コラム・連載

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」

ニーハオ!B株

2018.7.5|text by 千原 靖弘(内藤証券中国部 情報統括次長)

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1990年12月に上海と深圳の証券取引所が開業すると、エクイティファイナンスによって海外マネーを調達する試みが始まった。エクイティファイナンスを簡単に言えば、“株式を発行し、資本金を調達すること”。その試みのなかで誕生したのが、B株と呼ばれる特殊な株式だった。

二つのハードル

1978年に始まった中国の改革開放と海外資本の誘致は、工場建設などの直接投資(FDI)や海外からの長期借款が中心だった。海外の投資家に向け株式を発行し、資本金を調達するエクイティファイナンスは採用されなかった。

エクイティファイナンスは長期借款とは違い、元金の返済と利息の支払いは不要。中国にとって魅力的だった。だが、改革開放初期の中国本土には、それを実現する環境が整っていなかった。

海外の投資家を相手にエクイティファイナンスを実施するには、二つのハードルを乗り越える必要があった。一つ目のハードルは株式市場の整備。海外投資家が資金を投じて株式を購入したとしても、それを売却できる市場がなければ、エクイティファイナンスは難しい。この連載の第七回を見れば、そうした事情は明らかだ。

額面10元の外貨兌換券 二つ目のハードルは“人民元の自由化”だ。人民元の自由化とは、人民元と外貨が自由に交換できるようになることを意味する。1994年までは中国本土での観光・消費といった経常取引の分野でも、人民元と外貨の交換は非常に厳しく制限されていた。

1995年以前に中国本土を訪れた海外からの旅行者は、手持ちの日本円や米ドルなどの外貨を人民元に交換できなかった。外貨との交換で入手可能だったのは、人民元ではなく、“外貨兌換券”と呼ばれた紙幣。外貨兌換券の額面は人民元建てであり、中国本土での買い物などに使用できた。

中国本土の人々は、外国人などが持っている外貨兌換券を欲しがった。外貨兌換券は外貨と交換できるうえ、これを使えば貴重な外国製品などを買うことも可能。闇市では外貨兌換券が額面以上の人民元と交換されていた。その後、人民元と外貨の交換が徐々に認められ、外貨兌換券は1995年1月1日で流通禁止となった。

話が少々長くなったが、人民元と外貨の自由な交換ができなければ、仮に海外投資家と中国本土の投資家との間で株式の売買が成立したとしても、資金を決済することは不可能。海外投資家を相手とするエクイティファイナンスを実現するには、こうした通貨の問題も乗り越える必要があった。

上海市の“特殊株式”構想

こうした二つのハードルはあったものの、海外投資家を相手とするエクイティファイナンスは、証券取引所の設立前から検討されていた。1989年に海外の資本市場を視察した上海申銀証券公司(申銀証券)の経営陣は、特殊株式を発行して海外マネーを調達する構想を中国人民銀行(中央銀行)上海支店に報告。それは上海市の江沢民・書記(当時)にも伝えられた。

江沢民は中国人民銀行を通じ、海外での中国株需要を調査するよう申銀証券に指示。中国企業が海外投資家に向け株式を発行することを希望しているとの報告が、香港、台湾、日本、米国などの証券会社から返ってきた。中国本土の米中合弁会社も、こうした株式発行に強い関心を寄せていたという。

この結果を受け、申銀証券は特殊株式の発行に向けた準備作業に着手した。だが、1989年6月4日に天安門事件が起きると、外国企業の間で中国国外へ資金を引き揚げたり、投資を抑えたりする動きが拡大。準備作業は中断した。

こうしたなか、1990年6月に香港を視察した上海市の朱鎔基・市長は、エクイティファイナンスによって上海に海外マネーを誘致する方法を模索すると表明。外資の撤退などが懸念されるなか、対外債務を増やさずに、海外マネーを利用することが狙いだった。こうして特殊株式の発行に向けた機運が再び高まった。

広東省深圳市でも海外投資家を相手とするエクイティファイナンスが、1989年から構想されていた。1990年には中国人民銀行の深圳支店が、こうした構想を本店に報告。証券取引所の設立だけではなく、海外マネーの誘致をめぐっても、上海市と深圳市は同様の動きをみせていた。 深圳証券取引所のB株問題諮問会(1991年10月)

二つ目のハードルは無視

1990年12月に上海と深圳の証券取引所が開業。これにより、海外投資家を相手とするエクイティファイナンスへのハードルを一つ乗り越えた。

一つ目のハードルを越えたものの、人民元の自由化という二つ目のハードルは高すぎる。今日でさえ人民元の完全な自由化が実現していないことを見れば、その難易度は明らかだろう。

そこで、二つ目のハードルは乗り越えずに、海外投資家を相手とするエクイティファイナンスを実現する方法が考案された。そこで誕生した新しい特殊株式が、“B株”だった。

B株の正式な名称は「人民幣特種股票」(人民元特殊株)。上海市場と深圳市場に上場し、その額面は人民元建てだが、株価表示や資金決済は外貨建てを採用する。一方、人民元で取引されている従来からの株式は、「人民幣普通股票」(人民元普通株)と再定義され、“A株”と呼ばれることになった。

人民元が自由化されていないため、中国本土の投資家は人民元を外貨に交換することができない。こうした事情を背景に、B株の投資家は香港・マカオ・台湾を含む海外の個人や法人に限られ、中国本土の投資家は基本的に排除された。

ただし、中国本土の投資家でも、海外に住んでいれば、手持ちの外貨を使ってB株を売買できた。つまり、B株市場は外側(海外)に開かれ、内側(中国本土)には閉ざされていた。こうすることで、二つ目のハードルは無視できた。

B株の誕生

1991年に入ると、B株の発行計画が中国人民銀行・上海支店の会議で議題に上った。上海市の金融行政責任者と申銀証券などで組成したB株研究チームが発足。海外の証券会社やアセットマネジメント会社も強い関心を示した。こうしてB株発行の環境が整った。

上海真空電子の引受契約式典 B株の発行は、証券市場の対外開放を意味し、その試験地として証券市場がある上海市と深圳市が選ばれた。1991年11月に中国人民銀行は上海市政府と共同で、B株発行に関する管理法と実施細則を発表。1991年12月には深圳市政府と共同で、同様のルールが制定された。これら地方政府系の法律を根拠に、B株の発行が実施されることになった。

上海真空電子のB株 B株発行の第一号は、真空管メーカーの上海真空電子器件股份有限公司(真空電子)に決まった。真空電子は上海証券取引所の開業時から上場していた“老八股”の一つ。1991年11月30日にB株発行の引受契約を交わした。

南方玻璃の引受シ団 B株を海外投資家に販売するシンジケート団(シ団)は、主幹事の申銀行証券と海外証券会社で構成された。売れ残れば、シ団がB株を引き取ることになる。こうしたことから、真空電子は1991年11月30日付で“中外合弁の株式会社”という扱いになった。

1992年2月1日に真空電子のB株発行は完了し、同月21日に上海証券取引所に上場した。投資家は海外居住者に限定。株価の表示や資金決済は、米ドル建てで行われた。

深圳市では1991年12月18日に上場企業9社がB株発行の引受契約を交わした。シ団は米国のモルガン・スタンレーのほか、欧米や香港の証券会社で構成された。

深圳証券取引所のB株第一号は、深圳南方玻璃股份有限公司(南方玻璃)。1992年2月28日に上場した。深圳のB株は当初、人民元で株価を表示し、香港ドルで資金決算していた。1993年3月22日から米ドルで株価を表示し、香港ドルで資金決済する方式に変更。1993年6月28日になって株価表示と資金決算の両方で香港ドルを採用するようになり、現在に至っている。

ニーハオ!B株――。こうして日本人を含む投資家は、中国本土の株式に触れることが可能となった。

B株市場の矮小化

鳴り物入りで誕生したB株市場だが、1992年から1994年末にかけて上場した企業は、上海市場と深圳市場の合計で58社。2002~2003年のピーク時でも合計110社にすぎず、B株の数はA株に比べると小規模にとどまった。

その要因は複数ある。B株の取引に参加できるのは、中国に関心のある海外投資家に限られており、規模の拡大が難しかった。そのうえ、天安門事件の強烈なイメージが残るなか、B株の上場や取引に中国本土の規則が適用されることも、一般的な海外投資家の目には高リスクに映った。

中国本土の企業による海外上場が活発化したことも、B株の矮小化につながった。1993年6月29日に青島啤酒股份有限公司(青島ビール)が、香港で新株購入の募集を開始。同年7月15日に中国本土籍の会社として初めて香港証券取引所に上場した。

このように、香港市場に上場する中国本土籍の会社の株式は“H株”と呼ばれた。H株の“H”は香港(Hong Kong)の頭文字に由来する。

1994年8月に海外での上場に関する特別規定が施行されると、中国本土の企業は香港以外の市場にも飛び出した。1994年8月には山東華能発電股份有限公司がニューヨークに上場。その株式は“N株”と呼ばれた。名づけ方はH株と同じだ。

1997年3月には北京大唐発電股份有限公司がロンドンに上場。その株式は“L株”と呼ばれた。同じ年の5月には、天津中新薬業集団股份有限公司がシンガポールに上場し、最初の“S株”となった。

海外上場を実現した中国本土籍の企業は、上場先の市場が定めた基準を満たしている。その取引ルールは国際的に広く認知されており、取引通貨も自由化されている。さまざまな国や地域の投資家が取引に参加しており、市場規模も大きい。

海外上場の中国株の方が、海外投資家にとってB株よりも安心感があり、魅力的だった。海外投資家の視線は、すぐにB株からH株などにシフト。こうした状況も、B株市場の規模拡大にとって逆風だった。

B株の最後の輝き

前述のように、B株の投資家は海外居住者に限られていた。ところが、2001年2月19日に中国証券監督管理委員会(CSRC)は、中国本土の居住者にB株市場を開放すると決定。人民元を外貨に交換することは引き続き禁止だが、中国本土の居住者が2001年2月19日よりも前に取得した外貨預金を使い、B株を買い付けることを認めた。

これに加え、2001年6月1日から規制をさらに緩和し、2001年2月19日以降に海外から振り込まれた外貨も、B株投資に使えると事前予告した。

この一連の政策を“B株の国内開放”と呼ぶ。B株市場の規模拡大を目指し、投資家層を広げる狙いがあったのだろう。

この発表を受け、B株は2001年2月の20日から27日まで取引を停止。28日から取引を再開したが、上限価格での買い注文ばかりで、売り注文はほとんどない状態。B株は数日間にわたり、全面ストップ高が続いた。B株指数の2001年5月31日の終値を2001年2月19日と比較すると、上海が188.1%高、深圳が233.2%高となった。

B株投資家の入れ替え

ところが、2001年6月1日を境に、B株は下落局面に入る。これは2001年2月19日以降に取得した外貨を使えるようになったタイミングだ。つまり、古くからの投資家は2001年6月1日を機にB株を売って利益を確定し、これを買った投資家は高値づかみすることになった。

高値づかみしてしまった投資家は、大部分がB株投資に初参戦した中国本土の居住者。うまく売り抜けたのは、昔からの海外投資家が中心だった。B株指数の2001年12月31日の終値を2001年5月31日と比較すると、上海が28.4%安、深圳が37.6%安だった。

この2001年を境に、それまで海外の投資家だけだったB株の株主は、その多くが中国本土の投資家に変わった。つまり、“海外投資家を相手とするエクイティファイナンス”というB株創設の本来の目的は、ほとんど果たせなくなってしまった。

高値づかみしてしまった中国本土の投資家は、その多くが損失を確定することを恐れ、B株を売らずに“塩漬け状態”で放置した。やがて新たにB株を発行する企業はなくなり、市場から活気が失われた。

存在意義を失ったB株

B株の国内開放は、政策的に失敗だったと言えるだろう。中国本土の大型企業は海外投資家が少なくなったB株市場ではなく、国際的な香港市場への上場を加速。海外投資家を相手とするエクイティファイナンスの舞台は、完全にH株に移った。B株の存在意義はますます薄れ、やがて消滅するのではないかとの見方も広がった。

こうした状況を背景に、「A株と統合させることで、B株を片付ける」、「A株に転換させることで、B株をなくす」といった憶測が、まことしやかに流れるようになり、折に触れてB株の株価を上昇させた。

ただ、こうした憶測は、B株の創設時に無視された二つ目のハードル、すなわち“人民元の自由化”をまったく考慮していない。その結果、憶測が実現することはなく、B株の投資家は失望を繰り返した。

この“B株問題”は中国本土でも広く認識されていたが、円満な解決策はなかなか見つからず、10年以上にわたり放置された。

動き出した解決策「再見!B株」

深圳B株市場で屈指の大型株として知られた中国国際海運集装箱(集団)股份有限公司(中国国際コンテナ)は、2012年8月15日にB株をH株に転換する計画を発表した。B株の国内開放から11年が過ぎ、ついに問題解決に向けて動き出した。

海外の投資家が保有するB株は、一定の比率でH株に転換され、香港市場に上場した後は自由に売買が可能。一方、中国本土の投資家が保有するB株もH株に転換されるが、人民元が自由化されていないため、売却はできるものの、追加の買い付けは禁止とされた。

こうして“B株をH株とすることで、投資家を香港市場に移す”という問題解決策が実行された。さらにB株をA株に転換する試みも始まった。

上海B株市場に上場する浙江東南発電股份有限公司(浙江東南発電)は、2013年2月21日に同社のB株と浙江浙能電力股份有限公司(浙江浙能)の株式を交換する計画を発表した。浙江浙能は浙江東南発電の筆頭株主。株式交換の完了後、浙江浙能はA株を上海市場に上場するという内容だった。

浙江東南発電のB株は、浙江浙能のA株に切り替わることになった。これにより海外の投資家は浙江浙能のA株を取得したが、人民元が自由化されていないため、売却はできるものの、追加の買い付けは禁止された。一方、中国本土の投資家が保有する浙江浙能のA株は、自由に売買することが可能だった。

中国国際コンテナと浙江東南発電の試みは成功し、存在意義が薄れたB株をなくすため、“H株への転換”、“他社A株との交換”という2つの手法が確立した。ただし、これらの手法を採用できるのは、投資価値のある優良銘柄に限られる。業績が低迷している企業には難しい。そうした企業のB株は、現在のところ上場廃止による消滅を待つほかない。

完璧な解決策はないものの、B株を円満に消滅させることが、中国政府の方針であることが明らかとなった。時間をかけて消滅するのを待ち続けるか、一挙に解決する新プランを打ち出すのか、中国政府の胸の内は分からない。

もし、業績が低迷している企業のB株も一挙に片づけるのであれば、二つ目のハードルである人民元の自由化と株式市場の完全開放を実現するしかないだろう。それができれば、B株という名称をA株に変えるだけで済む話だ。中国政府は人民元の自由化を長期的な目標としており、いつか分からないが、「再見!B株」と別れを告げる日が来るだろう。
 

内藤証券中国部のキーマンが見た「中国株の底流」
次回は8/3公開予定です。お楽しみに!

 
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筆者プロフィール

千原 靖弘 近影千原 靖弘(ちはら やすひろ)

内藤証券中国部 情報統括次長

1971年福岡県出身。東海大学大学院で中国戦国時代の秦の法律を研究し、1997年に修士号を取得。同年に中国政府奨学金を得て、上海の復旦大学に2年間留学。帰国後はアジア情報の配信会社で、半導体産業を中心とした台湾ニュースの執筆・編集を担当。その後、広東省広州に駐在。2002年から中国株情報の配信会社で執筆・編集を担当。2004年から内藤証券株式会社の中国部に在籍し、情報配信、投資家セミナーなどを担当。十数年にわたり中国の経済、金融市場、上場企業をウォッチし、それらの詳細な情報に加え、現地事情や社会・文化にも詳しい。


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