紙で出来た避難所(11:42)

坂 茂(Shigeru Ban)
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対訳テキスト
講演内容の日本語対訳テキストです。
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こんにちは。私は建築家です。ただし、世界でただ一人の、紙で建物をつくる建築家です。
こんなボール紙の筒を使います。この展覧会の会場設計が、私が紙管を使った最初の仕事でした。1986年です。
人々が、エコロジーとか環境問題について騒ぎ始めるよりも随分と前に、私は紙管を建物の構造体として使えるように試験を始めていました。新しい材料を建築に取り入れる試験は非常に複雑なものですが、紙管は当初思っていたよりもはるかに強く、防水加工もとても簡単です。さらに、産業資材ですから耐火処理を施すのも可能です。

そして、1990年には仮設建造物を建てました。こちらが最初の紙の仮設建物です。直径55センチの紙管330本と、わずか12本の直径120センチ、つまり4フィートの紙管でできています。この写真にあるように、中にはトイレがあります。もしトイレットペーパーが切れていたら、内壁をはがすことも出来ますから(笑)、とても便利なわけです。

2000年には、ドイツで大きな万国博覧会がありました。
ここの建物の設計を依頼されました。万博のテーマが環境問題だったからです。パビリオンを紙管で建築するために選ばれました。リサイクルできる紙管です。私の設計のゴールは、建物が完成した時ではありません。私のゴールは、建物が解体された時です。というのも、各国がパビリオンを作ればすごい数になって、半年後にはそれが大量の産業廃棄物となるわけですから、私の建物は再利用かリサイクルが可能でなければなりません。
閉会後に建物はリサイクルされました。私の設計のゴールは達成されたのです。

その後、とても幸運なことに、フランスのメスにポンピドゥー・センターの分館を建てるというコンペに勝ちました。
当時、とても貧しくて、パリに事務所を借りたかったのですが手が届かなかったのでパリに学生を連れて行き、自分達でポンピドゥー・センターの屋根の上に事務所を 建てることにしました。私たちは、紙管と木の継手を持ち込んで、35メートルの細長い事務所を完成させました。1円も家賃を払うことなく、6年間そこにいました(笑)。

ただ1つ、大きな問題がありました。事務所は展示の一環でしたから、訪ねて来る友人でさえも入場券を買わされていました。困ったもんでした。
そうして完成させたポンビドゥー・センター・メスは、今では高い人気を誇る美術館です。
私は、政府のために大きなモニュメントを造ったのです。

しかしその時、建築家という職業に私はひどく失望しました。建築家は、人助けもしなければ社会の役にも立っていないのに、特権階級の人たちやお金持ちや政府や開発業者の為に働いているからです。彼らはお金と権力を持っていますが、どちらも目に見えないので、それを示すためにモニュメントのような建造物を我々建築家に作らせるのです。建築家とはそういう職業で、歴史的に見ても、現代においても同じ様な仕組みです。多くの人々が自然災害によって家を失っているというのに、建築家は社会の役に立っていない――そのことに、とても失望していました。

実際のところ、もはや「自然」災害ではないのです。たとえば地震そのもので人は亡くなりません。建物が倒壊するから亡くなるのです。これは建築家の責任です。仮設住宅が必要とされる場に、建築家の姿はありません。特権階級の為に働くことで忙し過ぎるからです。そこで私は考えました。
「建築家と言えども、仮設住宅の建設に関わればいいじゃないか。私たちは現状を改善できる」
こんな理由から、あちこちの被災地で働くようになりました。

1994年に、アフリカのルワンダで大きな災難がありました。フツとツチの2つの種族が武力衝突し、二百万人以上が難民になりました。私は、国連が設営管理していた難民キャンプを見て、非常に驚きました。すごく気の毒な状況でした。雨期で、難民たちは毛布に包まって凍えていました。国連の避難所で支給されたのはプラスチックシートだけだったので、難民はこのように木を切らなければなりませんでした。二百万人以上が木を切ったため、甚大な森林破壊となり、環境問題が起きました。このため、国連はアルミパイプとバラックを支給しましたが、アルミは高価なので、難民はパイプを売ってしまい、また木が切られました。
私は、この事態を改善する為に、リサイクル紙管を使うことを提案しました。紙管は非常に安価で強度があるからです。予算は1軒あたりわずか50米ドルでした。
私たちは、モニター試験用に50軒の小屋を建て、耐久性や防水性能、シロアリ耐性などを調べました

そして翌年の1995年には、日本の神戸で大きな地震が起こりました。7千人近い方が亡くなり、長田区をはじめ、街全体が地震の後の火災によって焼け野原になりました。やがて私は、被災した大勢のベトナム難民がカトリック教会に集まっていることを知りました。教会の建物は全壊していました。

私は現場へ行って、神父にこう提案しました。
「紙管で教会を 再建しませんか?」するとこう言われました。「アホか!火事の後なのに何を考えてるんだ」
彼は全く信じてくれませんでしたが、私は諦めませんでした。神戸に通うようになり、ベトナム人コミュニティの人々と出会いました。非常に粗末なプラスチックシートのテントを建て、公園で暮らしていました。再建を提案して資金集めを行いました。彼らのために紙管で住居を作りました。学生でも簡単に組み立てられ、また解体も簡単にできるようにしました。 基礎にはビールケースを使いました。キリンビールに提供を求めました。というのも、当時アサヒビールのケースは赤色だったものですから、紙管の色とうまく合いませんでした。カラーコーディネートは重要ですよね。
忘れられないのは、そのビールケースがビール入りで来ると期待していたのに、カラで届いたことです(笑)。とてもがっかりしたのを覚えています。
こうして、学生と一緒にその夏のうちに50軒の仮設住宅を建てました。

とうとう神父の信頼も得られ、教会再建について「そちらで資金も人手も用意するならいいですよ」と言ってもらいました。
5週間で教会を再建しました。教会は3年間だけ使われる予定でしたが、人々に愛され、実際には10年間使われました。
その後、台湾で大きな地震があった際に、この教会を寄付してほしいと申し出がありました。教会を解体して台湾へ送り、ボランティアに建ててもらいました。今でも恒久的な教会として台湾に残っています。この建物は恒久的な建物になりました。

となると、何が恒久的で何が仮設なのか疑問がわきます。紙で出来た建物であっても、人々に愛されれば恒久的なものになり得ますが、コンクリート造でも、金儲けの為につくると一時的なものになるのです。

1999年にトルコで大地震が起きました。現地へ行き、地元の材料を使って仮設住宅をつくりました。2001年には西インドでも仮設住宅をつくりました。2004年には、スリランカでスマトラ地震と津波の被害に遭ったイスラム系の漁村の復興建設を行いました。

2008年には、中国四川省の成都で7万人近くが亡くなり、特に多くの学校が倒壊しました。汚職がらみの手抜き工事が原因です。仮設の校舎を建ててくれと頼まれました。日本から学生を連れて行き、中国の学生と一緒に作業をさせて、1カ月後には教室が9つ完成し、面積全体が500平米を超えました。最近また中国で地震がありましたが、校舎は今も使われています。

2009年には、イタリアのラクイラでも大きな地震がありました。これは興味深い写真ですが、ベルルスコーニ前首相と、日本の前の前の前のそのまた前の麻生首相です。ほら、日本では毎年首相を変えないといけませんからね(笑)。お二人はとても寛大で、私の模型を持ってくれました。壮大な復興建築を提案しました。仮設の音楽ホールです。ラクイラは音楽でとても有名な街なのですが、音楽ホールが全て壊れて、音楽家たちが街を離れ始めていたからです。

そこで市長に、仮設の音楽堂の建設を提案しました。「資金が出せるならどうぞ」という返事でした。
そして幸運なことに、ベルルスコーニ首相が現地でG8を開催し、日本の首相も来ていましたが、彼らが資金調達を助けてくれました。日本政府からは、この仮設音楽堂の建設に50万ユーロを出してもらいました。

2010年にはハイチで大地震がありましたが、現地へ直接飛べなかったので、お隣の国の都市、サント・ドミンゴへ行き、そこの学生を連れて、車で6時間かけてハイチに入り、地元の紙管を利用して50軒の仮設住宅を建てました。

これは2年前(2011年)の日本の東北の様子です。地震と津波の後、人々は体育館のような広い所での避難生活を余儀なくされました。プライバシーがないですよね。これでは心身ともに参ってしまいます。私たちは現地へ行き、学生ボランティアと一緒に紙管で間仕切りを作りました。紙管の枠にカーテンを掛けただけの実に簡素な住まいでした。しかし、避難所を管理する側には嫌がる人もいました。理由は「避難者の管理が難しくなる」だそうです。でも、本当に作る必要がありました。

そして現地には、政府が従来使うこんな形の平屋の仮設住宅を建てるほどの平地はありませんでした。見てください。政府主導といっても、仮設住宅はこのように粗末なもので、隣との距離もなく、収納が全然ないため散らかってしまい、雨漏りもしていました「多層の住宅を作らなければ」と思いました。土地は足りないし、住環境も良くなかったからです。

そこで、間仕切りを作っている間に提案しました。宮城県女川町でとても良い町長に出会い、最終的に、野球場に3階建の住宅を建てるよう依頼されました。海上輸送用のコンテナを使いました。また、学生たちの協力を得て家具も全部作り、快適に暮らせるようにしました。政府の予算内に収めただけでなく、従来の基準と同じ広さで、随分と住みやすいものができました。多くの人が 今後もずっとここに住みたがっています。それを聞いた時、大変うれしかったです。

今は、ニュージーランドのクライストチャーチで仕事をしています。日本の地震が起こる20日前、ここでも大地震が起きました。多くの日本人学生も亡くなりました。そして、街のシンボルでもあった、街で最も重要な大聖堂が全壊しました。現地に来て、仮設の大聖堂を建ててほしいと頼まれました。

現在、大聖堂は建設中です。私は、人々に愛されるモニュメントを今後も建て続けたいと思います。
どうもありがとうございました(拍手)

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このプレゼンテーションについて:

サステナビリティが盛んにささやかれるようになるずっと前から、建築家の坂 茂 は紙管や紙などの環境に優しい建材を使う実験を始めていました。彼の手による見事な建造物の多くは仮設住宅として、ハイチやルワンダ、そして日本などの被災地で全てを失った人々を救うために建てられました。しかし、こうした建造物が現地に溶け込み、当初の目的を果たした後も引き続き愛されているということがしばしば起きています。

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