救命救急啓発活動を始める契機となった2人の盟友、三沢光晴・橋本真也について語る

蝶野正洋プロフィール

蝶野 正洋(ちょうの・まさひろ)

1963年東京都三鷹市生まれ。
1984年、新日本プロレス入門。同年10月5日、越谷市民体育館における武藤敬司戦でデビュー。
87年3月に海外遠征に出発。89年10月に帰国後、91年8月、第1回G1クライマックスに優勝し大躍進を遂げる。
96年にはnWoジャパンを設立して一大ムーブメントを起こし、その後、TEAM2000を結成。
2010年2月に新日本プロレスを離れてフリーとなったが、いまなお絶対的な存在感を放ち、黒のカリスマとして、
プロレス界に君臨し続けている。
現在はリング以外にも活動の幅を広げ、近年は救急救命啓発活動に力を入れており、2014年7月には一般社団法人
ニューワールドアワーズスポーツ救命協会を設立している。

 
社会貢献活動のきっかけとなった2人の存在

――蝶野選手は社会貢献活動にも熱心に取り組まれていますが、きっかけはどういったことでしたか。

蝶野正洋三沢光晴選手(※1)と橋本真也選手(※2)が40代で亡くなったことです。この二人の若い死は自分の中で大きなショックでした。自分も40代に入って、体調を崩したこともありましたし、きつい時期だったんです。自分も三沢選手と同じように、首を痛めていました。三沢選手も自分の体力に自信があったんだと思います。メインイベントでやらないといけないという責任感もあって、無理をして若手と同じようなスケジュールで試合をしていました。自分も同じような状況でしたが、あの三沢選手があんなに簡単にリングの上で亡くなってしまったというのはショックでしたね。とても落ち込みました。

――橋本選手も急死でしたね。

橋本選手とは同期ですし、体調が悪いというのは知っていました。自分より2歳若く、40代の人たちがバリバリやっているときに、同期がそんな形で亡くなってしまうとは、という思いでした。社会貢献活動をしていこうと思ったのは、この二人の死が大きなきっかけになっています。

(※1)三沢光晴…全日本プロレスでデビュー、2代目タイガーマスクとして人気を博した。全日本プロレス社長に就任し、後にプロレスリング・ノアを旗揚げ。2009年、試合中の事故で死去。

(※2)橋本真也…「破壊王」の異名を持ち、武藤敬司選手、蝶野正洋選手と共に闘魂三銃士として活躍した人気プロレスラー。2005年、脳幹出血で死去。


――具体的にはどのような活動をなさっているんですか。

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2015.1.20 in ARISTRIST

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