コラム・連載

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」

大暴れした上海市場

2018.8.5|text by 千原 靖弘(内藤証券中国部 情報統括次長)

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中華人民共和国の建国記念日である10月1日は、国慶節と呼ばれる。1991年の国慶節は、中国本土の株式市場にとって、大きな節目となった。深圳市場はこの連載の第十六回で紹介したように、初の市場介入によって株価が上昇局面に入った。一方、すでに堅調だった上海市場は、株価が一段と上昇。国慶節連休明けから1992年2月24日まで上海総合指数は上昇を続け、99日続伸を記録した。1992年5月21日には前日比105.27%高という驚異的な数字を叩き出した

株価指数とは何か

株価指数の“99日続伸”、“前日比105.27%高”という数字は、どれだけすごいのか?株に詳しくない人は、ピンと来ないのかもしれない。そこで、まずは株価指数とは何なのかを見てみよう。

チャールズ・ダウ テレビの経済ニュースを見ると、“ダウ平均株価”や“日経平均株価”といった株価指数の名前をよく耳にする。そして、“いくら値上がりした”、“いくら値下がりした”、“いくらになった”という数字が続く。株式投資に関心のない人でも、それが株の値上がりや値下がりを意味することは知っているだろう。

株式市場にはたくさんの銘柄があり、それぞれの株価や騰落率がある。“株”という一言でまとめるのは難しい。1日の値動きを見ても、値上がりしたものもあれば、値下がりしたものもある。個別の株価を見るだけでは、市場全体の値動きの方向性を判断するのは困難だ。

株価指数はそうした問題を解決する便利なツールだ。これがあることによって、たくさんの銘柄を“株”という一言でまとめることができる。

世界で最も有名で長い歴史を持つ株価指数は、米国のダウ工業株30種平均(ダウ平均株価)だ。平均株価という発想は、ダウ・ジョーンズの創設者の一人であるチャールズ・ダウが、1885年2月16日に12銘柄の1日平均を発表したことが起源。その当時の採用銘柄のほとんどは鉄道会社だったが、米国の産業構造の変化を反映するため、1896年5月26日から12銘柄で構成されるダウ工業株平均を発表。採用銘柄は段階的に増加し、1928年に30銘柄となった。こうした経緯から、“ダウ工業株30種平均”と呼ばれる。

ダウ平均株価のように、株価の合計と銘柄数で計算する株価指数は、“株価平均型株価指数”というタイプだ。225銘柄で構成される日本の日経平均株価も、同じタイプだ。平均株価であることから、単位は通貨となっており、ダウ平均株価であれば米ドル、日経平均株価であれば円で表示される。

一方、平均株価ではなく、採用銘柄の時価総額(株価×株数)の変動を反映する株価指数がある。基準日を設定し、その時点の採用銘柄の合計時価総額を基準ポイントとしたうえで、その変動を追うというタイプだ。単位は通貨ではなく、算出されたポイント。“時価総額加重平均型株価指数”や“浮動株基準株価指数”が、これに該当する。

世界的を見わたすと、こうした時価総額の変動を追うタイプの株価指数が主流。日本のTOPIX(東証株価指数)や香港のハンセン指数も、このタイプに属する。この連載の第七回で紹介したように、上海総合指数の母体となった静安指数は、TOPIXを参考に作られた。よって、上海総合指数は時価総額加重平均型株価指数だ。上海総合指数は上海市場の全銘柄を採用し、上海証券取引所が開業した1990年12月19日の時価総額を100ポイントとして始まった。

株価指数はたくさんの株価によって計算されたものであり、採用銘柄は上昇するものもあれば、下落するものもある。個別の株価に比べ、大きく変動することは少ない。株価指数が大きく変動するのは、よほどのことが起きた時と考えても、差し支えはない。また、前日比での上昇や下落が、10日以上も連続することは、非常にまれだ。

2017年の株価指数を見てみよう。ダウ平均は2月27日に12日続伸を達成。これは30年ぶりの記録だった。前日比での上昇率は1.46%が最大。下落率では1.78%が最も大きかった。続落の記録は8日。年間では25.1%上昇した。

日経平均株価は10月24日まで16日続伸。これは過去最高記録だ。前日比での上昇で最も大きかったのは2.51%。下落率では2.13%が最大だった。続落の記録は6日。年間では19.1%上昇した。

こうした株価指数の常識を考えると、1992年に記録した上海総合指数の“99日続伸”、“前日比105.27%高”が、いかに驚異的な数字だったか、お分かりいただけるだろう。

値幅制限の緩和

深圳証券取引所は1991年前半の株価低迷を背景に、それまで前日終値に対して上下0.5%としていた値幅制限の解除を検討。1991年6月8日に代表的な1銘柄の値幅制限が解除され、同年8月17日には全銘柄が対象となった。しかし、市場介入が実施されるまで、株価は低迷を続けた。

一方、上海市場では開業から間もない1990年12月28日から、1%の値幅制限が設けられていた。また、出来高が一定の水準に達しなければ、翌日も同じ価格制限を適用するという仕組みになっていた。

こうしたなか、深圳市場で値幅制限が全面解除されたことを受け、上海市場でも1992年2月18日から2銘柄に限り、値幅制限を撤廃した。同年3月27日には、さらに6銘柄の値幅制限を解除した。

なお、ニューヨーク市場やロンドン市場は、値幅制限がない。英国植民地時代から株式市場があった香港にも、値幅制限は設けられていない。市場原理を重視しているからだ。値幅制限があるのは、投資家保護に重きを置くアジアの市場が多い。日本では株価に応じて、パーセントではなく、金額による制限が設けられている。

朱鎔基が尉さんを刺激

上海証券取引所の尉文淵・総経理 上海市の市長だった朱鎔基は、国務院副総理に就任していた。1992年3月中旬に福建省アモイ市で座談会を開いたが、そこで上海証券取引所の李祥瑞・理事長を批判。上海市場の値幅制限制度が完全撤廃されていないことが、その理由だった。中国が市場原理を重視している姿勢を示す必要があったからであろう。

その話は上海証券取引所の尉文淵・総経理を刺激した。「だったら、やってやろうじゃあないか!」と、あの“勢い”のある尉さんが再び立ち上がった。だが、尉さんの上司たちは、これ以上の値幅制限の緩和に反対だった。

上司たちが反対だった理由に、その当時の投機熱があった。99日続伸を記録するなど、株価は高騰。1990年12月19日を100ポイントとする上海総合指数は、3月中旬には370ポイント台に入っていた。

株価が上昇していた背景には、上場銘柄があまりにも少なかったことがある。中国屈指の大都会である上海市には膨大な数の投資家がおり、希少な株式を買おうと、競り合っていた。そこで値幅制限が完全撤廃すれば、どんなことになるか予想できない。理事長をはじめとする上司たちは、非常に慎重だった。

密謀

尉さんは徐々に値幅制限を緩和する方針だった。少数の銘柄から始め、徐々に数を増やすと同時に、緩和の程度も段階的に広げるつもりだった。上司や関連当局の説得を始めたが、まったく理解してもらえなかった。

「年寄りどもは、まったく話が通じない!」――。まだまだ若い尉さんは、焦り出した。そこで部下を呼び出し、「もう一度だけ説得を試みてダメだったら、おれたちで決めてしまおう」と耳打ちした。それを聞いて部下は驚いたが、尉さんに言い含められた。「理事長には秘密にしろ。みんなとは関係ない。おれ一人で決めたことにすればいい」と、尉さんは全責任を取る覚悟を決めた。

そうは言ったものの、こうしたやり方はリスクが大きすぎる。そこで、上海市の黄菊・市長と荘暁天・副市長に宛て、手紙をしたためた。4月11日の深夜のことだった。

この手紙の中で尉さんは、値幅制限の撤廃が、どのような意義を持つのかを論じた。そのうえで、関連部署の間で意見が一致せず、何度も説得を試みたものの、手詰まり状態に陥ったと説明。しかし、値幅制限は撤廃しなければならず、最終的に自分一人で決定を下したことを明らかにし、問題が起きれば、すべて責任を負うと強調した。

こうした内容の手紙を尉さんは上海市政府の事務局に提出。市長への“あいさつ”を済ませたうえで、4月12日の夜に値幅制限の緩和を発表した。

大騒ぎ

4月12日に発表されたのは、3銘柄の値幅制限を当初の1%から5%に引き上げるという内容だった。実施日は4月13日。どの部署にも知らせずに突然発表したことから、上海証券取引所の上層機関である中国人民銀行(中央銀行)は大騒ぎとなった。

「とんでもないことをしてくれたな、お前は!」と、上海証券取引所の李祥瑞・理事長は血相を変えて、尉さんのところに怒鳴り込んだ。一方、理事長に内緒で重大発表を行ったにもかかわらず、尉さんは平然としていた。

「理事長、あなたに今回の件を報告しなかったのは、われわれの判断です。なぜなら、報告すれば、あなたを困らせるだけだからです。もし、あなたに報告していたら、うまく処理できなかったでしょう。

しかし、値幅制限の解除は、絶対に実行しなければなりません。ですので、いっそのこと、わたしが全責任を負う格好で、今回の措置を決定しました」と言い放った。

これを受け、中国人民銀行・上海支店が事態の調査に乗り出し、尉さんの解任に向けて動き出した。尉さんの無法ぶりは知れわたり、解任は免れないと誰もが感じた。尉さん自身もそう思った。

知らぬは尉さんだけ

尉さんは中国人民銀行・上海支店の会議に呼ばれた。批判と処分を受ける覚悟で、尉さんは支店の門をくぐった。

「市の幹部たちは、あなたの行動を称賛していますよ」と、廊下ですれ違った人物に声をかけられた。尉さんは何のことだか分からなかった。

執務中の黄菊・市長 「どういう意味?」と尉さんが尋ねると、「えっ、知らないの?」という質問が返ってきた。

「何も知らないよ、いったい何だよ!」と尉さんが再び尋ねると、「黄菊・市長が、あなたのやり方を認めてくれたのですよ。あなたがやったことを支持するって!」という返事だった。

事情はこういうことだった。尉さんの手紙を見た黄菊・市長は、今回の措置を支持するとの回答書を通達していた。しかし、尉さんは通達を知らず、解任覚悟の気持ちで今回の会議に足を運んだのだった。

市長への手紙が功を奏し、尉さんは解任を免れた。それから20年後に尉さんは今回のことを振り返り、自分のデタラメぶりを認めたうえで、当時の環境はでは仕方なかったと弁明している。

こうした騒動があったものの、1992年4月13日付で3銘柄の値幅制限が緩和された。その結果、大きな混乱も起きず、この措置は成功した。同年5月5日には、その他の銘柄の制限値幅も5%に引き上げた。

過激な決定

尉さんが踏み切った値幅制限の緩和は、黄菊・市長やマーケット関係者からの評価を得た。その結果、値幅制限の緩和に消極的だった中国人民銀行は、態度を一変させた。トップからの評価を得たかったのだろう。1992年5月20日に会議を開き、翌5月21日から値幅制限を完全撤廃すると決定した。

「なぜ急に過激になったんだ?」と、尉さんは驚いた。尉さんは値幅制限の緩和を強行したが、対象銘柄を絞り、少しずつ緩める方針だった。それなのに、中国人民銀行は功を焦り、一挙に全部の銘柄の値幅制限を完全に撤廃すると決定。これには尉さんも内心では反対だったが、先ごろの値幅制限緩和を強行した張本人だったことから、中国人民銀行の決定に逆らうことができなかった。

また、翌5月21日から“日計り商い”が解禁された。日計り商いとは、その日に買った銘柄をその日のうちに売るような取引のこと。それまでは、その日に買った銘柄は、翌日になるまで売ることができなかった。

証券会社に押し寄せる上海の投資家
(1992年5月21日)
“値幅制限の完全撤廃”と“日計り商い解禁”の報道を受け、上海市の投資家たちは色めき立った。5月21日の上海市場は幅広い銘柄が急騰し、上海総合指数の終値は前日比105.27%高を記録。投資家や上海市政府の関係者は、騒然となった。

良いことばかりではない

上海総合指数が急騰した直接の原因は、値幅制限の完全撤廃と日計り商いの解禁だった。その他の原因としては、上海市の投資家の数が膨大であった一方で、上場銘柄が少なかったことがある。また、株価がまだまだ低く、上昇の余地が大きかったということも一因だった。

株価は上昇すれば良いというものではない。高値で売り抜けた人がいるということは、高値で買ってしまった人がいるということを意味する。株価の動きが緩やかであれば、幸と不幸の差は比較的小さい。急激であれば、その差は大きい。5月21日の株価急騰は、人々の明暗を大きく分けた。

値幅制限の完全撤廃を決定した中国人民銀行は、その一方で上場銘柄の増加を計画していた。6月に入ると、一気に数十銘柄の上場を承認した。これが株価の下落を引き起こした。

上場銘柄が増えると、投資家の投資先は分散する。投資家は値上がりした既存の銘柄を売り、新しい銘柄を買い付けようとする。値上がりした銘柄を売れば、株価は下落する。一方、投資対象が分散したので、1つの銘柄あたりの売買代金は以前に比べ少なくなり、株価が上昇するパワーも小さくなる。

簡単に言えば、株式の供給量が増えるため、株価が低下するということだ。こうした現象を“需給関係の悪化”という。5月21日の株価急騰の後、需給関係が大きく悪化し、上海総合指数は同年11月中旬まで下落が続いた。高値をつかんだ人々の損失は膨らみ、多くの人々から、株価の急変動が非難された。

責任の所在

値幅制限の完全撤廃と上場銘柄の増加を決定したのは、中国人民銀行だった。だが、株価の急騰の下落をめぐる批判は、尉さん個人に向かった。値幅制限の緩和のような重大政策を個人の一存で決めてしまったのは、後にも先にも尉さんだけであり、存在感が際立っていたからだ。

「あの若造は、やることがメチャクチャだ!」「こんなやり方はないだろう!」「奇襲された!」――といった批判の声が多数届いた。尉さんは解任こそ免れたが、“メチャクチャな若造”というイメージが付きまとうことになった。

ただ、すべてを尉さん一人のせいにはできない。上場銘柄の数を急増させる計画を事前に知っていれば、尉さんは値幅制限の完全撤廃に強く反対していたかもしれない。一連の出来事の原因は、上海証券取引所と中国人民銀行の連携不足にあったと言えるだろう。

足かせが必要な市場

値幅制限のない時代は4年あまり続いた。1996年12月16日に当局は株式投機を抑制するため、前日比10%の値幅制限を復活させた。1998年4月22日には財務に問題のある銘柄などに限り、前日比5%の値幅制限を設けた。

日計り商いは、1995年1月1日でA株を対象に撤廃。その日に買った銘柄は、翌日になるまで売ることができなくなった。2001年12月にはB株の日計り商いも撤廃された。

値幅制限の設定と日計り商いの禁止は、今日まで続いている。つまり、上海市場や深圳市場は足かせがはめられているような状態だ。これに不満を抱く投資家もいる。株価が低迷すると、値幅制限の解除や日計り商いの解禁を求める声が増える。

しかし、こうした足かせを解除すると、いったいどういうことになるのか?チャイナマネーが世界に溢れる今日では、1992年を超える狂乱に陥るだろう。上海市場と深圳市場は檻につながれた猛獣のようなものであり、これらを死なせず、暴れさせずに、健やかに育てるという使命を中国政府は負っている。
 

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は9/5公開予定です。お楽しみに!

 
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  76. 01. 中国株の誕生前夜
  77. 00. はじめに

筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券中国部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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