コラム・連載

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」

四会統一と暗黒の月曜日

2021.1.5|text by 千原 靖弘(内藤証券投資調査部 情報統括次長)

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香港証券市場は百年以上にわたり英国人に支配されていたが、1969年12月17日にその独占体制は打ち破られた。四つの取引所が並存する“四会時代”を迎え、香港財閥の形成や 株式投資の大衆化が進展した。しかし、狭い香港に四つの取引所は多すぎた。香港政庁は1970年代中頃から取引所の合併を模索し始めたが、それが実現するには十年以上の歳月を要したうえ、その直後には大きな試練が待ち構えていた。

変革期の四会時代

この連載の第四十一回と第四十二回で詳しく紹介したように、香港証券市場は1972年1月5日に“四会時代”を迎えた。これは以下の四つの取引所が並存した時代だった。

【1】香港会:香港証券交易所(The Hong Kong Stock Exchange Limited)
【2】遠東会:遠東証券交易所(The Far East Exchange Limited)
【3】金銀会:金銀証券交易所(The Kam Ngan Stock Exchange Limited)
【4】九龍会:九龍証券交易所(The Kowloon Stock Exchange Limited)

香港証券市場は1947年3月から香港会が独占していた。香港会は西洋人や華人エリートの既得権益集団であり、英語しか通用しない。英国企業を重視する一方で、成長著しい香港地場の華人企業を無視。その閉鎖性から、1960年代末になっても、香港証券市場の規模は19世紀と変わらぬ水準にとどまっていた。

遠東会を創設した李福兆(左三) 李福兆(ロナルド・リー)が率いる遠東会が1969年12月17日に開業すると、香港証券市場の旧弊を次々と打破。まだ香港の公用語ではなかった中国語を使用言語として採用し、株式投資の大衆化を促進した。また、上場基準も緩和し、華人企業が資金調達する機会を創出。これは香港財閥が誕生する契機となった。

金銀会と九龍会が後に創設され、“四会時代”に突入。香港証券市場に革新をもたらした。かつて証券市場を独占していた香港会は、売買代金で遠東会に抜かれ、やがて金銀会にも追い越された。こうして香港証券市場の主役は、英国人と英国企業から、華人企業と中国系市民に交代した。李福兆が香港会の独占体制を打破しなければ、今日のような香港証券市場の繁栄はなかっただろう。その功績は大きかった。

四会統一への動き

四会時代を迎えたことで、香港証券市場に競争原理が働き、数々の好ましい変革が起きた。 しかし、香港のような狭い地域に、四つも取引所が存在する弊害もあった。四つの取引所は 規模も目標もそれぞれ異なり、統一的な基準を設けることができなかった。そのため、企業 の上場、売買注文の方法、情報のやり取りなどに相違があり、香港政庁の監督管理が難しく なっていた。

四つの取引所主席が集合
聯会発足の共同記者会見
(1974年)
こうした状況を背景に、香港政庁は四つの取引所の合併・統一を1970年代の初めごろから模索していた。その結果、1974年7月に香港証券交易所聯会(The Hong Kong Federation of Stock Exchange)が発足するに至った。この組織は“聯会”と呼ばれ、香港証券市場の方向性と取引所の合併について、四つの取引所が意見交換する場となった。

小合併・大分裂の危機”

遠東会と香港会の共同記者会見
(1977年)
聯会は四つの取引所が意見交換する場だったが、遠東会と香港会は密かに独自の行動を起こしていた。1977年4月6日に遠東会と香港会は、合併することで合意したと発表。突然の発表に、香港政庁や証券業界は衝撃を受けた。

このニュースを受け、批判的な論評が相次いだ。これは聯会分裂の危機であり、四つの取引所の合併・統一は遠のいたとの見方が広がった。遠東会と香港会の目論見は香港全体のことを考えておらず、“小合併・大分裂”であると批判する声が高まった。

こうした声を受け、遠東会との合併を強く推していた香港会のフランシス・ジンマーン主席は、1977年4月19日に辞任するに至った。香港会の内部でも、大部分の会員は遠東会との単独合併に反対しており、この事件はジンマーン主席の暴走だったと言えよう。こうして“小合併・大分裂”の危機は免れた。

だが、この事件が合併・統一を早めるべきとの世論を醸成。1977年5月に四つの取引所による作業グループが立ち上げられた。しかし、四つの取引所は資産規模、制度、会員数、会費などの差異が大きく、協議は一向に進まなかった。

聯交所の創設

東京証券取引所を視察する遠東会の一行
一番奥の人物が李福兆・主席
(1982 年)
こうした膠着状態を受け、香港政庁が調停に動き、少しずつ話し合いが進展。1980年7月に香港聯合交易所(The Stock Exchange of Hong Kong Limited)が創設された。この香港聯合交易所こそ、今日まで続く香港証券取引所であり、香港では“聯交所”と呼ばれる。聯交所の創設に合わせ、調停役の香港政庁は同年8月の主法局会議で「1980年証券交易所合併法案」を採択。四つの取引所の合併に向け、法的な保障を与えた。

聯交所は創設されたものの、実質な運営開始には時間を要した。しかし、組織としては成り立っており、1981年10月に第一期管理委員会の選挙が実施された。第一期の主席には、金銀会の創設者である胡漢輝が選ばれた。遠東会の創設者である李福兆は、副主席に就任した。

胡漢輝は第二期の主席も務めたが、連続三選が禁じられていたため、第三期は立候補しなかった。第三期の主席に選ばれたのは李福兆で、そのまま第四期も務めた。第五期は再び胡漢輝が当選。しかし、胡漢輝は1985年7月30日に逝去した。そこで李福兆が主席に就任。聯交所の開業に向けて動き出した。

期貨所の創設

1985年10月30日の立法局
壇上のユード総督に宣誓する李柱銘・議員
李福兆が聯交所の第五期主席に就任した1985年、香港の証券業界ではもう一つの大きな動きがあった。それは先物取引所の香港期貨交易所(The Futures Exchange of Hong Kong Limited)の発足だった。これは聯交所と並んで、“期交所”と呼ばれた。主席には立法局の非オフィシャル議員(民間議員)を務めていた湛佑森が就任。副主席は李福兆が務めることになった。

期交所は1986年5月6日にハンセン指数先物の取引を開始。取引はあっという間に拡大し、1987年9月にはシカゴ・マーカンタイル取引所(CME)に次ぐ証券先物市場に成長した。

聯交所の開業

聯交所の交易大堂に立つ李福兆・主席
(1986年4月2日)
聯会の発足から約12年の歳月を経て、ついに四つの取引所が一つになる時が来た。1986年3月27日の取引終了後、四つの取引所は同時に業務を停止。4月2日現地時間の10時に、香港島のセントラル(中環)に完成したばかりの交易広場(Exchange Square)で、聯交所の開業式典が開かれた。

交易広場のトレーディング・ホール(交易大堂)には、聯交所の李福兆・主席のほか、ジョン・ヘンリー・ブレンリッジ財政長官など香港政庁の要人が集まった。この新しい取引所で最初に注文を出したのは、ブレンリッジ財政長官だった。

ブレンリッジ財政長官が出したのは、スワイヤ・パシフィック(太古洋行)の買い注文だった。それには二つの理由があった。一つはブレンリッジ財政長官が、もともとスワイヤ・パシフィックの主席を務めていたから。もう一つはスワイヤ・パシフィックが業界内で“大吉祥”と呼ばれ、縁起が良いからだ。

たしかにスワイヤ・パシフィックは、中国語名の最初の三文字である“太古洋”が、“大吉祥”という文字に似ている。縁起を担ぐのは、中国系市民だけではなく、香港在住の英国人も同じだった。

この日に取引されたのは、四会時代から上場していた既存の323銘柄。出来高は3,312万9,712株、売買代金は2億2,635万3,126香港ドルだった

獅子に瞳を書き入れるユード総督
聯交所のグランド・オープニング式典
(1986年10月6日)
聯交所は最新式の売買システムを採用し、高い評価を得た。1986年9月22日には国際取引所連合(WFE)の正会員となり、国際金融センターとしての香港の地位は一段と高まった。

10月6日には第二十六代香港総督のエドワード・ユードを迎え、盛大なグランド・オープニング式典を開催。銅鑼や太鼓が演奏されるなか、獅子舞が演じられた。ユード総督が筆で獅子に瞳を入れ、香港証券市場が新しい時代を迎えたことを宣言した。その日の夜には、香港体育館(香港コロシアム)で3,000人あまりの大宴会を開き、大いに盛り上がったという。

1986年の株式相場

聯交所が開業する直前、つまり四会時代の末期は、香港株式市場の地合いが良好だった。1984年9月26日に英中共同声明の草案が署名される直前に、ハンセン指数は上昇基調に転じた。1984年はハンセン指数が年間で37.2%上昇。香港返還をめぐる不透明感が払拭されたことで、1985年はハンセン指数の年間上昇率が46.0%に達した。

この勢いは1986年に入ってからも続き、1月7日にハンセン指数は過去最高値を更新し、1,815.53ポイントを付けた。しかし、ニューヨーク市場の調整や嘉華銀行の経営不振を背景に、その後のハンセン指数は下落。1月31日の終値は1,695.78ポイントだった。

2~3月のハンセン指数は、総じて低調だった。四会時代最後の取引日である3月27日は、1,625.94ポイントで終了した。

聯交所の開業初日である4月2日は、様子見ムードが強く、ハンセン指数は前日比1.4%安の1,603.27ポイントで終了。しかし、投資家心理が好転し、4月30日の終値は1,836.99ポイント。4月の月間上昇率は13.0%に達した。5~6月は再び低調となったが、米国の利下げなどを受け、7月に入ると相場は勢いを取り戻した。

ハンセン指数は8月4日に終値を1,900ポイント台に乗せると、9月24日には2,000ポイントの大台を突破。勢いは止まらず、1986年末の終値は2,568.30ポイントに達し、年間上昇率は46.6%を記録した。年間の売買代金は1,231億2,800万香港ドルに上り、前年に比べ62.4%も増加した。

1986年は好相場を背景に、大手企業が上場。小売大手のデイリー・ファームは、1972年に香港置地(ホンコン・ランド)に買収され、一度は株式市場から姿を消したが、1986年に再上場を果たした。また、創業四十周年を迎えたキャセイパシフィック航空(国泰航空)も、この年に上場した。

空前の好相場と李嘉誠の増資計画

四つの取引所が合併し、聯交所が発足すると、シナジー効果(相乗効果)を発揮。香港証券市場の実力が高まり、香港が国際金融センターとして成長するための基盤が、一段と強化された。1986年の好相場は、1987年に入ってからも続いた。

ハンセン指数は6月4日に終値で3,000ポイントの大台を突破。8月3日は3,500ポイントを超え、3,514.25ポイントで終了。前年末比で36.8%も上昇した。株価はその後も堅調で、8月最終取引日の28日には3,611.74ポイントに達した。

長江グループを率いる李嘉誠(右)
左は和記黄埔のサイモン・マーレイ総経理
(1987年)
こうした株価高のなか、9月14日に長江グループを率いる李嘉誠が、香港史上最大の増資計画を発表した。李嘉誠はこの年に始まったフォーブス世界長者番付に、さっそくノミネートされており、すでに香港を代表する富豪の一人となっていた。

増資を実施するのは、長江実業、ハチソン・ワンポア(和記黄埔)、嘉宏国際、香港電灯の4社。いずれも株主割当増資であり、それぞれの資本関係に応じて長江グループ内の企業も新株を購入。一連の株主割当増資による資金調達額は、計103億2700万香港ドルを予定していた。

巨額の資金が長江グループ4社の新株購入に回ることから、この計画は株式市場にとっての悪材料と言える。しかし、ハンセン指数はその後も上昇を続け、9月23日には終値で3,700ポイントを突破。二日後の9月25日には3,800ポイントを超え、9月30日には3,900ポイント台に乗せた。

ブラックマンデー

イラン・イラク戦争最中の1987年10月15日、米軍護衛のタンカーがイラン軍のミサイル攻撃を受けた。その報復として米軍はイランの石油プラットフォームを攻撃。原油不安が高まった。それも影響してか、10月16日のニューヨーク市場ではダウ平均が前日比で4.8%下落した。

株価の急落で涙を流すトレーダー 週が明けて10月19日を迎え、香港市場の取引が始まると、ハンセン指数が突然急落した。この日のハンセン指数は、前日比11.1%安の3,362.39ポイントで終了。一日で420.81ポイントも下落した。

ハンセン指数の急落は、アジア太平洋地域に波及し、日経平均は14.9%安を記録した。株価暴落の波は地球の回転に合わせて西へと伝わり、欧州市場も大暴落。そして地球を一周し、10月19日のニューヨーク市場は、ダウ平均が前日比で22.6%下落。下落幅は507.99ドルに達した。

この世界的な株価急落はブラックマンデーと呼ばれ、日本では“暗黒の月曜日”、中国では“黒色星期一”と言う。

4日間の臨時休場

臨時休場で閉鎖された交易大堂 誕生したばかりの聯交所にとって、ブラックマンデーは初めて迎える試練となった。聯交所の幹部が集まり、10月20日の朝から緊急会議を開催。空前の株価暴落を解決するには時間が必要という意見で一致し、臨時休場の方針が固まった。

どのくらいの期間にわたって休場するかで意見がもめたが、最終的に4日間の臨時休場が決まった。臨時休場の方針については、李福兆・主席が香港政庁に電話し、同意を取り付けたと説明した。

しかし、世界各地の取引所は、取引を継続した。ブラックマンデー以降も世界的な株安は続いていたが、そうしたなかでも世界中の取引所が、投資家に売買機会を提供していた。唯一の例外が、香港の聯交所だった。聯交所の4日間休場という措置は、香港だけではなく、各国からも批判を浴びた。後に香港民主党を創設する李柱銘(マーティン・リー)は、立法局の会議で李福兆の辞任を要求した。

休場明けの交易大堂 株価を見守る香港の人々 こうした批判を受け、聯交所は香港政庁の同意を受けて休場を決めたと説明した。だが、香港政庁は責任回避の姿勢を示し、“電話での返事を基準にしてはならない”と弁明。休場の決定に“同意した”のではなく、“受け入れた”だけと主張した。これは聯交所と香港政庁による責任のなすり合いであり、香港証券市場の監督管理に不備があることを露呈した。

4日間の臨時休場が終わり、週末を挟んで10月26日に香港市場は取引を再開。異例の臨時休場も空しく、ハンセン指数は大暴落。終値は前日比33.3%安の2,241.69ポイント。下落幅は1,120.70ポイントに達した。信用取引で株式を購入していた投資家は、とんでもない大損となった。相場の急変で売買代金は急増し、前年比201.6%増の3,714億645万香港ドルを記録した。

怒号の記者会見

1987年10月26日の記者会見
右端の人物が李福兆・主席
香港市場が再開した10月26日の夜、聯交所は記者会見を開いた。臨時休場について李福兆・主席は、適切な措置だったと強調。時には冗談を交えながら、広東語と英語で以下のように見解を語った。

「これは適切な決定だ。もし26日のような暴落が20日に発生していれば、おそらくもっと不幸な出来事となっただろう。なぜなら、誰もが何の準備もできていなかったからだ。

この4日間の休場措置で、株価の下落は阻止できなかったが、人々を冷静にすることはできた。

わたしは香港市場の下げ幅が、ニューヨーク市場よりも大きいとは思わない。どこの市場も同じように下落したと思う。みんな好きなように言えば良い。

例えば、一人の女性に向かって、“とても美しいですね”と言うも良い。“とても醜いですね”と言うのも良い。彼女が健康でいてくれれば、何を言われたって気にしない。まぁ、そんな心境だ(笑)」

 このように時には笑顔で、割と上機嫌だった。しかし、オーストラリア人記者が質問すると、李福兆・主席の態度が豹変した。

「休場措置は李福兆・主席の個人的な利益のためだったのでは?」

オーストラリア人記者を怒鳴る李福兆・主席 これがオーストラリア人記者の質問だった。これを聞いた李福兆・主席は血相を変え、英語で怒鳴り出した。

「なんて言った?お前のそれは、悪意に満ちた誹謗中傷だ!」

李福兆・主席の顔は怒りが充満。オーストラリア人記者を指差ししながら、早口の英語でまくし立てた。

「なんて名前だ?お前の名前を言え!弁護士に記録させるから、お前の名前を言え!

お前を誹謗中傷で訴えてやる!さっき言ったことは、法律違反だ!

こっちは何の違法行為もしていない!お前の発言は、ひどすぎる!

即刻撤回しなければ、すぐにでも訴えてやる!

お前の名前は何だ?早く名乗れ!名前と住所を言え!」

こう言うと、李福兆・主席はテーブルを“バン!”と叩いた。さらに、こう続けた。

「お前の発言は違法だ!違法なのはお前であって、俺ではない。

お前は俺が法を犯したと言った。お前の名前は何だ?訴えてやるから、早く名乗れ!

名乗らないなら、お前こそ無責任だ!お前に召喚状を送るからな!早く名乗りやがれ!

早く言え!早く!」

記者会見は怒号と喧騒に包まれた “違法”という言葉は、記者も使っていないのだが、なぜか李福兆・主席の口から飛び出した。興奮する李福兆・主席に同調するかたちで、何人かの聯交所の幹部が、記者に向かって指差しした。その一方で別の幹部は、落ち着くよう働きかけたが、李福兆・主席の興奮は収まらなかった。

結局、オーストラリア人記者は別室に連れて行かれ、怒号と喧騒の中で記者会見は終了した。

“李福兆・主席には何かやましいことがある”――。この記者会見をテレビで見た香港市民は、誰もがそう理解した。李福兆・主席の記者会見での態度は海外でも報道され、香港市場に対する信頼は大きく低下した。

二人の李の明暗

1987年の株式市場は、このような大激震に見舞われた。この年のハンセン指数は、2,302.75ポイントで終了。年間の下落率は10.3%に過ぎないが、最高値の3,947.25ポイントからの下落率は41.7%に達した。

ブラックマンデーで相場が急変したことを受け、李嘉誠が長江グループ4社の株主割当増資を予定通りに実行するのかが注目された。新株の販売を引き受けた証券会社は、もちろん実行に反対だった。相場の急変で売れそうもない株式を買い取る責任があるからだ。

しかし、李嘉誠は計画を断行することに成功。予定通り103億2700万香港ドルを調達し、その手腕は香港中の賞賛を集めた。

一方、李福兆・主席の運命は悲惨だった。1987年末の聯交所の選挙では再選できず、副主席にとどまった。それから間もない年明けの1988年1月2日に、汚職取締機関の廉政公署(ICAC)が、李福兆を逮捕すると発表した。上場審査の過程で、新株の割り当てを受け、利益を得たという収賄の容疑だった。

ICACに連行される李福兆 李福兆は1990年に懲役4年の刑が確定。模範囚だったことから、32カ月で出獄すると、1994年にタイに移住し、そこで隠居生活を続けた。2012年に胃がんを患い、香港で手術を受けたが、病状が好転することはなく、2014年12月に86歳で死去した。

李福兆が香港証券市場の発展に残した功績は大きかった。しかし、ブラックマンデーを受け、汚職が露呈。寂しい晩年を過ごすことになった。

なお、香港証券市場では四会時代の前から、新規上場の企業から証券会社や取引所の幹部への“あいさつ”として、彼らに新株を割り当てることが習慣として公然と行われていたという。公然の事実だったことから、この習慣が汚職に該当するという意識は、聯交所の幹部にはなかったようだ。

こうした事情を背景に、李福兆を汚職で起訴したのは、彼に責任を押し付けようとする政治的思惑だったとして、擁護する意見もある。

法制度の整備と監督管理の強化

中国本土では1992年8月の8.10事件を受け、中国証券監督管理委員会(CSRC)が発足。1995年に327国債先物事件が起きると、証券業界に対する地方政府の権限が削がれ、中央政府の監督管理権が強化された。株式市場で大事件が起きると、政府による監督管理が強化されるのが世の常だ。

香港でもブラックマンデーを受け、こうした動きが起きた。ユード総督が1986年12月5日に北京で客死したため、その当時の香港政庁トップは、デビッド・エイカー=ジョーンズ代理総督だった。そのエイカー=ジョーンズ代理総督は、1987年11月16日に証券業検討委員会を立ち上げた。

証券業検討委員会のイアン・ヘイ・デービソン主席 “証監会(SFC)の父”と呼ばれる人物
手にしているのは香港証券業界を分析した報告書
証券業検討委員会は英国から専門家を招き、調査を実施。7カ月の時間と500万香港ドルの費用をかけ、1988年6月2日に443ページに及ぶ報告書を完成させた。この報告書は香港証券業界を分析し、数々の提言を盛り込んだものだった。

この報告書を香港政庁は直ちに採用。聯交所と期交所の監督管理に向けたグループが、立法局に設けられた。7月13日に立法局は、大量保有報告について定めた「1988年証券(公開権益)条例」を可決。聯交所では7月20日に会員大会を開き、新たな定款を承認。10月18日に定款改正後の最初の理事会メンバー22人を選出した。

1989年3月には証券の受け渡しと決済を集中管理する香港中央結算有限公司(Hong Kong Securities Clearing Company Limited)が発足。証券先物取引についても、期交所の傘下に香港期貨結算有限公司(Hong Kong Futures Exchange Clearing Corporation)が設けられた。

この年の4月12日に立法局は、「1989年証券及期貨事務監察委員会条例」を可決。これを受け、同年5月1日に証券及期貨事務監察委員会(SFC)が発足した。SFCの中国語の通称は“証監会”。こうして、聯交所と期交所を統一的に監督管理する体制が整った。

一連の改革を通じ、証券市場に対する監督管理機能が強化され、香港は国際金融センターとしての信頼を回復した。

私的倶楽部から社会の公器へ

証監会(SFC)が入居する港島東中心
英語名は One Island East
この摩天楼から香港証券市場を監視する
聯交所について専門家の報告書は、プライベート・クラブ(私的倶楽部)と化しているのではないかと指摘。これに聯交所の幹部たちは憤慨した。ひと昔前に英国人が支配していた香港会も、何人かの株式仲介人が自らの利権と事業のために創設した私的組織だったからだ。そもそも香港の取引所は、私的倶楽部のような組織として発展した歴史があり、“いまさらそれを問題視するのは不公平”というのが、聯交所幹部の感想だった。

その一方で時代の変化を察知した人々は、取引所が香港全体に与える影響を考えると、もはや監督管理不在の私的倶楽部ではいられないと指摘した。

その指摘によると、香港会の独占時代は、取引所といえども香港のほんの一部にすぎず、香港政庁の監督管理も不要だった。四会時代は四つの取引所が競争し合ったことで均衡が取れ、これも監督管理の必要性は、それほどでもなかった。

しかし、四つの取引所が合併し、聯交所が誕生すると、取引所の活動は香港金融システムの重要な要素となり、香港政庁も放置できなくなった。聯交所は香港の経済や社会に重大な影響を与えてしまうのに、何の監督管理も及ばない。これでは“歪んだ独占体制”と言われても仕方ないという。

こうした考えの下、前述のような改革が進み、私的倶楽部だった取引所は、社会の公器へと変わっていった。そうした変化は、香港が国際金融センターとして成長するうえで、避けては通れぬ道だった。聯交所の誕生とブラックマンデーに続く、香港証券市場の一連の改革は、まさに「雨降って地固まる」と言えるだろう。

 

内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は2/5公開予定です。お楽しみに!

バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 64. アジア通貨危機と中国本土NEW!
  3. 63. “一国四通貨”の歴史
  4. 62. ヘッジファンドとの戦い
  5. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  6. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  7. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  8. 58. 英領香港最後の日
  9. 57. 返還に向けた香港の変化
  10. 56. 東南アジア華人社会
  11. 55. 大富豪と悪人のブルース
  12. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  13. 53. 香港望族の系譜
  14. 52. 最後の総督
  15. 51. 香港返還への布石
  16. 50. 天安門事件と香港
  17. 49. 天安門事件の前夜
  18. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  19. 47. 香港問題と英中交渉
  20. 46. 返還前の香港と中国共産党
  21. 45. 改革開放と香港
  22. 44. 香港経済界の主役交代
  23. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  24. 42. “大時代”の到来
  25. 41. 四会時代の幕開け
  26. 40. 混乱続きの香港60年代
  27. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  28. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  29. 37. 日本統治下の香港
  30. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  31. 35. 香港株式市場の草創期
  32. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  33. 33. ヘネシー総督の時代
  34. 32. 香港株式市場の黎明期
  35. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  36. 30. 通貨の信用
  37. 29. 香港のお金のはじまり
  38. 28. 327の呪いと新時代の到来
  39. 27. 地獄への7分47秒
  40. 26. 中国株との出会い
  41. 25. 呑み込まれる恐怖
  42. 24. ネイホウ!H株
  43. 23. 中国最大の株券闇市
  44. 22. 欲望、腐敗、流血
  45. 21. 悪意の萌芽
  46. 20. 文化広場の株式市場
  47. 19. 大暴れした上海市場
  48. 18. ニーハオ!B株
  49. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  50. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  51. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  52. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  53. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  54. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  55. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  56. 10. 経済特区の株券
  57. 09. “百万元”と呼ばれた男
  58. 08. 鄧小平からの贈り物
  59. 07. 世界一小さな取引所
  60. 06. こっそりと開いた証券市場
  61. 05. 目覚めた上海の投資家
  62. 04. 魔都の証券市場
  63. 03. 中国各地の暗闘者
  64. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  65. 01. 中国株の誕生前夜
  66. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券投資調査部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


バックナンバー
  1. 内藤証券投資調査部のキーマンが見た「中国株の底流」
  2. 64. アジア通貨危機と中国本土NEW!
  3. 63. “一国四通貨”の歴史
  4. 62. ヘッジファンドとの戦い
  5. 61. 韓国の通貨危機と苦難の歴史
  6. 60. 通貨防衛に成功した香港ドル
  7. 59. 東南アジアの異変と嵐の予感
  8. 58. 英領香港最後の日
  9. 57. 返還に向けた香港の変化
  10. 56. 東南アジア華人社会
  11. 55. 大富豪と悪人のブルース
  12. 54. 上海の寧波商幇と戦後の香港
  13. 53. 香港望族の系譜
  14. 52. 最後の総督
  15. 51. 香港返還への布石
  16. 50. 天安門事件と香港
  17. 49. 天安門事件の前夜
  18. 48. 四会統一と暗黒の月曜日
  19. 47. 香港問題と英中交渉
  20. 46. 返還前の香港と中国共産党
  21. 45. 改革開放と香港
  22. 44. 香港経済界の主役交代
  23. 43. “黄金の十年”マクレホース時代
  24. 42. “大時代”の到来
  25. 41. 四会時代の幕開け
  26. 40. 混乱続きの香港60年代
  27. 39. 香港の経済発展と社会の分裂
  28. 38. 香港の戦後復興と株式市場
  29. 37. 日本統治下の香港
  30. 36. 香港初の抵抗運動と株式市場
  31. 35. 香港株式市場の草創期
  32. 34. 香港西洋人社会の利害対立
  33. 33. ヘネシー総督の時代
  34. 32. 香港株式市場の黎明期
  35. 31. 戦後国際情勢と香港ドル
  36. 30. 通貨の信用
  37. 29. 香港のお金のはじまり
  38. 28. 327の呪いと新時代の到来
  39. 27. 地獄への7分47秒
  40. 26. 中国株との出会い
  41. 25. 呑み込まれる恐怖
  42. 24. ネイホウ!H株
  43. 23. 中国最大の株券闇市
  44. 22. 欲望、腐敗、流血
  45. 21. 悪意の萌芽
  46. 20. 文化広場の株式市場
  47. 19. 大暴れした上海市場
  48. 18. ニーハオ!B株
  49. 17. 上海市場の株券を回収せよ!
  50. 16. 深圳市場を蘇生せよ!
  51. 15. 上海証券取引所のドタバタ開業
  52. 14. 半年で取引所を開業せよ!
  53. 13. 2度も開業した深セン証券取引所
  54. 12. 2人の大物と日本帰りの男
  55. 11. 株券狂想曲と中国株の存続危機
  56. 10. 経済特区の株券
  57. 09. “百万元”と呼ばれた男
  58. 08. 鄧小平からの贈り物
  59. 07. 世界一小さな取引所
  60. 06. こっそりと開いた証券市場
  61. 05. 目覚めた上海の投資家
  62. 04. 魔都の証券市場
  63. 03. 中国各地の暗闘者
  64. 02. 赤レンガから生まれた中国株
  65. 01. 中国株の誕生前夜
  66. 00. はじめに