アフリカを形作った力強い物語(19:54)

ガス・ケイスリー=ヘイフォード(Gus Casely Hayford)
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対訳テキスト
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ヘーゲルはかの有名な言葉を残しました アフリカには歴史がない— 過去 そして物語のない場所である と しかしここまで歴史を大切に育て 歴史のために戦い 一体となって歴史を祝福した大陸は 他にないと思います アフリカの物語を保つための苦闘は アフリカの人々にとって 最も首尾一貫した 苦労した企ての一つであり これからもそうあり続けます 奴隷制度 被植民地化 人種差別 戦争などを 物ともせず 物語をつなぎとめるため 耐え忍んだ苦闘と捧げられた犠牲こそ 私たちの歴史の 底流にある物語です

そして私たちの物語は 歴史から浴びせられた侮蔑の中を 生き抜いただけではありません 多数の物質文化を 芸術的威厳を 知の産物を残しました 世界のどこでも基準となっている方法で 地図を作り 海図を作り 歴史の記録を残しました 重大な影響を与えた ヨーロッパ人の到来より遥か昔 ヨーロッパが未だ 暗黒時代のさ中であった頃 アフリカの人々は 記録技術の先駆けとなり 歴史を育み 物語を継承してゆくために 革命的な方法を生み出していました そして躍動する遺産である 命を持つ歴史は 私たちにとって重要なものであり続けます これは様々な形で現れます

皆さんご記憶かもしれません つい昨年 アルカイダ系組織の アンサール・ディーンのメンバーが 初めて戦争犯罪者として ハーグに送られました その中でも最も悪名高い一人が 若いマリ人の アフマド・アルファーキです 彼が告発されたのは集団虐殺の疑いでも 民族浄化でもありませんでした マリの最重要文化遺産の 破壊工作を 扇動したとして捕まったのです これは単なる破壊行為でも 浅はかな考えによる行動でもありません アルファーキは裁判所で 人定質問の時 こう言いました 「私は大学を出ており 教師として働いていた」と 2012年を通して 彼らはマリの文化遺産を 次々と破壊する運動に関与していました これは想像しうる最も強力な 熟慮の上で行った 戦争行為です 物語を破壊することです ターゲットとしては 9つの霊廟 中央モスク そして4千に及ぶ書物が 狙われていたそうです 物語がコミュニティをひとつにする力を理解し 逆にその物語を破壊することで 1つの民族を破壊しようとしました

しかしアンサール・ディーンとその暴動の 原動力となった物語が強力だったように 地元の人々のティンブクトゥとその図書館を 守る力も 同様に強力でした これらのコミュニティは マリ帝国の物語とともに発展し ティンブクトゥの偉大な図書館の 恩恵を受けて生き 子供の頃からティンブクトゥの 起源に関する歌を聴いてきました そして戦わずして ティンブクトゥを諦めることはしませんでした アンサール・ディーンに侵略された 2012年の困難な期間を通じて マリの庶民は 命をかけて 書物を安全な場所に 隠したり持ち出したりしました 歴史的建造物や 古代の図書館を守るために できることをしたのです 常にうまくいったわけではありませんが 重要な書物の多くは 幸運にも守りぬかれました そしてその暴動で損害を受けた 霊廟のすべてが 今では再建されました 町の象徴的中心である 14世紀建築のモスクもそのひとつですが 完全に修復されました

占領下 最も希望の失われた時期でさえ ティンブクトゥの多くの人々は アルファーキのような男に 屈しませんでした 歴史を消されることを許さなかったのです その地を訪れれば 誰もが理解できます なぜ物語が 歴史が それほど大切なのかということを 歴史はとても大切です その価値は計り知れません 何世紀にもわたって 彼ら自身の物語が 何度も傷つけられるのを見た アフリカの血を継ぐ人々にとって これは極めて重要です このように庶民による 物語と歴史を守る戦いが 歴史にわたり繰り返されました

19世紀 カリブ地方のアフリカ系の奴隷たちが 処罰のリスクがありながら 自分たちの宗教を信仰し 謝肉祭を祝い 歴史を絶やさぬため 戦ったようにです 庶民は歴史のために 大きな犠牲を払う覚悟がありました そのために究極の犠牲を 払った人もいます 最も破壊的な植民政策は 物語をコントロールすることで 実行されました 植民政策の最悪の影響が 感じられるようになったのは 一つの物語が他の物語を 支配することによってです

1874年に英国がアシャンティを攻撃した時 クマシは占領され 王は捕虜となりました しかし彼らは 領地の支配や国王の拘束が 十分ではないことを知っていました 国の感情的な権威は その物語と それを表す象徴にあると 理解していました 黄金の床几のようにです 人々を支配するのに本当に不可欠なのは 物語の支配だということを知っていたのです アシャンティもそれを理解していたため 黄金の床几を手放すことはしませんでした 完全に英国に屈することもしませんでした 物語は大切なのです

1871年 南アフリカを研究していた ドイツの地質学者カール・マウフは 驚くべき石造建築群に 遭遇しました そして彼はそれを 忘れることができませんでした 花崗岩の石組みで 作られた都市— 何もないサバンナの上に露出して 置き去りにされた グレート・ジンバブエ遺跡でした マウフはその明らかに傑出した建築物が 誰によって作られたのか 全くわかりませんでしたが ある一つのことを確信しました この物語の所有者は誰か ということです

のちに彼は グレート・ジンバブエの精巧な建築が アフリカ人が作ったにしては あまりに洗練され 特別なものであると 記述しました マウフは 後に続いた何十人もの ヨーロッパ人と同じように その都市を誰が作ったのか推測しました その内のある一人は 次のような仮定を立てました 「この丘の上の遺跡を ソロモン神殿の複製であると仮定しても 見当はずれではないだろう」 しかし皆さんご承知のように マウフが発見したのは ソロモン神殿ではなく 11世紀以後 アフリカの人々自身によって 建設された まさにアフリカの精巧な 建築物でした

しかし ドイツの人類学者である レオ・フロベニウスは 数年後にナイジェリアの イフェの頭像を初めて見た時 それらが長い間見つかっていなかった アトランティス王国の遺産に違いないと 推測しました ヘーゲルと同じように ほとんど本能的にアフリカから 歴史を奪い取る必要性を感じたのです このような考えは とても非合理的であり とても深く根付いているため 自然考古学の視点からでさえ 彼らは合理的に考えられないのです もはや真実が見えないのです あまりに多くの啓蒙主義ヨーロッパと アフリカの関係がそうであったように これには 大陸の私物化 侮辱 支配が関わり ヨーロッパの目的に沿って 物語を歪曲しようとの企図がありました

「グレート・ジンバブエや偉大な石造建築は どこからやってきたのだろう?」という 疑問に対して もしマウフが 本気で答えを探し求めていたなら グレート・ジンバブエから1,600キロ— インド洋に面するアフリカ大陸の東端から 探求を始める 必要があったはずです スワヒリ沿岸部の大きな商業中心地から グレート・ジンバブエまで 金や物品を辿って この神秘的な文化の 規模と影響力を 感じる必要があったでしょうし 統治下にあった王国や文明を通して 政治的・文化的な存在としての グレート・ジンバブエを 捉える必要があったはずです 何世紀もの間 商人は インドや中国 中東など遠方から この小さな沿岸に 引きつけられました その非常に精巧で美しい建物のためだと 解釈したくなるかもしれません この場所は 単なる美しく 象徴的な存在であり 巨大な儀式用の石像彫刻だと 解釈したくなるかもしれません しかしこの遺跡は間違いなく この地域を千年に渡って 特徴付けた— 重要な経済圏の集合体の核となる 複合施設でした

これは大事なことです これらの物語は大事なのです 現在でさえ 私たちの物語を伝える戦いは 単なる時間との競争ではなく アンサール・ディーンのような 組織との 単なる戦いでもありません 何世紀にもわたる強いられた歴史の後 真のアフリカの声を確立することです 歴史を取り戻すだけでなく ヘーゲルが存在を否定した 知的基盤を取り戻す方法を 見つけなければいけません アフリカの哲学を 視点を 歴史を再発見しなければいけません

グレート・ジンバブエの興隆は 気まぐれで起きたことではありません 大陸全体における劇的な変化の一部を 表したものです その最も顕著な例は スンジャタ・ケイタでしょう おそらく西アフリカにおいて 史上最も壮大な帝国 マリ帝国の創設者です スンジャタ・ケイタは1235年頃生まれ 激動の時代に育ちました 北にはベルベル人王朝の変遷を見 南にイフェ王国の台頭を そして東はエチオピアにおける ソロモン朝の支配について 聞いたかもしれません 加速する変化の真っ只中 アフリカに自信が成長する時代に 生きていたことを 自覚していたに違いありません 遠くは グレート・ジンバブエや サルタン統治下のスワヒリなどの 新しい国家が影響力を増すのに 気づいていたはずです それぞれの国家が 直接ないし間接的に 大陸を越え 知的・文化的遺産を守るため 活発に働いていたのです スンジャタ・ケイタは このような同列の国々と商取引し 中世アフリカ経済という 巨大な集合体の一部に 加わっていたかもしれません

そしてこれらの偉大な帝国のように スンジャタ・ケイタは 歴史を通して遺産を守ることに力を注ぎました 物語を通してです 口承文学という概念に 形を与えただけでなく 物語を伝え 語り継いでいく 習慣自体を確立し 自身の帝国の物語を築く 鍵としたのです このような物語は音楽の形をとって 現在も歌われています

スンジャタの死から数十年後 新しい王が王位を継ぎました 最も有名な皇帝である マンサ・ムーサです マンサ・ムーサは莫大な金の貯蔵や ヨーロッパや中東の王宮に 使節団を送ったことで有名です あらゆる面で前王と同じくらい 野心に満ちていましたが 歴史上で自分の地位を確立するためには 異なる手段を使いました 1324年 マンサ・ムーサは メッカ巡礼の旅へ出ました 何千人もの従者を連れてです 100頭のラクダに100ポンドずつの金を 運ばせたと言われています 記録によれば 道中 金曜日ごとに すぐに礼拝できるモスクを 建てていったとされます 実に様々な善行を施し ベルベル人で偉大な旅行記作者 イブン・バットゥータはこう記しました 「彼はカイロを善行で満たした 北アフリカや中東の市場で あまりに大量の金を使ったため 金の価格に その後十年影響が残った」

帰還すると マンサ・ムーサは巡礼を記念し 帝国の中心にモスクを建設しました これにより彼が残した遺産が ティンブクトゥです これはアフリカの学者によって書かれた 歴史文書の総体を代表する ひとつとなっています 学術書から手紙にまで及ぶ 約70万の中世文書が残っています これらは時に 個人の家庭で保管されました 15世紀から16世紀の最盛期には ティンブクトゥの大学は ヨーロッパのどの教育機関にも匹敵するほど 影響力が強く 約2万5千人の学生が集いました 人口10万人ほどの都市においてです これによりティンブクトゥは 世界的な学びの中心地となりました しかしこれはイスラムが率い イスラムに焦点を当てた とても特殊な学びでした

私はティンブクトゥを初めて訪れて以来 アフリカ中の様々な図書館を訪れました アフリカには歴史がないという ヘーゲルの主観とは裏腹に この大陸には有り余る歴史があると同時に 歴史を収集し促進する 類のないシステムを 生み出した大陸でもありました 何千もの小さな資料保管所や 布地のドラムの保存場所は 単なる原稿や物質文化の 貯蔵庫ではなくなりました 共同社会における物語の源泉であり 継続性の象徴です アフリカの知的伝統に疑問を呈した ヨーロッパの哲学者たちの多くが 自らの偏見の裏では 西洋の学びにおける アフリカの知的貢献に 気づいていたはずです また 彼らは 地中海を率いてきた偉大な北アフリカの 中世哲学者たちにも気付いたはずです キリスト教や三博士の一部である 伝統にも気づいていたはずです 中世には三番目の博士バルタザールが アフリカの王として表されています アジア ヨーロッパと並ぶ 旧世界の知性の3本目の柱として 多大な人気を博しました

これらのことは有名です これらのコミュニティは 独立して発展したわけではありません ティンブクトゥの富と力が発展したのは この都市が利益をもたらす 大陸間の交易ルートのハブとなったからです ここは 国境のない 内部で繋がった 野望に満ち 外向的で 自信に溢れた大陸の中心でした ベルベル人商人は塩と布 そして貴重な新商品や知識を運び 西アフリカへ砂漠を渡りました マンサ・ムーサの死後間も無く作られた この地図からご覧いただけるように サハラ以南の交易ルートとの 繋がりもありました このルートを辿って アフリカの考え方や伝統が ティンブクトゥの知的価値に 加えられたのです ヨーロッパへと 砂漠を越えたルートもありました 書物と物質文化は 共同社会における物語の源泉となり 継続性の象徴となりました 私は確信します 私たちの歴史を中傷してきた ヨーロッパの学者たちは 私たちの伝統について 根本的な知識を持っていたはずです

そして今日 アンサール・ディーンや ボコ・ハラムのように主張の強い組織が 西アフリカで広まっていますが 古来の伝統の有用性を保つのは 真に土着の力強い知的反抗の精神です マンサ・ムーサが ティンブクトゥを首都に定めたとき 彼はこの街を メディチがフィレンツェを 重視したのと同じように捉えました どこが発祥であれ 素晴らしいアイディアが栄え 開放的で 知的で 交易の盛んな 帝国の中心地としてです この都市 文化 この地域の知的遺伝子は とても美しく複雑で多様な姿を保ち それはこれからも その一部分が イスラム前の固有の伝統である 物語の伝承の中に 生き続けます マリで発展したイスラムの成功した形態が 人々に広まったのは そのような自由や固有の文化的多様性を 受け入れたからです この複雑性の祝福 厳しく議論された論考への愛 物語の正しい理解は 今までも そしてこれからも どのようなことがあろうとも 西アフリカの心そのものです

そして現在 アンサール・ディーンにより 破壊された霊廟やモスクが 再建され 破壊を扇動した者の多くが投獄されています 私たちに残されたのは 力強い教訓です 私たちの歴史と物語がいかにして コミュニティの連帯を 何千年にもわたり守ってきたのか 現代のアフリカにとっての 生命線となっているかを教えてくれます そしてもうひとつ この自信にあふれ 知的で 交易力があり 外向きで 文化的吸収力をもち 無関税のアフリカのルーツが かつて世界の憧れであったことも 思い出させてくれます

そしてこのルーツはこれからも残るのです

ありがとうございました

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このプレゼンテーションについて

悠久の歴史の中では、ひとつの帝国ですら忘れ去られることがあります。幅広いトピックに渡るこのトークで、ガス・ケイスリー=ヘイフォードはアフリカの原点にまつわる物語、ほとんど記録されず、失われ、知られることのなかった物語を語ります。謎めいた起源を持ち、高度な建築が今なお考古学者を悩ませ続ける古代都市、グレート・ジンバブエ。ティンブクトゥの伝説の図書館を建てるほど莫大な富を有していたマリ帝国の王マンサ・ムーサの時代。私たちが無意識に見落としてきた歴史の教訓がどれだけあるか、考えてみましょう。

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