コラム・連載

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話

民衆と権力を動かすチベット仏教~モンゴル人への影響力は今も健在

2025.02.05|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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モンゴル人の大多数は、チベット仏教を信仰している。このチベット高原の宗教は、古代から遥か遠方のモンゴル高原に強い影響力を及ぼし、それは現代も続いている。

チベット仏教の「歓喜仏」(ヤブユム)
文殊菩薩(慈悲)と般若波羅密多(知恵)の結合を表現
13世紀の絵画
チベット仏教は民衆に説く「顕教」とインドで発展した「密教」で構成される。密教とは秘密の教義であり、僧の間で伝授される。

密教はインド仏教と異教の摩擦から生まれた。ヒンドゥー教に対抗するため、呪術やセクシャルな要素さえ取り込み、理論化した。

チベット仏教も密教の要素を継承。例えば、「慈悲の方便」を表す男性の仏が、「空の般若(知恵)」を示す女性の伴侶と交わるチベット仏教の「歓喜仏」(ヤブユム)は、「無上瑜伽タントラ」という教義を表現している。

チベット仏教は世俗の権力者と結びつくことで発展した。7世紀に「吐蕃王朝」がチベットを統一すると、その国教となった。吐蕃王朝が9世紀に崩壊すると、各宗派の教団が各地の領主と結びつき、抗争を繰り広げた。

13世紀にモンゴル帝国がチベットに侵攻すると、講和交渉に当たったチベット仏教のサキャ派がモンゴル軍に気に入られ、その武力を後ろ盾にチベットを支配。さらに、モンゴル帝国の第5代ハーンのクビライは、サキャ派のパスパ座主を「帝師」とした。モンゴル人はチベット仏教に帰依し、軍事力を持つ「施主」として、霊的指導者の高僧を崇めた。

モンゴル帝国が崩壊すると、サキャ派は後ろ盾を失い、チベットに乱世が再来。菩薩や如来の化身である高僧が転生する「化身ラマ制度」が広まり、宗派間の抗争が激化した。

チベット仏教に傾倒したアルタン・ハーン
これを機にチベット仏教がモンゴルに広まった
ダライ・ラマ4世はアルタン・ハーンの曽孫
16世紀にチベット仏教は明王朝に接近し、第11代皇帝の正徳帝が傾倒。淫楽の離宮に美女を集め、そこに高僧も招いたという。

モンゴル人の指導者も信仰心に篤かった。アルタン・ハーンは16世紀後半に最大宗派のゲルク派の座主と面会し、「ダライ・ラマ」の称号を贈った。17世紀にはグシ・ハーンがチベットを平定し、中心地をダライ・ラマ5世に寄進。「ガンデンポタン」呼ばれるダライ・ラマ政権が誕生した。清王朝の皇室は、チベット仏教を信奉しつつも、チベット人やモンゴル人への影響力を警戒。世俗権力や教団の恣意的な化身ラマ擁立を防止するため、転生者の認定を抽選方式に一本化した。

清王朝の乾隆帝が残した「喇嘛説」の石碑
チベット仏教に対する支援と警戒を伝える内容
チベットを征服したグシ・ハーン
ダライ・ラマ5世を軍事的に支援
ダライ・ラマ政権が誕生する契機となった

1911年末に外蒙古の「大モンゴル国」が独立すると、チベット出身の化身ラマ「ジェプツンダンパ8世」が、「ボグド・ハーン」(聖なる皇帝)として即位。その求心力は絶大であり、ソビエト連邦がモンゴルに介入しても、彼を廃位することは不可能だった。

ジェプツンダンパ10世となる予定の少年(左)
10世はワシントンDCで生まれたモンゴル系米国人
父はモンゴルの大学教授で、母は元国会議員
祖父はモンゴルの財閥創業者
ジェプツンダンパ10世としての教育が始まっている
ジェプツンダンパ8世が崩御すると、「彼の転生は終了した」と、モンゴル政府は民衆に説き、社会主義化を進めた。だが、ダライ・ラマ政権は1990年に9世転生者の存在を公開。モンゴル政府は警戒したが、民衆は9世転生者を熱望。彼はモンゴル国の最高宗教指導者に就任したが、2012年に死去した。すると、ダライ・ラマ政権は2023年にモンゴル系米国人の10世転生者を披露。中国政府がダライ・ラマ政権と対立する背景には、こうしたチベット仏教の歴史と影響力がある。

 

~内藤証券アナリストが書く~中国よもやま話
次回は2/20公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. ~内藤証券アナリストが書く~
    中国よもやま話
  2. 52. 生々流転の中国民族興亡史~滅亡が悲劇とは限らない NEW!
  3. 51. 何度も変わった民族名~中国の支配階級だった満族
  4. 50. 中国人の百人に一人はチワン族~影が薄い中国最大の少数民族とは?
  5. 49. 民衆と権力を動かすチベット仏教~モンゴル人への影響力は今も健在
  6. 48. 同族意識と連帯感はそれほどでも~二つのモンゴルの違い
  7. 47. モンゴル独立をめぐる攻防~中露両国に翻弄された歴史
  8. 46. モンゴル国と内モンゴル自治区~二つのモンゴルの起源
  9. 45. 信仰で区別された特異な少数民族~中国の回族とは?<
  10. 44. 民族の公認をめぐる試行錯誤~中国の民族政策におけるソ連の影響
  11. 43. 「あなたは何民族ですか?」~日本人と中国人の大きな違い
  12. 42. 洋の東西で同じ答えに~収斂進化した会計技術
  13. 41. これぞ「文明の利器」なる~王朝の誕生に会計あり
  14. 40. 商売の神様は実在した人物~彼が神たる理由とは?
  15. 39. 見た目は違うが、生まれは似ている~日本の「株式」と中国の「股份」
  16. 38. 香港市民の窮屈な生活~劣悪な住宅事情
  17. 37. 香港の“街並み景観”に歴史あり~租借地と王領植民地の違い
  18. 36. すべては英国王の手中に~英領香港の土地制度
  19. 35. “割当品から商品へ”~中国本土の住宅市場勃興
  20. 34. “所有権はないが、不便もない”~中国本土の土地制度
  21. 33. 労働力需要で犯罪組織が誕生~明治日本と改革開放中国の共通点
  22. 32. 香港裏社会に暗躍する三合会~返還後の表社会にも及ぶ影響力
  23. 31. 香港犯罪組織の系譜~数百年に及ぶ「洪門」の伝統
  24. 30. なぜ犯罪組織が人気?~中国起源の任侠道が果たした社会的役割
  25. 29. 21世紀版のグレート・ゲーム~ウイグルをめぐる情報戦
  26. 28. 現代の屯田兵~新疆生産建設兵団
  27. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
  28. 26. 東トルキスタン独立運動と西側諸国の連帯~ウイグル人が歩んだ歴史
  29. 25. 中国の街で目立つウイグル人~民族移動と人種的変容
  30. 24. チベット発展の秘策とは?~天国に最も近いタックス・ヘイブン
  31. 23. 神秘な世界の複雑な裏側~チベットの“化身ラマ制度”
  32. 22. 人を拒む神秘の地~異質で過酷なチベットの環境
  33. 21. 情報の真偽をめぐる混乱と論争~昔も今も中国は“遠い国”
  34. 20. 隋王朝に始まる中国経済の挑戦~言葉に映る南北の相違と一体化
  35. 19. 黄河文明と長江文明の融合と摩擦~中国の南北対立
  36. 18. 中国南北相違の原点~東アジアで異色な中国北部の小麦食
  37. 17. 漢字は同じでも、ひと味違う~複雑に絡み合う“麺料理”の概念
  38. 16. 現代中国の“漢服ルネサンス”~漢民族の服飾文化の探求
  39. 15. “人民服”の歴史的変遷~国民服から最高指導者の正装へ
  40. 14. 元々同じ圓が結ぶ奇妙な縁~東アジア一円の通貨
  41. 13. 誰もが彼らを無視できない~香港の摩天楼に潜む陰の実力者
  42. 12. 中国の人々を鼓舞する名曲~中国国歌の「義勇軍進行曲」
  43. 11. 伝統的バイオテクノロジーの傑作~茅台酒が高価な理由
  44. 10. 世界に目を向けよう~国際分散投資の魅力
  45. 09. なんでも漢字で表記~奥深い中国語名の世界
  46. 08. 自由を追い求める姿~中国の投資家たち
  47. 07. “口にすべし、楽しむべし”~中国的可楽世界
  48. 06. “いままで”と“これから”~EV投資をめぐる視点の違い
  49. 05. 株式市場を育てる順序~ミャンマーと中国の違い
  50. 04. 対中情報戦の犠牲者~王立強事件の空騒ぎ
  51. 03. 全国展開可能な中華料理~アメリカザリガニの恵み
  52. 02. 強烈すぎるこだわり~中華的な数の世界
  53. 01. イメージの先に在るもの~中国株投資の魅力

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. ~内藤証券アナリストが書く~
    中国よもやま話
  2. 52. 生々流転の中国民族興亡史~滅亡が悲劇とは限らない NEW!
  3. 51. 何度も変わった民族名~中国の支配階級だった満族
  4. 50. 中国人の百人に一人はチワン族~影が薄い中国最大の少数民族とは?
  5. 49. 民衆と権力を動かすチベット仏教~モンゴル人への影響力は今も健在
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  7. 47. モンゴル独立をめぐる攻防~中露両国に翻弄された歴史
  8. 46. モンゴル国と内モンゴル自治区~二つのモンゴルの起源
  9. 45. 信仰で区別された特異な少数民族~中国の回族とは?<
  10. 44. 民族の公認をめぐる試行錯誤~中国の民族政策におけるソ連の影響
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  12. 42. 洋の東西で同じ答えに~収斂進化した会計技術
  13. 41. これぞ「文明の利器」なる~王朝の誕生に会計あり
  14. 40. 商売の神様は実在した人物~彼が神たる理由とは?
  15. 39. 見た目は違うが、生まれは似ている~日本の「株式」と中国の「股份」
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  25. 29. 21世紀版のグレート・ゲーム~ウイグルをめぐる情報戦
  26. 28. 現代の屯田兵~新疆生産建設兵団
  27. 27. 新疆ウイグル自治区は東西交易の要衝~現代も続く「西域経営」
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