2020.06.25|text by 内藤 毅

第2回

『トリブバン大学
医学部付属病院で
眼科を立ち上げる』

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トリブバン大学医学部付属病院で眼科を立ち上げる

ネパールにいらっしゃるにあたり、どのような準備をなさったのですか。

私にとって初めての海外で、しかも一人旅でした。何も分からないので、不安でしたね。まだ独身でしたので、ネパールに行く直前に両親に伝えたのですが、両親もとても驚いていました。戦前の人間ですから、我が息子を戦地に送り出すかのような雰囲気でしたね(笑)。ネパールで何をするのかといった情報すらありませんでしたので、準備と言っても観光ガイドブックを読むぐらいでした。

トリブバン大学はどのような大学なのですか。

ネパールの国立大学で、ネパールでは最も大きな大学です。私が行く直前に、日本のODAで医学部に付属病院ができ、ネパールでの医学教育がスタートしました。それまでネパールでは医師を養成できず、医師になるためにはインドやロシアなどの外国に行く必要がありました。私が最初に行った1984年当時も医師数はまだ少なく、600人弱でした。その中で、眼科医は20人ほどだったでしょうか。そこで、眼科のウパダイ教授と私、2人の若い医師で眼科診療や眼科の医学教育を始めることになりました。私も29歳になったばかりでしたが、ネパールの医学部初の外国人教官でした。

どのような仕事から始められたのですか。

付属病院での眼科の立ち上げです。眼科の診療システムをウパダイ教授と一緒に作っていきました。日本のODAにより、JICAから供与された医療機材や物品の確認もありました。人がいないので、そうした整備も私の仕事でしたね。医療機材に不備なところがあれば使えないので、私が組み立て直したりもしました。ウパダイ教授のお宅のホームステイし、普段は大学病院に通っていたのですが、要請があればカトマンズ近郊のクリニックに行ったり、ほかのクリニックから依頼された手術をしに出向くこともあり、忙しかったです。

どういったことに苦労されましたか。

言葉の問題です。私がネパール語を片言で話しても通用せず、理解していただけないことばかりでした。そこで、私は英語で話し、現地の方に通訳してもらっていました。こちらの方が楽でしたね。

今はネパール語はいかがですか。

今も片言です(笑)。英語の方が楽ですね。ネパールでは小学校でも英語を教えているところがあったり、英語だけで教育する学校もあるので、ネパールの方々は日本人以上に英語を話せます。医師は皆、英語を流暢に話しますよ。

ほかに苦労したことはありますか。

当時は今ほど情報がなかったので、情報がなかったこと、それからモノがないことも辛かったです。日本ではすぐにできることがネパールでは1、2時間かかることもありました。例えば、ネジを締めるドライバーがないと、「ドライバーはどこ」から始まるわけです。だから、今でも私の旅行バッグにはドライバーをはじめ、色々な工具が入っているんですよ(笑)。挫けそうになったことももちろんあります。でも、何かの物事に取り組むときに失敗するのは当たり前なのです。それをフィードバックしていくことが重要であり、失敗したことをもとにさらに頑張っていくといければいいのだと捉えています。

海外で思うようにいかないときのストレス解消法を教えてください。

海外の中でも何もないような場所だと、一番いいのは現地の自然を感じながら空気を吸うことです。ネパールだとヒマラヤが見えますし、モザンビークのアイキャンプをしているところは自然が豊富なので、綺麗なビーチがあります。そして、子どもたちが元気に遊んでいます。日本ではそうした光景が少なくなってきただけに、泥んこになって遊んでいる海外の子どもたちを見ると、自分の子どもの頃を思い出しますね。元気にもなるし、ストレスも発散されます。

アイキャンプ

アイキャンプをどのように始められたのですか。

当時はインドやネパールの僻地では眼科医がいなかったので、アイキャンプ自体は私が行く前から行われていたのです。眼科医がおらず、交通手段もないので、眼科医の方から出向いていたんですね。私もネパールの眼科医から誘われて、アイキャンプに行くことになりました。山岳地帯もインド国境も何度も行きましたが、僻地に行くと、その人が歩いていける範囲がその人の一生の生活の範囲なのだと実感します。私たちは車で移動するのですが、山に行くと車が入れませんから、車から降りて歩くこともありました。医薬品は目薬を中心に、日本からのものをバッグに詰められるだけ詰めて、持っていっていました。白内障の手術道具も1セットぐらいは持っていきました。

ネパールならではの眼科疾患はあるのですか。

当時のネパールでは栄養状態が良くなかったので、日本では見たことのないようなビタミンA欠乏症がありました。教科書では知っていましたが、実際に見るのは初めてで、日本の大先輩に聞いても、診たことがないと言われました。しかし、最近のネパールでビタミンA欠乏症を診ることはほとんどありません。

手術は白内障が中心ですか。

発展途上国の失明原因の一つが白内障だと言われていますが、ネパールでも同様です。発展途上国は紫外線が強いところが多く、その影響を受けているんですね。紫外線が強いと、水晶体のタンパク質を傷つけるので、水晶体が白く濁り、白内障になります。貧困の患者さんも多く、医師数が少ないので、診療を受けられなかった人が大勢いました。そこで、白内障が進行して失明する前に、水晶体の代わりに人工レンズを入れる手術をします。手術の手技自体は日本と変わらないのですが、そのための装置が違います。僻地では電源が確保しにくいので、ガソリンで動かす発電機が必要です。また、手術では細かい作業が必要なので、手元を明るくするために大型の懐中電灯を使ったこともありました。懐中電灯は電池式ですが、現地の電池は寿命が短いので、日本から大量の乾電池も持っていっていました。これがとても重くて、海外で医療活動をするのは体力勝負なのだと実感しました。

それは大変ですね。

しかし、白内障の手術をすると、患者さんの視力は劇的に変わり、よく見えるようになります。アイキャンプでは1日に何十件もの手術をするのですが、患者さんからの感謝の言葉をいただくと、疲れが飛びましたね。

ネパールでの最初の滞在は半年間だったのですね。

そうです。日本に帰ってからは臨床に加え、研究生活も送っていたので、かなり忙しくしていました。ネパールの教授やスタッフから連絡はありましたし、学会などで海外に行った際にネパールに立ち寄ることはありましたが、ネパールで仕事をする機会はしばらく途切れました。その間にアメリカに留学もしました。ネパールに再び行くようになったのは2000年頃です。

著者プロフィール

内藤毅教授 近影

著者名:内藤 毅

徳島大学国際センター国際協力部門 特任教授

  • 1955年 徳島市で生まれる。
  • 1981年 徳島大学を卒業する。
  • 1981年 徳島大学医学部眼科学教室に入局し、徳島大学医学部附属病院(現 徳島大学病院)で研修を行う。
  • 1982年 高知県農協総合病院(現 高知県厚生農業協同組合連合会JA高知病院)に勤務する。
  • 1983年 徳島大学医学部眼科学教室の助手に就任する。
  • 1984年 トリブバン大学(ネパール)講師に就任する。
  • 1988年 医学博士号を取得し、徳島大学医学部眼科学教室講師に就任する。
  • 1988年 文部省(現 文部科学省)在外研究員としてカリフォルニア大学サンフランシスコ校・プロクター眼研究所に留学する。
  • 1989年 帰国し、徳島大学医学部眼科学教室に帰任する。
  • 1997年 徳島大学医学部眼科学教室助教授に就任する。
  • 2007年 徳島大学大学院ヘルスバイオサイエンス研究部眼科学分野准教授に就任する。
  • 2015年 徳島大学国際センター国際協力部門特任教授に就任する。
資格・所属学会

日本眼科学会指導医・専門医、日本網膜硝子体学会PDT認定医など。American Academy of Ophthalmology(AAO)Association for Research in Vision and Ophthalmology(ARVO)、日本眼科手術学会、日本糖尿病眼学会、日本眼感染症学会、日本眼炎症学会、日本角膜学会、日本弱視斜視学会、日本眼内レンズ屈折手術学会、抗ウイルス療法研究会にも所属する。

バックナンバー
  1. 内藤教授が語る海外での眼科医療ボランティア
  2. 05. 人材を育てる
  3. 04. モザンビークでの医療支援
  4. 03. アメリカに留学する
  5. 02. トリブバン大学医学部付属病院で眼科を立ち上げる
  6. 01. 新型コロナウイルスの眼科への影響

 

  • Dr.井原 裕 精神科医とは、病気ではなく人間を診るもの 井原 裕Dr. 獨協医科大学越谷病院 こころの診療科教授
  • Dr.木下 平 がん専門病院での研修の奨め 木下 平Dr. 愛知県がんセンター 総長
  • Dr.武田憲夫 医学研究のすすめ 武田 憲夫Dr. 鶴岡市立湯田川温泉リハビリテーション病院 院長
  • Dr.一瀬幸人 私の研究 一瀬 幸人Dr. 国立病院機構 九州がんセンター 臨床研究センター長
  • Dr.菊池臣一 次代を担う君達へ 菊池 臣一Dr. 福島県立医科大学 前理事長兼学長
  • Dr.安藤正明 若い医師へ向けたメッセージ 安藤 正明Dr. 倉敷成人病センター 副院長・内視鏡手術センター長
  • 技術の伝承-大木永二Dr
  • 技術の伝承-赤星隆幸Dr