ヤンゴン証券取引所(YSX)の開業式典
(2015年12月9日)
ミャンマーのヤンゴン証券取引所(YSX)は、2015年12月9日に正式開業した。この国では1996年に店頭市場のミャンマー証券取引センター(MSEB)が設けられていたが、証券取引所としてはヤンゴン証券取引所が初めてだった。
このヤンゴン証券取引所の創設には、日本が深くかかわっている。ヤンゴン証券取引所の筆頭株主はミャンマー経済銀行で、その持ち株比率は51%だが、残る49%の株式は日本の法人が保有。持ち株比率は、二位株主の大和総研が30.25%、三位株主の日本取引所グループが18.75%となっている。
ミャンマーに証券取引所を創設するという構想は、1993年に始まったそうで、ヤンゴン証券取引所の開業までに22年を要したことになる。
ミャンマーは2010年に民主化された。日中関係が冷え込んでいることもあり、ミャンマーは“脱中国”を目指すうえでの有望な投資先として、日本でも大々的に報道された。
こうした情勢を背景に、ヤンゴン証券取引所の開業は日本でもかなり注目された。日本がかかわっていることから、報道ぶりも熱気を帯びていた。
そんなヤンゴン証券取引所だが、開業から7年あまりが経つのに、上場企業は2023年3月下旬時点でも7社にすぎない。ちなみに、7社目が上場したのは、2021年2月の軍事クーデターから4カ月後だった。
こうした状況ゆえ、売買代金も微々たるものだ。2020年3月に外国人投資家の売買が解禁されたが、コロナ禍や軍事クーデターの影響もあり、効果はほとんどなかった。
2016年3月25日を1000ポイントとするミャンマー株価指数(MYANPIX)は、2023年3月24日の終値が366.56ポイント。そもそも1銘柄だけしか上場していない時点で株価指数を公表するのには無理がある。1000ポイントを超えた日は十数日しかない。
なぜ、こうした状況になったのか?中国本土に株式市場が誕生した過程を見れば、ヤンゴン証券取引所が低迷している原因も自ずと明らかになる。
成都市工業展銷信託股份公司の株券
1980年6月に四川省成都市の主導で発行
大型ビルの建設資金を調達することが目的だった
株式市場にはプライマリー市場(発行市場)とセカンダリー市場(流通市場)がある。発行市場は企業が株式を発行し、投資家から資金を調達する場。こうして発行された株式を売買する場が流通市場だ。
社会主義の中国本土で初めて“株式”という名の証券が発行されたのは1980年。資本主義の象徴である“株式”という言葉を口にしただけで政治リスクのあった時代だ。
四川省成都市の紅廟子街に誕生した株券闇市
株券とIDカードを手に取引相手を探す人々
闇市は1994年1月に閉鎖された
各地の地方政府は危険を冒しながらも、建設資金を調達するため、中央政府に無断で独自に株式の発行を開始。こうして各地に発行市場が生まれ、株式市場が萌芽した。
発行市場は生まれたものの、取引所は存在せず、投資家が購入した株式を売却するのは一苦労。すると、株式に関心を持つ人々が特定の場所に自然と集まり、そこで売買するようになった。店頭市場や取引所が創設されるまで、こうした“闇市”状態が十年ほど続いた。
静安証券営業部の内部
当時は“世界一小さな取引所”と呼ばれた
発行済みの株式を売買したいというニーズに応え、上海市に政府公認の株式店頭市場が誕生したのは1986年9月26日になってから。繁華街の南京西路にあった10平米あまりの理髪店を改装し、“静安証券営業部”と呼ばれる世界一小さな取引所が開業した。
開業したばかりの上海証券取引所
ホテル「浦江飯店」の孔雀庁を改装した
上海証券取引所が開業したのは、それから4年あまりが経過した1990年12月19日。深圳証券取引所は中央政府の許可を得ないまま、1990年12月1日に試験開業を決行。その後、中央政府の許可を得て、1991年7月3日に正式開業した。だが、上海市や深圳市から遠い地方では、株券の闇市がその後も数年間存続した。
ニューヨーク証券取引所の始まり
すずかけの木の下に集まるブローカーたち
このように、株式市場が生まれる順序は、発行市場が先で、流通市場が後。取引所はなくても、中国に存在した闇市のように、株式の取引は勝手に始まる。どの国でも、最初はそうだった。いまでは世界最大のニューヨーク証券取引所でさえ、1792年5月17日に24人の株式ブローカーが、ウォール街にあった“すずかけの木”に集まることで始まった。建物がなくても、株式の取引は自然発生的に生まれるのだ。
だが、ミャンマーでは順序が逆だ。器を作ったのに、入れる物がない状態。やはり株式市場は順序通りに育成しなければならない。