コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

天安門事件と香港

2021.3.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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1989年5月21日の香港島
香港史上初の百万人デモが発生した
天安門広場に集まった大学生たちの民主化要求は、香港でも連日のように報道され、市民は高い関心をもって成り行きを見守っていた。それもそのはず。1984年9月26日に正式調印された英中共同声明で、香港の主権が1997年7月1日に中華人民共和国に返還されるのだから。中国本土での出来事は、香港市民にとって他人事ではなかった。それだけに、1989年6月4日に天安門事件が起きると、香港社会は大きな衝撃を受けた。

司徒華と支聯会

大学生に人気のあった胡耀邦・前総書記が1989年4月15日に死去すると、天安門広場に学生が集まり、追悼活動を始めた。それはやがて民主化要求の活動に転化。世界中がその成り行きを見守った。

学生による天安門広場の占拠は1カ月以上にわたり、李鵬・総理(首相)が学生のリーダーたちとの対話に応じた。しかし、双方の溝は埋まらず、1989年5月20日に北京市の一部地域に戒厳令が敷かれ、状況は一段と緊張した。

支聯会を創設した司徒華 戒厳令が布告された翌日の5月21日、香港では司徒華という人物が、“香港市民支援愛国民主運動聯合会”を創設した。この組織は“支聯会”と呼ばれ、その目標は中国本土の学生運動を支援し、民主、自由、人権、法治を実現すること。これは中国本土の政治体制に対する挑戦でもあった。

支聯会を創設した司徒華は教育者であり、著名な社会活動家でもあった。ちなみに、彼は姓が司徒で、名が華だ。漢民族の姓は“李”“王”“張”など一文字の“単姓”が多いが、“司徒”“司馬”“欧陽”など二文字の“複姓”も存在する。

香港の第四代行政長官の林鄭月娥(キャリー・ラム)の場合、姓は“林鄭”だが、これは複姓ではない。香港では女性が結婚すると、本来の姓の前に夫の姓を加えることがある。つまり、彼女の本来の姓は“鄭”であり、夫の姓が“林”であることから、“林鄭”となった。なお、中国本土にこうした習慣はなく、一般的に夫婦別姓だ。

1950年ごろの司徒華 話が脱線したので、本題に戻そう。司徒華は1985年に香港立法局の議員に選ばれ、香港基本法起草委員会の委員も務めていた。幼少期に日本軍の香港侵攻を経験しており、1949年の中華人民共和国の成立を聞いた時は、涙を流して感動したという。

司徒華は1949年に“新民主主義青年団”に加入。この団体は“共産主義青年団”の前身として知られる。さらに彼は同年に“学友中西舞踏研究社”(学友社)を創設。これは表向きこそ文芸活動の団体だが、その一方で香港のエリート青年を中国共産党(共産党)に引き込む活動(オルグ)を展開していた。それゆえ、“香港地下党”と呼ばれていた。

1970年代に司徒華は中国語の公用語化を目指す「中文運動」に参加。1980年代は日本の歴史教科書問題に対する抗議活動も展開した。彼は根っからの愛国者だった。そんな司徒華が“支聯会”を創設したのは、共産党との決別を意味した。

香港からの声援

チャリティーコンサート「民主歌声献中華」
(1989年5月27日)
こうしたなか香港では5月27日に、北京の学生たちに声援を送る大規模イベントが開かれた。ハッピーバレー競馬場(跑馬地馬場)に香港を代表する芸能人が集まり、チャリティーコンサート「民主歌声献中華」(Concert For Democracy In China)を開催。これを4つのテレビチャンネルが生中継した。

この大規模イベントの準備期間は1週間もなかったが、1980年代の香港芸能界でスーパースターだったアニタ・ムイ(梅艶芳)が呼びかけると、ジャッキー・チェン(成龍)、チョウ・ユンファ(周潤発)、アンディー・ラウ(劉徳華)、マギー・チャン(張曼玉)など銀幕のスターのほか、台湾のテレサ・テン(鄧麗君)などもイベントに加わり、マイクを握った。

12時間にわたるイベントで、全138曲を披露。最後は全員でテーマ曲の「為自由」(自由のため)を合唱した。集まった募金は1,200万~1,300万香港ドル。土曜日だったということもあり、会場を訪れた市民は数十万人に達した。

この募金のうち190万香港ドルを天安門広場の学生に届けるため、支聯会の李卓人が北京に向かった。だが、天安門事件の翌日6月5日に、李卓人は公安に身柄を拘束された。李卓人は北京で活動しないことを約束し、釈放されたが、募金は全額没収された。

1989年5月28日に起きた香港の150万人デモ
天安門広場の学生に声援を送った
なお、李卓人は後に香港立法局の議員となり、民主派政党の香港職工会聯盟や工党で活躍。司徒華が2011年1月2日に亡くなると、支聯会の主席に就任した。

チャリティーコンサート「民主歌声献中華」の翌日5月28日には、香港で150万人規模とも言われるデモ行進が決行された。それは世界に広がり、マカオ、台湾、日本、オーストラリア、カナダ、欧州主要国の大都市でも、同じ日に中華系市民によるデモ行進が展開された。

天安門事件の衝撃

天安門広場での抗議活動に、香港株式市場も神経を尖らせていた。北京市に戒厳令が布告されてから最初の取引日となった5月22日、ハンセン指数は前日比10.8%安の2,806.57ポイントで終了。直近取引日だった5月19日の終値は3,145.63ポイントであり、一気に大台を割り込んだ。

翌日の5月23日は買い戻しの動きが広がった。この日の終値は9.3%高の3,067.65ポイントで、大台を回復。しかし、中国当局が報道管制を強化し、5月24日に衛星中継用の回線を遮断すると、事態が切迫しているとの危機感が広がった。5月25日にハンセン指数は再び急落し、8.5%安の2,752.51ポイントで終了した。

厳しい報道管制のなか、西側メディアは天安門広場の状況を電話やビデオ録画で海外に伝えた。ハンセン指数は5月26日に反発し、翌取引日の5月29日も続伸したが、5月30日から下げ続いた。

6月4日日曜日に中国人民解放軍の装甲車や戦車が天安門広場に突入し、学生たちの強制排除に乗り出した。その様子を伝える西側メディアの映像は、世界に衝撃を与えた。香港メディアの情報も錯綜。“軍同士の衝突”のほか、“鄧小平の死亡”などの未確認情報を伝え、それを日本のメディアも引用した。

中国銀行から預金を引き出す香港市民
(1989年6月5日)
6月5日月曜日の香港市場では、ハンセン指数が大暴落。この日の終値は21.7%安の2,093.61ポイント。戒厳令前の5月19日の終値からの11営業日で、1,052.02ポイント下落した。

天安門事件に抗議する香港市民は、中国政府系の中国銀行から預金を引き出すため、長蛇の列を作った。1日で引き出された預金は、50億香港ドルに達したと言われる。

ただ、株価の回復は速かった。ハンセン指数は1989年9月22日に終値で2,706.36ポイントを付け、天安門事件が起きる前の水準に戻った。結局、1989年のハンセン指数は、年間を通じて5.5%上昇。1990年6月1日には終値で3,159.17ポイントを付け、戒厳令布告前の水準を回復した。

香港脱出の動き

株価は短期間で回復したが、企業や人々の不安は払しょくできず、香港脱出の動きが広がった。1989年には上場企業37社が、会社登記地を海外に移した。1993年末には香港で活動する上場企業450社のうち、255社が海外登記の企業となった。

海外移民を決断する香港市民も増加した。1992年だけで6万6,000人、1990~1994年の5年間では、約30万人が海外に移住したと言われる。行く先は先進国の中で移民受入条件が最も緩いカナダのほか、オーストラリア、ニュージーランド、米国などが多かった。

まるで香港のようなカナダ・リッチモンドの一角
中国語の看板が目立ち、現地でも問題に
特にカナダのブリティッシュコロンビア州バンクーバーへの移住が集中。うちリッチモンドは“リトル・ホンコン”と呼ばれるほど、香港からの移住者が多い。

だが、海外での生活は理想通りとはいかず、1996年ごろになると香港に戻る人々が続出。カナダでは1996~2006年に約4万5,000人の香港出身者が故郷に帰ったという。香港はそこで生まれ育った人々にとって、ほかに変えようのない大事な場所ということがよく分かる。

方励之と米中交渉

この連載の第四十九回で紹介したように、1986年12月の “八六学潮”から1989年6月の天安門事件に至るまで学生運動は、その背後に方励之とその妻の李淑嫻の存在があった。方励之と李淑嫻は天安門事件の翌日6月5日に、中国問題の研究者として知られるペリー・リンク氏の同伴で、北京市の米国大使館に庇護を求めた。

ホワイトハウスの判断で、方励之夫婦は米国大使館で匿われることになった。それを知った中国外交部(外務省)は、6月8日に米国大使に抗議。方励之は動乱を策謀した罪があり、彼を匿うのは内政干渉であると非難した。

米国大使館での記念写真
左から二番目が方励之
方励之の身柄は、米中の外交問題となった。1年あまりにわたる外交交渉の末、方励之夫婦は米軍が用意した輸送機で出国するということで決着した。これは1989年11月に鄧小平がヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーに語った解決案に沿ったものだった。この解決案の大前提は、米国の反共プロパガンダ活動に、方励之夫婦を利用しないことだった。

天安門事件を受け、対中経済制裁が実施されており、中国側は米国の譲歩を引き出したうえで、この問題の早期解決を望んでいた。1989年は11月にベルリンの壁が崩壊するなど、欧州情勢が劇的に動いており、米国も早期の幕引きを願っていた。

1990年6月25日付「人民日報」は、方励之夫婦の出国を伝えた。それによると、方励之夫婦は“四つの基本原則”と中華人民共和国憲法に違反したことを認める書簡を提出。病気療養のため、出国を願い出た。出国後は中国に反対する活動を行わないと誓約。方励之は後悔の意を示しているうえ、病気を患っていることから、人道主義に基づく寛大な処置として、出国を認めたという。

方励之の墓
アリゾナ州ツーソン
「人民日報」の報道は、鄧小平の解決案がそのまま履行されたことを伺わせる内容だった。方励之夫婦の問題が解決したことで、経済制裁は一部が取り消されたり、緩和されたりした。米中の緊張関係が解消に向かうきっかけとなった。

方励之夫婦は米軍輸送機に乗り、1990年6月25日に北京市の南苑空港から英国に向けて飛び立った。英国に半年ほど滞在し、米国に移住。最終的に方励之はアリゾナ大学の物理学部で教鞭を執ることになる。2012年に現地で亡くなった。

指名手配された大学生たち

21人の指名手配を伝える新聞
公安は“北高聯”ではなく、“高自聯”と呼んだ
北高聯の学生指導者
柴玲(左)、ウアルカイシ(中央)、王丹(右)
方励之夫婦が米国大使館に匿われた一方で、天安門広場の大学生を指導した“北京高校自治聯合会”(北高聯)の重要メンバーは、公安部(公安省)に追われる身となった。6月13日に公安部は、北高聯のメンバー21人を全国に指名手配した。

指名手配名簿の1位は、北京大学の王丹。彼は方励之夫婦との関係も緊密だった。指名手配名簿2位は北京師範大学のウアルカイシ(吾爾開希)。彼は北高聯の主席であり、李鵬・総理との対話の席にも出席した。

王丹とウアルカイシは、意見対立が激しかった北高聯の中で、過激な抗議活動を主張。ハンガーストライキ(絶食をともなう座り込みの抗議)も、王丹やウアルカイシが反対意見を押し切るかたちで始めた。

指名手配名簿3位の劉剛は、すでに学生ではなかったが、北高聯の重要メンバーとともに、捜査対象となった。彼は方励之夫婦の影響を受け、王丹などと一緒に、北京大学で“民主サロン”を主催。天安門広場での抗議活動では、学生と方励之の連絡役として行動。学生らに北高聯の結成を提案するなど、その役割は大きかった。裏役に徹していたことから、指名手配名簿に彼の名が載ったことで、初めてその存在を知った人も多かった。

指名手配名簿4位は、北京師範大学の柴玲。北高聯のリーダー格では数少ない女性であり、それゆえ目立つ存在だった。日本でも一部のメディアは、彼女を“民主の女神”として扱った。2019年の香港デモでは、香港衆志(デモシスト)の周庭(アグネス・チョウ)を日本のメディアは“民主の女神”と持ち上げた。日本のメディアは昔から“女神認定”が好きだ。

柴玲(中央左)と封従徳(中央右) 柴玲は1988年に北京大学の封従徳と結婚しており、天安門事件の当時は既婚者だった。彼女はハンガーストライキを主張した学生指導者の一人であり、“天安門広場防衛指揮部の総指揮”を担当していた。夫の封従徳も指名手配名簿の13位に名を連ねた。

“黄雀行動”

北高聯の重要メンバーが指名手配されたことを受け、支聯会の司徒華は、“黄雀行動”(オペレーション・イエローバード)というコードネームの救出作戦を指揮した。それは人権活動の指導者、西側諸国の外交官、ビジネスマンから、香港の三合会(ヤクザ組織)や蛇頭(密入国の斡旋組織)までも動員する大規模な作戦行動だった。

北高聯の一員だった項小吉
黄雀行動に救われ、香港経由で渡米した
“黄雀行動”という作戦名は、三国時代の曹植(そうち)の詩「野田黄雀行」に由来する。これは捕らえられたスズメを救い出す少年の義憤を詠った作品。スズメは殺害された曹植の側近を意味する。

この救出作戦は、香港返還の直前まで続いた。救出した人物は800人と言われ、そのなかには北高聯のウアルカイシや柴玲と封従徳の夫婦も含まれる。

ウアルカイシは甘粛省蘭州市から香港に渡り、その後は台湾などで活動している。柴玲と封従徳は、香港経由でフランスに渡った。その後、柴玲は米国に新天地を求め、フランスに残った封従徳と離婚した。

柴玲は1993年にプリンストン大学で政治学の修士号を得た。その後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBA(経営学修士)を取得した。米国で結婚し、夫婦でコンピューター会社を経営している。

米国での柴玲 ちなみに、彼女は物議を醸す発言で知られる。米国メディアのインタビューでは、「本当のところ、我々が期待していたのは流血だった」「広場に血が流れることで、すべての中国人が目覚める」などと語っていた。

「個人的には生き延びたい。天安門広場の大学生たちは、追い詰められた政府によって血を流すだろうが、すぐに大きな革命が到来するだろう」などとも語っており、利己的であると批判を浴びた。

逮捕された北高聯のメンバー

王丹
(2010年)
指名手配名簿1位の王丹は、海外逃亡は自分の性に合わないとして、国内潜伏の道を選んだ。一時期は安徽省の友人の家に身を隠したが、北京市に戻り、台湾の「自立晩報」の取材を受けた。これがきっかけとなり、1989年7月2日に逮捕された。

王丹は1991年に“反革命宣伝扇動罪”で懲役4年の判決を受けた。1993年に釈放されたが、反体制運動を継続し、1995年に再逮捕。1996年に“政府転覆陰謀罪”で懲役11年の判決を受けた。

王丹の家族は、彼が多くの病気を患っており、海外での治療を許可するよう要望。これはやがて米中の外交テーマの一つとなった。1998年にクリントン大統領が訪中する直前、中国政府は人道主義の名目で、王丹の海外治療を許可。こうして彼は米国に拠点を移した。

米国に渡った王丹は、1998年7月にハーバード大学に入学。そこで博士号を取得し、2009年に台湾に渡り、大学で教鞭を執った。

名簿3位の劉剛は、1989年6月16日に河北省保定市で逮捕された。1991年に“政府転覆扇動罪”で懲役6年の判決を受けた。1995年に釈放されると、1996年に香港経由で渡米。コロンビア大学を卒業した後、銀行や証券会社などで働いている。

劉剛
(2010年)
このように指名手配された北高聯の重要メンバーは、その多くが海外に脱出した。

なお、1986年の学生運動“八六学潮”で方励之の影響を受けた陳破空は、天安門広場の学生と連携し、広東省広州市の中山大学で民主化運動を展開していた。これを原因で逮捕され、4年半を刑務所で過ごした。1996年に米国に渡ると、コロンビア大学の客員研究者となった。

民主制度がなかった英領香港

天安門広場の大学生は、中国本土の民主化を求めたが、“四つの基本原則”という国是の下、それは退けられた。一方、香港では1997年の返還を前に、民主化に向けた動きが進められていた。

植民地統治が続く英領香港には、立法機関としての立法局が存在した。その議員選出は、香港総督による任命。これが140年以上にわたり続けられ、選挙は行われなかった。

ただ、英領香港でまったく選挙が行われていなかったわけではない。市民生活サービスを担当する市政局の選挙は、資格要件が設定された制限選挙であるものの、戦前から行われていた。しかし、制限選挙だったこともあり、市民の関心は薄かった。

屯門の区議会選挙(1982年) 第二十五代香港総督のクロフォード・マレー・マクレホースの時代には、地方行政に選挙が導入された。香港の各区に区議会が設けられ、1982年3月に初の区議会選挙が実施された。こうした民主化に向けた動きはあったものの、立法局議員の選出では任命制が維持された。それは中国側を刺激しないことが原因だったとも言われている。

そもそも英国は、140年以上にわたって香港に民主主義を導入せず、総督による植民地統治を続けていた。それなのに、いまさらながらに民主化を推進すれば、“厄介なかたち”で香港を中国に返還しようとしていると受けとめられるからだ。

香港史上初の間接選挙導入

しかし、マクレホース総督の離任後、立法局の民主化が進むことになった。香港返還をめぐる英中交渉の最中、香港政庁は1984年7月18日に間接民主主義の導入に向けたグリーン・ペーパーを発表。これに基づき、1985年9月の立法局選挙で、一部の議席に初めて間接選挙が導入された。

1985年の立法局選挙
初めて間接選挙が導入された
57議席のうち、非オフィシャル議員(民間議員)の24議席が、間接選挙によって選ばれた。うち12議席は選挙団による間接選挙。選挙団は市政局や区議会の議員などで構成された。残る12議席は職能別選挙で、これは商業界、工業界、金融界など、各界の代表を選出するものだった。

そのほかの33議席のうち、民間議員の22議席は香港総督が任命。11議席はオフィシャル議員(官僚議員)であり、香港総督を含む香港政庁の閣僚が務めた。

1985年の立法局選挙には、香港公民協会や香港革新会など、1950年代からの政治団体が参加したが、きちんとした政党はまだ存在しなかった。当選した議員は、大部分が無所属だった。

直接選挙の導入をめぐる議論

1988年9月の立法局選挙をめぐっては、その前年から直接選挙の導入が政治的テーマとなった。当時の各種世論調査では、6~7割の市民が直接選挙に賛成。これを背景に、1987年9月にはビクトリア・パークで直接選挙を求める集会が開かれ、1万人を超える市民が参加した。

こうした声を受け、香港政庁は1987年11月に民意を調査するサーベイ・オフィス(民意匯集処)を開設。1988年9月の直接選挙導入をめぐる調査を民間会社に委託した。

1988年の直接選挙を求める集会
(1987年9月27日)
だが、サーベイ・オフィスは7割の市民が直接選挙に反対だったと発表。それまでの世論調査とかけ離れた内容だったことから、香港社会は騒然となった。

香港政庁はわざと世論を捻じ曲げた。署名運動では直接選挙に賛成の意見が大多数だったにもかかわらず、香港政庁は“参考価値がない”として一蹴した。その背景には英中両国の合意があったと言われる。

それによると、香港市民が1988年9月の直接選挙を求めていないという調査結果が明らかとなれば、中国側は直接選挙導入の約束を「香港基本法」に盛り込むということで合意していた。「香港基本法」に直接選挙を盛り込むため、サーベイ・オフィスはわざと世論調査に反する結果を発表したという。

もう一つの理由は、香港と中国本土の経済関係が日増しに緊密になっていることがあった。香港の将来を考えれば、中国本土との信頼関係は重要。返還が決まった香港で重大な改革を実施する際は、中国側の同意を取り付ける必要があった。

返還までの微妙な時期に、直接選挙の導入など重大な政治改革を実施することは、中国側を刺激する恐れがあった。このため、香港の経済界からは直接選挙に反対する声が強かった。これも世論が捻じ曲げられた原因の一つだった。

こうして1988年9月の立法局選挙に直接選挙を導入する案は否決された。多くの市民が、この結果に憤慨。立法局の民間議員だった李柱銘(マーティン・リー)は、香港政庁を猛烈に批判した。

香港史上初の直接選挙

こうして1988年9月の直接選挙導入は見送られたが、天安門事件が起きると、状況が変わった。第二十七代香港総督のデビッド・クライブ・ウィルソンは、香港市民の動揺を和らげるために、1991年9月の立法局選挙に直接選挙を導入すべきと、中国側に提案。これに中国側が同意し、初の直接選挙が実施されることになった。

香港民主同盟の李柱銘・主席
1991年の立法局選挙に出馬
香港史上初の直接選挙で勝利した李柱銘 立法局議員だった李柱銘は、支聯会の司徒華とともに香港基本法起草委員会を去った。李柱銘と司徒華は、香港の民主主義を発展させることで、中国本土の民主化を促すことで合意。こうして1990年4月23日に、香港史上初の政党である香港民主同盟を結成した。

支聯会の多くが、香港民主同盟に合流。こうして、1991年9月の立法会選挙を迎えた。この時の立法局は全部で60議席。うち17議席は香港総督が任命。4議席は官僚が就任する議席だった。

選挙で選ばれるのは39議席で、このうち21議席は職能別選挙。直接選挙に割り当てられたのは18議席であり、全体の30%だった。

この選挙で香港民主同盟は、直接選挙の18議席のうち、12議席を獲得した。そのほかの民主派政党も、直接選挙で5議席を確保。直接選挙の18議席のうち、17議席が民主派のものとなった。

だが、直接選挙以外では、親中派の政党のほか、中国との良好な関係を築きたいビジネス界からの議員が多数を占めた。最終的に総議席数60のうち、民主派は23議席で、親中派と商工界が34議席となった。

香港民主同盟は1995年9月の立法局選挙に向け、1994年10月に民主派政治団体の匯点(ミーティング・ポイント)と合併し、民主党となった。李柱銘が率いる民主党は、中央政府に対抗する政治勢力として成長。李柱銘は “民主の父”と呼ばれるようになった。

その一方で中央政府は民主党や支聯会を敵対視するようになり、その中核メンバーは中国本土への渡航が不可能となった。

天安門事件の追悼集会

支聯会は1990年6月4日から毎年、ビクトリア・パークで天安門事件の追悼集会を開催しており、それは香港返還後も続けられた。最初の集会の参加者は、主催者発表で15万人、警察発表で8万人だった。

その後は参加者の数が減少傾向をたどり、1995年は主催者発表でも3万5,000人まで落ち込んだ。だが、天安門事件20周年の2009年は、主催者発表で15万人、警察発表で6万2,800人に回復。その後は主催者発表で10万人以上を維持し、多い時では18万人を数えた。なお、2020年の追悼集会は、新型コロナの感染拡大を背景に、初の中止となった。

ただし、主催者発表と警察発表の数字は、乖離が大きくなっている。例えば29周年の2018年は、主催者発表こそ11万5,000人だが、警察発表は1万7,000人。その差は9万8,000人に上る。

2019年の追悼集会 30周年の2019年は、主催者発表が18万人で、警察発表が3万7,000人。その差は14万3,000人に達する。主催者発表が同じく18万人だった25周年の2014年と比較すると、その時の警察発表は9万9,500人。つまり、主催者発表が同じ18万人でも、それぞれの警察発表を比較すると、2.7倍の違いがある。

2019年の警察発表が特に少なかったことについては、“政治的意図”を指摘する意見もある。「逃亡条例」改正に反対するデモに冷や水を浴びせるのが目的というのだ。ただし、それ以前から主催者発表と警察発表には大きな差があり、一概にそうだとは言い切れない。

1989年の香港市民にとって、天安門事件は他人事ではなかった。しかし、現在の香港の若者にとって、天安門事件は“他人事”であり、むしろ支聯会の追悼集会に、批判の眼差しを向けているという現状がある。2017年は多くの大学が追悼活動を取り止めた。その背景には、香港で台頭している“本土派”の思想がある。

民主派の分裂と対立

本土派と言っても、その“本土”とは、中国本土のことではない。“香港市民にとっての本土”である香港を意味している。日本のメディアでは、本土派のことも“民主派”と一緒くたに呼ぶ。しかし、香港の政治状況は、そんなに単純ではない。

1991年の立法局選挙に勝利した香港民主同盟は、やがて民主党に発展。これが立法局、そして返還後の立法会における民主派の先駆けとなった。これに対する親中派(建制派)とは、1992年創設の民主建港協進聯盟(民建聯)や1993年創設の自由党などを指す。

民主派政党は数を増やし、1996年には前線が誕生。2006年には公民党と社会民主連線(社民連)が創設された。なお、前線は2008年に民主党に合流した。

2010年代になると、“過激民主派”と呼ばれる政党が台頭した。これは民主党を代表とする従来からの民主派を“温和民主派”とし、それらと区別するために生まれた言葉だ。過激民主派は普通選挙の即時実現を目指すため、立法会の議事堂で過激なパフォーマンスをすることで知られる。

社民連の梁国雄(通称:長毛)
2016年10月12日の議員就任宣誓
雨傘運動シンボルを持ち込んだ
規定通りに宣誓を行わず、議員資格を失った
過激民主派が生まれたきっかけは、2009年に社民連と公民党が計画した立法局議員5人の一斉辞職だった。空席となった5議席をめぐる補欠選挙を実施させ、これを普通選挙の導入を問う市民投票として位置づけるのが狙いだった。

2010年1月26日に辞表を提出した議員5人の議席をめぐり、同年5月16日に5議席の補欠選挙が実施された。だが、市民の関心は薄く、投票率はわずか17.1%。お世辞にも、市民投票と言える水準ではなかった。当選したのは、いずれも辞職した5人であり、とんだ茶番に終わった。

この社民連と公民党の計画に、そもそも民主党は反対であり、民主派の結束は崩れた。過激民主派の政党は、民主党など温和民主派に攻撃的となった。

本土派の台頭

本土からの観光客であふれる香港
(2011年)
マイクを握る黄毓民と熱血公民のメンバー 観光バスに向け中指を立てる香港の人々
本土からの観光客に対する抗議デモ
(2015年2月)
本土からの観光客に罵声を浴びせる香港の若者
(2015年2月)
“大陸人が立小便すれば、直ちに撮影する”
上記のように書かれたプラカードを掲げる香港市民
何が書かれているのか覗き込む女性観光客
それに顔をしかめる周囲の人々
(2014年5月)
“支那の犯罪者を駆逐せよ”
上記ように書かれた標語を観光客に示す香港の若者
中央人民政府駐香港特別行政区聯絡弁公室ビル
2019年7月21日に香港の若者たちに攻撃された
侮辱の意味を込めて“支那”と落書きされた
左は黄之鋒(ジョシュア・ウォン)
右は周庭(アグネス・チョウ)
すでに解散した香港衆志(デモシスト)の幹部
日本でも有名になった若者たちのリーダー
この過激民主派も2012年ごろには分裂する。原因は中国本土の人々に対する対応だ。2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)流行で疲弊した香港経済を立て直すため、中国本土の一部地域の住民に対し、香港への個人渡航が解禁された。これで香港の小売業や観光業は息を吹き返し、中国本土からの旅行者はまさに“救いの神”だった。

だが、香港への個人渡航が可能な地域が拡大し、規制の緩和が進むと、中国本土からの旅行者が一段と増加。2010年代に入ると、香港の街は中国本土の人々で溢れ、多くの商品が買い漁られた。地方や農村の出身者は、都会での振る舞いを知らず、香港では非常識なマナー違反も目立つようになった。

こうした状況を背景に、中国本土の人々に対するヘイト感情が芽生え、香港市民であることに優越感を覚える風潮が、若者の間に広がった。そして、香港市民の利益を第一に考え、香港の主体性と文化を強調する政治勢力が誕生。これが“本土派”だ。

社民連などは中国本土の人々に同情的だったが、一部の過激民主派は“本土派”に転向。その代表格が黄毓明(レイモンド・ウォン)だ。彼は2013年に過激民主派政党の人民力量を脱退し、本土派として行動するようになった。

2015年2月に本土派の政治団体は、中国本土からの旅行者が、密輸や転売目的に香港の商品を買い占めていると声を上げ、これに反対する大規模な抗議活動を展開。だが、実際のところ、これは中国本土の人々に対するヘイト活動だった。スーツケースを持った旅行客を見つけると、大勢で取り囲んだうえ、“支那”“イナゴ”などの罵声を浴びせた。

本土派の団体が押し寄せると、商店はシャッターを下ろし、観光客は怯えた。嫌がらせ行為はエスカレートし、旅行者を突飛ばしたり、スーツケースを蹴り上げたりするなどの暴力行為に及ぶようになり、警察とも衝突した。

本土派の思想

本土派にもさまざまな政党があり、思想の違いがある。しかし、民主派と本土派には、明確な違いがある。それは中国人としての意識だ。

民主派は香港の民主主義を発展させることで、同胞が暮らす中国本土の民主化を促進するという考えから生まれた。一方、本土派にとって、中国本土は自分たちと無関係の地域であり、その民主化を促す義務はないと考えている。当然、天安門事件を追悼する必要もないと思っている。

本土派には過激なグループと温和なグループがある。過激なグループは香港に住む中国本土の人々を蔑視し、彼らを“支那”と呼ぶ。彼らの上の世代が嫌ったこの言葉だが、それを中国本土の人々に向けて発している。そして、香港政府や中央政府との過激な抗争に重点を置く。温和なグループは中国本土の人々に対するヘイト行為に反対であり、非暴力的・平和主義的な活動を重視する。本土派も一括りにはできない。

香港を破壊する若者たち

2019年の「逃亡犯条例」の改正に反対する抗議活動では、過激な本土派と香港警察の衝突がクローズアップされた。海外メディアに向けた本土派のアピールが奏功し、香港警察が完全に悪役として扱われた。

海外では香港警察の鎮圧活動ばかりが報道されたが、その一方で本土派によるインフラ破壊活動や市民生活の妨害活動などは、ほとんど伝えていない。“正義の若者と独裁者との戦い”という構図が崩れるからだ。

たまに、香港の若者による破壊活動や暴力を伝えるメディアがあっても、それを見た人々は “なぜ香港の若者が、香港を破壊するのか?そんなわけがない!”と、一笑に付し、フェイクニュース扱いする。

だが、実際に香港では、本土派の若者は以下のような行為を繰り広げた。“幹線道路の封鎖と通行妨害”、“警察本部の包囲と警察機能の妨害”、“香港国際空港での搭乗妨害”、“地下鉄の運行妨害”、“立法会の占拠と破壊活動”“破壊行動を咎める香港市民への暴行”“中国本土の人と間違えられた日本人への暴行”――。

中国語が分かる人なら、そうした行為の映像や画像が、簡単に検索できるだろう。

若者の集団に占領された立法会
あちらこちらに落書きされた
(2019年7月1日)
空港機能の混乱を狙い、搭乗を妨害する若者たち
(2019年8月13日)

地下鉄を止めるため、乗車口に座る若者
多くの通勤客が足止めされた
(2019年8月5日)
若者の集団が本土出身者を警察と決めつけリンチ
それを救おうと怒りの声を上げる外国人記者
暴行されたのは警察ではなく、記者だった
(2019年8月13日)

運行妨害に抗議する通勤客(左)
マスクの女性(右)は聞く耳を持たない
(2019年7月30日)
破壊されたうえ、放火された地下鉄の入り口
(2019年10月)

 

支爆論と攬炒論

香港大学の戴耀廷(ベニー・タイ)副教授
雨傘運動(2014年)の主催者の一人
「中国は近く崩壊し、
香港は広東国に編入される」
このように2017年のフォーラムで発言
典型的な支爆論と言える
本土派の若者が破壊行為に及んだ背景には、“支爆論”と“攬炒論”がある。“支爆論”とは「支那爆炸」(シナ爆発)の意味であり、いわゆる中国崩壊論だ。

人々の中国政府に対する不満が高まり、間もなく中国本土の社会・経済が崩壊し、分裂期を迎えるというのが“支爆論”だ。この“支爆論”という予言は、何年も前から香港のSNSで話題となっていた。

そして、中国本土が崩壊する時こそ、香港が独立する好機であると、多くの本土派が考えるようになった。米国にトランプ政権が誕生すると、“支爆論”はますます信憑性を帯びた。

しかし、中国本土は一向に崩壊しない。そこで生まれたのが、“攬炒論”だ。“攬炒”とはトランプゲームの用語であり、自分が負けそうになった時に、相手の足を引っ張り、道連れにする行為を指す。「死なばもろとも」という考え方だ。

中国経済が崩壊しないのは、先進的な香港に支えられているからだと、本土派の若者は考えた。そこで、香港を破壊すれば、中国本土も崩壊し、独立の好機が到来するという思考に至った。つまり、まずは香港を破壊し、その後に再建すれば良いというわけだ。こうした考え方が、本土派の若者が破壊行為に及んだ背景にある。

香港を破壊することで、中国のイメージを悪化させ、外資を撤退させる。そうなれば、中国経済と人民元相場が動揺。このような巨大な損失を与えれば、中央政府も香港の民主主義を認めざるを得ないという作戦だ。これが“攬炒論”だ。

だが、それに巻き込まれる香港のサイレント・マジョリティー(物言わぬ多数派)は、たまったものではない。本土派の“支爆論”と“攬炒論”は、香港でも批判が多い。

攬炒論を支持する香港の若者たち
紙に書かれた言葉は「我要攬炒」(攬炒する)
本土派の台頭で、香港での天安門事件の意味合いは、大きく変質しようとしている。香港の若者は、天安門事件から距離を置くようになった。その背景には、“支爆論”と“攬炒論”のような過激な理論と、中国本土に対するヘイト意識がある。

こうした風潮が、香港の未来にとって、好ましいことなのか?それは香港市民が自ら考えるべき課題だろう。

天安門事件からの変化

天安門事件からの30年あまりで、中国本土は劇的に変化。いまや中国本土の人々は、豊かになった。中国の統計に疑いの目を向ける人も、日本を訪れる中国人観光客の多さや“爆買い”と呼ばれた消費意欲、それに観光を楽しむ笑顔を見れば、豊かさが嘘ではないことが分かるだろう。

天安門事件と同じ1989年に、東ヨーロッパでは民主化の動きが広がり、社会主義政権が次々と倒された。この東欧革命から2年後の1991年には、ソビエト連邦も崩壊。これらの国々の人々は、民主化が進むことで、豊かになることを願った。

しかし、現実は違った。政治や経済は混乱し、30年が経過した今も、多くの人々が豊かさを手に入れていない。

これに対し、中国は民主化を絶対に許さなかった。天安門事件の後も、共産党政権は揺るがず、その一方で計画経済の時代に戻ることもなかった。改革開放政策はさらに拡大し、天安門事件から20年ほどで世界2位の経済大国に成長した。

こうした現実を背景に、天安門事件は仕方なかったことであり、正しい選択だったと評価する声が、中国本土ではよく聞かれる。豊かさを享受している人々は、民主化を求めていない。豊かさの基盤を壊されたくないからだ。

日本6日間“親子旅”のちらし
山東省青島市の旅行会社が企画
教育を兼ねた親子旅で、日本は富裕層に人気
1989年5月20日夜の香港
台風が香港に接近中
こうしたなか4万人の香港市民が
天安門広場の学生のために集まった
一方、香港は貧富の格差が広がった。こうしたなか、かつて貧しかった中国本土の人々が、香港の目抜き通りで大手を振って歩いている。そうした状況を背景に生まれた香港の本土派は、 中国本土の人々にヘイト意識すら持ち、“支爆論”と“攬炒論”などを唱え、自ら香港を破壊しようとしている。

天安門広場に戒厳令が布告された時、司徒華は支聯会を創設し、学生に声援を送った。そして、学生を救うため、“黄雀行動”を展開。香港の民主主義を発展させることで、中国本土の民主化を促そうとした。その背景には、北京の大学生たちを思いやる心があった。

こうした司徒華と香港の民主派の行為は、中央政府と敵対する。ただ、主義主張は違えども、香港の民主派も北京の党幹部も、お互いに同じ中国人という同胞意識を持っていた。

そうした気持ちや同胞意識は、香港の本土派にはまったくない。むしろ、本土派の若者は、中国本土の人々を憎んでいる。そうした若者が香港に育ったことは、天安門事件に抵抗した香港の民主派にとって、大きな悲劇なのかも知れない。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は4/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
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  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
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  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
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  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに