岩瀬博太郎教授コラム
このページをシェアする:
第1回

法医学者を志す

《 2018.11.01 》
医学部を目指した経緯から、お聞かせください。

 両親が産婦人科の医師で、千葉市内で開業していました。姉も医師ですが、内科ですし、私は法医に進みました。そういう環境でしたから、私も医師になれば何かやることがあるだろうとしか思わず、医学部を受けました。

専攻を法医学に決められたのは学問的な興味がおありだったからですか。

 いえ、学生時代には全然なかったです(笑)。学生時代は卓球部に所属していて、部活動中心の毎日でしたね。授業にも全然出ませんでした。昼頃に起き、実習があれば実習に出て、友達のノートを写したりという、悪い学生でした。
ある日、ほかの学生が実習を終えて帰ったあとで、私が時間を間違えて実習に行ったんです。8人ぐらいの学生しか残っていないところに、私が入っていったものだから、それが法医の先生の目に留まったようです。そのときに声をかけられたのがきっかけです。

何と声をかけられたのですか。

 その頃、法医学教室にはお清めのお酒が届いていたんです。それで「お酒があるから、遊びに来なさい」と言われ、遊びに行ったのが法医に入ったきっかけです(笑)。

臨床には未練がなかったですか。

 内科や皮膚科あたりを考えていたこともありました。卒業後すぐに法医の大学院に行ったのですが、その間の1年ぐらいは内科の研修がしたいと言って、都立豊島病院で研修したんです。

臨床の研修もなさったんですね。

 卒業間際までは内科、皮膚科、勧誘された法医で迷いましたね。法医学の大学院を受験した直後もそうでした。その頃に皮膚科のパーティーに参加したのですが、その席で同級生が「こいつ、法医に行く気ですよ」と言ったんです。そこへ皮膚科の医局長が「広い意味で医学が育つためにはこういうやつが必要だ」と言ってくださり、救われた気がしました。

そして、法医学教室で高取健彦教授に出会われるのですね。

 大学院を受験する前に直接勧誘を受けたんです。実はその前にお神酒を飲んでいた友達が私を推薦していたらしいのですが、それは法医学に進んで何年か経ってから知ったことです(笑)。
高取教授は「人がいないということは、その分、自分がやりたいことができるという面もある」とおっしゃいました。私は1週間ぐらい悩みましたが、地元の幕張の海や海水浴をしている方々を眺めながら、「こういう人たちにとっては、自分が内科に行こうが、法医に行こうが関係ないことだ。むしろ人が行かないところに行って、お役に立てるなら、それもありだ」と思ったんです。その翌日、高取教授のところに行って、大学院を受験するとお返事しました。

高取教授はどんな方ですか。

 平静で冷静な方でしたよ。先生とはいつも飲んで、自由に議論させていただいていました。楽しい時間でしたね。先生がいなければ、今の私はいません。先生はどんなに飲んで酔っ払っても、次の日の朝はカフスボタンをきちんとつけられていましたが、私は教授になった今でも学生時代のようなだらしのない格好をしています(笑)。

大学院は中退なさったのですか。

 大学院には結局3年行きましたが、当時は助手と言っていた助教の席が空いたということで中退して助手にしていただいたんです。学位は論文博士で取らせてもらいました。今もそうですが、当時もなかなかポストがない中で、いいタイミングで空いたところを高取教授が助手にしてくださったんです。

期待されていたんですね。

 そういうことでしょうね。人がいなかったですし。ほかの大学からの同期入局の人がいたのですが、私よりもかなり年上でしたし、途中でお辞めになったので、同期もいないという状況でした。
 

地下鉄サリン事件

1995年に地下鉄サリン事件が起きました。

 法医に入局したのが93年で、助教に採用してもらったのが95年でしたので、印象に残っています。助教にしてもらったことから結婚した年でもあったのですが、その時にあった事件でもあります。サリン事件では、高取教授がサリンを検出する手法を編み出されたんです。

先生は発生の日はいかがお過ごしでしたか。

 発生は大学に到着後、地下鉄で爆発があったなどと皆がざわざわしていることからテレビをつけ、それで知りました。
都内でこのような事件が発生したら、東大の法医学教室で司法解剖を行っていましたし、死者が増えることになればその対応に追われることも予測できました。
すぐに解剖の依頼があり、解剖が実施されました。解剖室は異様な緊張感に包まれていました。解剖台は2台しかないのに、既にご遺体が3体運ばれていました。30人ぐらいの警察関係者がいらっしゃる中で解剖が始まりましたので、執刀する私たちが立つ位置を確保するのも難しかったです。大変でしたし、恐怖でしたね。
あのような死体を解剖したことはなかったですし、この時点で「猛毒ガスのサリンが地下鉄内にまかれたらしい。警察官でも倒れた方がいる。」という情報が既に入っていました。これは警察が現場検証で採取した残留物の一部から質量分析器付きガスクロマトグラフィーで分かったものです。既に米国製のガスクロマトグラフィーにデータが入っていたようですね。
ともかく、解剖にあたって、私たちがサリンを吸って中毒を起こすと、私たちにも危険が及びかねませんでした。

二次的な被害もありました。

 事件発生現場では被害者の救出にあたっていた消防隊員や救急隊員もサリンを吸い、二次的な負傷者は100人を超えていました。搬送先の病院でも負傷者に付着したサリンが気化し、二次被曝に遭った医療関係者もいました。そのような危険な状況の中で外表検査が始まったんです。

どのような状況でしたか。

 被害者の方にサリン中毒の症状である縮瞳はなく、瞳孔の筋肉は緩んでいましたので、亡くなってからかなりの時間が経っていたことが分かりました。
当時は東大の分析機器ではサリンを検出できなかったので、血液を通常より多めに採取し、一部を警察の担当者に渡しました。ところが、身体の各部の確認後に切開するときになって、私は目がちかちかし、メスを持つ指先に痺れのような感覚を感じ、動悸が激しくなってきたんです。息苦しかったですね。
このような無差別テロで突然、命を奪われた被害者のご遺体を前にして、私は極度の緊張から過換気症候群に陥るところでした。普段の解剖でも伝染病の感染が心配ですが、このときは「ここでサリンを吸って死ぬのでは」という恐怖がずっとありました。でも、私たちがこの仕事をしなかったら、困るのは国民の皆さんですので、するしかありませんでした。
いつものように全ての臓器を確認し、サリンとその分解産物を検出する検査のために保管しました。脳はホルマリンに、肺や心臓は冷凍保管しました。しかし、解剖のあとも恐怖でした。

解剖のあとはどういったことが恐怖でしたか。

 新聞記者が夜中に自宅アパート前で待ち伏せしていて、追い回してくるんです。短髪の新聞記者だから、オウム真理教の信者かもしれないと思ってしまい、殺されるかもという恐怖心がありました。
新聞記者は解剖所見だけではなく、色々なことを聞きたがっていました。また、私が教員として学生に教えている実習中に警察署員が部屋に入ってきたこともありました。
私はてっきり解剖の結果を聞きに来たのかと思っていたら、東大の同級生だった信者についての質問でした。警察署員が授業中に入ってくることに頭に来て、何も言わずに帰ってもらいました。

高取教授の編み出されたサリンの検出方法とはどのようなものでしたか。

 その頃は東大の法医学教室にサリンを検出できる機械がなかったんです。
サリンはほとんどが血液中の酵素と結合してしまうので、血液の中に遊離した状態のサリンは極めて微量です。そのため、従来通りの方法で血液を分析しても検出できないというのが当時の通説でした。
しかし、高取教授は赤血球や脳の酵素に結合した状態のサリンを化学的に結合をほどいて遊離させ、遊離させたサリン由来の化合物を質量分析器付きガスクロマトグラフィーで検出する方法を編み出されたんです。
高取教授は世界で初めて、血液中や脳の酵素に結合した状態のサリンに着目され、これによって、サリンの検出ができるようになりました。

先生はどのように思われましたか。

 当時の私はサリンの検出は不可能だと諦めていましたが、高取教授の執念を見たことで、従来の検出法で不可能ならば、新しい検出法を編み出せばよいのだと学びました。高取教授の法医学者としての姿勢には本当に感銘を受けましたね。

この事件をきっかけに変わったことはありますか。

 司法解剖における血液検査ではサリンの検出に関する研究が世界的に行われるようになりました。
また、東大でも文部科学省の科学研究費で1000万円以上の費用を投入し、ガスクロマトグラフィーを購入しました。
きちんとした設備がないと、緻密な鑑定はできないという私の意識の変化はこの事件が教訓となってもたらされたものです。

コラムの一覧に戻る

著者プロフィール

岩瀬博太郎 近影岩瀬 博太郎

千葉大学教授

1967年生まれ。
東京大学医学部卒業。同大法医学教室を経て、2003年より現職。
14年からは千葉大学附属法医学教育研究センターの初代センター長も務める。
同年から東京大学大学院法医学教室の教授も兼務し、同センターとの連携を図る。
年間300体以上の解剖を行う。
日本法医学会理事。


バックナンバー
  1. 岩瀬博太郎教授コラム
  2. 01. 法医学者を志す

 

  • Dr.井原 裕 精神科医とは、病気ではなく人間を診るもの 井原 裕Dr. 獨協医科大学越谷病院 こころの診療科教授
  • Dr.木下 平 がん専門病院での研修の奨め 木下 平Dr. 愛知県がんセンター 総長
  • Dr.武田憲夫 医学研究のすすめ 武田 憲夫Dr. 鶴岡市立湯田川温泉リハビリテーション病院 院長
  • Dr.一瀬幸人 私の研究 一瀬 幸人Dr. 国立病院機構 九州がんセンター 臨床研究センター長
  • Dr.菊池臣一 次代を担う君達へ 菊池 臣一Dr. 福島県立医科大学 前理事長兼学長
  • Dr.安藤正明 若い医師へ向けたメッセージ 安藤 正明Dr. 倉敷成人病センター 副院長・内視鏡手術センター長
  • 技術の伝承-大木永二Dr
  • 技術の伝承-赤星隆幸Dr