コラム・連載

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話

誰もが彼らを無視できない~香港の摩天楼に潜む陰の実力者

2023.8.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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香港は1997年6月30日まで160年近くにわたり英国の統治下にあり、社会主義化を免れた。その結果、香港には中国古来の習俗が多く残り、その一つに「風水学」がある。

風水学の歴史は長く、その基盤となった思想は、中華文明とともに誕生したとみられる。

そもそも、文明は自然界の規則性を発見したことから始まった。その最たるものが、時間の規則性である暦(こよみ)だった。

文明の始祖たちは、天体の運行や出没位置を観察し、時間的な規則性があることを発見。かつては“神のみぞ知る”と思われた季節の巡りも、天体運行の周期性によって予見できるようになった。こうして暦が編纂され、それは農耕文明の発展に貢献した。

殷王朝(商王朝)の甲骨文に刻まれた「十干十二支」の循環表
右は拓本、中央は書き起こした甲骨文字、左は現代の漢字
李圃「甲骨文選注」第55ページに収録
十干十二支は考古学的に実在が確認された最古の王朝も使用
中国の暦は“甲、乙、丙…”の「十干」(じっかん)と“子、丑、寅…”の「十二支」で表現され、六十周期の「十干十二支」が成立した。

中華文明による自然界の探求は、その根本要素にも向かった。世界の根本要素を“陰”と“陽”に分けた二元論の「陰陽思想」が誕生。陰陽思想で未来を占う「易学」も生まれた。さらに、万物が“木、火、土、金、水”の五元素から成るとする「五行思想」を体系化した。

十干十二支、易学、陰陽思想、五行思想は中国社会に深く浸透し、根本要素の周期性、関係性、法則性が複雑に絡み合った宇宙観が確立。根本要素を分析することで、複雑な事物の働きを予見する試みが発展した。

中央に方位磁石がある「羅盤」
周囲には十干十二支や八卦を表示
これを不動産に応用したのが風水学であり、その専門家である風水師が使う「羅盤」という道具には、十干十二支、易学、陰陽五行の思想が盛り込まれている。

香港社会では風水の良し悪しが、建物や墓地の位置や方向を決める際に、重要な判断材料とされる。風水が運気を左右するからだ。

香港でビルなどを建てる際は、風水師に報酬を支払い、その判断を仰ぐ。風水が悪ければ、それを回避する工夫を風水師が提案。それが建物の外観や周辺の景観に影響する。

有名な風水師の蘇民峰(中央)
香港のテレビ番組にも数多く出演
このような香港社会だが、中国への主権返還が決まると、変化が生じた。その一つが85年4月に始まった中国銀行タワーの建設。このビルの設計では、風水師の助言を仰がなかった。すると、ちょっとした騒ぎが起きた。

このビルは剣のようなデザインであり、その刃が周囲に殺気を放っていると、風水師たちは主張。86年12月に当時の香港総督が急死したのも、このビルが原因と指摘した。

そこで、香港総督府は風水師の話を聞き、中国銀行タワーの方角に柳を植え、殺気を防いだ。中国銀行タワーの刃はHSBC本店ビルにも向いていた。そこでHSBCは大砲のような形の屋上クレーンを中国銀行タワーに向けて設置し、殺気に対抗した。

左は剣のような中国銀行タワー
中央は強固な盾のような長江実業の本社ビル
右端は大砲のようなHSBC本店の屋上クレーン
99年に完成した長江実業の本社ビルは、中国銀行タワーとHSBC本店の間にある。そこで、風水師の助言を聞き、双方の殺気を防ぐため、外観を強固な盾のように設計した。

この“風水戦争”の真相は、失業を恐れた風水師の策略だったのかも知れない。返還後も権威を保つ風水師たちは、 今日も“陰の実力者”として香港の摩天楼を裏で操る。

 

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話
次回は8/20公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. ~内藤証券アナリストが書く~
    中国よもやま話
  2. 30. なぜ犯罪組織が人気?~中国起源の任侠道が果たした社会的役割NEW!
  3. 29. 21世紀版のグレート・ゲーム~ウイグルをめぐる情報戦
  4. 28. 現代の屯田兵~新疆生産建設兵団
  5. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
  6. 26. 東トルキスタン独立運動と西側諸国の連帯~ウイグル人が歩んだ歴史
  7. 25. 中国の街で目立つウイグル人~民族移動と人種的変容
  8. 24. チベット発展の秘策とは?~天国に最も近いタックス・ヘイブン
  9. 23. 神秘な世界の複雑な裏側~チベットの“化身ラマ制度”
  10. 22. 人を拒む神秘の地~異質で過酷なチベットの環境
  11. 21. 情報の真偽をめぐる混乱と論争~昔も今も中国は“遠い国”
  12. 20. 隋王朝に始まる中国経済の挑戦~言葉に映る南北の相違と一体化
  13. 19. 黄河文明と長江文明の融合と摩擦~中国の南北対立
  14. 18. 中国南北相違の原点~東アジアで異色な中国北部の小麦食
  15. 17. 漢字は同じでも、ひと味違う~複雑に絡み合う“麺料理”の概念
  16. 16. 現代中国の“漢服ルネサンス”~漢民族の服飾文化の探求
  17. 15. “人民服”の歴史的変遷~国民服から最高指導者の正装へ
  18. 14. 元々同じ圓が結ぶ奇妙な縁~東アジア一円の通貨
  19. 13. 誰もが彼らを無視できない~香港の摩天楼に潜む陰の実力者
  20. 12. 中国の人々を鼓舞する名曲~中国国歌の「義勇軍進行曲」
  21. 11. 伝統的バイオテクノロジーの傑作~茅台酒が高価な理由
  22. 10. 世界に目を向けよう~国際分散投資の魅力
  23. 09. なんでも漢字で表記~奥深い中国語名の世界
  24. 08. 自由を追い求める姿~中国の投資家たち
  25. 07. “口にすべし、楽しむべし”~中国的可楽世界
  26. 06. “いままで”と“これから”~EV投資をめぐる視点の違い
  27. 05. 株式市場を育てる順序~ミャンマーと中国の違い
  28. 04. 対中情報戦の犠牲者~王立強事件の空騒ぎ
  29. 03. 全国展開可能な中華料理~アメリカザリガニの恵み
  30. 02. 強烈すぎるこだわり~中華的な数の世界
  31. 01. イメージの先に在るもの~中国株投資の魅力

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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  1. ~内藤証券アナリストが書く~
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  2. 30. なぜ犯罪組織が人気?~中国起源の任侠道が果たした社会的役割NEW!
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  5. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
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