心臓外科医 須磨久善 先生の人間録
鈴木 章夫先生

鈴木 章夫 先生の思い出

 冠動脈バイパス手術が米国オハイオ州のクリーブランド・クリニックを中心として目覚ましい発展を遂げようとしていた1970年代初頭、一人の日本人が左右両側の内胸動脈を使ったバイパス手術の成功例を米国の著名な医学雑誌に発表した。当時は下肢の伏在静脈を使ったバイパス手術が主流で、胸壁からの剥離に時間がかかって扱いにくい内胸動脈を使用する心臓外科医は極めて少なかった。内胸動脈が長期開存性に優れた最も信頼できるグラフト血管であると証明されたのはそれから10年以上後の1980年代後半のことである。しかも、内胸動脈を使うとしても左側の一本を前下行枝につないで、残りの冠動脈は伏在静脈を使ってバイパスすることが基本だった。しかし、その論文は43症例に左右の内胸動脈を使って拡大鏡を使わずに冠動脈との吻合に成功したことを明らかにしていた。その著者、鈴木章夫博士こそ後の順天堂大学心臓外科教授で私に心臓外科の手ほどきをして下さった恩師である。

 鈴木先生は東京医科歯科大学を卒業された後、米国に渡られて1958年からオハイオ州クリーブランドにあるセント・ヴィンセント・チャリティー病院の著名な心臓外科医Kay教授に師事された。当時は人工心肺が開発されて間もない時期で心臓外科の創世記だった。ミネソタ大学のジョン・ギボン博士の努力によって開発された人工心肺を使って史上初の体外循環下の心臓手術に成功したのが1953年のことで、それからまだ5年しか経っていない頃のことである。鈴木先生はまだまだ改良の余地があった人工心肺に新たな発想を盛り込んでKay-Suzuki型の人工心肺を発表してその名を世界に知らしめた。その後も心臓弁膜症の手術に使用する人工弁の開発に成功し、Kay教授の右腕として辣腕をふるっておられた。丁度その頃、前回このコラムで紹介した私の母校の恩師、武内敦郎先生が最先端の心臓外科を習得すべくKay教授のもとに留学されたのだ。そこで親交をかわされたお二人が私の恩師となるというのも縁というほかはない。

 1968年、鈴木先生は数々の優れた業績が認められてミシシッピ―大学の心臓外科教授に抜擢された。日本人が米国で心臓外科の教授になることは極めて異例のことだった。そして1974年、15年余りの米国生活を終えて順天堂大学胸部外科教授として帰国した彼は、日本の心臓外科の黎明期をリードすることになる。

「それで君は医者になって4年も経ってから心臓外科を勉強したいというのかね? 厳しいよ、この道は」
 教授室で対面した私に向かって鋭い眼差しで鈴木先生が言った。1978年の春、虎の門病院で4年間の一般外科研修を終えた私は心臓外科医になる決心をして鈴木章夫教授室を訪れていた。その時私は二十八歳、鈴木先生は四十八歳だった。
「はい、そう決めました。ただ、虎の門病院には心臓外科がなかったのでこの4年間心臓外科の勉強は何もしておりません。まったくゼロからのスタートなのですぐにお役にはたてません」
「そうか、その気があるなら来てもよろしい。ただし、大学助手のポジションは埋まっている。研究生という立場で給料はなし。それでいいかね?」
 虎の門病院のチーフ・レジデントとしてそれなりの給与を得て、しかも来季から外科のスタッフとして残らないかとの魅力的なオファーを受けていた私にとって、この落差は大きかった。
「結構です。よろしくお願いいたします」
 無給だって? 帰って妻と相談してから決めようかな、と思う前に言葉が先に出てしまった。三十前の男が文無しの生活に戻るとは。妻が呆れたことは言うまでもない。

 その年の4月から順天堂への通勤が始まった。手術室に入ると人工心肺装置がまず目に入る。医学生時代の実習以来見たことのない代物だ。人工心肺とはその言葉通り心臓と肺の肩代わりをする装置で、右心房から静脈血を吸引して酸素を吹きつけて動脈血にして大動脈に注入する。話は簡単だが操作を誤ると手術中の患者の命にかかわる。現在ではその操作はME、すなわち医療工学士が操作するのが常となっているが、当時は心臓外科医の基礎修練の一つであり、まずはその装置の扱いを学ぶことが第一歩だった。

「これが静脈血を吸引する脱血管、このチューブを通って血液がオキシジェネーターに入り、酸素化された血液がリザーバーに溜まります。これをローラーポンプを回してこの送血チューブから大動脈に送り込みます。送るスピードが速すぎるとリザーバーが空になって身体に空気を送り込むので危険。遅すぎると身体に十分な血液が回らなくて危険。そして、この回路を血液が流れると当然異物反応をおこして血液が固まって血栓ができるので、その予防としてヘパリンを適宜注入して血液凝固を防がないと危険。・・・・」
 私に説明する医者は卒後1年目の若者だった。真剣に耳を傾けるが専門用語の意味すらわからない。これまでの4年間は全く無駄だったのだろうか? とんでもない遠回りをしてしまったのだろうか?焦燥感が私の胸をよぎった。

 年下の胸部外科医局員達の冷ややかな眼差しに耐えながら一つずつ基礎を学びつつ、心臓の手術に参加する機会が増えていった。鈴木教授はあらゆる手術に長けておられたが、何といっても評価が高かったのは当時ようやく日本でも注目され始めていた冠動脈バイパス手術だった。詰まりかかった冠動脈をバイパスして心筋梗塞を未然に防ぐというこの劇的な効果を発揮する画期的手術は、私にとって恐ろしく魅力的だった。この手術を自分のライフワークにしよう、そう心に決めた。

武内 敦郎先生 当時の順天堂での冠動脈バイパス手術は年間50-60例ほどで、国内ではトップレベルの数だった。現在では一日に2-3例、年間200例を超すバイパス手術を行っている病院は幾つもあるが、当時はまだ日常的な手術とはいえず、手術時間も今よりは遥かに長くかかって一日仕事だった。助教授を含めて医局員は誰もこの手術の執刀を許されず、すべてが鈴木教授の執刀によるもので、私のような初心者の役割といえば下腿からバイパス用の伏在静脈を採取して丁寧にトリミングし、心臓の手術が始まると看護師から手術道具を受け取って教授に手渡すといったことでしかなかった。内胸動脈でその名を売った鈴木先生がなぜ伏在静脈を使ったのかと疑問に思われる方もおられるかもしれないが、帰国してまずは安定した手術成績を示すことが肝要と考えた彼は、米国人に比して遥かに体格の小さな日本人に対するバイパスに扱いやすい伏在静脈を使用したのだろうと推測出来る。実際、日本で内胸動脈がバイパスに使われはじめたのは1980年代後半で、前国立循環器病センター総長の北村惣一郎先生と筆者が学会で発表を行ったのが先駆けだった。従って、私が順天堂に勤務していた当時は国内の病院でバイパスに伏在静脈を使用するのが常だった。

「俺たち、このままだと血管採りと術後管理の専門家で終わってしまうのかもしれないな」
 深夜のICUで手術後の患者の容態を監視しながら同僚の医者がつぶやいた。手術は大抵夕方までかかり、ICUに収容したあとも術後の出血、不整脈、心不全の管理が翌日まで続く。翌朝、状態が安定していれば麻酔から覚ませて人工呼吸器を取り外す。ここまでくればまずは一段落なのだが、なかなかいつも順調に運ぶとは限らない。一晩じゅうモニター画面を見守り、血圧の変動や出血の増減に一喜一憂する日々だった。自分が受け持った患者の手術後は2-3日は病院を離れられない。それに加えて定期に当直が入る。家に戻れるのは週の半分、重症患者の手術だと1-2週間は病院泊まりのこともある。

「そうだな、自分で手術した患者ならともかく、ずっとこれじゃ見通し暗いね。いつになったら自分で執刀出来るのかな?」
 そう言いながら、助教授すら任せてもらえないバイパス手術を下っ端の助手などに執刀させることなどこの病院ではあり得ないだろうと私は思った。

 入局して4年が経ち、医学部を卒業して8年が過ぎた。鈴木教授は心臓外科の歴史や外科医の心構えをよく私に語って下さった。人真似を避け、自分のアイデアを大切にすることの重要さを説き、学会発表や論文を書くことも丁寧に指導してくださった。記憶に残っている言葉がある。
「須磨君、君は他人が書いた教科書を読むだけの医者になるのかね。それとも教科書を書きかえる医者になりたいのかね?」
 なれるものなら後者になりたいと思った。がしかし、そのためには自分で手術をして一人前の心臓外科医にならなくてはその可能性はない。そこである日、どうしても訊きたかった疑問を口にした。
「なぜ部下にバイパス手術を任せないのですか?」
「まだその余裕はない。順天堂が日本一になるまでは他人に任せることはできない。それが私の使命なのだ」
 彼は私の顔をちらりと見て言った。お前の気持ちはわかっている。だが私の立場も理解してほしい。彼の目がそう言っているように感じた。

 翌年、鈴木先生は母校の東京医科歯科大学の教授として移られることが決まった。私も母校の大阪医科大学に戻ることに決めた。1986年、私が世界に先駆けて胃大網動脈を使った冠動脈バイパス手術の成功を発表した際、報道機関からの要請を受けて鈴木先生がその術式に対するコメントをして下さった。「教科書が書き変わる日が来るでしょう」と。

 1994年、私はローマのカトリック大学心臓外科教授として赴任し、「最先端の冠動脈手術」と題した国際学術会議を主催した。私の招待に応じてローマを訪れて下さった鈴木先生の満面の笑みは今も忘れることが出来ない。

 鈴木先生は1995年から12年間の長きにわたって東京医科歯科大学学長を務められ,紫綬褒章、文化功労者などの栄誉を受けられた。日本の心臓外科を世界レベルに近づけて下さった第一人者である。2010年に80歳でご逝去された。心からご冥福をお祈りする。
須磨ハートクリニック院長・心臓外科医
須磨久善 先生
1974年3月     大阪医科大学卒業
1974年4月     虎の門病院 外科レジデント
1978年4月     順天堂大学 胸部外科
1982年7月     大阪医科大学 胸部外科
1984年1月~6月  米国ユタ大学 心臓外科 留学
1989年2月     三井記念病院 循環器外科科長
1992年5月     三井記念病院 心臓血管外科部長
1994年8月~    ローマカトリック大学心臓外科客員教授
1996年10月     湘南鎌倉総合病院 副院長
1998年1月     湘南鎌倉総合病院 院長
2000年5月     葉山ハートセンター 院長
2005年4月     (財)心臓血管研究所 スーパーバイザー
2012年4月     須磨ハートクリニック 院長
・米国胸部外科学会 (American Association for Thoracic Surgery:AATS)
・米国胸部外科学会 (Society of Thoracic Surgeons:STS)
・欧州胸部外科学会 (European Association for Cardiothoracic Surgery:EACTS)
・国際心臓血管外科学会(International Society for Cardiovascular Surgery:ISCS)
・日本冠動脈外科学会(理事)
・日本冠疾患学会(理事)
・日本心臓血管外科学会(評議員)
・日本心臓病学会(評議員)

兼任
・順天堂大学心臓外科客員教授
・香川大学医学部医学科臨床教授
・大阪医科大学アドバイザー

海外・国内での学会発表多数。心臓手術症例を5000以上経験し、1986年に世界に先駆けて胃大網動脈グラフトを使用した冠動脈バイパスを開発し、各国で臨床応用が広まる。1996年、日本初のバチスタ手術を施行。以後拡張型心筋症に対する左心室形成術を多数行う。海外での公開手術多数。「プロジェクトX」、「課外授業-ようこそ先輩」(NHK)などで紹介。テレビドラマ「医龍」、映画「チームバチスタの栄光」等の医療監修を行う。2010年、海堂 尊原作をもとに須磨の功績を描いた特別ドラマ「外科医 須磨久善」が放映。同年、日本心臓病学会栄誉賞受賞。 2012年、自著「タッチ・ユア・ハート」を講談社から出版。

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