コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

アジア通貨危機と中国本土

2022.5.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

このページをシェアする:

アジア通貨危機で中国本土はヘッジファンドによる通貨攻撃を受けなかったが、無傷ではいられなかった。改革開放政策が進んだ結果、中国企業は世界とアクセスするようになっていたからだ。計画経済から改革開放への移行は“現実が先行し、法整備などが遅延”という状況。こうした無法状態のなかで、地方政府が創設した“窓口会社”は、海外から際限なく資金を調達し、無秩序な投資事業に充てた。その結果、対外債務は危機的な状況に陥った。そうした中国本土の問題をアジア通貨危機は浮き彫りにした。

アジア通貨危機と中国本土

アジア通貨危機は香港返還の翌日である1997年7月2日に始まった。この日に東南アジアのタイ王国は、バーツと米ドルの固定相場を放棄。バーツの空売り攻撃に成功したヘッジファンドは近隣諸国にターゲットを移し、フィリピンのペソ、マレーシアのリンギット、インドネシアのルピア、韓国のウォンなどを次々に狙った。香港はヘッジファンドによる通貨攻撃を撃退したが、その代償として金利の高騰に見舞われ、不動産市場や株式市場が暴落した。

こうしたなか、中国本土は直接的な通貨攻撃を受けなかった。人民元は資本取引が規制されており、ヘッジファンドも手の出しようがなかったからだ。アジア諸国の通貨安を受け、中国が輸出競争力の維持を目的に人民元を切り下げるのではないかという観測も広がったが、そのような事態にはならなかった。人民元は1米ドル=8.3元の水準で、事実上の固定相場を維持した。

ただし、中国本土はまったく被害を受けなかったわけではない。香港を通じた海外マネーの通り道があったからだ。そうした海外マネーの通り道とは、香港に存在する中国政府の“窓口企業”。特に“ITICs”と呼ばれた数多くの“国際信託投資公司”は、その代表格だった。

早期の窓口会社

聯合行を設立した秦邦礼 窓口会社(窓口公司)の歴史は古い。この連載の第四十六回で紹介した華潤公司(チャイナ・リソーシズ)は、窓口会社の先駆けと言える存在だ。この華潤公司は1938年に中国共産党(共産党)が英領香港に設立した“聯合行” (Liow & Co.)という貿易会社を前身とする。

共産党が中国国民党(国民党)との内戦や日本との戦争を展開するうえで、華潤公司は海外との懸け橋として機能した。“華潤”という社名は、毛沢東の字である「潤之」に由来し、「中華潤之」(中華これを潤す)の意味が込められている。もともと共産党による党営企業だったが、1952年に中華人民共和国に移管され、国営企業となった。

華潤公司が準備した1957年の広州交易会 英領香港の華潤公司は1957年に広東省広州市で中国最大の見本市である中国進出口商品交易会(広州交易会)を開催するなど、改革開放前の中国本土において、唯一の窓口として活躍した。

香港で決起した招商局・鴻章号のメンバー 招商局(チャイナ・マーチャンツ)は海運業での窓口会社だ。その前身は1873年に清王朝が創設した海運会社。国共内戦の結果、その資産は中国本土の中華人民共和国と台湾の中華民国によって分割された。英領香港の招商局は1950年に従業員が決起し、中華人民共和国に帰順。交通部(交通省)が管轄する国営企業として、英領香港での活動を続けた。

この連載の第五十七回で紹介した中国銀行香港支店は、銀行業での窓口会社だ。中国銀行の前身は、清王朝が1905年に創設した大清戸部銀行。清王朝が崩壊すると、1912年に官民合弁の中国銀行として、中華民国の紙幣発券銀行の役割を担った。

改革開放前の中国銀行香港支店 中国銀行は1917年に英領香港に支店を開設した。共産党と国民党の内戦が終結すると、中国銀行香港支店の全職員は、中華人民共和国に帰順すると表明。戦後の香港金融業界において、中国銀行香港支店は中華人民共和国を代表する銀行として活躍した。

中国近代旅行業の父

華潤公司、招商局、中国銀行香港支店については、これまでの連載でも詳しく紹介した。そのほかの早期の窓口会社としては、香港中国旅行社(チャイナ・トラベル)が挙げられる。

香港中国旅行社の起源は1915年に創設された“上海商業儲畜銀行”に遡る。創設メンバーの一人だった陳光甫は、1881年に江蘇省丹徒県に生まれ、父の後を追って湖北省武漢市の税関で働くようになった。

“中国のモルガン”と呼ばれた陳光甫
“中国近代旅行業の父”
陳光甫は1904年に米ミズリー州セントルイスで開かれた万国博覧会に職員として参加。これを機にペンシルベニア大学ウォートン校に留学し、ビジネスを学んだ。1909年に帰国した陳光甫は、1912年に江蘇銀行の監督(社長職)に就任。1915年に上海商業儲畜銀行の創業に参加すると、総経理(頭取職)に就任した。

その当時の中国には、旅行業という概念がなかった。列車や船の切符や宿泊先などは、旅行者がそれぞれの場所で個別に手配する必要があり、これらを一カ所で済ませることができる旅行代理店は、外国企業だけが手掛けていた。そうした外国企業にとって、西洋人の旅行者が“一番のお得意さま”であり、中国人の旅行者はぞんざいに扱われた。

上海商業儲畜銀行が創設された1915年に、米国ではアメリカン・エキスプレスが旅行部門を開設。それはすぐに旅行代理店に成長した。

中国旅行社の「旅行雑誌」
1929年2月の第5号
こうした米国の動きを察知した陳光甫は、中国人による旅行代理店の創設を提案。1923年に上海商業儲畜銀行に旅行部を開設した。この旅行部は1927年に子会社として独立し、旅行代理店の“中国旅行社”が誕生。1928年には英領香港に支社を開設した。こうした活躍を背景に、陳光甫は“中国近代旅行業の父”と呼ばれる。

分割された陳光甫の遺産

上海商業儲畜銀行ビル
営業フロアの様子
現在の上海市江西中路368号
(1932年3月30日)
上海商業儲畜銀行は中華民国でも屈指の金融機関に成長したが、1949年に中華人民共和国が成立すると、本店は台湾に移転した。英領香港の支店は中華人民共和国による資産接収を避けるため、1949年12月に本店から離脱し、新たに“上海商業銀行”として会社登記した。英領香港の新会社になれば、中華民国の資産という名目で接収できなくなるから

台湾に本店を移した上海商業儲畜銀行は、1965年に台北市で業務を再開。香港の上海商業銀行は、台湾の上海商業儲畜銀行の子会社となった。これら二つの“上海”を冠した銀行は、社名を変えずに今日も香港と台湾で業務を続けている。

なお、陳光甫は上海商業儲畜銀行の本店とともに台湾に移住。台湾の政財界で活躍し、1976年に台北市で亡くなった。94歳だった。

陳光甫の逝去から20年後の1996年、小規模な上海市の金融機関100社近くが合併し、上海城市合作銀行が誕生。1998年に社名を“上海銀行”に改めた。上海銀行とは台湾の上海商業儲畜銀行や香港の上海商業銀行の略称でもある。

この新たな上海銀行が2001年に増資を実施した際、香港の上海商業銀行も出資。こうして中国本土の上海銀行、香港の上海商業銀行、台湾の上海商業儲畜銀行が資本関係で結びつき、“両岸三地の上海銀行”として提携した。

この特殊な資本関係と提携関係を背景に持つ上海銀行は、2016年11月16日に上海証券取引所に上場した。なお、この上海銀行には2001~2013年まで英国系の香港上海匯豊銀行(HSBC)も大株主として資本参加していた。これも“上海”という地縁で生まれた関係と言えるだろう。かつて“魔都”と呼ばれた上海の魅力は、何十年経っても人々を引きつけてやまないようだ。

台湾の上海商業儲畜銀行
上場前の業績発表会
(2018年9月18日)
香港の上海商業銀行の店舗 上海市の上海銀行の店舗

中国旅行社の分割

香港中国旅行社
旺角洗衣街の店舗
中国旅行社も中華人民共和国の成立とともに分割された。台湾では1950年に上海商業儲畜銀行の下で、“台湾中国旅行社”が誕生。台湾で初めての旅行代理店となった。

英領香港では1949年に中華人民共和国に帰属した中国銀行香港支店が、“中国旅行社香港支店”の資産を接収し、中華人民共和国の華僑事務委員会に移譲した。

台湾中国旅行社の本店
上海商業儲畜銀行の100%子会社
中国本土では1949年に福建省アモイ市に“華僑服務社”が誕生。これは中華人民共和国で初の旅行会社だった。1954年には訪中外国人の旅行業務を手掛ける“中国国際旅行社総社”が発足。同じ年に中国旅行社香港支店は、正式に英領香港で会社登記され、“香港中国旅行社”として旅行と鉄道輸送の代理業務を手掛ける窓口会社となった。

なお、1957年に華僑服務社は“華僑旅行服務総社”に改組。1974年に華僑旅行服務総社は中国国際旅行社総社と一体化し、“中国旅行社”と名乗るようになる。度重なる再編を経て、香港中国旅行社と中国国際旅行社総社はいずれも、現在は国務院国有資産監督管理委員会(国務院国資委)が直接管理する“中国旅遊集団有限公司”の傘下にある。

改革開放後の窓口会社

1978年末に改革開放政策が始まる以前の英領香港には、上記の華潤公司、招商局、中国銀行香港支店、香港中国旅行社という四つの窓口会社があった。これら早期の窓口会社は“香港四大中国資本企業”(香港四大中資企業)と呼ばれ、現在はいずれも国務院国資委の直接管理下にある“中央企業”となっている。

改革開放政策が始まると、英領香港は海外から中国本土へ資本を誘致する窓口として機能する。香港四大中国資本企業ではその需要に応えることができないため、新たな窓口会社の創設が始まった。

鄧小平と握手する栄毅仁
シティックの第1回董事会(取締役会)
(1979年10月4日)
戦前の上海市で活躍した実業家の栄毅仁は、鄧小平の後押しを受け、1979年10月4日に中国国際信託投資公司(CITIC=シティック)を創設。この連載の第四十五回では、その詳細を紹介している。

栄毅仁の息子である栄智健(ラリー・ユン)は、シティックの香港進出を指揮。1987年1月にキャセイパシフィック航空(国泰航空)の主要株主となり、香港市民を驚かせた。

劉少奇と王一族の悲劇

王光英(右)と栄毅仁(中央)
(1988年12月)
このシティックと並ぶ新しい窓口会社として有名なのが、中国光大集団(チャイナ・エバーブライト・グループ)だ。この会社の創設者は王光英。彼は戦前の天津市で化学工場を経営していた実業家であり、共産党の協力者だった。中華人民共和国の成立後も、天津市の産業界を代表する人物として活躍した。

劉少奇と王光美(1949年) 王光英の妹である王光美は、1948年に共産党に入党し、華北地域の指導者だった劉少奇と結婚。劉少奇は50歳で、王光美は27歳という“年の差夫婦”だった。

1959年に劉少奇は毛沢東の後を継ぎ、二代目の国家主席に就任。劉少奇の外遊に同行する王光美は英語が堪能で、ファッションセンスもあり、海外メディアは彼女を“中国のファーストレディー”と呼んだ。これが毛沢東の妻である江青の嫉妬を買った。江青は自分こそが本当のファーストレディーと考えていたからだ。

当時の中国は毛沢東が1958年に発動した大躍進政策の失敗で、危機的状況にあった。実務家の劉少奇と鄧小平は、中国を建て直すために奔走。空想的で行き過ぎた社会主義化を是正し、現実的な政策を展開した結果、中国経済は回復に向かった。こうした劉少奇や鄧小平の現実路線に対し、理想主義的な毛沢東は不満を募らせた。

劉少奇夫婦と子どもたち
(1960年8月)
1966年にプロレタリア文化大革命(文革)が始まると、毛沢東は“司令部を砲撃せよ”と宣言し、国家主席の劉少奇に対する敵意を露わにした。劉少奇と鄧小平は資本主義の道を歩む“走資派”と認定され、江青らに扇動された“紅衛兵”の攻撃対象となった。

清華大学に勤務していた王光美は、娘が交通事故に遭い、手術が必要という電話を受けた。1967年1月6日の出来事だった。電話の主は、清華大学の紅衛兵。手術に保護者の同意が必要と言われ、王光美が急いで病院に向かうと、紅衛兵が待ち構えていた。

パキスタンを訪問した劉少奇夫婦
(1966年)
王光美は監禁され、批判大会の生贄になるところだったが、周恩来首相の介入によって窮地を脱した。しかし、江青は王光美への攻撃を緩めず、1967年4月10日に清華大学で彼女を批判する30万人大会が開かれた。

清華大学で批判を受ける王光美
(1967年4月10日)
王光美はチャイナ・ドレスを着せられ、ピンポン球で作ったネックレスを掛けられ、紅衛兵の集団につるし上げられた。この年の7月には“米国のスパイ”の罪名で刑務所に投獄された。

30万人が集まった王光美の批判大会
(1967年4月10日)
刑務所に入った王光美は、歩くことが禁止され、座ることしかできないという虐待を受けたという。劉少奇は自宅での軟禁が続き、1968年になると精神状態が悪化。肺炎、糖尿病、高血圧などの症状が深刻になり、その年の7月には重篤化した。

紅衛兵に囲まれた劉少奇 危篤状態の劉少奇は1969年10月17日に北京市の中南海から河南省開封市へ秘密裏に移送され、その年の11月12日に死亡。劉少奇の死は極秘とされ、11月14日に“無職の劉衛黄”という偽名で火葬された。

服役中の王光美は1972年に初めて劉少奇の死を知ったという。江青は王光美の死刑を望んだが、毛沢東はそれを許さなかった。王光美が自由の身となったのは、1978年12月になってのことだった。

王光英と中国光大集団

自由となった王光英と王光美
(1979年6月15日)
王光美の兄である王光英も、文革中は紅衛兵の攻撃対象となり、批判大会の生贄となった。彼は1966年に投獄され、1977年7月まで刑務所で過ごした。

文革で悲惨な目に遭った栄毅仁がシティックを創設したように、王光英も改革開放政策の開始にともない、鄧小平らに重用された。王光英はシティック創設時の董事(取締役)に名を連ねたほか、1980年には“天津市国際信託投資公司”(TITIC)の総経理に起用され、化学工場の立て直しに成功。1981年には天津市の副市長に就任し、地元経済の責任者となった。

王光英は香港とマカオを視察した後、1981年2月12日に万里・副首相に建議書を提出。「香港の経営スタイルを採用した高効率の総合会社を設立し、さまざまな事業を運営する」、「手足を自由にしたうえで、数億米ドルを動かす権限を与えてくれれば、国家のために大きく稼ぐことができる」などと提案した。

中国光大集団の設立1周年を祝う王光英
(1984年)
この建議書が認められ、王光英は1983年8月18日に英領香港で“紫光実業”という会社を登記。中央政府が資本金として20億元を出資したほか、運転資金として2億米ドルを拠出した。英領香港に本社を置く中華人民共和国の国有企業は、これが初めてだった。ちょうど英中交渉が始まったばかりのタイミングであり、紫光実業の香港進出は大いに注目された。

紫光実業は1984年7月に“中国光大集団”に社名を変更。香港を中心に、工業、農業、食品、旅行、不動産など幅広い事業を展開した。

“光大”という社名について、王光英は「光明正大に商売するという意味だ」と答えている。しかし、王光英や王光美の“排行字”であるという見方もある。排行字とは一族の同世代の名前に同じ漢字を使う風習であり、王光英と王光美の場合は“光”という字だ。

王光美が働いていた清華大学には、紫光集団(ユニグループ)というハイテク企業がある。社名の“紫光”については“瑞祥の気”を意味すると説明されている。しかし、文革の悲劇を味わった王一族と縁のある企業に、よく“光”という字が使われるのは、たまたまなのだろうか。

全国人民代表大会を司会する王光英
(1996年3月12日)
何の根拠もない憶測だが、もしかしたら文革の犠牲となった王一族をめぐる深い意味が込められているのかもしれない。

中央政府の支援を受けた王光英は、米国のヘンリー・アルフレッド・キッシンジャーや日本の竹下登などと交流し、外国資本を次々と中国本土に誘致した。1989年に王光英は退任し、その後は政治家として活動。2018年に99歳で亡くなった。

王光英が去った後の中国光大集団は、中国本土の金融業に軸足を移す。1990年11月に中国光大集団総公司が北京市に発足。北京市と英領香港の両方に本社を置き、光大国際信託、中国光大銀行、光大証券などを設立した。

地方政府の窓口会社

改革開放後に誕生したシティックと中国光大集団は、新たな時代の窓口会社だった。これらは中央政府の支援を受けた窓口会社だが、地方政府もこれに倣った。

シティックのように中国本土で登記された窓口会社としては、天津市政府の天津国際信託投資公司のほか、広東省政府の広東国際信託投資公司(GITIC)や上海市政府の上海国際信託投資公司(SHITIC)など、“ITICs”と呼ばれる地方政府の窓口会社が各地設立された。

これら“ITICs”は中国本土で登記されていることから、英領香港で登記された香港四大中国資本企業とは根本的に異なり、“広義の窓口会社”と言える。

北京市東城区にある保利集団の本社 一方、香港四大中国資本企業や中国光大集団のように、英領香港で登記された窓口会社では、上海市政府の上海実業集団、広東省政府の粤海企業、広東省広州市政府の越秀企業、天津市政府の津聯集団、河南省政府の豫港集団などがあった。これらは“正真正銘の窓口会社”に分類される。

地方政府だけではなく、中国人民解放軍も保利集団(ポリー・グループ)を創設した。“保利”は「保衛勝利」の意味であり、その中国語の発音から“ポリー”という英語名が決まったという。

信託投資公司のリスク

中国本土の“信託投資公司”はいわゆる“信託会社”と違い、“自己資金で独立採算の投資を行う会社”という意味合いが強い。中華人民共和国で「信託法」が施行されたのは2001年10月になってからのことであり、それまでは無法状態のなかで信託投資公司が次々と設立された。そうした事情を背景に、信託投資公司は何でもありの“金融デパート”となった。

この信託投資公司に“国際”という文字を付け、海外との関係を持つようになったのが、“ITICs”と呼ばれる“国際信託投資公司”。信託投資公司の第一号は、前述の1979年10月4日に設立されたシティックだった。

海市の中国証券博物館に復元された“静安営業部”
戦後の上海市で最初の株式売買が始まった時の様子
静安営業部は中国工商銀行の上海信託投資公司が運営
1980年に中国政府は銀行による信託業務の試験的導入を推進。四大国有銀行や政策性銀行のほか、地方政府なども競うように信託投資公司を設立した。だが、国内の資金が銀行から信託投資公司に移り、それが大々的な融資を展開。銀行と競合するようになった。

地方政府などは信託投資公司に集まった資金を使い、インフラ建設を推進。過剰な融資や無秩序なインフラ建設が問題視されるようになった。こうした情勢を受け、中央政府は1982年から信託投資公司の整理に着手。銀行に類似した融資業務を禁じた。また、信託投資公司の設立をめぐる許認可権を中央政府に限定。地方政府による信託投資公司の設立に歯止めをかけようとした。

信託投資公司をめぐっては、中央政府でも意見が分かれ、やや迷走した。海外資本や先進技術の誘致など、経済発展に有益であれば、さまざまな信託投資を手掛けることができるという見解が1984年に示された。

すると、信託投資公司は“地下銀行”のようになり、違法な融資が横行。これを背景に1986年に再び信託投資公司の整理が始まり、インフラなど固定資産の関連業務や放漫な融資が禁じられた。

天安門事件が起きる前年の1988年、中国経済は過熱し、インフラ建設が異常なまでに拡大した。信託投資公司の数は1,000社を超え、放漫経営が目立つようになる。こうして三度目の信託投資公司の整理が始まった。

今回の整理では信託投資公司の削減に重点が置かれ、1992年まで続いた。生き残った信託投資公司は約330社であり、ピーク時の3分の1となった。事業内容については、信託と銀行の兼業が禁止された。

深圳市を視察した鄧小平
(1992年1月18日)
1989年の天安門事件で停滞した中国経済と改革開放政策の息を吹き返すため、鄧小平は1992年1~2月に中国南部の主要都市を視察。この“南巡講話”と呼ばれる一連の行動により、中国経済は1993年から再び過熱した。多くの信託投資公司が違法なルートで資金を集め、それを株式市場や不動産市場で運用した。禁止したはずの信託と銀行の兼業も守られていなかった。

こうした状況を受け、中国政府は四度目となる信託投資公司の整理に着手。バランスシートの管理を義務づけたほか、信託と銀行の兼業禁止を強化した。

このように信託投資公司をめぐっては、シティックの創設から何度も整理が実施された。「信託法」がない無法状態で、信託投資公司では違法な資金調達と融資に加え、放漫経営が常態化していた。信託投資公司が金融危機を起こすのは時間の問題だった。

広東省のジティック

ジティックの本部
左の壁に広東国際信託投資公司の文字
英領香港に隣接した広東省は、改革開放政策の最前線であり、モデル地域だった。広東省政府は1980年7月に広東信託投資公司を創設。1983年に国営の金融企業として中央政府にも認められ、外国為替事業も許された。これを機に同年12月に“広東国際信託投資公司”(GITIC=ジティック)に社名を変更。海外での債券発行も可能な“窓口会社”となった。

海外での借り入れや債券発行が認められ、ジティックは1983年に日本や欧米などの銀行12行から1億3,600万米ドルの与信枠を獲得。1985年末までに海外の銀行38行と契約し、与信枠の総額は3億米ドルに達した。

1986年9月にジティックは日本公社債研究所(現在の格付投資情報センター)から“AA-”の格付けを取得し、総額200億円のサムライ債を発行。これを皮切りに、海外で何度も債券を発行し、莫大な資金を集めた。

広州市で最初のマクドナルド
1993年に広東国際大廈の1階に開業
1991年には広東省広州市に“広東国際大廈”(グァンドン・インターナショナル・ビルディング)という複合ビルが完成。メインタワーは地上63階建てで、高さは200メートル。一時は中国本土で最多の階数と最高の高さを誇り、ジティックの繁栄を象徴する存在となった。

筆者が帰宅時に撮影した広東国際大廈
(2002年1月1日)
筆者は2001年夏に広州市に転勤し、このビルに付随するマンションで1年あまり生活していた。タクシーで帰宅する際は、運転手に“六十三層”(63階建ての意味)と告げ方がよく通じた。このビルを広州市民は誰もが六十三層と呼んでいたからだ。当時の広州市民にとって、このビルは広州市のランドマークだった。

余談だが、筆者の勤務先は六十三層から徒歩10分ほどにある“広州世界貿易中心”というビルにあった。“世界貿易中心”は“ワールド・トレード・センター”の中国語であり、ニューヨークの世界貿易センタービルを模して、ツインタワーとなっていた。

筆者が働いていた広州世界貿易中心
(2002年1月1日)
筆者が広州市に赴任した直後の2001年9月11日に米国で同時多発テロ事件が起きると、タクシーの運転手に怪訝な顔をされることがあった。外出先からタクシーで帰社する際、「世界貿易センターへ」と告げなければならないからだ。

話を元に戻そう。ジティックは海外から集めた莫大な資金を3,000件あまりの投資に充て、信託投資公司としてはシティックに次ぐ規模に拡大した。

ジティックの暴走

急拡大したジティックだが、社会主義から脱したばかりの経営陣にとって、長期にわたる海外からの過剰な借り入れと無数の投資案件は手に負えなかった。乱脈融資と投資の失敗で、不良債権が増加。放漫経営の弊害が目立つようになった。

1995年に中国政府は地方政府が勝手に債券を発行することを禁止。さらに地方政府が窓口会社に担保を提供することも禁じたうえで、対外債務の管理を強化した。ジティックの資金繰りは悪化し、短期の借り入れで長期の債務を弁済する“自転車操業”に陥った。

こうしたなか、1996年末にジティック深圳支社の総経理が経済犯罪の容疑で逮捕され、債務問題が表面化した。それにもかかわらず、ジティックは建材子会社の広信企業(ジティック・エンタープライゼス)を香港証券取引所に上場させる計画を推進。この計画は中国証券監督管理委員会(CSRC)の許可を得ておらず、目論見書の発表後に新株募集が緊急停止となり、市場が騒然となった。

返還直前の香港市場は“レッドチップブーム”
地方政府が創設した窓口会社の上場が相次いだ
写真は北京市の窓口会社“北京控股”のIPO
段ボール箱に新株申込書と小切手を投函する香港市民
北京控股(0392)は1997年5月29日に上場
最終的に英領香港の証券及期貨事務監察委員会(SFC)が調停し、広信企業は香港返還直前の1997年3月26日に上場。証券コードは“0340”だった。当時の香港市場は過熱しており、緊急停止の事件は投資家に影響を及ぼさず、募集金額に対して891倍の応募があった。上場初日の株価は3.77香港ドルに達し、募集価格の1.05香港ドルを259%上回った。

なお、広信企業はアジア通貨危機やジティックの債務問題が原因で、2000年に創富生物科技という会社に買収された。広信企業の上場を機に、CSRCは香港上場の中国資本企業について監督管理のガイドラインを設けた。

粤海企業の繁栄

“ITICs”の一つであるジティックは、広東省政府が創設した“広義の窓口会社”だ。このほかに広東省政府は“正真正銘の窓口会社”も創設していた。それは1980年6月3日に英領香港で会社登記し、1981年1月5日に開業した“粤海企業”(グァンドン・エンタープライゼス)だった。

1981年4月12日に開業した広州友誼商店
中国本土で初のスーパーマーケット
“広東省の現代化と香港経済の安定的繁栄に奉仕する”という“二つの奉仕”(両個服務)が、粤海企業の社是だった。そのために“資金、設備、技術、人材、マネジメントノウハウを導入する”という五つの誘致(五個引進)という戦略を展開。1980年代に急速に事業を拡大し、製造業、インフラ建設、不動産開発、小売業、旅行業、ホテル業、運輸業、金融業などに手を広げた。こうした事業拡大の資金は、主に海外から調達した。

香港島上環の粤海投資タワー この連載の第五十回で紹介したように、中国の中央政府や地方政府の国有企業は、1980年代に香港上場企業を買収し、その事業内容と社名を入れ替えることで上場を果たす“裏口上場”が流行。裏口上場によって、海外企業でありながら、中国政府の資本が入った会社の上場株式は“レッドチップ”と呼ばれた。なお、“裏口上場”という呼び名は、実質的に上場審査を経ずに上場していることに由来する。

広東省政府の資本が入った粤海企業は、多くのレッドチップを生み出した。1987年1月に時価総額4,000万香港ドルほどの“友聯世界”という上場企業を買収し、“粤海投資”(グァンドン・インベストメント)に社名を変更。香港市場に裏口上場した。証券コードは“0270”。

1990年代に入ると、窓口会社の粤海企業は、旅行業、ビール醸造、不動産、皮革製造、ホテル業などの資産を香港上場企業の粤海投資に注入。さらに増資を実施し、その調達資金で広東省の有料道路事業、発電事業などを買収した。

こうして粤海投資は香港市場でも屈指のレッドチップとなり、1994年11月30日に香港市場を代表するハンセン指数の構成銘柄に採用された。その直後に粤海投資は“広南集団”を分離し、1994年12月9日に香港市場に上場させた。証券コードは“01203”。

コロナ禍の香港に生きた豚を供給する広南集団
(2022年3月)
広南集団の前身は“広南行”という生鮮食品の卸売会社。広東省の生鮮食品を英領香港に輸出することができるという特権を持っていた。広南行は英領香港の大手スーパーマーケット“KK超級市場”を買収し、中国本土の上海市や広州市に“逆進出”。フランスのパリにも進出し、広南ブランドの食品を販売した。

広南集団の新株募集には50倍を超える応募があった。上場日の香港市場は大幅安だったが、広南集団は逆行高。短期間で株価が数倍に膨らんだ。

窓口会社の粤海企業は、このほかにも皮革製造の粤海製革を1996年12月19日に香港市場に上場させた。証券コードは“1058”。香港返還後の1997年8月8日には粤海ビールが香港市場に上場。証券コードは“0124”。アジア通貨危機が猛威を振るった後の1997年12月22日には、建材事業の粤海建業が香港市場に上場した。証券コードは“0818”だった。

粤海企業はアジア通貨危機のなかで香港上場子会社が5社に達し、さらに複数の香港上場企業の主要株主となっていた。粤海企業の資産は短期間で急速に膨張したが、売上高の成長は精彩を欠いた。これは資産規模こそ膨大だが、その収益性が劣悪であることを意味し、稼ぎ出せる利益は海外からの借入金を返済するには不十分だった。粤海企業は現金の流出が続き、“自転車操業”に陥った。

粤海企業の財務状態は惨憺たる状態だったが、粤海投資や広南集団などの上場子会社に資産を注入することで、これらの株価を吊り上げた。そうすれば、粤海企業が保有する上場子会社の株式は価値が上がり、それを担保にすることで、さらに借入金を増やすことができた。海外の金融機関は粤海企業に対して、極度に楽観的だった。

アジア通貨危機と窓口会社の危機

ジティックや粤海企業が海外の銀行から簡単に膨大な資金を借り入れることができた背景には、社会主義国家としての中国のイメージが大きく影響した。“ITICs”などの窓口会社のバックに地方政府があることから、“政府保証がある”と信じ込んでいた。

“中国の国情”を背景に、窓口会社が海外の銀行に提出する財務諸表には限りがあった。にもかかわらず、海外の金融機関が融資や債券購入を認めた背景には、“万が一のことがあれば、中国政府が何とかする”という思い込みがあった。

だが、アジア通貨危機が香港にも猛威を振るい始めると、ジティックや粤海企業の債務問題は切迫した状況に陥った。中国本土は通貨攻撃を受けなかったものの、窓口会社は香港に大々的に投資していた。香港の不動産と株式が暴落すると、窓口会社の保有資産も大幅に値下がりし、これらを担保とする借り入れも困難となった。

また、海外の金融機関はアジアへの融資に慎重になった。香港でも通貨攻撃の影響で金利が高止まり、借り入れが困難化。こうしてジティックや粤海企業の自転車操業は行き詰った。

王岐山の広東派遣

習近平・国家主席と握手する王岐山・副主席
(2018年3月)
アジア通貨危機の影響で、窓口会社の債務問題は中央政府も看過できない状況に陥った。そこで中央政府は1997年末に中国建設銀行の行長(頭取)だった王岐山を中国共産党広東省委員会の常務委員として送り込んだ。

王岐山は1948年に山東省の青島市に生まれた。高校を卒業した後、1969年に陝西省での労働に従事。そこで習近平の知己を得た。1971年から陝西省博物館で勤務した後、1973年から陝西省西安市の西北大学で歴史を専攻。大学を卒業すると、陝西省博物館に復職し、1979年から中国社会科学院で近代史を研究した。

彼が政治の道を歩み出したのは1982年。中国共産党中央書記処の農村政策研究室に抜擢された。王岐山の高校時代の同級生だった姚明偉の父親は、副首相の姚依林であり、その関係が大きく影響したとみられる。

王岐山は1988年に中国農村信託投資公司の総経理に就任。金融畑を歩むことになり、1989年に中国人民建設銀行の副行長、1993年に中国人民銀行の副行長、1994年に中国人民銀行の行長と、国有銀行の要職を歴任。1996年に中国建設銀行の行長に就任していた。

こうした要職を歴任するなか、1995年に中国建設銀行はモルガン・スタンレーと合弁で、中国本土で初の投資銀行である中国国際金融(CICC)を設立。王岐山はCICCの董事長を兼任した。

当時の王岐山は政治的には無名に近い存在だったが、中央政府では金融の専門家として知られていた。アジア通貨危機でジティックと粤海企業の債務問題が危機的になると、その処理を中央政府は王岐山に命じた。

ジティックと粤海企業の破綻

広発証券でスピーチする王岐山・副省長
(1998年8月28日)
王岐山は1998年に広東省の副省長に就任。当時の広東省では銀行の不良債権比率が50%に達していたと言われる。中国人民銀行の調査チームは、1998年6月からジティックに立ち入り、経営や債務の状況について解明を進めた。

その結果、10月6日に中国人民銀行はジティックに債務返済能力がないとして、即日閉鎖すると発表。清算作業を始めることを明らかにした。前述のように、ジティックは海外から莫大な資金を調達していたことから、その衝撃は世界中に広がった。

1999年1月10日に広東省の武捷思・省長はジティックの破産申請を発表。ジティックの総資産は214億7,100万元、総負債は361億6,500万元であり、146億9,400万元の債務超過という調査結果を明らかにした。報道によると、海外からの対外債務は16億米ドルで、さらに40億米ドルに膨らむ可能性もあった。

ジティックは香港の子会社を通じ、現地の株式や不動産に巨額の資金を投資していた。しかし、アジア通貨危機の影響で、これらの資産価値は大幅に下落しており、多額の負債だけが残っているという状況だった。

香港の会計士事務所が調査したところ、香港子会社の負債は総額66億元。これらに融資を実行した債権銀行は数十行に上った。中国政府に無許可で借り入れた対外債務も見つかった。

ゴールドマン・サックスと契約した広東省政府の王岐山
(1998年12月)
一方、粤海企業については1998年12月16日に債務再編が発表され、そのアドバイザーとして、米国のゴールドマン・サックスが就任した。粤海企業の総資産は1998年9月末で194億香港ドルに上ったが、132億香港ドルの債務超過。当時の報道によると、債務は60億米ドル近くに上り、債権銀行は200行を超え、500社以上の企業と1,000社を超える債権者が関係するという複雑多岐にわたる再編計画だった。

粤海企業の再編をめぐり記者の質問に答える王岐山 この債務再編契約が交わされたのは2000年12月22日。債権者との協議には2年の時間を要し、広東省政府は中国本土から香港への給水事業などの優良資産を粤海企業に注入した。

ジティックと粤海企業には共通点が多かった。子会社の数が数百社に上り、社内でも把握できない状態だった。グループ企業間で債務不履行が発生し、子会社の借り入れや投資もコントロールできていなかった。

こうした放漫経営が続いた結果、現金の流出が続き、負債も膨れ上がった。当時は計画経済から市場経済への過渡期にあり、経営陣は企業マネジメントのノウハウを欠いていた。一言でいえば“杜撰”だった。

日本が受けた衝撃

栄誉礼を受ける小渕恵三首相と同行する朱鎔基首相
(1999年7月8日)
ジティックの対外債務には130を超える海外の銀行が関わっていたが、最も大きな衝撃を受けたのは日本だった。当時の小渕恵三首相は1999年7月上旬に中国を訪問し、朱鎔基首相と会談。この席でジティックの破綻について、適切な処理を申し入れた。こうした外交の席で、個別企業の問題という非政治的な話題が出るのは珍しかった。

こうした申し入れの背景には、日本の金融業界の不満があった。小渕首相が訪中する4カ月前、朱鎔基首相は記者会見の席でジティック問題に関する日本人記者の質問を受けたが、その答えが日本の期待に反するものだったからだ。

「ジティックの破綻申請は、金融改革の過程で起きた個別の事件だ。だが、この事件は非常に重要であり、世界に向けて一つのメッセージを発した。それは中国政府が一つの金融会社のために借金を肩代わりすることはないということだ。もし、中国政府がその借金を保証しているのなら別の話だが。

記者の質問に答える朱鎔基首相
(1999年3月15日)
つまり、外国の銀行や金融機関が、こうした中国の金融会社に融資する際は、必ずリスクを分析し、慎重に実行すべきということだ。

こうした中国のやり方は、金融改革の原則を守るものであると世論も認識しており、国際的な慣例にも合致する。

一部の債権銀行や金融機関は、この問題について悲観的すぎると思う。例えば、中国に金融危機が発生したとか、支払い能力がないとか、信用を守らないとか。

中国は高度成長を保っており、すでに外貨準備は1,465億米ドルに上る。国際収支もバランスが取れ、債務返済能力を有している。問題は、こうした債務を中国政府が支払うべきなのかという点だ」

これが朱鎔基首相の答えだった。実際のところ、中国の中央政府や広東省政府はジティックの債務を保証していないし、前述のように信託投資公司の問題点を早くから認識していたうえ、その改革を何度も進めてきた。こうした中国の状況は、当時の日本でどれほど知られていただろうか。

ジティックの第7期取締役会の記念写真
(1987年)
当時は現在と違い、日本の中国に対するイメージは比較的ポジティブだった。日本では大型金融機関が破綻すれば、政府が救済などに動くので、中国もきっとそうだという思い込みもあっただろう。ましてやジティックの創設者は広東省政府であり、“日本の常識”に照らせば、政府による救済を期待するのも無理からぬことではなかった。

ジティックの第5回債権者大会
(2003年2月28日)
日本と違い、欧米の金融機関は朱鎔基首相の発言をポジティブに捉えた。これは中国の金融改革が進めていた“政府と企業の分離”がさらに徹底され、“借りた者が返済する”という道理が明確になることを意味するからだ。

破綻したジティックの資産競売会
破綻処理が完了したのは2020年末
(2017年6月29日)
中央政府がジティックを厳しく処分することは、金融改革が一段と強化されるというシグナルでもある。長期的には中国の金融リスク防止メカニズムが強化されることになると、欧米の金融機関は前向きに捉えた。

ジティックと粤海企業の問題は、中国最大の企業破綻事件、企業再編事件となったが、これを教訓に中国はリスクや企業経営のマネジメントの能力を向上させた。

対中イメージの180度転換

このジティック事件は、日本の金融業界に大きな爪痕を残し、中国に対する見方を180度変えた。それまでは中国に過剰なまでにポジティブだったが、今度は極端にネガティブになった。ジティック事件から20年以上が過ぎた現在でも、中国の金融機関はいい加減という印象を持つ日本人は多い。

しかし、この20年間で中国の金融機関は不良債権処理やマネジメントのノウハウを蓄え、いまや日本の金融機関など足元に及ばないまで成長している。

英国の雑誌「ザ・バンカー」が毎年発表する“世界の銀行トップ1000”では、中国の四大国有銀行がトップ4を占める。2021年度版のランキングでは、中国工商銀行が9年連続で世界1位となった。資産規模や収益性においても、日本の銀行をはるかに上回る。

AIIBの協定調印式(2015年6月29日) 2017年11月29日の参議院予算委員会で、当時の麻生太郎・財務大臣は中国が主導するアジアインフラ投資銀行(AIIB)の運営や融資審査に懸念を示し、「金を貸した経験のない人が急に貸すという話だ。お手並み拝見だと思ってみている」と述べた。

こうした発言を聞くと、中国に対する認識が1990年代で止まり、当時の印象に引きずられていることがうかがえる。麻生氏だけではなく、多くの日本人がそうなのかもしれない。

イメージと思い込みの危うさ

ジティック事件で日本が大きな影響を受けたのは、目まぐるしく変化する中国情勢を十分に把握できず、勝手なイメージや思い込みに振り回された結果と思う。そして、現在でも過去のイメージや思い込みに振り回されていると感じる。

イメージや思い込みに基づく戦略は、ポジティブであろうが、ネガティブであろうが、いずれも危うい。だが、中国経済に関する日本の報道を見ると、現地で流れるネガティブなニュースは日本に伝わりやすいが、ポジティブなニュースは採用されないことが多く、偏ったイメージを醸成している。思い込みで作った台本に沿う“答えありきの取材”も多い。

日本語と中国語のバイリンガルの間では、そうした“中国情報の選別”が広く知られ、なかば“常識”となっている。一方、モノリンガルである多くの日本人は、日本語のニュースしか知らないため、事前に情報が選別されていることに気づいていないし、気づきようもない。

その結果、いまだに中国はさまざまな面で日本に劣ると思い込んでいる日本人も多く、たまに中国経済のポジティブなニュースが流れると、それを疑ったり、信じなかったりすることすらある。

国際的なビジネスや投資に、イメージや思い込みは禁物だ。ポジティブなイメージにはリスクを冒してしまう危険が潜んでおり、ネガティブな思い込みはチャンスを逃すことにつながるからだ。いまの日本に必要なのは、イメージや思い込みに頼らない判断能力と専門的でタイムリーな情報収集能力ではないだろうか。

2030年ごろにも中国の国内総生産(GDP)は米国と肩を並べ、“米中二大国時代”が本格的に到来するだろう。これは国際通貨基金(IMF)の見通しだ。米中二大国が対立関係を深めるなか、その中間に位置する日本にとって、上記のような判断能力と情報収集能力は、より一層重要になるだろう。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は6/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 75. マカオ返還までの道程(後編)NEW!
  3. 74. マカオ返還までの道程(前編)
  4. 73. 悪徳の都(後編)
  5. 72. 悪徳の都(前編)
  6. 71. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(後編)
  7. 70. マカオの衰退とポルトガル王国の混乱(前編)
  8. 69. 激動のマカオとその黄金時代
  9. 68. ポルトガル海上帝国とマカオ誕生
  10. 67. 1999年の中国と新時代の予感
  11. 66. 株式市場の変革期
  12. 65. 無秩序からの健全化
  13. 64. アジア通貨危機と中国本土
  14. 63. “一国四通貨”の歴史
  15. 62. ヘッジファンドとの戦い
  16. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  17. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  18. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  19. 58. 英領香港最後の日
  20. 57. 返還に向けた香港の変化
  21. 56. 東南アジア華人社会
  22. 55. 大富豪と悪人のブルース
  23. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  24. 53. 香港望族の系譜
  25. 52. 最後の総督
  26. 51. 香港返還への布石
  27. 50. 天安門事件と香港
  28. 49. 天安門事件の前夜
  29. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  30. 47. 香港問題と英中交渉
  31. 46. 返還前の香港と中国共産党
  32. 45. 改革開放と香港
  33. 44. 香港経済界の主役交代
  34. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  35. 42. “大時代”の到来
  36. 41. 四会時代の幕開け
  37. 40. 混乱続きの香港60年代
  38. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  39. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  40. 37. 日本統治下の香港
  41. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  42. 35. 香港株式市場の草創期
  43. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  44. 33. ヘネシー総督の時代
  45. 32. 香港株式市場の黎明期
  46. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  47. 30. 通貨の信用
  48. 29. 香港のお金のはじまり
  49. 28. 327の呪いと新時代の到来
  50. 27. 地獄への7分47秒
  51. 26. 中国株との出会い
  52. 25. 呑み込まれる恐怖
  53. 24. ネイホウ!H株
  54. 23. 中国最大の株券闇市
  55. 22. 欲望、腐敗、流血
  56. 21. 悪意の萌芽
  57. 20. 文化広場の株式市場
  58. 19. 大暴れした上海市場
  59. 18. ニーハオ!B株
  60. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  61. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  62. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  63. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  64. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  65. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  66. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  67. 10. 経済特区の株券
  68. 09. “百万元”と呼ばれた男
  69. 08. 鄧小平からの贈り物
  70. 07. 世界一小さな取引所
  71. 06. こっそりと開いた証券市場
  72. 05. 目覚めた上海の投資家
  73. 04. 魔都の証券市場
  74. 03. 中国各地の暗闘者
  75. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに