1550年代にポルトガル人の居留地となったマカオは、1630年代に“黄金時代”のピークを迎え、その後は約2世紀にわたる衰退期を迎えた。この長い衰退期の間、ポルトガル王国の海外領土は次々と新興国のオランダに侵略され、マカオはアジアで孤立。ポルトガル王国の視線は富を生み出すブラジルに向かい、アジアへの関心は薄れた。そうしたなか、ポルトガル王国は大地震に見舞われたうえ、内憂外患に翻弄される。
マカオの衰退期は特筆すべきことが少ない。今回は日本ではなじみの薄いポルトガル王国の歴史を中心に、近世から近代にかけての欧州やブラジルなどを扱った内容となる。中国とは無関係の話だが、激動した当時の国際情勢は、今日の世界の“底流”でもあり、知っておいて損はないだろう。
マカオの衰退
鎖国時代の長崎湾と出島(中央下)
中国のジャンク船(中央と左)とオランダ船(右)
ポルトガル船は姿を消した
16世紀中葉に始まった日本とポルトガル王国の南蛮貿易は、1639年の第五次鎖国令を受け、終焉を迎えた。南蛮貿易の拠点として繁栄していたマカオにとって、大きな打撃だった。
喝采を浴びるジョアン4世を描いた絵画
ヴェローゾ・サルガドによる1908年の作品
その直後の1640年12月にブラガンサ朝ポルトガル王国のジョアン4世が再独立を宣言し、スペイン王国との同君連合が解消すると、マカオとフィリピンの貿易も中断を余儀なくされた。
1644年3月には明王朝が滅亡。満州族の清王朝が、この年の6月に北京を占領し、明王朝の残存勢力である南明王朝への討伐を始めた。マカオは南明王朝を支援したが、1651年1月に清王朝に帰順。清王朝はポルトガル人のマカオ居留権を安堵した。
こうしたなか、ポルトガル王国がアジアに確保した海外領土は、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)のオランダ東インド会社(VOC)によって、次々と奪われた。マカオはアジアで孤立感を深めた。
1830年ごろの広州の外国人居留地を描いた絵画
各国の商館(ファクトリー)と国旗
中国人画家“順呱”の作品
清王朝第四代皇帝の康熙帝は、1683年に鄭氏政権が支配する台湾を征服し、中国を統一した。康熙帝はそれまでの政策を転換し、1684年に外国との貿易を許可。広州、アモイ、寧波、上海が開港すると、マカオの特権的な地位は大きく揺らいだ。
清王朝第六代皇帝の乾隆帝は、1759年に欧州諸国との貿易を広州に限定。広東十三行と呼ばれる特権商人ギルドが、外国との貿易を独占することになった。こうして“広東システム”と呼ばれる貿易体制が整備された。
欧州人の広州滞在は、毎年5~6月ごろから9~10月までの期間に限定された。それ以外の期間は、帰国あるいはマカオ滞在が義務づけられた。こうしてマカオは広東システムの下で、欧州人の“越冬地”となった。
マカオのプラヤ・グランデ(南湾)にあった豪邸
商人と思われる白い服の欧州人が読書中
1843年の作品
越冬のためにマカオを訪れる欧州人の船団は十数隻の規模で、人数は250~300人だったという記録が残っている。ミルクティーを飲むために、乳牛を載せた船もあったそうだ。こうした欧州人に住宅や娯楽を提供することが、マカオの住人にとって重要なビジネスとなった。衰退期のマカオは、広東システムの“おこぼれ”で細々と生き延びた。
イエズス会の根拠地としてのマカオも衰退した。1549年8月15日にイエズス会の創設メンバーであるフランシスコ・ザビエルが日本の鹿児島に上陸。その後継者たちの活動の結果、日本のキリスト教徒は数十万人規模に達した。しかし、1639年の第五次鎖国令とともに、日本におけるイエズス会の宣教活動は絶望的となった。
康熙帝とイエズス会のアダム・シャール 中国ではイエズス会のマテオ・リッチが1582年8月にマカオに到着し、宣教活動の準備を始めた。イエズス会の宣教師は明王朝や清王朝の宮廷から信頼を勝ち取ったが、現地の文化に順応すべきという“適応主義”の宣教活動の方針が、カトリック修道会の“ドミニコ会”などに批判された。
中国の礼儀文化(典礼)を軽視するドミニコ会は、イエズス会が異教の習慣を許容していると批判。1645年に教皇庁はイエズス会に典礼行為を止めるように通達した。これにイエズス会が反論し、中国での宣教活動をめぐる“典礼論争”が始まった。
教皇庁が強硬な姿勢を崩さなかった結果、清王朝第五代皇帝の雍正帝は、1723年にキリスト教の宣教活動を禁止。マカオは中国におけるイエズス会の根拠地だったが、そうした役割も終わることになった。こうしてマカオは約2世紀にわたる衰退期を迎えた。
マカオの盛衰と人口変動
マカオの繁栄と衰退は、人口変動に色濃く表れている。当時の資料に基づく研究者の推計によると、1630年ごろのマカオの人口は2万人ほどだった。うちポルトガル人の既婚者は1,000人近くだったことから、人口の大部分は中国人だった。
南蛮貿易が終焉を迎えた直後の1640年ごろ、マカオの人口は約4万人に増加し、うち約2万人が混血を含むポルトガル人だったとみられる。盛んだった南蛮貿易を背景に、約10年間で人口が倍増しており、ポルトガル人の急増が顕著だったようだ。
1645年はマカオの人口が約4万4,000人に達したもようだ。その背景には1644年に明王朝が滅亡したことがあった。満州族による支配を嫌う漢民族がマカオに流入し、その多くが海外へ渡った。
17世紀の後半になると、マカオで出生した人が急増し、食糧事情が悪化。これを背景に、マカオ政庁は1696年に中国人を域外に追放した。その影響で、1700年にはマカオの総人口が2万人あまりに減少。そのほとんどがキリスト教徒だったが、多くは中国人であり、ポルトガル人は少なかった。当時のマカオ在住ポルトガル人は、150世帯だけだったという。
1745年には人口が1万3,000人あまりに落ち込んだ。1792年は約1万2,000人にすぎず、18世紀を通じてマカオの人口は半減した。
18世紀末のマカオを描いた絵画
19世紀初期にリオ・デ・ジャネイロで入手と伝わる
アヘン戦争が勃発する直前の1839年6月20日に、アヘン禁輸担当の欽差大臣だった林則徐は、マカオの人口調査を実施。中国人は1,772世帯、計7,033人だった。西洋人と奴隷は720世帯、5,612人。このほか、英国人57世帯がマカオで暮らしていたという。
マカオの人口をもっと多かったと見積もる推計もあるが、この林則徐による調査は推計ではない一次資料であり、信頼性が高いと言えるだろう。それによれば、アヘン戦争が始まる直前のマカオの人口は、中国人と西洋人を合わせて1万2,645人ということになる。
マカオの人口はアヘン戦争の勃発前夜までに、ピーク時の4分の1まで落ち込んでいた。こうした人口変動をみると、マカオの衰退ぶりがよく分かる。
インド洋におけるポルトガル王国の凋落
マカオが衰退した背景には、“ポルトガル海上帝国”の没落があった。1640年12月に誕生したブラガンサ朝ポルトガル王国は、スペイン王国との“ポルトガル王政復古戦争”を推進するため、軍備増強を余儀なくされた。この戦争は1668年2月の“リスボン条約”で終結するが、それまでの間にポルトガル王国は海外領土を次々と失った。
オランダのVOCによる攻撃を受け、ポルトガル王国はマラッカ、セイロン島(スリランカ)などインド洋の東側で領土を失った。インド洋の西側では、ヤアーリバ朝オマーンがポルトガル王国の敵だった。
アラビア半島のマスカットは、1508年にポルトガル王国の海外領土となったが、1650年にオマーンに占領された。さらにオマーンは東アフリカ沿岸のポルトガル勢力を駆逐したほか、サファヴィー朝イランの沿海地域を征服。“オマーン海上帝国”としてインド洋の西側で覇権を握り、欧州諸国と競い合った。こうしてインド洋の西側でも、ポルトガル王国の影は薄くなった。
ポルトガル王国が19世紀まで確保できたアジアの領土は、インドのゴアとディーウ、インドネシアのティモール、中国のマカオだけだった。アフリカではアンゴラとモザンビークを確保していたが、経済的恩恵は少なかった。こうしたなかでポルトガル王国の関心は新大陸に向かい、ブラジルの経営に注力した。
ポルトガル王国を左右したブラジル
1648年4月の第一次グアララペスの戦いを描いた絵画
ポルトガル王国ブラジル植民地軍がオランダGWCに勝利
オランダ西インド会社(GWC)は1630年にポルトガル王国の海外領土であるブラジルの北東部を占領し、オランダ領ブラジルを樹立していた。現地のポルトガル勢力がGWCに抵抗を続けたことを受け、ブラガンサ朝ポルトガル王国の初代国王ジョアン4世はブラジルを“公国”に昇格。これ以降のブラガンサ朝ポルトガル王国の王太子は、“ブラジル公”を名乗ることが慣習となった。
ポルトガル軍は1654年1月までにオランダ領ブラジルを再征服。1661年にオランダと締結した“ハーグ条約”で、オランダ領ブラジルは正式にポルトガル王国に返還された。
ブラジルはポルトガル王国の経済を支える支柱だった。1500年4月22日に未知の陸地に到達したポルトガル貴族のペドロ・アルヴァレス・カブラルは、その地を“ヴェラ・クルス島”と名づけ、ポルトガル王国による領有を宣言した。
1519年作成のブラジル沿岸地図
原住民によるブラジル木の伐採を描いている
だが、それは島ではなく、南米大陸であり、これがブラジルの始まりだった。カブラルが到着したのは、現在のブラジル東部の“ポルト・セグーロ”とみられる。
16世紀のブラジル砂糖生産を描いた絵画
こうした小規模製糖場を“エンジェーニョ”という
この地に生息する“パウ・ブラジル”(ブラジル木)という樹木からは、“ブラジリン”という赤い色素が抽出される。これがポルトガル王室の専売品として、最初の特産品となり、“パウ・ブラジルの時代”が始まった。ブラジルの歴史は、このように特産品によって時代区分される。なお、ブラジルの国名は、この“パウ・ブラジル”に由来する。
特産品のパウ・ブラジルは、発見から半世紀も立たずに枯渇した。そこでサトウキビが移入され、原住民のインディオを奴隷とした砂糖プランテーションが始まった。こうしてブラジルは“砂糖の時代”を迎えた。
インディオの数が不足すると、アフリカのアンゴラやモザンビークから大量の黒人奴隷がブラジルに連行され、砂糖プランテーションで酷使された。だが、この砂糖生産も、オランダとの“ハーグ条約”の締結から10年あまり過ぎると、衰退に向かった。
こうしたなか、1690年代にブラジル南東部で金鉱が発見されると、“ゴールドラッシュ”が起きた。40万人以上のポルトガル人と50万人以上の黒人奴隷が押し寄せ、ブラジルの中心地は、従来の北東部から南東部にシフト。ブラジルの“金の時代”が始まった。
この地では1727年にダイヤモンドの鉱山も見つかり、“ミナスジェライス”(宝石の鉱山)と呼ばれるようになった。これが後に州名として採用された。ブラジルからの黄金がポルトガル王国に流入すると、宮廷には華やかなバロック文化が花開いた。
ミナスジェライスの金採掘を描いた19世紀の絵画
働くのは黒人奴隷たち
それまでのポルトガル王国は海外から贅沢品の輸入が増え、経済状況が悪化していた。そこで国産製品を保護するため、輸入品の使用禁止を定めた一方、産業の工業化を急いでいた。しかし、ブラジルから黄金が流入すると、貿易赤字が解消。急に豊かになったポルトガル王国では、輸入品の密輸が増えた一方で、国内産業の工業化に対する熱意が失われた。
イングランド王国との結婚
幼少のアフォンソ6世と黒人の召使い
1653年ごろの作品
ブラガンサ朝ポルトガル王国は、1640年12月にスペイン王国との同君連合を解消するかたちで独立した。だが、国内の貴族や聖職者には、スペイン王国の支持者が多く、王室は孤立気味だった。
ルイサ・デ・グスマン王妃
1632年ごろの作品
スペイン王国との“ポルトガル王政復古戦争”を戦ううえで、ポルトガル王国は同盟国を欲していたが、周辺諸国や教皇庁との関係は良好ではなかった。初代国王のジョアン4世は、1656年11月に崩御。息子のアフォンソ6世が13歳で王座を継いだが、彼は小児まひに由来する精神不安を患っており、母親のルイサ・デ・グスマン王妃が摂政となった。
ルイサ王妃は1662年に娘のカタリナをステュアート朝イングランド王国のチャールズ2世に嫁がせた。これは政略結婚だった。ジョアン4世は独立したばかりのころから、イングランド王国との同盟を成立させるため、カタリナを当時は王太子だったチャールズ2世に嫁がせる計画を立てていた。しかし、1642年にイングランド王国で清教徒革命(ピューリタン革命)が勃発すると、この政略結婚の計画は頓挫した。
チャールズ1世の処刑(左)
オリバー・クロムウェル
1649年の作品(右)
ステュアート朝イングランド王国では、1649年1月に第二代国王のチャールズ1世が処刑され、“イングランド共和国”が誕生。護国卿(ロード・プロテクター)に就任したオリバー・クロムウェルによる独裁体制が築かれた。
このイングランド共和国は1660年に瓦解。オランダに亡命していたチャールズ2世は帰国し、1661年4月にステュアート朝イングランド王国の第三代国王として即位。王政復古を果たした。
チャールズ2世の即位
1661年4月23日(左)
英国王妃となったカタリナ
1665年の作品(右)
イングランド王国が復活すると、1661年6月にポルトガル王国との“婚姻条約”が締結された。これに基づき、ポルトガル王国はカタリナの“持参金”として、インドのボンベイ(現在のムンバイ)と北アフリカのタンジール(現在のタンジェ)をイングランド王国に割譲した。
カタリナは1662年4月にチャールズ2世と結婚し、王妃“キャサリン・オブ・ブラガンザ”となった。ポルトガル王国はボンベイとタンジールを失ったものの、“ポルトガル王政復古戦争”で、イングランド王国からの支援を受けることに成功。イングランド王国の仲介で1668年2月に“リスボン条約”を締結し、スペイン王国はポルトガル王国の独立を承認した。なお、このリスボン条約により、ポルトガル王国は北アフリカのセウタを失った。
ポルトガル王国は1661年の“ハーグ条約”でオランダと講和し、同じ年の“婚姻条約”で英国と同盟。1668年の“リスボン条約”でスペイン王国からの完全独立を果たした。だが、その代償は大きく、ポルトガル王国はイングランド王国に対し、軍事や外交などで従属的となる。
余談だが、イングランド王国に紅茶を飲む習慣が広まったのは、カタリナとチャールズ2世の結婚がきっかけだったと言われる。当時のイングランド王国で紅茶は高級品だったが、アジア貿易で先行していたポルトガル王国では、そうではなかった。イングランド王妃となったカタリナは客に紅茶を振舞い、それが評判となり、喫茶の習慣が広まったという。
メシュエン条約とイングランド王国への従属
ジョン・メシュエン
駐ポルトガル英国大使
条約交渉の担当者
ポルトガル王国は経済面でもイングランド王国に従属的となった。1703年に両国は“メシュエン条約”を締結。ポルトガル王国はイングランド王国から毛織物を輸入することを承認した。一方、イングランド王国はポルトガル王国からの輸入ワインについて、低い関税率を適用することになった。その税率はフランス産ワインの3分の1だった。
この条約の締結により、ポルトガル王国の港湾都市ポルトから、大量のワインがイングランド王国に輸出された。ポルトからのワインは、イングランド王国では“ポートワイン”と呼ばれ、甘みとアルコール度数の高さが特徴。ポートワインはイングランド王国に普及し、ポルトガル王国はワイン輸出国としての地位を確立した。
熟成中のポートワイン イングランド王国の毛織物は、以前からポルトガル王国に密輸されており、メシュエン条約は現実を追認したものだった。イングランド王国の毛織物は人気があり、ポルトガル王国は輸入超過(貿易赤字)に陥った。
高級毛織物ハリスツイードの織工
(1960年撮影)
だが、ブラジルからの黄金のおかげで、ポルトガル王国の経済は破綻を免れた。ブラジルの黄金は、毛織物の輸入代金として、ポルトガル王国からイングランド王国へ流出。一説にはブラジルの黄金の4分の3が、イングランド王国に流れたという。イングランド王国に蓄積されたブラジルの黄金は、やがて産業革命の資本や金本位制の確立に使われることになる。
ポルトガル王国はワインの輸出に励む一方、それを上回る毛織物の輸入を続け、ブラジルの黄金で支払い続けた。こうした状況は、ポルトガル王国を経済面でもイングランド王国に従属的にさせたばかりか、工業化が遅れた一因にもなった。
デヴィッド・リカード
近代経済学の創始者
(1821年の肖像画)
メシュエン条約に基づくポルトガル王国とイングランド王国の貿易関係は、経済学者のデヴィッド・リカードが1817年に発表した「経済学および課税の原理」の第七章で引用しており、“比較優位”を論じた“比較生産費説”の実例として有名だ。
なお、ブラジルの黄金で産業革命を果たした英国は、1840年に勃発したアヘン戦争に勝利。アヘン戦争という“ウェスタン・インパクト”(西洋の衝撃)を受け、中国は“半封建・半植民地の時代”を迎えることになる。もしメシュエン条約が締結されていなければ、中国の歴史も現実とはかなり違ったかたちになっていたかも知れない。
レンティア国家
ブラジルの黄金に頼った当時のポルトガル王国は、一種の“レンティア国家”だった。レンティア国家とは、土地が生み出す天然資源からの収入に大きく依存する国家を意味する。例えば、原油で潤う産油国などがレンティア国家に該当する。
石油で潤う典型的レンティア国家カタールの首都ドーハ
砂漠にそびえる高層ビルの街は、外国人労働者が支える
天然資源からの収入のおかげで、レンティア国家の財源は、国内の経済状況と無関係に豊富だ。それゆえ、レンティア国家は国内経済の強化に注力しなくなり、工業化が遅れる傾向がある。天然資源の生産に関わる労働者は少数で済むことから、失業率が高くなるという傾向も、レンティア国家の一つだ。
レンティア国家は天然資源の輸出に依存するが、当時のポルトガル王国の場合、イングランド王国に支払ったブラジルの黄金が、それに該当するとも言えるだろう。
豊かなレンティア国家のなかには、低賃金の外国人労働者を大量に雇用することで、自国民を納税や労働から解放するようなケースもある。その結果、自国民の労働意欲が損なわれ、深刻な事態に陥ることも起こり得る。
1970年代のナウル共和国
高級車の背後には、枯渇しかけのリン鉱脈
例えば、1968年に独立した南太平洋のナウル共和国は、それまで英国資本の手中にあったリン鉱石の採掘による利益を享受できるようになった。リン鉱石の採掘は国営化され、政府と国民は潤った。国民の生活費はタダとなったばかりか、贅沢な生活すら可能となった。
枯渇したリン鉱石の採掘場
穴だらけの荒廃した土地に
リン鉱石の採掘は、周辺諸国や中国からの出稼ぎ労働者に任せ、やがてナウル共和国の国民は勤労意欲を失った。毎日が休日という状態となり、多くの国民が肥満化。最大の死因が糖尿病という有様となった。
経済破綻したナウル共和国
いたるところに高級車が放棄されている
ナウル共和国のリン鉱石は、海鳥の糞が堆積して形成されたものであり、1907年から採掘が始まっていた。だが、天然資源は有限であり、いつの日か枯渇する。それに備えてナウル共和国は海外資産への投資を行っていたが、ガバナンスの欠如などを背景に、ほとんどが失敗に終わった。
やがてリン鉱石は枯渇し始め、海外資産も失い、1990年代の後半に入ると、ナウル共和国の経済は破綻状態となった。何十年も働いたことのない国民は、勤労意欲を失っており、危機的状況に陥った。
だが、神はナウル共和国を見捨てなかった。新たなリン鉱石の鉱脈が見つかり、21世紀に入ると、経済は回復を始めた。新たな鉱脈では30~40年ほどの採掘が可能という。これが幸か不幸かさておき、天然資源は“天の恵み”である一方、“呪い”でもある。レンティア国家は天然資源があるうちは天国だが、枯渇すると、たちまち危機が訪れる。