第2回

ドイツ留学で得た
かけがえのない宝物

2017.11.1(Thu)

師匠と同じ国に留学する

― 稲木先生がドイツに留学されたのは2004年ですね。

稲木
海外で学んでみたいと学生の頃から何となく思っていたんですが、具体的な情報が全くない状況でした。医師になって4年目に大学病院に戻ってきたので、国際学会で発表させてほしいと嘆願したんです。2000年にオランダのマーストリヒトであった国際学会に初めて連れていっていただき、英語で発表する指導も受けたのですが、そのときはただの棒読み状態でした。質疑応答も全く分からなかったので、サポートをいただいたんです。そこからのスタートですが、一から全て教わりましたね。

― 金平先生からの教えで印象に残っていることはどんなことですか。

稲木
外国人とのコミュニケーションの仕方ですね。手術などではなく、外国の外科医とどう交わっていくかということです。僕自身は国際経験をさせていただいたことで、物凄く変わりました。あの場所に行かなかったら、今の僕はなかったかもしれません。もちろん、半分外国人のような金平先生と日本にいても変わったかもしれないけれど、レールがあったので、そこに思い切り乗せてもらおうと思いました。ほかの国とも迷いましたが、日本の外科の歴史はドイツの強い影響を受けたところから始まっていますし、そういう王道でもあり、金平先生という師匠が行って経験してきたことを僕も経験したかったというのがドイツを選んだ、大きな理由です。
金平
当時、留学というと、多くの人は臨床ではなく、ラボでの実験をしていました。外科医でもラボにこもって、試験管を振り、学位論文などのペーパーを書いたり、色んな資格を取ったりして、帰国していました。そういう目的ももちろんあっていいのですが、僕はそれだけではないだろうと思っていたんです。日本が国際化する中で、国際的に通用する、強い日本人外科医が一人でも増えてほしかった。僕自身はそんな理想的な外科医ではないけれど、ドイツに留学したときはそうあるべきだと強く感じていたので、海外に送り出す若者にはいつもそういう言葉を贈って、見送っていました。それができそうな人を選んで、発破をかけていたんです。稲木はもともと強さと優しさを兼ね備えた男でしたので、絶対にそれをやってくれるし、さらには世界に通用するレベルになってほしいと思っていたんです。「論文を何本書いたら、合格ですか」と聞いてくる人もいますが、そうではありません。論文なんて1本も書かなくてもいいから、ケンカしたり、一緒に泣いたり、国際学会で会ったときに「おー」と言ってハグできるような友達を何人作ったかが留学の勲章なのだと、稲木に言いました。

金平先生・稲木先生

― 英語圏でないところへの留学はハードルが高くありませんでしたか。

稲木
学生時代に第二外国語でドイツ語を選択していたので、文法は試験などのレベルではクリアしていましたが、実際に行ってみると、会話やコミュニケーションはなかなかできないんですね。そこで留学先の教授の計らいもあり、最初の3カ月は午前中は語学学校に通うことにしました。東欧などのヨーロッパの各地から来ている学生さんやドイツ人と結婚している奥さんとか、僕からすればかなり年下の若い人たちと一緒にドイツ語を学んだのですが、会話は彼らの方がはるかに得意です。でもペーパーテストでは僕が一番なんですよ。そういうギャップの中で悔しい思いをしながらの毎日でしたが、向こうに行ってしまえば、必要にかられて喋れるようになりました。ラボには英語を話せる人はいますが、やはりドイツ語で話さないと心って通じ合わないんです。そう考えて、まずはドイツ語をと思いました。2年間いたので、日常的な会話は十分できるようになりました。それによって、語学体系が頭の中で整理され、引っ張られていったのか、英語の発表もうまくなったのは良かったです。

言葉の壁をクリアする

― 言葉の壁を感じて、留学を踏み止まっている方にアドバイスをお願いできますか。

金平
稲木が言ったように、文法の筆記試験で点数を取るのも大事かもしれませんが、やはり体当たりの英語が必要です。ディスカッションになったときに、うまく表現できないからといって黙り込んでしまったり、曖昧なままなのに、それでいいやと終止符を打つのではなく、これだけは絶対に主張したいということを、滅茶苦茶な文法でもいいし、単語を知らなければほかの単語の寄せ集めでもいいから、何とか表現するのが体当たり英語です。中学2年生レベルの英語で十分ですから、体当たりしろと言いたいですね。僕も英語はそんなに得意ではなく、文法も滅茶苦茶だと思うんです。ブロークンイングリッシュと言われるかもしれないけど、体当たり英語で友達も沢山できたし、通じ合えるものが生まれるはずです。稲木もそういう僕の姿を見て、どんどんうまくなって、強くなっていきました。
稲木
まさに、その通りですね。僕も流暢な会話ができているわけではないですが、相手に分かってもらおうという気持ちが強かったのが全てだと思います。最近の医学生や研修医は医学教育の中でそういう土台を作っているし、海外経験者も増えてきたけれど、自分が今、やっていることを相手にうまく話せるかどうかは別問題です。下手でも、伝えようという思いが強い人ほど、コミュニケーションができていますね。もちろん、それで流暢に話せれば鬼に金棒ですが、英語をとにかく話そう、伝えようとする力を持ってほしいです。

稲木先生

― 金平先生はイタリア語もおできになるんですよね。

金平
できるというレベルではないですが、好きなんです。そもそも外国語が苦手だったのが、ドイツに行って、ドイツ語を学んだところから、英語以外の外国語もこんなふうに身につけられるんだと分かり、それで興味を持ちました。ヨーロッパの人はとても器用で、友人の中にも英語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語と何カ国語も話せる人がいます。そんな人たちに影響を受けましたね。医学、特に解剖に関する言葉はラテン語で、それは僕らも勉強していますが、ラテン語はイタリア語と似ているんです。そんなこともあって、イタリアに行ったことのある日本人から教えを受けました。イタリア語会話教室で、僕、稲木、木下の3人でセミプライベートレッスンを受けたんです。僕はルチアーノ、木下はロレンツォという名前が付けられました。稲木はアントニオです。猪木と稲木が似ているから、アントニオ(笑)。1年弱ほどレッスンを受けましたね。お蔭でイタリアに行っても多少はイタリア語を話せますし、タクシーの運転手にぼったくりされることもないです(笑)。レッスン、楽しかったよね。※木下敬弘先生/国立がんセンター東病院
稲木
楽しかったですね。
金平
ELKは「Endosurgery Lab Kanehira」の略なのですが、Eiji KanehiraのミドルネームがLucianoだから、そのLでもあると言っていました(笑)。

ドイツでの医療機器の開発

― 稲木先生はドイツで医療機器の開発にも携わられたんですね。

稲木
僕が行った頃にドイツの師匠であるブエス教授が新しい鉗子を開発されたんです。日本のからくり人形のように、先端が自由に動くロボットのような鉗子です。電動ではなく、マニュアルのギア駆動でした。それを臨床に使うという時期でしたので、「この手術に使える」といった流用性があるのかなどを実験して評価するという仕事に携わったんです。金平先生はTEMを日本に導入するという仕事をされたので、僕はこの機械を是非、日本に導入したいと思いました。その後、色んな企業の方々とやり取りをして、日本に導入したというところまで漕ぎ着けました。

― そのお仕事はいかがでしたか。

稲木
面白かったですね。日本の師匠がやってきたようなことを僕もできたんだということが非常に誇らしかったです。これは絶対にやるべき仕事なんだと思っていました。
金平
医工連携という言葉は今でこそ普遍的に使われるようになっていますが、当時はまだその言葉はなかったように思います。機器の開発に対して、自分にアイディアがあったとしても、どういうふうにスタートをして完成にもっていくかという方法論が分からない中で、ドイツの師匠は着実に進めていたんです。師匠はそれをいくつも実現して、イノベーターだと呼ばれていましたが、その姿に僕も影響を受けましたし、木下にも稲木にもこういう道を歩んでほしいと願いました。臨床もたっぷりやってほしかったですが、機器開発もしてほしいと話していたんですが、稲木は僕の期待をはるかに上回るレベルで見事にやってくれました。

金平先生

― 稲木先生のなさったお仕事のどんなところがすごいのですか。

金平
商品名はラディウス(Radius Surgical System)というものです。ダ・ヴィンチの電気仕掛けがメカニカルにできるようになっているんですが、それができたのは良くても、どんなふうにもっているのかが未知数だったんですね。未知数だと、人を説得できません。稲木はボックスの実験を行い、今までの鉗子ではできないことが、これを使えば、こんなに良くなるという数字を出しました。その手法が素晴らしいんです。人を科学的に説得する力のあるデータを出してきたのは嬉しかったですし、ブエス教授もとても喜んでいました。臨床が忙しいと、そういったところにエネルギーが回らないんですが、忙しい中でも結果を出したのがすごいです。
稲木
そういう性格だっただけかもしれませんが、機械がもともと好きなんですよね。男の子ですから、メカ好きなんです。今は一眼レフデジタルカメラが趣味ですしね(笑)。
金平
クリエイティブなんですよね。何かを模倣するのではなく、何もないところから、何かを生み出す力を持っている。

― 芸術家でいらっしゃるんですね。

金平
そうです。稲木はアーティストですよ。クリエイティブなところが彼の一番の魅力です。今から思えば、最初からそうでした。でも、それが開花するきっかけになったのはブエス教授と出会ったことだよね。
稲木
その前に金平永二という外科医と出会ったんですよ。金平先生とブエス教授がドイツでビールを飲んでいる写真を学会で拝見したことがあります。「2人のmaverick」といって、異端児ふうの2人を紹介した写真でしたが、世界の内視鏡外科に大きな影響を与えた2人の師匠が僕の一生の師匠だということが全てです。

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  • プロフィール
    金平 永二
    (かねひら えいじ)

    メディカルトピア草加病院 病院長
    AMG内視鏡外科アカデミー 代表

【略歴】
京都府出身。1985年に金沢大学を卒業し、金沢大学医学部附属病院や関連病院で外科の研修をする。1991年から1992年までドイツTuebingen大学医学部外科 Gerhard Buess教授の指導のもと、内視鏡外科手術を学ぶ。2002年4月からフリーランス外科医として、患者や病院からの依頼を受け、内視鏡外科手術を行った。依頼手術を行った病院は全国60カ所以上にのぼる。2008年12月に上尾中央医科グループでAMG内視鏡外科アカデミーを発足させる。2012年1月に同グループが新たに建設したメディカルトピア草加病院に院長として着任。また、内視鏡外科道場「アミーサ」を主宰し、若手医師を育てている。

【資格】
日本外科学会専門医
日本消化器外科学会指導医
日本消化器内視鏡学会指導医
日本内視鏡外科学会技術認定医 など。

  • プロフィール
    稲木 紀幸
    (いなき のりゆき)

    石川県立中央病院消化器外科診療部長
    金沢大学先進総合外科臨床准教授
    金沢医科大学一般・消化器外科非常勤講師

【略歴】
1971年福井県生まれ。1997年に金沢大学を卒業し、第一外科(現 先進総合外科)に入局し、金沢大学医学部附属病院で研修医となる。 2004年6月にドイツTuebingen大学医学部外科最小侵襲外科部門 のGerhard Buess教授の指導を受けるほか、、新しい内視鏡手術機器の開発など、様々な活動を展開。 2006年の帰国後は金沢大学大学院医学研究科地域医療学講座助手を経て、2007年に石川県立中央病院消化器外科診療部長に就任。
また、金沢医科大学一般・消化器外科非常勤講師と、2017年からは金沢大学先進総合外科臨床准教授を併任している。

【資格】
日本消化器外科学会がん外科治療認定医・専門医・指導医
日本消化器内視鏡学会専門医・指導医・学術評議員
日本がん治療認定医機構認定医・暫定教育医・暫定胃腸科指導医
日本消化器病学会専門医
日本内視鏡外科学会技術認定医・評議員 など多数。

内視鏡道場 AMESA(アミーサ)

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