だった。

BNOは英連邦市民であり、英国で多くの公民権を享受できるが、自由に定住することはできない。定住権は別途取得する必要がある。また、BNO保持者は中国本土、香港、マカオで、英国の領事保護を受けることはできない。

なお、BNO保持者は約340万人と言われ、すべての香港市民が取得できたわけではない。

涙の訴え

エリザベス女王をエスコートする鄧蓮如(前右)
(1986年10月)
このように英国は香港返還が決まると、香港市民にBNOという新しい国籍を提供し、不安を鎮めようとした。しかし、それは英国での定住権を認めるものではなく、多くの香港市民が失望した。そうした状況を何とか変えようと動いた人物の一人が、この連載の第十四回で紹介した鄧蓮如(リディア・ダン)だった。

天安門に学生が集まり、緊張が高まった1989年4月20日、鄧蓮如は英国国会下院の外交事務委員会に出席。その場で香港市民に定住権を与えようとしない英国政府を厳しく批判した。彼女の気持ちは激しく高ぶり、初めて人前で涙を見せた。

天安門事件が起きると、「ためらうことなく戦車と武力で人々を鎮圧する政権に、香港市民を引き渡さないでいただきたい」と、英国に訴えた。最終的に英国と香港市民の利害を調整するかたちで、折衷案を策定することに英国当局が同意。1990年に英国国籍(香港)法が制定された。

このように天安門事件は、香港市民の権利や英国との関係に、少なからぬ影響を与えた。

居英権計画

1990年の英国国籍(香港)法に基づき、英国は香港の将来にとって重要な香港市民5万人を選出し、彼らとその家族に英国定住権を与えることが決まった。こうして“英国国籍甄選計画”(ブリティッシュ・ナショナリティ・セレクション・スキーム)が発動した。この計画は略して“居英権計画”と呼ばれた。

デビッド・クライブ・ウィルソン夫妻
第二十七代香港総督
1990年に居英権計画を発表した。
(写真は2013年撮影)
居英権計画で英国定住権を取得するには、香港総督の推薦を受ける必要がある。香港総督が推薦した人物を英国内務大臣が登録し、その人物に英国定住権が与えられた。この計画で英国定住権を取得した人物は、英国属領市民(BDTC)としての身分を喪失。しかし、BNOを保持していれば、それは継続された。

英国定住権を与える対象は、4つのカテゴリーから選ばれた。最も多かったのは、専門技能保持者のカテゴリーで、上限は3万6,200人。医師、教師、エンジニア、裁判官、会計士などから選ばれた。

そのほかでは、香港警察、刑務所、税関、入管など紀律部隊カテゴリーから7,000人、香港警察の政治部や軍事サービス団などセンシティブカテゴリーから6,300人、会社の重役など企業家カテゴリーから500人が選ばれることになった。

この居英権計画に、中国側は不満を表明。返還後の香港政府について、その要職に就く者を外国定住権のない中国国民に限定した。現在の香港政府行政長官である林鄭月娥(キャリー・ラム)は、居英権計画で英国定住権を取得したが、2007年に香港発展局の局長に就任する際、これを放棄した。

BNOと同じく、居英権計画に基づく英国定住権の登録も、1997年6月30日まで続いた。

香港のマイノリティ

香港のマイノリティ
南アジア系、東南アジア系、アフリカ系が中心
ネイザンロードの重慶大廈は彼らの拠点
香港のデモに声援を送っている様子
(2019年10月20日)
香港には大英帝国の一部だったネパール、インド、パキスタンなどからの定住者もいる。こうしたマイノリティの国籍も、大きな問題となった。香港返還に際し、中国の血統を有する者が中国国民となることが決まっており、香港のマイノリティは無国籍者となる恐れがあった。

この問題は英国で議論を呼んだが、最終的に英国定住権を有した英国市民としての身分を彼らに与えることが決まった。彼らの国籍は1997年6月30日が過ぎると所属不明となるが、1997年7月1日から国籍申請できることになった。

BNOをめぐる英国の見解

ゴールドスミス男爵 2007年まで英国法務長官を務めていたピーター・ゴールドスミス男爵は、英国国籍の再検討報告書を2008年に発表。このなかで香港市民に与えたBNOについて、英国国籍法の発展史における“異常”と評した。

そのように評価する一方で、BNOは廃止すべきではないと、ゴールドスミス男爵は主張。代替案も出さずに、BNOを廃止すれば、それは香港市民に対する約束に反することになるからだ。

ゴールドスミス男爵によると、BNOを廃止する唯一の解決案は、完全な英国市民権を与えること。しかし、それは英中共同声明の条文に違反することであり、中国側は修正に応じないだろうと指摘した。このため、BNOは異常な英国国籍だが、廃止せずに、放置するほかないと説明した。

ゴールドスミス男爵は勅撰弁護士(Q.C.)でもあり、その権威は高い。このゴールドスミス男爵の報告書を根拠に、英中共同声明に反するという理由で、英国政府はBNO保持者に英国定住権を与えることを拒み続けていた。

2019年のデモとBNO

トーマス・トゥーゲントハット
保守党の下院議員
外交事務委員会の委員長
(2017年)
2019年6月9日に香港で「逃亡犯条例」の改正案に反対するデモが起きると、BNOをめぐる議論が再燃した。英国下院・外交事務委員会のトーマス・トゥーゲントハット委員長は、BNOを保持する香港市民に、完全な英国国籍を与えるべきだと主張する文章を発表した。2019年8月15日のことだった。そうすることで、英国が1997年以前に犯した過ちを正すべきという。

8月31日には別の議員からも、BNOを保持する香港市民に英国での就労を許し、国籍取得までに必要な期間を短縮すべきという発言が飛び出した。香港市民が英国で就労すれば、2~3年ほどで英国国籍を取得できるようにする考え。こうした動きを受け、BNOを保持する香港市民600~700人が、9月1日に英国総領事館に集まり、英国定住権を求める集会を開いた。

ゴールドスミス男爵の弁明

英国定住権を求めるBNO保持者の集会
(2019年9月1日)
BNO保持者に英国定住権を与えることは、英中共同声明に違反すると、ゴールドスミス男爵は2008年発表の再検討報告書で見解を示した。その見解に基づき、英国政府はBNO保持者に英国定住権を与えることを拒否し続けていた。

しかし、2019年に香港でデモが起きると、ゴールドスミス男爵は2020年2月に、英国内務大臣に書簡を送付。そのなかで、英国政府が長年にわたり、ゴールドスミス男爵の再検討報告書を“誤って引用し続けた”と表明した。さらに「BNO保持者に英国定住権を与えるのは、英中共同声明に違反する」という報告書の記述は、自分の意見ではないと弁明した。

そのうえでゴールドスミス男爵は、英中共同声明の本文にはBNOの地位に関する記述がないと指摘。BNO保持者の国籍に関する記述は、英中共同声明の付属文書である英国側の備忘録に書かれているだけであり、その部分について中国側は同意も署名もしていないと強調した。

勅撰弁護士のローリー・フランズマン それゆえ、BNO保持者の権利拡充と定住権付与を図るうえで、英中共同声明が法的な妨げになることはないと主張。英国政府に対し、報告書の誤った引用を停止するよう要請した。

これを皮切りに、勅撰弁護士のローリー・フランズマンも、BNO保持者に英国定住権を与えることは、英中共同声明に違反しないと表明。さらに保守党の議員も相次いで内務大臣に書簡を送り、BNO保持者に英国定住権を与えることに法的障害はないことを明確にし、その権利を再検討すべきと訴えた。

このように、2019年のデモを機に、英国はBNO保持者に対する定住権付与に対する姿勢を180度転換した。

香港国家安全法とBNO

トランプ大統領に握手を求めるラーブ外務大臣
(2019年)
新型コロナウイルスの感染拡大を受け、2020年の第十三期全国人民代表大会(全人代)第三回会議は、開催初日が当初予定の3月5日ではなく、5月22日に変更された。

こうしたなか、全人代で香港国家安全法の制定に向けた動きがあると察知した英国では、ドミニク・レニー・ラーブ外務大臣が5月5日に中国を牽制。香港国家安全法の制定を中止しなければ、英国はBNOを保持する香港市民の入国条件を緩和すると発言した。

それによると、ビザなしでの英国滞在可能期間を従来の6カ月から12カ月に延長し、英国での就労や就学を可能にする方針。滞在期間は延長可能とし、英国国籍を取得する道を開くという。

このように英国が定めたBNOは、香港をめぐる対中政策の切り札となっている。

英中共同声明と香港基本法

そもそも香港国家安全法のような法律は、2019年のデモが起きる前から、制定することが決まっていた。2019年のデモは、それを加速したにすぎない。

英中共同声明の署名式
握手するサッチャー首相と趙紫陽首相
1984年に調印された英中共同声明には、以下のように明記されている。

“中華人民共和国の全国人民代表大会は、中華人民共和国憲法に基づき、「中華人民共和国香港特別行政区基本法」(香港基本法)を制定・公布し、香港特別行政区の成立後は社会主義の制度と政策を実施せず、香港が元来有している資本主義制度と生活方式を保ち、50年は変更しないことを定める”

これに基づき、香港の地域憲法といえる香港基本法が制定されることになった。1985年7月1日に香港基本法の起草委員会が発足。委員は59人で、うち23人が香港からの委員。残る36人は中国本土からの委員だった。

1989年に天安門事件が起きると、のちに“民主の父”と呼ばれる李柱銘(マーティン・リー)や司徒華などが、起草委員会を脱退という事態となったが、1990年2月に作業を完了。香港基本法は1990年4月4日に全人代で承認され、香港返還後の1997年7月1日から施行されることになった。

香港基本法第23条

香港基本法の第23条には、以下のような条文がある。

“香港特別行政区は自らの立法行為によって、国家への反乱、国家の分裂、反乱の扇動、中央人民政府の転覆および国家機密窃取をめぐるいかなる行為も禁止し、外国の政治組織あるいは団体が香港特別行政区で政治活動することを禁じ、香港特別行政区の政治組織あるいは団体が、外国の政治組織あるいは団体と連携することも禁じなければならない”

つまり、1990年4月4日に香港基本法が公布された時点で、国家への反乱や外国の政治組織による活動を禁止することが決まっていた。香港と外国の政治組織が結託することも、これを禁じることが確定。言い換えれば、香港国家安全法を制定することは、すでに1990年4月4日に決定済みだった。

日本も刑法に、内乱罪や外患罪の規定があり、当然といえば当然の規定だ。多くの国が、内乱罪や外患罪を定めている。ただ、香港市民にとって、これは初めての法律だった。

ここでポイントとなるのが、香港特別行政区が“自らの立法行為”で、香港基本法第23条に基づく法律を制定するという点だ。つまり、この法律を制定するのは、香港の立法会に課せられた義務だった。

2002年の国家安全法

就任宣誓する初代行政長官の董建華(左)
右は中華人民共和国の李鵬・総理(首相)
(1997年7月1日)
香港基本法第23条に基づく法律を制定するのは、返還後の香港に課せられた義務だったものの、すぐには着手しなかった。香港の世論も香港基本法第23条をすっかり忘れ、ほとんど懸念を示さなかった。法律の制定を中央政府が催促したのは、2002年になってから。これを受け、初代行政長官の董建華は、法律の起草に着手した。すると、法曹界やメディアが注目するようになった。

香港政府は2002年9月24日、香港基本法第23条に基づく法律の諮問文書を発表。そこには、香港の法律にはなかった国家分裂行為と国家転覆罪に関する諮問が盛り込まれていた。これを香港の世論は、行政長官が中央政府の圧力を受け、歓心を買おうとしたためと見なした。

諮問文書は香港の法律に分散していた条文をかき集め、「国家安全法」として、まとめ上げたものだった。そのうえで、国家への反乱、国家の分裂、反乱の扇動、中央人民政府の転覆、国家機密窃取という5つの罪刑を明確化。3カ月にわたる諮問を開始した。すると、多くの香港市民が、法案に懸念を示した。

世論の反発

香港基本法は香港政府に対し、第23条に基づく法律の制定を義務づけると同時に、香港市民が人権、言論の自由、報道の自由、集会の自由、デモ行進の自由などを享受できることも明記していた。

しかし、これまでになかった法律を前に、多くの香港市民が不安に駆られた。中国本土の法律における“国家の安全”という概念が導入されることにも、恐怖感を覚えた。こうした概念が導入されることで、香港政府が証拠もなしに、「国家の安全を危機にさらした」という名目で、民間組織を取り締まることができるようになると感じた。

香港政府保安局の葉劉淑儀(レジーナ・イップ)局長は、「国家安全法」の制定を推進するため、大学で開かれた数多くのフォーラムに参加した。しかし、大学生は強く反発。双方によるヒステリックな舌戦となった。

サングラス姿のレジーナ・イップ局長
(2003年)
大学生は中央政府と香港政府の成立が、民主的なプロセスを経ていないと指摘。すると、葉劉局長は「アドルフ・ヒトラーは選挙を通じて政権を勝ち取り、700万人のユダヤ人を虐殺した。一人一票の選挙は、決して“万能薬”ではない」と発言。これが原因で、葉劉局長は香港市民だけではなく、外国メディアからも批判を浴びた。

香港政府は2003年2月14日の官報に、国家安全法の草案を掲載。2月26日から立法会で審議することが決まった。中央政府転覆罪は香港の民主派を狙い撃ちしたものとして、“民主の父”と呼ばれた李柱銘や香港市民支援愛国民主運動聯合会(支聯会)の司徒華などは、国家安全法の制定に強く反発した。

五十万人デモ

2003年に入ると、香港では新型肺炎SARSが猛威を振るい、国家安全法に対する関心は薄れた。SARS禍が終息すると、6月から民主派が街頭活動を開始。国家安全法への反対運動を展開した。

香港基本法第23条の立法に反対する五十万人デモ
(2003年7月1日)
香港特別行政区成立記念日の7月1日、民主派で結成された“民間人権陣線”(民陣)がデモを主催。主催者発表で50万人、警察発表で35万人に上る市民が、デモ行進に参加した。デモ参加者の数は、主催者が想定したよりも膨らんだ。

その当時の香港市民は、返還後の香港政府に対する不満が鬱積していた。アジア通貨危機やITバブル崩壊の後遺症を背景に、景気が低迷しており、失業率も高かった。

レジーナ・イップ局長を批判するデモ参加者
(2003年7月1日)
香港政府に対する不信感も強かった。国家安全法をめぐっては、葉劉局長の強権的な態度が、香港市民の反感を買っていた。4カ月ほど前の3月には、財政長官の梁錦松(アントニー・リョン)が、増税前に自動車を購入していたことが発覚。そんな彼を行政長官が擁護したことも、火に油を注ぐ結果となった。さらにSARSをめぐっても、当局者が感染の隠ぺいを図ったことが明らかとなり、香港市民の怒りは最高潮だった。

民衆の圧力

五十万人のデモを受け、董建華・行政長官は法案の一部を修正するなど、譲歩の姿勢を見せた。一方、攻勢を強めた民主派は、香港政府が審議継続の構えであることを非難。審議が再開される2003年7月9日に、群衆を動員して立法会ビルを包囲すると迫った。

形勢不利と見た親中派の自由党は、7月6日に審議延期の方針を表明。法案が過半数の支持を得られないことは明らかで、香港政府も7月7日に審議の無期限停止を決定した。

国家安全法の制定阻止に成功したことを受け、7月9日は5万人の群衆が立法会ビルを包囲。そこで集会を開いた。

包囲された立法会ビルから議員を護送するバスが、集会の現場を通りかかった。すると、親中派の議員が車内から群衆に向け、中指を立てた。このシーンはテレビにも映り、批判が殺到した。

親中派の黄宜弘(フィリップ・ウォン)議員
群衆に向け中指を立て、批判を浴びた。
“中指議員”“黄中指”のあだ名がついた。
強硬姿勢が香港市民の反感を買った保安局の葉劉局長は、7月16日に辞職した。国家安全法の制定失敗にともなう引責辞任と、香港メディアは指摘した。また、自動車購入をめぐるスキャンダルで批判を浴びた梁財政長官も、同じ日に辞職した。

その後、香港政府は市民の理解を得ようと、再び諮問を実施しようと試みたが、世論の反発は強かった。最終的に、董建華・行政長官は9月5日に法案の撤回を発表することになった。

香港基本法第23条に基づく国家安全法の制定は、こうして失敗した。しかし、この法律の制定は、香港基本法で香港に課された義務であり、その後も試みられた。2004年9月に、自由党は法案の諮問を再開するよう董建華・行政長官に提案。だが、よほど民衆の圧力が堪えたのか、董建華・行政長官はこれを却下した。

香港基本法第18条

その後も香港の全人代代表や中央政府の当局者が、折に触れて香港基本法第23条に基づく法律の制定に言及。香港政府に圧力をかけ続けた。しかし、香港政府は世論の反発を恐れ、法律の制定に踏み切らなかった。

しかし、2019年6月9日に「逃亡犯条例」の改正案に反対するデモが起き、やがて本土派の政治団体と香港警察が激しく衝突。本土派の活動が過激化すると同時に長期化すると、中央政府は業を煮やした。

香港政府の立法会に香港基本法第23条に基づく法律を制定する能力がないと、中央政府は判断。そこで、香港基本法第18条に基づき、香港でも施行される全国的な法律に、香港国家安全法を加える方針を固めた。

香港国家安全法の公布

2020年5月28日の全人代採決
香港国家安全法の導入が賛成2,878票で可決
2020年5月28日に第十三期全人代第三回会議は、国家安全法とその執行メカニズムを香港に構築することを可決した。こうして香港国家安全法が、6月30日の全人代常務委員会で承認され、香港基本法第18条に基づき、香港でも施行される全国的な法律の一覧に加えられた。

香港国家安全法の正式名称は、「中華人民共和国香港特別行政区維護国家安全法」。全人代常務委員会の承認と同時に、香港で公布され、即日施行された。

なお、マカオでは1999年12月20日の返還と同時に、澳門基本法が施行され、その第23条には香港基本法と同様の条文がある。マカオは1966年の“一二・三事件”から、中央政府に近い左派が実権を握っており、早くも2009年3月3日から国家安全法が施行されている。

英国の対抗策とBNO

第十三期全人代第三回会議が2020年5月28日に香港国家安全法を制定することを可決すると、英国は即座に反応。やはりBNOが英国の対抗策として使われた。

英国のアレクサンダー・ボリス・デ・フェフェル・ジョンソン首相は6月3日、英紙「タイムズ」と香港紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」に、署名入りの文書を掲載。中国政府が香港国家安全法を制定することは、明らかに香港の自治権を侵害する行為であると批判した。そうした事態となれば、英国は選択の余地なく、“深く長い歴史と友情を守らなければならない”と表明した。

このなかでジョンソン首相は、BNO保持者に言及。中国が香港国家安全法を制定する方針を変えなければ、英国政府はBNO保持者の英国滞在の可能期間を延長し、就労する権利を与え、英国定住への道を開くことになると述べた。

パテル内務大臣
保守党右翼の下院議員
欧州懐疑主義の急先鋒
ブレグジット推進派
6月12日にはプリティ・スシル・パテル内務大臣が、ジョンソン首相に書簡を送付。BNO保持者の英国滞在可能期間を5年に延長し、就労する権利を開放することを提案。そのうえで、5年間の滞在後に定住を申請すれば、その1年後には英国国籍を申請できるようにする方針を示した。

6月30日に香港国家安全法が公布されると、7月1日に英国国会の下院は中国を非難。香港国家安全法が英中共同声明に違反していると批判した。ジョンソン首相も、“香港の高度な自治を侵害するものであり、香港基本法に反する”と主張。英中共同声明が保障した自由と権利を脅かしていると指摘した。

ラーブ外務大臣は、香港国家安全法が香港の自治を侵害しており、香港市民の自由にとって直接的な脅威であると認定。“香港市民に対する約束を中国は守らないが、英国は守る”と強調した。

 

BNO5+1ビザ

こうして、パテル内務大臣の提案が実行されることになった。BNO保持者とその家族は、英国に5年間滞在可能とし、その間の就学と就労を許可。5年後には定住を申請することが可能で、さらに1年後には英国国籍の取得を申請できることになった。この案は2020年7月22日に発表。このスキームに基づくビザは、“BNO5+1ビザ”と呼ばれ、2021年1月31日から申請が可能となった。

2021年2月18日付「タイムズ」よると、ビザ申請者は最初の2週間で5,000人近くに上った。その半数は、英国に滞在中の香港市民。すでに100人以上がビザを取得したという。

BNO旅券の無効化

香港返還後もBNO保持者が所有するBNO旅券は、歴史的経緯を踏まえて、中国本土でも旅券として承認されていた。しかし、“BNO5+1ビザ”のスキームが明らかになると、2020年7月23日に中国外交部(中国外務省)は、BNO旅券を承認しない可能性を示唆した。

英国定住権を求めるBNO旅券所有者
(2019年9月1日)
香港をめぐる英中両国の対立は好転せず、中国外務省は2021年1月29日に、“BNO5+1ビザ”のスキームが中国の主権を侵害していると批判。1月31日からBNO旅券を承認しないと発表した。香港政府も中央政府に従い、BNO旅券による出入境を禁止。香港を出発するBNO旅券の所有者は、香港の身分証明書を提示することが必要になった。

2021年1月29日の中国外務省記者会見
英国の“BNO5+1ビザ”と主権侵害を批判
中国政府は1月31日、あらためて“BNO5+1ビザ”のスキームに反対すると表明。英国のやり方は、多くの香港市民を“二等国民”に貶める行為であり、中国の主権を公然と侵していると批判した。

2月4日には銀行口座開設の身分証明書として、BNO旅券の仕様が禁止となった。ただし、BNO旅券で口座開設する人は少なく、影響は小さいとみられる。

BNO旅券の無効化は、現在進行中の出来事だ。3月25日の報道によると、香港政府は12カ国の領事館に書簡を送り、BNO旅券を認めないよう働きかけたもよう。しかし、どの旅券を承認するかは各国の自由であり、香港政府に反発する声も上がった。

翻弄される香港市民

香港の主権は1997年7月1日に英国から中華人民共和国に返還された。しかし、返還後の香港社会は、不安定であり続けた。この連載を続けて読めば分かるが、そもそも香港市民は政治信条や出自の違いを背景に、強固な一枚岩ではない。時には団結することもあるが、さまざまなかたちで分裂と対立を繰り返しているのが常だ。

民主主義を唱えるにしろ、社会主義を主張するにしろ、香港社会は一枚岩にはならない。香港社会でのサイレント・マジョリティ(物言わぬ多数派)は日和見的で、誰の声に乗るかは流動的だ。声の大きな主張者に扇動されやすく、大群衆を形成するほどの熱気を生み出すこともあれば、それが一気に冷めることもある。

2014年7月3日の立法会
民主派から本土派に転向した黄毓民・議員
梁振英・行政長官にガラスコップを投げて裁判に
そうした香港にとって、植民地時代から引き継がれた不完全な選挙制度は、返還前にばら撒かれた“分裂のタネ”だった。立法会では親中派と民主派が対立し、街では支爆論や攬炒論を唱える本土派の若者が暴れるようになった。

返還前に作られたBNOという国籍も、“英国の置き土産”と言えるだろう。それは返還後の香港市民のアイデンティティを揺さぶり続けている。

香港市民の2つのパスポート
左は英国のBNO旅券
右は香港特別行政区の旅券
BNOの英国定住権は、少し前まで拒絶され続けていたが、いまは認められようとしている。英国政府は歓迎のポーズさえ示している。

しかし、欧州大陸からの移民流入を防ぐために欧州連合(EU)を離脱した英国が、香港からの移住者を温かく迎え入れるかは未知数だ。白人の移住者を拒否する一方で、アジア系の香港市民を本当に歓迎するのだろうか。コロナ禍でアジア系へのヘイトクライム(憎悪犯罪)が増えるなかでは、なおさら疑わしく思える。

“BNO5+1ビザ”で定住権を申請できるまでに5年間を要す。英国国籍の申請には、さらに1年間が必要。長い時間を要するうえ、必ず取得できるとは保証していない。英国にとって“BNO5+1ビザ”とは、中国に対抗する手段として、香港市民を動かすための道具にすぎないのかもしれない。香港の人々は、返還から20年以上が経った今日でも、英中両国の対立に翻弄されている。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は5/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 64. アジア通貨危機と中国本土NEW!
  3. 63. “一国四通貨”の歴史
  4. 62. ヘッジファンドとの戦い
  5. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  6. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  7. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  8. 58. 英領香港最後の日
  9. 57. 返還に向けた香港の変化
  10. 56. 東南アジア華人社会
  11. 55. 大富豪と悪人のブルース
  12. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  13. 53. 香港望族の系譜
  14. 52. 最後の総督
  15. 51. 香港返還への布石
  16. 50. 天安門事件と香港
  17. 49. 天安門事件の前夜
  18. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  19. 47. 香港問題と英中交渉
  20. 46. 返還前の香港と中国共産党
  21. 45. 改革開放と香港
  22. 44. 香港経済界の主役交代
  23. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  24. 42. “大時代”の到来
  25. 41. 四会時代の幕開け
  26. 40. 混乱続きの香港60年代
  27. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  28. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  29. 37. 日本統治下の香港
  30. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  31. 35. 香港株式市場の草創期
  32. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  33. 33. ヘネシー総督の時代
  34. 32. 香港株式市場の黎明期
  35. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  36. 30. 通貨の信用
  37. 29. 香港のお金のはじまり
  38. 28. 327の呪いと新時代の到来
  39. 27. 地獄への7分47秒
  40. 26. 中国株との出会い
  41. 25. 呑み込まれる恐怖
  42. 24. ネイホウ!H株
  43. 23. 中国最大の株券闇市
  44. 22. 欲望、腐敗、流血
  45. 21. 悪意の萌芽
  46. 20. 文化広場の株式市場
  47. 19. 大暴れした上海市場
  48. 18. ニーハオ!B株
  49. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  50. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  51. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  52. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  53. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  54. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  55. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  56. 10. 経済特区の株券
  57. 09. “百万元”と呼ばれた男
  58. 08. 鄧小平からの贈り物
  59. 07. 世界一小さな取引所
  60. 06. こっそりと開いた証券市場
  61. 05. 目覚めた上海の投資家
  62. 04. 魔都の証券市場
  63. 03. 中国各地の暗闘者
  64. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  65. 01. 中国株の誕生前夜
  66. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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  4. 62. ヘッジファンドとの戦い
  5. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  6. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  7. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  8. 58. 英領香港最後の日
  9. 57. 返還に向けた香港の変化
  10. 56. 東南アジア華人社会
  11. 55. 大富豪と悪人のブルース
  12. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  13. 53. 香港望族の系譜
  14. 52. 最後の総督
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  17. 49. 天安門事件の前夜
  18. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
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  20. 46. 返還前の香港と中国共産党
  21. 45. 改革開放と香港
  22. 44. 香港経済界の主役交代
  23. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  24. 42. “大時代”の到来
  25. 41. 四会時代の幕開け
  26. 40. 混乱続きの香港60年代
  27. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
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  31. 35. 香港株式市場の草創期
  32. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  33. 33. ヘネシー総督の時代
  34. 32. 香港株式市場の黎明期
  35. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  36. 30. 通貨の信用
  37. 29. 香港のお金のはじまり
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  39. 27. 地獄への7分47秒
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  51. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
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